Ep.02 禁欲花婿の苦悩
東条隼世は、TJコンチネンタルホテルグループのCEOであり代表取締役社長である。
彼は最愛の妻と出会ったとき、とある事情により仕事を放棄し、長い休暇をとっていた。自暴自棄になっていたといっても過言ではない。
視力を失ったままでは、今までと同じように仕事をすることもできず、一代で築きあげてきた会社を手放すことになる。また、業績不振のホテルを買い取ることで自社のホテル数を増やしてきた隼世を、敵視する業界関係者とて少なくない。弱みを見せればつけこまれる。隼世にとって、仕事とは常に緊張を強いられるものだった。
だが、だからこそ休むことを余儀なくされた時期に結衣と出会い、彼は人生の目標を仕事ではなく愛する妻と過ごす未来にシフトすることができたのだろう。
「社長、こちらの決済がまだ確認いただけていないようです」
「わかった。次に目を通すから置いておけ」
「それと来月オープンのTJコンチネンタルホテル博多についてですが」
「何か問題があったのか?」
「ブライダルエステとの提携につきまして、資料が上がってきております」
「確認する。置いておけ」
「監査委員会の視察について日程の候補が――」
そうはいっても、彼が「これからは仕事より結衣と過ごす時間を!」と思ったところで、目の前には仕事が山積みである。新婚だというのに、ろくにふたりで過ごすこともままならない。
決算期である3月。
例年から忙しいことがわかりきっているこの時期に、結婚式の予定を入れたからには目が回る日々だ。
それでも、彼女のウェディングドレス姿を見たい。愛しい女性と生涯を添い遂げると決心したことを、身近な人たちにきちんと報告したい。その思いを胸に、隼世は仕事に忙殺される毎日を過ごしていた。
本来ならば、自社ホテルで大規模な披露宴を行うべきだという秘書の言葉はもっともだった。隼世も社を代表する身として、そうすべきとわかってはいる。けれど、この結婚は仕事となんら関係ない。何より、結衣が喜んでくれる結婚式をしたかった。
ふたりで話し合った結果、招待客は少なくてもいいから、心から祝福してくれる人に限定し、渋谷にある自宅から近いチャペルで式を行ったのち、新居の庭を使ってガーデンパーティーをすると決めた。
結衣は、もともと高級なものを喜ぶ女性ではない。
だからこそ、隼世としては頭を抱える。彼女に喜んでもらうために、いったい自分は何をすればいいのだろうか、と。
どんなに高価な宝石よりも、どんなに有名なシェフの作る料理よりも、結衣が喜んでくれるもの――
それを考えに考えた結果、隼世はとある案にたどり着いた。
書類に目を通していると、スマホにSNSアプリでメッセージが届く。
『今夜も帰りは遅くなりそうですか? 隼世さん、あまり無理しないでくださいね』
愛しの妻は、結婚式直前になっても慌ただしく仕事にかまける夫に優しい言葉をかけてくれた。
仕事で忙殺されているのは、新婚旅行で休暇をとるために諸々の処理を前倒しして行っているせいだ。そして、もうひとつ。彼が手作りしようとしている、とあるもの。それを作る教室で、個人指導をしてもらっているため、帰りが遅い日が続いている。
結果的に、東条夫妻はこの二週間ほどセックスレスな毎日を過ごしていた。
――ほんとうは、どんなに帰りが遅くなっても結衣を抱きたい。
隼世にすれば、彼女と過ごすことが何より幸せで、心から満ち足りたと感じられる瞬間なのだ。けれど、最初のころ、結衣は隼世を待ってリビングのソファで小さな寝息を立てていた。春先とはいえ、朝晩はまだ寒い。彼女が風邪をひいたらたまらないと、隼世は口を酸っぱくして「23時を過ぎても自分が帰らないときには、ベッドで眠ること」と言い聞かせた。
帰宅し、寝室を覗くと、結衣は大きなベッドの片側で目を閉じている。
その寝顔を見るたび、彼女を抱きたくて欲望がはちきれそうになるけれど、毎夜我慢を繰り返してきた。土日も返上で仕事をし、結婚式に間に合わせるため必死でとあるものを作りに教室へ通う。
――まるで禁欲生活だな。
書類の山を前に、隼世はふと頬を緩めた。
彼女を幸せにするためなら、なんだって我慢できる。
新婚旅行は、結衣が子どものころにテレビで見て憧れていたというオランダへ行くのだ。運河とチューリップと風車。そこで微笑む彼女を想像すると、禁欲生活にも耐えきれる。耐えてみせる。
「……耐えない、耐えます、耐える、耐えること、耐えれば、耐えろ、耐えよう」
無意識に五段活用で自分を励まし、隼世は書類に確認印を捺した。
『あと二回か三回で完成ですね』
教室の講師は、隼世の作りかけの作品を見てそう言った。
結婚式まで、残り一週間。
仕事をこなし、ガーデンパーティーを依頼した業者に最終確認をし、さらに車で片道一時間もかけて教室へ通わねばいけないと思うと、なかなか頭が痛いものだが、やると決めたからには絶対にやり遂げてみせる。
