めでたしめでたし、の、そのあとで
むかしむかし、から始まるおとぎ話は、締めくくりが大抵同じだ。
すべての問題が解決し、悪者は悪者として罰が与えられ、主人公は幸せになる。なぞられた物語の、そのほとんどがハッピーエンドになるのをわかっているのに、それでも話に夢中になった。
「――めでたし、めでたし」
目をキラキラと輝かせる幼い自分に、今まで読んでくれていた本を閉じて笑いかけてくれるのは、年上の幼なじみだった。彼は祖母が懇意にしている家の息子だ。共働きの両親に代わって、祖母が自分の面倒を見てくれることが多いのだが、たまに彼らも祖母の家に預けられることがある。そのときは、こうして自分のことも構ってくれるのだ。
「おもしろかった?」
「うん! しーくんが読むと、お話がうわーってやってくるの!! さっきみたいに、毒りんごを届けに来た魔女のときなんて、しわがれ声になってとっても魔女だった!」
「怖かった?」
「ううん! すごいと思った!! 私も一緒になってドキドキしたの!」
興奮気味に話す少女に、彼は微笑む。その傍らにいる優しい少年は、読んでいた本から顔を上げて、口元を綻ばせた。
「ふふ、伊織は寝たみたいだね」
彼の声にまばたきを繰り返し、少女は視線を落とす。自分の膝の上に頭をあずけ、すやすやと眠る少女のような少年のかわいらしい寝顔に笑みを浮かべた。
「……本当だ、いっちゃん寝てる」
「兄貴のあの読み聞かせで、どうして寝られるんだろうね。俺はびっくりだ」
「ね、さくちゃんも怖かった?」
「もちろん。狩人が出て来るところなんて、追いかけられてる気分になったよ」
「……まったく、ふたりとも褒めすぎ。俺は普通に読んだだけだよ」
ふぅ、と苦笑した彼を見て、少女も彼の弟も一緒になって笑う。声を潜めて、膝の上にいる彼を起こさないよう、慎重に。
そして少女は着ていたカーディガンを脱いで、それをそっと彼の上に羽織らせた。
あたたかなひだまりが差し込む座敷から顔を上げると、庭にある立派な桜の木から花びらがちらちらと風に吹かれて飛んでいった――かつての記憶が蘇る。
――あんなに、かわいかったのになぁ。
「――うん、うん、……じゃあそれで。直前まで気にしてくれて、助かった。ありがと。って、気持ち悪い声出すなよ。恥ずかしい。それが仕事だろ。じゃあ明日な」
うつ伏せの状態でクッションを抱きしめたまま、みちるは隣にいる“彼”を見た。あのときはあんなにもかわいかったというのに、今ではその横顔もすっかり“男”の顔だ。
「ん?」
みちるの視線に気づいたのだろうか。
電話を切った彼――神楽坂伊織が、スマートフォンからをみちるに視線を向ける。甘く微笑む彼の表情が、先ほどまで自分を抱いていた男の顔とは思えないほど、優しくてどきどきした。
「……みちる?」
どうかしたのか。
そう問いかけてくる伊織の声に頬を染めながら、首を小さく横に振った。
「電話、朔ちゃん?」
「ん? ああ。明日のことで最終確認だってさ」
伊織は手にしたスマートフォンをサイドテーブルに置いて、ベッドの中に潜り込む。
「みちる、あったかい」
そう言って伊織に横から抱きしめられると、少し冷えた素肌が触れる。一瞬ひやっとしたが、みちるは自分の熱を移すように、抱きしめたクッションを放して伊織に向き直った。
先ほどまでふたりで愛し合っていたベッドの中で、裸のまま抱き合う。
触れ合う素肌から生まれる熱が、心地よい安心感を連れてくる。このぬくもりが愛おしくて、なくなるのがさみしいと思うぐらいには、伊織と抱き合う時間が増えていた。みちるは彼の胸元に頬をすり寄せ、ぴったりとくっつく。すると、伊織はみちるの頭をよしよしと撫でてくれた。
「……もう明日なんだよなー」
ぼんやりとつぶやく伊織の声に、みちるが顔を上げる。
「そうだね。緊張する?」
「……みちるの親父さんに挨拶したときに比べたら、全然」
「そんなに怖かった?」
「そりゃ、お嬢さんを僕にくださいイベントは、誰だって緊張するだろ。うちの兄貴だって緊張したぐらいだぞ?」
「しーくんが!?」
「ああ。うちに挨拶に来てくれたとき、絢さんがこっそり教えてくれたのを、今思い出した」
「へー。しーくんでも緊張することあるんだね。学校で理事長してる姿見てると、そんなふうに見えないからびっくりする」
「俺も一緒。それに比べて朔にいは……」
「それが小春さんから聞いたところによると、すぐご家族と仲良くなったらしいよ」
「え」
「小春さんのほうが緊張して胃痛してたぐらいで、朔ちゃんは全然平気だったんだって」
「……嘘だろ」
「ほんと。私も職場でその話聞いて、意外って思ったんだもん。あ、でも意外って言えば、朔ちゃん!」
「ん?」
「学院の養護教諭じゃなかったんだね」
「………………あれ、言ってなかったっけ?」
きょとん、とした表情をする伊織に、みちるは首を横に振って答えた。
「聞いてない。学生時代、伊織が留学していなくなったあと、私が三年に上がる前に朔ちゃんもいなくなっちゃってさ。あとで、志岐さんと小春さんから事情は聞いたけど、伊織に続いてだったから、ちょっとさみしかった」
朔夜も伊織同様、みちるが協力を仰がれたとある事件の関係で、学院にいたらしい。
