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野々原魅音の明るい恋愛計画

 ――あの子は正しい。
 ――わたしはウソつき。
 ――だからあの子の恋は正しくて、わたしの恋は間違ってる?
 退院したばかりで、両腕と両足を包帯でぐるぐる巻きにされた夏見明日香は、恋愛勝者だった。
 魅音だってわかっている。別に自分のやり方が王道だなんて思っていない。現に継深は明日香を選んだ。
「……結果がすべてだなんて、絶対認めたくないけどお……」
 それでも、突き刺さる言葉があった。
『野々原さんは、相手が誰でもいい時点でわたしには勝てないわよ! 愛してくれる誰かじゃなくて、ちゃんと好きな相手にしっぽを振りなさいよ。わたしより年上のくせに、そんなこともわかんないの!?』
 ――そんなのわかってるに決まってるでしょ! わかってるから、怖い。どうしようもなく好きになって、全力でぶつかっても振り向いてもらえなかったときのことを考えたら、夏見サン……明日香チャンみたいに体当たりなんかできるワケないじゃない!
 継深の来訪をきっかけに夏見家をあとにした魅音は、タオルハンカチをぎゅっと握りしめて千永寺へ向かう。
 わかっていた。ほんとうは、きっと最初から明日香にかなわない自分を知っていた。
 ――だって明日香チャンは自前のカワイイ顔だもん。メイクに毎朝二時間かける必要なんてない。
 高校生のころ、魅音は読者モデルをやっていた。地味なすっぴんも、化粧で華やかになればかわいい女の子と同等に扱ってもらえる。
 生まれて初めて彼氏ができたのも、そのころだった。
 相手は二十歳で、やはり読者モデルをやっていた圭一。雑誌の撮影で知り合い、圭一から告白されて付き合うことになったのだが、処女を捧げて一週間後には別れを切り出された。
 彼が最後に言った「だっておまえ、すっぴんだと別人じゃん?」という言葉は、今でも忘れられない。
 トラウマなんて言ってしまえば、逆に陳腐に聞こえるけれど、それでもこれはやはりトラウマに当てはまるのだろう。
 圭一と別れてから、魅音は恋人にすっぴんを見せないと誓って生きてきた。人間は見た目で判断する。仕方がない、そういう生き物だ。魅音だって同じだから、それに不満を言うつもりはない。
 だが、結果からいえば今のところ魅音にとって元カレと呼べる相手は、トラウマカレシの圭一だけだ。
 誰と出会っても、つい考えてしまう。このひとは、素顔を見ても笑わずにいてくれるだろうか。好きでいてくれるだろうか。魅音が毎朝作り上げたメイク後の顔だけではなく、その努力を愛してくれるのだろうか。
 そうしているうちに、彼氏いない期間がどんどん長くなっていく。声をかけてくる男はいたけれど、圭一と似たタイプの、ちょっと派手でファッションや流行の音楽が好きなチャラモテ男ばかり。
 心のどこかで諦める気持ちだってあった。
 所詮、恋愛なんてただのタイミングでしかないし、運命の恋なんてフィクションの世界にしか存在しない。そう思えば思うほど、ほんとうの自分を見せられなくなってしまった。
 ――それでも、ほんとの自分を好きになってくれるひとと出会いたいって思うのは当たり前じゃん……。
 足元の石ころを軽く蹴って、大きく息を吐いた。
「……つぐみサンのこと、けっこう好きだったんだけどなあ」
 思い出すとまだ涙が浮かんでくる。継深の優しい笑顔や、少し困ったときの下がり眉、穏やかな声。
 彼なら、わかってくれる気がしたのだ。誠実な愛情を分けてもらえるのではないかと思った。
 ――やっぱり、選ばれるのはわたしじゃない。だって、わたしは心から誰かを好きになったことさえないんだから当たり前かあ……。
「あれ、野々原さん?」
 不意に呼ばれて、ぎょっとする。
 この住宅地に、魅音の知り合いはそう多くない。先ほどまで会っていた夏見明日香と従姉妹の菅生麻美、麻美の家族くらいのものだ。
 声のしたほうに目を凝らすと、十メートルほど先にある自動販売機の横に車が停まっていた。缶ジュース片手に声をかけてきたのは、デザインフリークで働く『つぐみサンの同僚その1』――近藤永太である。
 ――なんでこのタイミングで近藤サンに鉢合わせするワケ!?
