「……ということで、無事に入籍を済ませました」
　あまりに簡潔すぎる報告に、城月誠一は言葉を失った。
　それもそのはず、誠一にとってはただひとりのかわいい妹が、行方をくらましたかと思えば無事帰ってきたとたん、結婚したと言い出したのである。
「え、いや、ちょっと待ってくれるかな。ふたりがそういう関係だというのは、なんとなく察していたけれど、いきなり入籍って……！」
　開業医である父が、娘のいる女性と再婚したのは８年前のこと。
　ところが、本来ならば家族として一緒に暮らしてもおかしくない結衣のことを、継母は「親戚の娘ということにする」と決めて、実家のある富良野に遺してきた。継母の母、つまり結衣にとっては祖母にあたる人が、当時まだ中学生だった彼女の面倒をみていた。
　誠一自身、父が再婚したときにはすでに実家を出ていたし、大学病院の脳神経外科に勤める今も恋人と暮らしているため、結衣を妹と思う気持ちはあれど一緒に暮らしていたわけではない。
　――だからって、家族になんの報告もなしにいきなり結婚はないだろ!?　そもそも、結衣ちゃんはまだ二十二歳なのに、どうして結婚を急ぐ必要があるんだ。
　彼女の働くカフェ『.K』のテーブル席で、正面に座る東条隼世を前にして――当然その隣には、休憩中の結衣が座っているのだが、誠一は思わず妹のたいらな腹部に目を向ける。
　まさかとは思うが、すでに妊娠しているということだろうか。だから結婚を急ぐと？
　遠く離れて暮らしてきた、血のつながらない妹。実の両親ともほとんど接することなく育ち、それでも手放しで賞賛できるほど素直ないい子に育った結衣。たしかに誠一は彼女を妹と思っているけれど、兄らしいことをしてきたと胸を張って言えるわけではない。その負い目があって、結衣の結婚について「早すぎる！」のひと言を口に出しにくい状況だった。
「あの、誠一お兄さん、前もって言わずにいてごめんなさい」
　結衣が、きゅっと目を閉じて頭を下げる。
「結衣ちゃん、謝るようなことじゃないんだよ。おめでたいことなんだから、そんな顔をしないで」
　慌ててそう言ったものの、誠一の言葉に反応したのは結衣ではなく隣に座る隼世のほうだった。
「そうだ、結衣。結婚を迫ったのは俺のほうだからな。きみは何も悪くない」
「は、隼世さん……っ」
　色白の彼女の頬が、ぽっと赤らんだ。
　それを見て、隼世が相好を崩す。
　見つめ合うふたりは、どこからどう見ても幸せそうな新婚夫婦でしかない。
　――ああ、そうか。
　すうっと心が落ち着いていくのは、結衣だけではなく隼世もまた、家族に恵まれず育ったことを誠一が知っていたからだ。
　誠一が隼世と知り合ったのは、医師と患者としてである。彼は、交通事故ののちに手術中の輸血が原因と思われる脳内の血の塊を除去する手術を受けるため、脳神経外科に入院していた。
　脳の手術と聞くと、たいていの場合は患者本人も家族もひどく心配する。手術の間は当然、家族の誰かが病院で待っていてくれるものだ。しかし、隼世は若きホテル王という肩書きを背負いながら、手術中に待機してくれる家族すらいなかった。彼いわくもっとも信頼しているという秘書が病院に付き添い、何かあった場合には秘書から家族へ連絡をするという手はずになっていたのである。
　事情はわからないまでも、仲良し家族の一員ではないということだけは想像に難くない。
　――だから、ふたりはもとの家族よりも、新しい家族を作ることを優先したのか。
　そう思うと、儚げな妹にとって自分はいい兄ではなかったのだなあ、と誠一は胸が締め付けられる思いがした。
「それで、結婚式はどうするんですか」
　気を取り直して、誠一は隼世に問いかける。
　入籍を先に済ませたとはいえ、結婚式も披露宴もあとからして悪いということはない。むしろ、よくある話だ。
「しないの」
　だが、答えたのは隼世ではなく結衣だった。
「しないって……、どうして、結衣ちゃん？」
　歳の離れた義妹というのは、いっそ娘のような感じさえする。かわいい妹がウェディングドレスを着た姿を見たいと思うのも当然だろう。
「えっと、まだ隼世さんのご両親にも挨拶に行っていないし、それにわたしなんかが結婚相手じゃ、隼世さんのお仕事の関係の人たちも心配されるだろうし……」
「そんなことは関係ない」
　結衣の言葉を遮った隼世が、テーブルに置かれていた彼女の手をぎゅっと握る。
「俺は結衣を見せびらかしたい気持ちでいっぱいだ。きみほどすばらしい結婚相手はいない」
「そっ……それはたぶん、恋は盲目っていう……！」
「当然だろう。俺は『見えない』ときに出会って、きみに恋をしたんだから」
　冗談めかして、隼世が笑う。結衣が、つられて微笑んだ。
「コホン」
　誠一は、わざとらしく咳払いをひとつ。
　――新婚だから仕方ないのかもしれないけど、ふたりの世界に入り込みすぎ！
　だが、隼世はまったくそんな誠一の気持ちになど気づかぬそぶりで、こちらに笑いかけてきた。
「やはり、結衣には純白のウェディングドレスを着せてあげたいと思っています。お義兄さんもそうお考えですよね」
「おっ……!?」
　――お義兄さんだと!?