その日も、隼世が帰宅すると結衣はすでに眠っていた。
腕時計を見れば、すでに日付が変わって一時間も過ぎている。
「……ただいま」
眠る彼女を起こさないよう、寝室のドアを閉めようとしたそのとき――
「隼世さんっ」
結衣が、がばっとベッドから起き上がった。
「結衣、起きていたのか?」
驚きに目を瞠る彼のもとへ、結衣が裸足で駆け寄ってくる。
どこか不安そうな瞳、何かを言おうとしながらわななく唇。たよりなげでいて、芯の強い彼女を前に、このまま抱きしめたい気持ちがぐっとせり上がってくる。抱きしめたい? いや、そんなことをしようものなら、きっとベッドが目の前にあっても床に押し倒してしまうだろう。隼世には、それがわかっていた。
「あ、あの……」
「すまない。俺が起こしてしまったのかもしれないな。シャワーを浴びてから寝るから、きみは先に休んで――」
目をそらしたのは、彼女を襲ってしまわないように。
一歩下がったのは、やわらかな肌に触れて衝動に突き動かされないように。
だが、ほんとうにそうだろうか。
結衣は起きていたのだから、今夜彼女を抱いたところで、誰に責められるものでもあるまい。それとも、結衣自身、隼世に抱かれたいと願ってくれているのかもしれないではないか。
身勝手な想像に、息が苦しくなる。思春期の中学生もかくやという勢いで、隼世は結衣のことばかり考えて生きているのだ。下半身に血流を感じ、わずかに腰をかがめなくてはいけないほどに。
「隼世さん、待って、待ってください」
しかし、その場を去ろうとした彼の袖を、細い指がきゅっとつかんだ。
刹那。
ぞくり、と甘い予感が背を駆け上る。
かすめる程度に手首に触れた彼女の指先が、ひどく冷たかった。
「あの……わたし、何か悪いことをしましたか……?」
「結衣?」
もしかしたら彼女も自分を求めてくれているのでは、なんて考えていた隼世は、怯えた声の妻に信じられない気持ちで目を向ける。
「最近、隼世さんに避けられている気がして……。もしそうなら、理由を教えてください。そうじゃなくても、何か困っているなら……」
一緒に解決していきたい――
そう言った彼女を、隼世は何も言わずに抱きしめた。
力強く引き寄せ、腕の中に閉じ込める。息を呑むのがわかったけれど、言葉で説明できないほどに彼女が愛しかった。
「は、隼世さ……」
「触れたら、きっとこらえられないと思った」
小さな耳に、唇をつけるようにして言葉を紡ぐ。
「帰りが遅いせいで、もうずいぶんきみを抱いていない。だが、結衣はしなくていいと言った結婚式を俺のわがままでするんだ。新婚旅行だって、きみは行かなくてもいいと言ったのを、俺が強引に行き先を選ばせた。どうしても、きみと結婚式をしたい。どうしても、きみと新婚旅行に行きたい。すべて俺のわがままだろう?」
「そんなことないですよ。わたしだって、隼世さんとの結婚式も新婚旅行も楽しみです。富良野でお世話になっていた人たちも招待してくださって……」
ほんとうならば、彼女の祖母にウェディングドレス姿を見せたかった。だが、結衣の祖母はすでに他界している。だから、彼女が働いていた『ラベンダー』の元店主夫妻を招待したのだ。
「とにかく、俺のわがままのせいで帰りが遅い。結果として、きみと触れ合う時間が足りなくなっている。今の俺は、飢餓状態の獣と同じだ。結衣に触れたら、きっと際限なくきみを求めてしまう。だから――」
だから、今は触れない。
そっと腕を緩めると、結衣が顔を上げてこちらを見つめてくる。
「……きっと、隼世さんはわかってないんですよ」
「何をだ?」
か弱い結衣。思い切り抱きしめたら、折れてしまいそうな華奢な結衣。
色白で、肌を吸うとすぐに赤い痕が残る儚げな彼女が、やわらかな笑みを浮かべる。
「わたしは、そんなに簡単に壊れたりしません。こう見えて、けっこう丈夫なんです。それに、立ち仕事が多かったから体力だって自信があります」
「……うん?」
「だ、だから……その……」
パジャマから伸びた細い手首が、見惚れるほどに眩しい。
その手が、隼世のスーツのジャケットをつかんだ。
「隼世さんがしたいって思ってくれるなら、いつだって……! ん、んっ!?」
化粧をしなくても赤く愛らしい唇を、自分の唇で塞いだのは反射的な行動だった。頭で「キスしたい」と考えたわけではない。むしろ、本能のままに彼女にくちづけた。
愛しいという言葉の意味を、結衣と出会って初めて知った。
この世には、こんなにも大切な存在がある。
彼女がいる未来は、隼世にとって何よりも守りたいと願い、誓い、それを遂行すべく行動する原動力だ。
「愛してる、結衣」
キスの合間にそう告げると、彼女が頬を真っ赤に染めて隼世を見上げてくる。
「わ、わたしも……隼世さんのことが大好き、です……」
だから、今夜のところは禁欲生活もいったん休憩をして。
床に押し倒すのだけはかろうじてこらえ、隼世は花嫁をベッドへ運ぶことにした。