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ふたりだけのウェディング

 二カ月かけて準備した披露宴を終えて、紗英は花嫁に付き添って控え室へ戻ってきた。
 今回のカップルは、紗英にとっても格別の思い入れがあるふたり。堂島芦花と榛名幸穂――いや、すでに入籍は済んでいたので堂島幸穂か。
 かつて、この架院堂迎賓館で悠一郎と結婚する予定だった幸穂は、愛を貫くために芦花と駆け落ちをした。その結果、代打花嫁の白羽の矢が立ったことがきっかけで、悠一郎と結婚した紗英だったが当初の偽装結婚とは違い、今では幸せな家庭を築いている。
「紗英ちゃん、今日までほんとうにありがとう。こんなステキな結婚式になったのは、紗英ちゃんのおかげよ」
 ウェディングドレス姿の幸穂は、世界でいちばん幸せそうに微笑んだ。腹部を締め付けすぎないデザインのドレスは、マタニティ専門のショップで手配した。幸穂は現在、妊娠七カ月。マタニティウェディングも、最近では珍しくなくなった。専門のウェディングドレスデザイナーがいるくらいだ。
「ほんとうにステキなお式でした。幸穂さんが幸せそうで、わたしも泣きそうになったくらいです」
 普段ならもっと仕事用の返答をするのだが、相手は従姉の幸穂。今ばかりは、紗英も堅苦しさを脱ぎ捨てる。
「ふふっ、思い出しちゃった。芦花くん、途中泣きそうだったでしょ?」
 新郎である芦花が、紗英の知る限り四回ほど涙ぐんでいたのは記憶に新しい。
「あとでDVDをもらったら、しっかり見直さなくちゃ」
「もう、幸穂さんたら。堂島さんはそのくらい嬉しかったってことですよ」
 ――でも、ほんとうに幸せそうだったなあ、堂島さん。
 ブライダルプランナーとして働く日々、紗英は日常的に披露宴を見てきている。そのなかでも群を抜いて今日の披露宴はすばらしかった。
 ほんの数カ月前、ふたりの結婚を絶対認めないと言っていた幸穂の父親が喜びにむせび泣いていた姿は、しばらく忘れられそうにない。
 けれど。
 そんな幸せに満ちあふれた披露宴を目にするたび、最近の紗英は心にちくりと痛みを感じることがある。
「……ねえ、紗英ちゃんはもういいの?」
 不意に、幸穂が問いかけてきた。
 何について尋ねられているのかはかりかね、紗英は小首をかしげてまばたきをする。
「だから、紗英ちゃんたちの結婚式のことよ」
「結婚式はしましたし……」
 あなたの代わりに花嫁になりましたから、とは言えない。
 そう、この架院堂迎賓館で悠一郎と紗英は結婚した。ただし、それは紗英の望んだシンプルで静かな結婚式でも披露宴でもなかった。架院グループの御曹司でありCFOである悠一郎の、当時は『仕事の一環』としてのイベントだったのだ。
「あれは、紗英ちゃんのために準備されたものではなかったでしょう? こうしてブライダルプランナーとして働いているんだもの。紗英ちゃんには、紗英ちゃん自身の結婚式にしたいことだってあったんじゃないの?」
 ――見抜かれていたんだ。
 幸穂は、おっとりしたお嬢さまに見えて鋭いところのある女性である。
 彼女の言ったそれこそが、紗英の心に刺さるトゲだ。
 正直に言えば、以前は誰かの幸せのためだけにブライダルプランナーとして働いていた。なにせ、紗英は結婚するまで恋愛経験がなく、結婚願望も強いほうではなかったのだから仕方がない。
 だが、結婚後。
 何組もの幸せそうな新郎新婦を目の当たりにするたび、つい考えてしまうことがある。
 もしも悠一郎と自分が恋愛結婚だったら、ふたりはどんな結婚式を挙げただろう――
 無論、その仮定に意味はない。そもそもが、自分たちは恋愛結婚ではなかったのだ。結婚後恋愛、あるいは婚内恋愛。そういった類の言葉が存在するのかどうかは別として、現実にそういう関係にある。
 だから、世のカップルのように恋愛を経て、ふたりで結婚式のことを相談して準備していくことは不可能だった。
 黙り込んだ紗英に、幸穂がふっと微笑んで手を握ってくる。
「わたしがこうして、芦花くんと幸せになれたのは紗英ちゃんのおかげでもあるの。だから、これはわたしから紗英ちゃんに――ううん、ブライダルプランナーの榛名さんに、お礼です」
 幸穂の手が離れていくと、紗英の手のひらにリボンのついた鍵が、魔法のように現れた。
「えっ、幸穂さん、これって……」
「ふふっ、驚いた? わたしね、じつは手品が得意なの。前に、大学時代、英二郎さんと同じサークルだったと言ったでしょう? 手品サークルだったのよ」
 それは初耳だ。幸穂が手品を得意としているだなんて、なんだか似合うような似合わないような。そして、鍵を手のひらに隠して渡す程度は手品に含まれるのか否かも気になるところだ。
「紗英ちゃん、明日から連休だと言っていたから、こっそり悠一郎さんに相談してみたの。そうしたら、彼が全部準備してくれたみたい」
「待ってください。話がさっぱりわからないんですけど!」
 鍵は、おそらくどこかのドアの鍵なのだろう。しかし、この鍵だけを見て幸穂の言うお礼の意味を理解するのはなんとも困難である。
「これは、どこの鍵なんですか?」
「あら、それはもちろん軽井沢の別荘の鍵よ。明日から、ゆっくりしてきてね」
 戸惑う紗英を前に、幸穂は優雅に微笑んだ。

♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪

 そして翌日。
 朝から悠一郎の車の助手席に座ること三時間、紗英は昼前に軽井沢の別荘地へ到着していた。
 諸事情により、新婚旅行にも行かなかったことを考えれば、これが初めてのふたりでの旅行である。
「東京とは空気が違う。気持ちがいいな」
 幸穂と手を組み、ひそかに準備を整えていたらしい悠一郎は、車を降りると別荘の前で大きく伸びをひとつ。
 道中、これからの予定を何度も尋ねた紗英に「それは秘密だよ」と微笑むばかりだった彼は、何かたくらんでいるようにも見える。
「……ほんとうだ」
 外に出ると、森の香りがした。紗英も思わず目を瞠り、あたりを見回す。
 都内ではなかなかお目にかかれないような、緑に囲まれた世界。空を仰げば、視界をぐるりとそびえる木々の先端が取り巻いている。折しも今日は、抜けるような青空で、吹く風が心地よい。
「それにしても、お仕事休んでだいじょうぶだったんですか、悠一郎さん」
「前もって準備していたからね。先月から、残業も多かっただろう? そのぶん、こっちにいる間は紗英とゆっくり過ごしたいんだよ」
 いつの間にか、運転席側から移動してきていた悠一郎が紗英の華奢な肩をそっと抱きしめる。
「そんなに以前から準備していたのなら、教えてくれればよかったのに」
「そうしたらサプライズにならないじゃないか」
 軽やかな笑い声をあげて、彼は唇を尖らせる紗英を覗き込んだ。
「いつも、悠一郎さんには驚かされてばかりですよ!」
「へえ? だったら、今夜もベッドのなかでたっぷり驚かせてあげるから安心してくれ」
「もう、な、何を言ってるんですか。そういうことじゃなくて……!」
 頭上で、ピチチチ、と鳥の声がする。
 ふたりの短い休暇は始まったばかりだった。