　妹の夫である隼世が、誠一を義兄と呼ぶのはなんらおかしなことではないものの、言葉にできないむずがゆさがある。なんなら、「僕のかわいい妹と勝手に結婚したくせに、お義兄さんなんて呼ばれたくないね！」くらいのことを言ってしまいたいとさえ思う。
　しかし、同時に彼がどれほど結衣を想っているのかも、誠一は知っていた。
　妹が行方をくらましたとき、隼世は富良野まで結衣を追いかけていったのだ。飛行機のチケットを取ればいいものを、プライベートジェットをチャーターして北海道へ飛んだと聞いている。ちなみに六人乗りのプライベートジェットの場合、東京-北海道の片道で約400万円の代金がかかる――というのは、誠一の婚約者である麻理恵が調べて教えてくれた。
『結衣ちゃん、愛されてるんだね。おにいちゃんも、これで安心できるかな？　それとも、かわいい妹をとられちゃいそうで不安かな？』
　ふふっと笑った麻理恵を思い出し、誠一は再度落ち着きを取り戻す。
　彼女の言ったことは正しい。幸薄い結衣が幸せになるというのなら、心から安心し祝福しよう。しかし、同時に不安で心配でたまらない。
　なにせ、東条隼世という男は、同性の誠一から見ても魅力的な男性なのだ。
　日本の若きホテル王であり、東条グループの御曹司であり、精悍な顔立ちに知性のあふれる瞳、そして恵まれた立ち場にいながらおごったところのない人間性の、妹の結婚相手としてケチのつけようがない男。
　――だからこそ心配になるんだ！
　とはいえ、ここで文句を言っていては結衣のウェディングドレスが遠ざかる。
「もちろん、東条さんに同意です。結衣ちゃん、披露宴はやったほうがいい。一生の記念なんだからね」
「でも……」
　まだ、結衣はうなずかない。
　謙虚な彼女のことだ。そんなことに愛する夫のお金を遣うなんて間違っているとでも思っているのかもしれない。
　――ここは、もうひと押ししないといけないな。
　誠一がそう思ったときだった。
　結衣が、顔を上げてまっすぐにこちらを見つめてくる。その瞳が、戸惑いに揺れていた。
　――なんだ？　もしかしたら、結衣ちゃんはほんとうは結婚をまだ迷っているのか？
　先ほど、一度は懸念したことを思い出す。子どもができてしまったから結婚したのでは、というアレだ。
　もしも結衣がひとりで子どもを育てられる自信がないというのなら、自分は兄として彼女と子どもくらい養う甲斐性はある。麻理恵もきっとわかってくれるはずだ。
　と、そこまで考えたとき。
「誠一お兄さん、バージンロードを一緒に歩いてくれる……？」
　思いもよらない方向から、ロケットパンチが飛んできた。
　頭を思い切り殴られたような感覚と、同時に心臓を撃ち抜かれたような衝撃。
　妹があまりにかわいすぎて、誠一は頭がクラクラした。
「ダメ……かな……」
「駄目なわけがないよ！　もちろん！　絶対に、僕が結衣ちゃんのバージンロードを一緒に歩く！」
　実の父親の連絡先を知らない結衣。母親の再婚相手の戸籍に入っていない結衣。
　それでも彼女は、自分を兄と慕ってくれている。
「良かった……！　ありがとう、誠一お兄さん」
　幸せそうに微笑む結衣を前に、誠一もまた笑顔になる。
　彼女が幸せならば、それでいい。
　心配性の部分はなるべく隠したまま、小さな手をとってバージンロードをエスコートしよう。
　誠一は、そう心に誓った。