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これから先、ずっと

 妖狐の世界として正式に貴司の花嫁となってから、約一年が過ぎた。
 いまでは人間の世界でも、わたしは貴司の婚約者として仕事仲間だけでなく、取引先相手にも覚えられるようになった。この春には人間界でちゃんとした結婚式も控えている。
 そんなわたしはなぜかいま、貴司にキスをされていた。がっつりと、唇に。
「たか、し……?」
 唇が離れたタイミングで名を呼ぶと、貴司は「まだもう少し寝てろ」と優しい声音で頭を撫でた。
 どうして自分の声がこんなにかすれているんだろう。そういえば身体も熱っぽいし、すごくだるい。
「おまえ、さっき熱出して倒れたんだよ」
「ああ……」
 その短い説明だけで、わたしは思い出した。

 今日は、二月十三日。十四日のバレンタインと貴司の誕生日を目前にして、わたしのテンションは高かった。
 なにしろ、貴司と両想いになって初めてのバレンタインだ。ものすごくちいさなころはともかくとして、それ以来初めて迎えるバレンタインなのだ。モチベーションが上がらないわけがない。
 さすがに今年こそ貴司はわたしからのバレンタインチョコを受け取ってくれるだろう。わたしが準備しているのだって、ほかならぬ本命チョコなのだから。
 いままでのトラウマから、「もしかしたらまた受け取ってもらえないかもしれない」とちょっとだけ不安なのも確かだけれど。貴司はそういう人じゃない、と……信じたい。
 そう、既にわたしは明日のバレンタイン兼貴司の誕生日プレゼントとして渡す本命チョコを、準備していた。
 一ヶ月前から会社が終わったら菊乃の家に直行して、それこそ毎日チョコ作りの特訓をした。おかげでかなり本格的なものも作れるようになった。
 その中から貴司への本命チョコとして選んだのは、チョコレートボンボン。貴司はお酒にも強いし、形もハート型や星型にすればかわいいかなと思ったから。
 そして今日、菊乃の家で本命チョコであるそれを作らせてもらった。貴司とのお屋敷で作ったりしたら、貴司にばれてしまう。さすがに貴司も今年はわたしが本命チョコを用意していると見当はついているとは思うけれど、やっぱりドキドキ感は欲しかったから。
 ところが、可愛い感じのラッピングも終えて帰るころになってから、菊乃が言い出したのだ。
「そういえば今日って『ノワール』のサプライズチョコ販売の日だったのよね。わたしはあの行列に並ぶのどうしようかなって悩んでるけど」
「えっ!?」
 思わず食いついた。
『ノワール』というのは普段はすごくおいしいと評判のケーキ屋さんだ。そして『ノワール』はバレンタイン間近になると、毎年特製のチョコを販売する。発売日は当日の朝六時にお店の公式ホームページに発表されるから、「サプライズチョコ」と呼ばれている。
 また、その「サプライズチョコ」を好きな人に食べてもらうと、その人と幸せな一生を送ることができるというジンクスもある。サプライズチョコを最初に始めた『ノワール』の先々代がそうだったため、そういうジンクスがついたらしい。
 だからみんなバレンタイン近くになると、『ノワール』の公式ホームページをチェックしているのだ。
 わたしもはれて貴司と両想いになった初めてのバレンタインだし、『ノワール』のチョコも買いたいなと思っていたけれど、最近ずっと手作りチョコの特訓で頭がいっぱいだったから、すっかり忘れてしまっていた。
「えっ、何時から販売開始なの?」
「午後七時から。あと二時間後くらいからかな? もう行列はできてると思うけど……七海、どうする?」
「行く!」
 わたしは迷わず返事をした。

 そしてわたしと菊乃は『ノワール』に向かい、案の定できていた行列に並んで待っていた。
 サプライズチョコは限定数が決まっているから、並ばないと入手不可能という結果になる恐れも多大にある。
 並んで一時間ほどが過ぎたころ、わたしはくしゃみと咳が出るようになった。さらに三十分ほどが経過すると、くしゃみと咳の連発に加え、身体が熱いのに寒気がして意識も朦朧としてきた。
「七海、大丈夫? そういえば今日、なんだか目が潤んでたもんね。もしかして微熱があっていまになって風邪の症状がひどくなったのかも」
 菊乃も、そう心配してくれる。
 そういえば、ここ最近身体がだるくて微妙に熱っぽかったような気がする。貴司も「おまえ風邪なんじゃないか?」と気にかけてくれていたっけ。
 当のわたしはたいして気にも留めずにいたのだけれど、そのころからやっぱり風邪を引いてしまっていたのかもしれない。
 だけど、わたしは菊乃に返事をすることができなかった。
 身体のだるさとあまりの熱っぽさに、わたしはへなへなとその場に崩れ込み、意識を手放してしまったのだ。
 そうして気づいたら、貴司にキスをされていた、わけなのだけれど……。