 昼間は荷解きと食料品の買い出しに明け暮れ、夕暮れのオレンジ色の映える空を見上げながら手をつないで別荘の周囲をぐるりと散策した。それから少し肌寒い風のなか、夕飯はウッドデッキでバーベキューを楽しみ、驚きと快楽を普段の三割増しで堪能してから眠りにつく。
 なんとも贅沢な時間の使い方に、いつもなら早起きの紗英もつい寝過ごした。
 隣で眠る悠一郎が、「う……ん、今何時だ……」と小さくうめいたのが聞こえても、目を開ける気力がない。
 ――だって、眠ったの明け方だったもの。もう少し寝させてください……
 しかし、夫はそうではなかった。がばっと起き上がった悠一郎は、時計を確認すると紗英の体を揺さぶりはじめた。
「紗英、おはよう。もう十時だ。起きないとまずい」
「ん……、でもゆっくりしようって……」
「借り切っているのは午前中だけなんだ。ほら、起きて」
 いったい何を借り切ったと言うのだろう。半分寝ぼけたまま、紗英は彼に急かされるままに外出の準備をする。
「服はこれがいいよ。紗英は白が似合うから」
 いつもなら、紗英の洋服にまで口出しすることのない悠一郎が、なぜか今日に限って白いワンピースを指定した。それは、今月の初めに彼がプレゼントしてくれたものである。
 ――……あれ? わたし、このワンピース持ってきたんだっけ?
 急遽、荷造りしたときに入れた記憶はない。
 だが、ワンピースがここにあるということは荷物に入れたのだろう。誰が? 紗英でなければ、悠一郎しかそんなことをできる人間はいないはずだ。
 疑問を感じながらも、悠一郎に急かされて着替えを済ませ、またもドライブが始まった。
「こうしていると、新婚旅行みたいですね」
 窓の外の景色を眺めて、ぽつりと言葉が口をつく。
「ああ、俺も同じことを思っていたよ。なかなか時間がとれなくて、旅行に連れて行くこともできない情けない夫で申し訳ない」
「そんなことを言ってるんじゃないですよ。わたしは、悠一郎さんと一緒にいられればそれで幸せです」
 紗英の言葉に、悠一郎が少しだけ眉根を寄せた。
「あまりかわいいことを言われると、今夜も睡眠不足になるけどいいのかな」
「そっ……それはちょっと……」
 冗談だよ、と笑う彼だが、あながち冗談と言い切れないのが現実だ。愛し合うほどにまだ足りない、もっとほしいと彼は言う。
 たいていの場合、後半は意識が朦朧となるまで抱かれるのだから、悠一郎の愛情には果てがない。
「紗英? 何を考えているのか、あててあげようか。頬が赤くなっているよ」
「別に、何も考えてませんっ」
「へえ? そうは見えなかったけど」
 軽口を叩いているうちに、車が目的地に到着した。
 ――え……?
 独特な三角形の屋根が特徴的な木造の建物。紗英でなくとも、ぱっと見ただけで名前がわかるだろう。
「悠一郎さん、ここって……」
「チャペルだよ。ブライダルプランナーなのに、そんなこともわからないのかい?」
「それはわかってます! でも、どうしてチャペルに?」
 車を停めた悠一郎は、エンジンを切って運転席から降りると、助手席のほうまで回り込んでくる。紗英がドアを開けると、優しげな笑顔の夫が右手を差し出した。
「もちろん、ふたりだけの結婚式をしたかったからだ」
 いつ準備したのか。彼はかわいらしいブーケをそっと手渡してくれる。それを受け取った紗英が、車内で話していたときよりもいっそう頬を赤らめているのを見て、悠一郎は満足げに頷いた。

 左右の参列席には、通路側に花が飾られている。その間に敷かれた赤いカーペットのバージンロードを、どこか面映い気持ちで歩いていくと、正面の壁には十字架がかかり、誰もいない祭壇の両側にも紗英の手にあるのと同じ花を使ったアレンジメントがあった。
「……これ、悠一郎さんが……?」
「幸穂さんから、叱られた。ブライダルプランナーの奥さんをもらっておきながら、お披露目のためだけの結婚式で済ませて、しかも紗英のために準備したわけではない披露宴だっただろう? それじゃ、いつか愛想を尽かされると言われたよ」
 木の香りがするチャペルは、天井が高いせいか声がよく響く。
「だから、俺のかわいい奥さま」
 祭壇の前で足を止めた悠一郎が、紗英のほうに向き直った。大きな手が、両肩に置かれる。布越しに伝わるぬくもりが、今はただ愛しくて、嬉しくて。
「至らない夫で申し訳ないんだが、これからも俺と一緒に生きてもらえないだろうか。始まりは最悪だったかもしれないけれど、今の俺は紗英を心から愛している。きみと生きる未来が何よりの幸せなんだ」
「悠一郎さん……」
 手にしたブーケがかすかに震えた。そこに、ぽつりと頬を伝った涙が落ちる。
「わたしも、悠一郎さんを愛しています。これからもずっとあなたの奥さんでいさせてください」
「ありがとう」
 彼の目も、わずかに潤んでいるように見えた気がしたけれど、それを確認する前に甘いキスが降ってきた。
 角度を変えては重なる唇に、紗英は目を閉じて悠一郎を想う。

 もしも。
 あの日、架院堂で。
 幸穂が結婚から逃げ出さなかったら。
 それとも、紗英が悠一郎の強引な提案を拒絶していたら。
 ――今の、この幸せはなかったのかもしれない。
 この出会いを運命だと言ってくれた彼に、心からの愛を。
 紗英は改めて誓いを立てて、愛する夫の背に両手をまわした。
 それは、ふたりだけの秘密のウェディング。お互いさえいれば、それでいい。豪華な会場も、派手なドレスも、何もいらない。
 ただ、悠一郎がいてくれる。それだけで幸せだった。
「ずっと大好きです、悠一郎さん」
 微笑んだ紗英を見下ろして、悠一郎が耐えきれないとばかりにため息をつく。
「だから、そんなかわいい顔をされると時と場所をわきまえずに抱きたくなるんだけど、紗英はわかっていて俺を煽ってるのかい?」
「……いえ、あの、大人なんですからそこはわきまえてください」
「仕方ない。別荘に戻ったら覚悟しておけよ」
 愛し合うふたりの思い出のアルバムに、今日も新たな一ページが加わる。
 それがチャペルでのキスか、あるいは別荘に戻ってからのあれこれだったのかは、ふたりだけの秘密――