まだ、三月が研修医で、佐宮のバカ弟子だった頃。
 ちょっとしたハプニングで三月は頭に傷を負ったことがある。

「きゃあああっ!」
 非常階段を下りていたとき、すぐ後ろで悲鳴が聞こえたので振り向くと、小さな子供が階段を踏み外し、落ちてきているところだった。
 悲鳴を上げたのは母親だな、と冷静に思ったのは落ちてくる男の子がスローモーションに見えたから。
 三月はその子供を受け止めた。が、手すりを持ったつもりが、持っていなかったため一緒に転げ落ちてしまった。男の子を守ろうと必死で抱きしめ、強く全身を打ったのを覚えている。
「いったぁ……大丈夫?」
 起き上がって男の子を見ると、三月を見るなり大声を上げ、号泣。
「あ……大丈夫? どっか痛い?」
 おろおろと三月が子供の身体を触っていると、母親が先生! と言って青い顔をしていた。
「へっ?」
「大丈夫ですか!? 先生、頭から血が!」
 頭? と思って軽く触れると、ヌルッとした感触。手を見てみると、血みどろだった。
「ええっ?!」
 自分に驚いた後、いきなり痛みが走り出す。
「あ……いったぁ!!」
 自覚したとたんに強い痛みを全身に感じ、頭から血がボタボタと白衣に落ちてきた。騒ぎを聞きつけ、非常階段に人が集まってくる。
「坂梨さん!?」
 見上げると、目の中に血が流れてきた。片目を閉じながらも、驚きに目を見開く佐宮が見えた。黒目がちで目が大きい人が見開くと余計に大きいんだな、と思った。
「何があった?」
 次に冷静な声で問いかけながら白衣を脱ぐと、丸めて三月の頭を押さえた。軽く目のあたりも拭ってくれた佐宮は三月の傷を確認するように、髪の毛をかき分ける。
「なんか、子供が落ちてきたんですけど、受け止めきれなくて……」
「どこから落ちた?」
「この階段のほぼ一番上です」
「そう、立てる?」
 立てそうだから頷くと、佐宮が立つのを手伝ってくれた。
「すみません! 先生!」
 子供の母親が泣きそうな顔で、申し訳なさそうに頭を勢い良く下げた。
「いえ、大丈夫ですから」
 そう言うのが精一杯。実は、ものすごく、痛かった。
 無理やり笑顔を浮かべて、とりあえずナースステーションの処置室へ連れられる。ドアを閉めたところで、三月は思いっきり顰め面を作った。
「ううっ! 痛いぃ……」
「痛いところ申し訳ないけど、頭洗え」
「えっ!?」
 洗面台に頭を引っ張られて行き、流れる水でケガをした三月の頭が洗われる。
「いった!! し、沁みます!」
「これだけパックリだったら沁みるだろうな」
 そう言う佐宮の手は、手袋をつけていなかった。
「佐宮先生、手袋つけないと!」
「感染症ないだろ? おとなしくしてろ」
 そう言って血みどろになった三月の頭を丁寧に洗ってくれて、目のあたりも優しく水を流して洗ってくれた。
 なんか優しくない? と心の中でつぶやきながら、近くにいた看護師から多量のガーゼを受け取り三月の濡れた顔を拭き、髪の毛を軽く拭き上げながら傷のあたりを少し強く押さえる。
「ちょっと自分で押さえてて」
 椅子に座らせられ、指示通り三月はガーゼで頭を押さえた。看護師が手袋をつけて軽く髪をかき分けて患部を露わにする。しばらく間をおいて、処置室に入ってきた佐宮は手袋をつけた。彼は看護師から清潔なガーゼを受け取って患部を拭き上げ、注射器を手にする。
「えっ? 縫わなきゃダメ?」
「あれだけの出血量でわからない?」
「だ、だって! 佐宮先生が縫うんですか?」
「だからなんだよ。動かないでね、坂梨さん」
 言いながら三月の頭にブスリと麻酔の注射をお見舞いする。縫うより麻酔のほうが痛いとよく聞くけど、初めての経験に涙が出そうだった。
「いったぁい!!」
 思わず声を出した三月に、佐宮は面倒そうなため息を吐いた。
「ああ、そう。患者の気持ちが分かって良かったね」
 冷たい言い方をされ、三月は下唇を噛んだ。