もともと、学院を統括する志岐の力になるため、朔夜は養護教諭を目指して、資格を取得した。先生には言えなくても“保健室の先生”になら言えることもあるかもしれない。学院にいる生徒たちの悩みを聞く立場にいれば、理事長をしている志岐の役に立てると思っていたのだと、小春が教えてくれた。しかし、卒業間際、神楽坂家現当主によって事業を任されてしまい、泣く泣く養護教諭の道を断ってしまったそうだ。
だから、というわけではないが、みちるがいたあの時期、あんなに親身になって話を聞いてくれたのかもしれない、と今になって思う。
「細かい話する余裕、あんときにはなかったもんな」
抱きしめていたみちるを放し、伊織が天を仰ぐ。腕枕をされたまま、みちるは伊織の横顔を見つめた。
「……懐かしいね」
「ああ」
「いろんなことがあったね」
「そうだな」
志岐と絢のところには子供も生まれ、ふたりして子煩悩を発揮している。朔夜と小春も子供を授かり、毎日が幸せだと学年主任になった彼女は話してくれた。学生時代の友人である小百合もこのたび婚約が決まり、結婚式に向けていろいろと準備をしているらしい。
「そういえば」
「ん?」
「ドレス、最後の最後まで見せてもらってないんだけど?」
「小百合さんが当日までのお楽しみって言ってるんだから、そこは我慢して?」
「ていうか、ちゃんとドレスなんだよな?」
「当然でしょ! 伊織だって素敵だったじゃない」
「……あ。見たな?」
「小百合さんが、写真撮って送ってくれた」
「ずるい。俺は見てないのに」
少し拗ねたような言い方をする彼を見つめ、みちるはぎゅっと抱きしめる。
「伊織、王子さまみたいだった」
「……」
「伊織?」
「…………あー、二十歳超えて王子さまっていうのはむず痒いが、ドレスを着せられなくて安心してるよ。いつかのときみたいにな」
ふぅ、と、息を吐いてからみちるの背中を撫でる伊織に、思わず口元が綻んだ。
「あれは、私のせいじゃなくて役を断った伊織のせいでしょ」
「だからってお姫さまとかないだろ」
「だったらちゃんと王子役やればよかったじゃない」
「セリフが多かったんだよ」
「……志岐さんは読み聞かせ上手なのにね」
「みちる」
名前を呼ばれて顔を上げると、眼前に伊織の顔が迫ってくる。そっと唇が触れるのと、まぶたが下りるのはほぼ同時だった。ちゅ。触れ合ったところから生まれる微熱と音に、身体が小さく震えた。
「少し黙って」
甘い声で囁かれ、彼が額をこつりと重ねてくる。
「だって伊織が」
「兄貴と比べるようなこと言うからだろ? それから」
「……なによ」
「みちる、もしかして緊張してる?」
口の端を上げて、彼がしたり顔で問いかける。その内容に一瞬呆けていたが、意味を理解して頬に熱がこもった。
「あ、その顔は図星だな」
「ち、ち、ちが……ッ」
彼から離れて背中を向けると、みちるは熱くなった両頬に手を当てた。熱い。手のひらから伝わってくる熱と図星をさされた心臓が早鐘を打つ。背後でふ、と笑った伊織が後ろから包み込むように抱きしめてきた。
「みちる、かわいい」
言いながら、みちるの肩口に何度もキスをしてくる。ちゅ、ちゅ。肌に触れる彼の唇の音が、周囲に響いて恥ずかしい。
「……いっちゃん!」
「はいはい?」
「からかってる!」
「違う、これはかわいがってるって言うの」
耳元で、なだめるような優しい声が囁く。
「緊張することなんてないのに、ひとり緊張してどきどきするから、かわいくて。……それに」
珍しく言葉を切った伊織を不思議に思い、みちるは寝返りをうって彼を見上げた。その視線を感じたのか、伊織がふ、と口元を綻ばせた。
「明日でみちるが俺のものになるっていうのが、嬉しい」
「……ずっと昔から、伊織のものだよ?」
「指輪はめたぐらいじゃ、満足できなかったよ」
「離れてたから?」
「ああ。近くにいられないだけで恋が終わる友だちを、何人も見てきた。そのたびに思ったんだ。みちるは大丈夫かな、って。さみしい思いさせてる原因の俺が何をって思ったけど、……みちるのことを考えない日はなかったよ。……だから、プロポーズしたあの日の夜、さみしかったって聞いて嬉しかったんだ。みちるはいつも俺に黙ってひとりで泣くから、明日からずっと、みちるが泣きたいときにそばにいられるだろ」
それが、嬉しい。
額をこつりを付け合わせて、伊織が幸せそうに笑った。その笑顔が少しずつ滲んでいくのを感じながら、みちるもまた微笑む。
「みちる、愛してる」
どちらからともなく唇を合わせて、幸せという名の甘い気持ちが心に広がる。互いのキスをする音が、ホテルの部屋に満ちていくのを遠くに、互いを求めあった。その音が「愛してる」と言っているように聞こえてくると、身体が少しずつ熱くなる。
触れてるところから新たな熱が生まれ、やわらかな唇が離された。
「……みちる?」
どうした。
そう、問うように名前を呼ばれ、みちるは微笑む。
「むかしむかしで始まるおとぎ話は、めでたしめでたしで終わるけど、実際はそうじゃないんだね」
「……ん?」
「ずっと一緒にいようね、ってこと」
幸せの鐘が鳴り響く中、真っ白なドレスとタキシードに身を包んだ“未来《あした》”の自分たちを想像して、みちるは目を閉じた。
めでたしめでたし、の、そのあとは、――新しい“はじまり”が待っている。