「え、えっと、どうもデス、こんにちはー」
 取り繕って挨拶してみたものの、泣きはらした目は隠しようがない。鼻声だし、メイクも崩れているだろうし、こんな自分を見られたくはなかった。
 ――でも近藤サンは対象外だから、まあいっか。
 近藤永太は、魅音にとって最初から恋愛対象になりえない男だ。トラウマカレシと似た系統、つまりオシャレでカッコ良い、ちょっとチャラそうなタイプには決して照準を合わせない。
「それじゃサヨウナラー」
 何事もなかった風を装って、魅音は永太の黒い車の脇を通りすぎようとした。が――
「って、そういうわけにはいかないでしょ。そんなみっともない顔で外歩くなんて、野々原さんらしくないじゃん」
 ぐいと腕をつかまれて、車に乗るよう促される。
 しかし、ここで黙って言うなりにする必要性は感じない。それどころか、考えるより早く反論が口をついた。
「み、みっともない顔ってなんですか! 別に魅音、みっともなくなんかないです。泣いてる女の子相手に、近藤サンって失礼ですよ!」
「うっさい。さっさと乗りなさいって」
 ――なんなの、このひと! 感じ悪すぎない!? 普通、女の子が泣いてたら心配するのが道理ってものでしょ!
 小柄な魅音は、容易に後部座席に押し込まれてしまった。見方によっては拉致だ。
 ドアを閉められ、むっと唇を尖らせていると、三十秒ほどして永太が車に乗り込んでくる。魅音の隣に、ではない。運転席に腰を下ろして、彼は左手でジュースを差し出してきた。
「……ありがとうゴザイマス」
「どういたしまして。それで?」
 唐突な疑問形。さも当然とばかりの会話の流れに、受け取ったジュースを飲む暇もない。
「何がそれでなんですか?」
「明日香ちゃんとツグミの絆の強さでも確認して、へこんでるのかと思って。一応、愚痴くらい聞いてあげるよ」
 上から過ぎる物言いにも程がある。勝手に確定した前提条件も、愚痴を聞いて『あげる』という態度にも苛立ちを覚え、魅音はぷいっと顔を窓の外に向けた。
「別に、そんなんじゃありません! ていうか近藤サン、普段と人格違いませんか? 事務所にいるときは、もっとフツーな感じなのに!」
「あれは仕事用。今は、仕事じゃないでしょ。なんでプライベートでまで、うるさい小型犬に優しくしなきゃいけないの。そもそも、俺は明日香ちゃん応援してたから」
「だからって、泣いてる女の子には優しくしてください!」
「必要性を感じません」
 そう言いながらも、永太はボックスティッシュをつかんで、先ほどジュースを渡してくれたとき同様に後ろを見ずに差し出してきた。
「…………魅音じゃなく、明日香チャンが泣いてたら?」
 今度はさすがに魅音も、ありがとうとは言わずに黙ってティッシュを受け取った。
「明日香ちゃんが泣いてたら、ツグミに連絡する。それで、ツグミが来るまでの間、慰めるよ」
 黒いジャケットの肩越しに、かすかに揺らぐ感情が見える。
 ――ああ、そっか。このひときっと、明日香チャンのことが好きだったんだ。
 そう気づくと、また涙がこみ上げてきた。一組のカップルの成立の裏には、かなわなかった恋を抱える人間がいる。つらいのは自分だけではないのかもしれない。
「う゛っ、うぅ……、近藤サン、かわいそう……。どう見ても、最初から見込みなさすぎなのにぃ……」
「は? アンタ、何言ってんの。ていうか、なんの話!?」
「だって、だってえ……失恋するのってつらいですうう……」
 そう、これは失恋の話。
 野々原魅音は、いつだって明るい恋を計画してきたというのに、毎度の撃沈に傷つかないわけがない。
 夢見た幸せな恋は、テレビのなかにも交差点にも海辺を走る青い車のなかにも転がっているというのに、自分にだけは訪れない。手を伸ばすほど遠ざかる理想と、ひとりぼっちの夜。寂しくないと言い聞かせて、朝になればメイクをするけれど、やっぱりほんとうは寂しくて恋しくて、誰かのぬくもりに包まれたくて。
「あー、もう。ひっどい顔だな。そこの箱にメイク落としシート入ってるから、いったん化粧落としたほうがいいんじゃないか」
 えぐえぐ泣きじゃくる魅音に、相変わらず優しくない声が指示を出す。
「だから……ひ、ひっどい顔とか、女の子に言うことじゃないですぅ……」
 とはいえ、このままでは千永寺へも戻れないのはわかっているので、ありがたくメイク落としシートを使わせていただく。
 ――え、でもなんで近藤サンの車にメイク落としが常備されてるの? カノジョさんのとか? もし元カノさんのだったら、未練がましくない? えー、なんかちょっとヤダ。
「姉貴のだから。勝手にヘンな想像して、疑いのまなざしで見るのやめてね」
 バッグから化粧ポーチを出し、鏡を覗き込みながらつけまをはずす。ほんとうは出先でメイクを落としたりしたくなかった。永太にだってすっぴんを見せたくなどない。
 ――仕方ないの。いつものかわいい魅音チャンに戻るためなんだから! 魔法をかけ直せば元通りになる! ね!