「絶対、絶対、痛くしてる……」
「は?」
 佐宮がキレイな目を眇めて三月を見る。怒った顔をしているヤバい佐宮だ。
「だったらケガなんかするなよ。こっちはもうすぐオペに入るという、貴重な時間を割いて縫合してやってるっていうのに。君の代わりの助手を探す手間だってあるんだ。そういうことを言うと、明日の仕事増やすよ?」
 本当にそうしそうだ、と思いながらハッと時間を見ると、もうすぐオペの時間だった。三月は助手なのでそろそろ準備を、と非常階段を下りていたのだ。
「す、すみません! オペきちんと入ります!」
「じっとしろ、バカ弟子。君はこのあとは診察して、頭部CTを撮る。光村に連絡を入れてるはずだから、車椅子で外来まで行くんだ」
 言いながらも手早く縫合をしている佐宮は、最後の一針を縫い終えると、器具を置いてゴム手袋を外す。それから三月の血みどろの白衣を見て、大きくため息。
「手間かけさせて。白衣、脱いで行けよ」
 そうして優しく頭を小突き、三月の額を撫でた。背を向け処置室を出ていくのを見て、思わず額に触れる。
「佐宮先生、すごく心配そうでしたね」
 器具を片付ける看護師から言われて、眉間に皺。
「ええ? そうでした?」
「はい。だって、坂梨先生を支えて歩いてるとき、すごく心配そうな顔してましたよ。検査オーダーを入れる時も、女のくせに傷作って……異状なければいいけど、ってつぶやいてました」
 ふふ、と笑う看護師にさらに眉間に皺を寄せた表情を向けると、本当ですよ、と言われた。
 そうして三月は白衣を脱いで、外来にいる光村のところで診察を受け、頭部CTを撮り、問題なし、と診断を受けた。
 この日は帰るように言われ、痛み止めをもらって半日近く休んだ。
 その翌日、佐宮に多量の仕事を押し付けられ、文句も言う暇がないほど働いたのは言うまでもない事実。
 本気の心配なんて絶対にされていない、ケガしてるのに、と心で叫ぶ三月だった。

 研修医時代には佐宮と付き合うなんてことは考えたこともなかったのに、人の縁は不思議なものだ。
 研修医を終えて地方の病院に二年間勤務したあと、大学病院に戻ってすぐに彼とそういうことになった。
「もともと、好きだったんだろうな、とは思うけど」
 三月は独り言を言いながら今日も、ほんの少し遠い場所にいる佐宮に会いに来た。彼から三月に会いに来ることは少ない。最初は不満に思っていたが、その理由を彼の親友である光村から聞いた時には、我慢しようと心に決めたのだ。
『佐宮のいる病院って、人手不足なんだ。しかも、あいつ腕もいいから結構忙しいと思うよ。オペの件数、上がってるみたいだしね』
 頭をポンポンされながら言われ、そうか、とシュンとしたものだ。確かに彼を訪ねていくときは、疲れてそうな時が多い気がする。
 インターホンを押すと、足音が聞こえてきて鍵を開ける音。それからスウェットとTシャツを着た佐宮が髪をかき上げながらドアを開けた。
「おはよう」
「もう、こんにちは、ですよ。佐宮先生、寝てました?」
「昨日、というか今日帰ってきたから。どうぞ」
 どうぞ、と言われて佐宮の家にお邪魔する。靴をそろえて立ち上がり、リビングに目を向けると彼が大きく伸びをして左右に軽く身体を揺らしてた。
 シャツの隙間から見えた肌に、ドキッとしてしまう。見惚れていると、リビングにおいてある椅子に引っかかりベシャッとこけてしまった。
「なにしてんの?」
「ちょっと引っかかって……」
 冷ややかに見降ろす黒い目にほんの少しムッとして、立ち上がろうとすると今度はテーブルに頭をぶつける。
「あいたっ! もうっ!」
 自分のせいだがイラッとして頬を膨らませると、佐宮がフッと笑って手を差し出す。
「家具を壊すなよ?」
「壊しませんよ」
 またムッとしながらも佐宮の手を取る。彼は三月の頭に手をやって、優しく撫でた。
「平気ならいい。もう縫合は勘弁だから」
 あの時のことを言っているんだろうか、と三月は記憶に思いを馳せる。
「階段から落っこちたときのことでしょう? あれは特別ですよ」
「あの時は驚いた。君が血だらけだったし。割と動転したね」
「驚いたの最初だけでしょう? あとはめちゃくちゃ冷静だったじゃないですか。心配のしの字もなさそうで」
 佐宮の手を借りて立ち上がると、佐宮は目を眇めた。
「まったく、可愛げがないな」
「だって次の日、仕事量半端なかったですよ?」
 唇を尖らせて言うと、佐宮が三月を見下ろしながら腕を組む。
「君がケガした次の日は、全員忙しかった。君には最小限に仕事を振ったつもり。オペの助手も、外来もなしにしてやったのに」
「へ? そうなんですか? そういえば、あの日佐宮先生と朝会ったきり、会ってないような気がします」
 というか、三月が医局へお昼ごはんに戻ったとき、誰もいなかった。
「でも、病棟内のこと全部私が……」
「それだけにしといてやっただろ」
 今考えればそうかも、と思う。病棟だけの仕事を振られたら、今の三月だったら嬉しかっただろう。きっと定時に帰れるからだ。でも研修医の時はそれだけでも鬼のように忙しかった思い出がある。
「普通に心配したに決まってるだろ。でなきゃ、オペ前に丁寧に縫合して、光村に診察の電話なんかするわけない」
「…………そう、ですね」
 はぁっ、と面倒そうに溜息を吐いた佐宮は、髪の毛を掻き揚げて三月に背を向けた。
「今日はどうする? 行きたいところがあったら連れていく」
 仕事で疲れているけど、佐宮はきちんと起きて三月の相手をしてくれる。行きたいところがあったら連れていく、と言うけど、車の運転も疲れるだろうに。
「別に、ぼーっと過ごしてもいいです。明日まで、ここで」
 三月が言うと佐宮が振り向いた。だから佐宮のそばまで行って、彼を見上げた。
「でも、閉じこもりセットがないですね。ご飯、お菓子、飲み物……」
 三月が他には、と思いを巡らせていると、彼が笑った。
「なんで急に? いつも出かけたがるくせに」
「佐宮先生が疲れてそうだから」
 今度はおかしそうに笑った佐宮が、次の瞬間三月に意地悪そうな目を向ける。
「ああ、そういう、大人な配慮できるようになったんだ?」
「なっ……私はもともと大人です」
 唇を尖らせると、腰を引き寄せられ一気に距離が縮まる。
「じゃあ、まず買い物行こうか? 明日までぼーっと過ごすには、コンドームが少なすぎる」
 コンドームが少なすぎるという言葉に、三月は顔を一気に赤くする。
「大人なんだろ? 三月」
「そ、そういうことばかり、するんじゃないです!」
 顔を背けると、さらに体を引き寄せ抱きしめられる。
「僕が、したいんだけど」
「佐宮先生が?」
「七生だろ」
 言いながら三月の唇に、ゆっくりと唇を重ねてくる。
 一度食むようなキスをして、音を立てながら唇を離す。
「君もちゃんとした下着をつけてるようだし?」
 フッと意地悪く笑った佐宮は、三月の肩からはみ出たブラ紐を軽く引っ張った。
「な、七生が好きな、白ですよ!」
「ああ、そう。じゃあ見せて」
 佐宮の手がゆっくりと腰を撫で、背中から服の中へとはいってくる。ブラに触れたかと思うと、片手で器用にホックを外した。
「お、お買い物は?」
 この期に及んで何を言ってるんだ、と思われても仕方ない。彼は目を眇めて、三月を抱き上げた。軽く開いていた寝室のドアを足で開けると、三月をベッドの上に下ろし、伸し掛かってくる。
「買い物は一回やったあとだな」
 キレイな黒い目に見つめられて、ドキドキする。
 彼の重みを感じながら、本当は三月もこの時間を待っていたのだと実感する。
 何も言わず佐宮の背中に手を回しながら、彼の熱をじかに感じて幸せだと思う。
 七生好き、と喘ぎながらうわ言のように口にするまでさほど、時間はかからなかった。