 四角い手のひらサイズのコンパクトミラーには、平坦で地味な魅音が映しだされていた。
 もしこの顔が、もっとかわいらしかったら。
 もしこの目が、最初から二重まぶただったら。
 数えきれないIfを含んだ白い頬を、もうひとつぶ涙がこぼれ落ちた。
「――アンタさあ」
「なんですか?」
 バックミラー越しに、永太と目が合う。
 今さら隠すほうがよほど悔しくて、魅音はパチンと鏡を閉じて堂々とすっぴんを晒してやった。
 ――さあ、言いたいなら言いなさいよ。化粧落とすと別人だねとか、メイクしてないと誰かわからないねとか、そういうのは言われなれてるんだから!
 臨戦態勢で睨みつける魅音の耳に、予想外の声が届いた。
「飾らないほうがかわいいじゃん」
「……え……?」
「化粧オバケよりすっぴんのほうがずっといいと思うけど?」
 お世辞にも大きいとはいえない目を見開いて、魅音は言葉に詰まる。
「ははっ、何その顔。そんなに驚くことじゃないでしょ」
「……お、驚くに決まってますよ!」
 腰をひねって後部座席に身を乗り出すと、永太がくしゃくしゃと魅音の髪を撫でてきた。
「このほうが小型犬としても愛らしいですなあ。うーん、毛並みは悪くない、っと……」
「やめてください! セットが乱れるじゃないですかっっ!」
「うるさいばーか。かわいいって言ってるんだから喜べよ」
 ――なんなの、このひと!
 明日香相手に失恋したのだろうと思っていたが、だんだんそうではない気もしてくる。
 それともやはり、失恋直後の憂さ晴らしに魅音を使っているだけなのか。
「なんなんですか! 近藤さんは魅音がキライなんですか!?」
 髪を乱す永太の手を振り払うと、毛を逆立てた子犬の形相で魅音はがるるると牙をむく。もちろん、心のなかでだけ。現実の魅音に牙はない。
「嫌いな女を車に乗せる男は、そういないんじゃないの?」
「えっ……じゃあ、魅音がスキなんですか!?」
「さあ、どう思う?」
 乱されたのは髪だけではなく、心かペースか、あるいはもっと重要な何か。
「……もういっかい、すっぴんがかわいいって言ってくれたら考えてあげてもいいですヨ?」
 ドキドキしながら疑問形の応酬を重ねると、運転席の永太がクッと楽しそうに笑った。
「俺、まだかわいいとは言ってないと思うんだよね。野々原さんにはそう聞こえた?」
「な……っ!?」
「あー、そうだよね。失恋したてだもんね。ちょっと優しくされたら、揺らいじゃうよねえ?」
 前言撤回。こんな男にときめいたりなぞするものか。ドキドキしていると思ったのは、いら立ちすぎて不整脈でも起こしたに違いない。
「もういいです! もう、近藤サンなんかキライですから! ほんと、女心のわかんないオトコってサイテーです!!」
「そう? 俺はけっこう好きだよ。野々原さんのそういうとこ」
「っっ……!?!!???!?」
 ふざけているのか、いないのか。
 車のエンジンをかけて、永太がバックミラーでちらりとこちらを窺ってくる。
「ま、気長にいくんで。とりあえず週末にでも、食事とかどう?」
「イヤです。絶対からかわれるだけじゃないですか」
「うん、からかいます。好きな子は、いじめたくなる」
 動き出した車のなか、まだメイクは当然していなくて、このままどこへ連れていかれるのかも知らなくて。
 ――何!? 一体、何が起こっているの、これ!
「……ライク的な?」
 小さく尋ねた声に、ためらいのない永太が「ラブ的な」と返事をする。
「さあ、それじゃあすっぴんのまま、事務所に戻ろうか」
「イヤに決まってます!! 魅音が好きなら、もっと優しくしてください! っていうか、なんで近藤サン、つぐみサンちのそばにいたんですか? 用事があるなら、魅音のことは放っておいてください!」
「あー、それね。なんか用事あったんだったかなー」
 軽口の攻防戦と、揺れる車内での急ぎのメイク。
 魅音は先ほどまで自分が泣いていたことも忘れて、高鳴る鼓動を懸命に押さえつける。
 ――こんなの恋じゃない。
 ――こんなひと、わたしのタイプじゃない。
 ――こんなふざけて好きなんて言われたって嬉しくない。
 けれど、直接見つめられるよりもバックミラー越しの永太のまなざしは、なんだかすごく優しくて。
 優しくない口調も言葉も、何もかもが優しく感じられるだなんて、それがなんの予兆なのかは知らないふりをするしかない。
 野々原魅音の明るい恋愛計画が成就するのは、そう遠くない未来のようである。