 まだ朦朧としながら視界を巡らせてみると、そこは貴司とわたしの新婚部屋だった。
「わたし……どうやって、帰ってきたの……?」
「俺が運んできたんだよ」
 それって、どういう意味だろう。菊乃が貴司を呼んでくれたのかな。
 そんなわたしの疑問を察したのか、貴司は答えてくれた。
「俺もあの場にいたんだよ。『ノワール』のチョコが欲しくてさ。幸い早めに並べたおかげで無事に買えて、さあ帰ろうと思ったら、行列の中におまえを見つけてさ。こういうとき声をかけるのも野暮だしって思ってたんだけど、おまえ体調悪そうだし、ちょっと離れたところで見守ってたら倒れちまったから、ソッコーで連れ帰ったんだよ」
「え? え?」
 貴司が見守ってくれていたのはうれしいけれど。でも。え?
「貴司も『ノワール』のサプライズチョコ、狙ってたの?」
「まあな」
 ちょっと照れたように視線をそらし、首の後ろを掻く貴司。
「『ノワール』のジンクスの噂は知ってたし、おまえそういうの好きそうだしさ。そんなジンクスなんかなくたって、おまえは俺が一生幸せにしてやるって決定してるんだけど」
 じわじわとうれしさに目を潤ませるわたしを、貴司は「ああもう」と抱き寄せた。
「おまえさ、けっこう前からチョコの準備してくれてただろ。においでそれはわかってたんだ。だからなんだか感激しちまってさ、俺もおまえにチョコあげたいって思ったんだよ。手作りがいいかとも思って、おまえが留守のときを狙って彩貴に教わって何日か練習してみたけど、ぜんぜん納得のいくものができなくて……それならせめて『ノワール』のチョコじゃなくちゃだめだって思ったんだ」
 わたしは、貴司の背中に両手を回してぎゅっと抱きしめ返す。
「うれしい、……貴司……大好き」
「俺も、……七海……好きだ」
「明日になったらわたしの本命チョコ、受け取ってくれる?」
 すると貴司は感極まったように、ぐっと喉を鳴らしてわたしを抱きしめる力を強くした。
「当たり前だろ。どれだけそれがほしかったと思ってんだよ」
 そして貴司は身体を離した。
「おまえが意識を手放してるあいだに十四日になってたんだけど、いますぐチョコの交換、するか?」
 確かにベッドサイドに置いておいたスマホを見てみれば、その画面の日付は、二月十四日を示していた。
 まだ身体がふらふらしていてベッドから起き上がれなかったので、貴司にバッグを持ってきてもらう。支えてもらってなんとか上半身だけを起こし、中からラッピングした本命チョコを取り出し、貴司に向かって差し出した。
「貴司、誕生日おめでとう。ずっとずっと大好きです。わたしの本命チョコ、受け取ってください」
 すると貴司はこれ以上ないくらいに幸せそうな笑顔になり、うやうやしく両手でチョコを受け取ってくれた。
「ありがとう。俺のチョコも受け取ってほしい。正真正銘、人生で初めての本命チョコだ」
「もちろん! ありがとう!」
 わたしも貴司から、『ノワール』の紙袋に入れられたサプライズチョコを受け取った。
 貴司の許可を取ってラッピングと箱の蓋を開けると、ちいさなかわいらしいハート型のチョコがぎっしりと箱一面に並べられていた。色も普通のチョコのほかに白やピンクと豊富で、それによって味も違うらしい。中にはドライフルーツやアーモンドが載っているものもあってすごくおしゃれだ。さすが、プロの作るチョコは違う。ひとつ食べてみたけれど、濃厚なのに口どけは爽やかで、ずっと食べていたい味だった。
「すごい……食べただけで幸せになれちゃう。幸せの味って、こういうのを言うのかな」
 そんなわたしを貴司は目を和ませて見下ろすと、とんでもないことを言ってきた。
「俺にもおまえの手作りチョコ、食べさせて」
「え?」
「食べさせて、口移しで」
「えっ!?」
 かぁっと耳まで熱くなったわたしに、貴司は悪戯っぽく笑う。
「いまさらそれくらい、なんだよ。いつももっとすごいこともしてるだろ」
「いや、そ、そうだけど……っ……って、そんなすごいことしてないっていうか、恋人同士ならみんなしてることだと思うけど……っ」
「口移しでチョコ食べさせてもらうくらい、みんなもきっとしてるぞ?」
「し、してない人もいると思う、たくさん!」
「まあな。ま、おまえがいやなら仕方ないけど……なんか淋しいな」
 わざとらしく肩を落としてみせる貴司。演技だとわかっているのに、思わず胸がきゅんとしてしまうのは、わたしが貴司に完全に堕ちている証拠だ。自覚があるだけに、そしてそれをどうしようもないだけに、ものすごく悔しい。
「ま、まだ風邪、治ってないし……」
 それでも言い訳のようにそうつけ足すと、貴司は顔を上げた。にんまりと、口の端を上げてみせる。この顔は、絶対なにか企んでる。そう思った瞬間、顎を長い指で固定され、唇を奪われた。
「ん、……たか、し……っ……」
「さっき、俺がなんでおまえにキスしてたかわかるか?」
 キスの合間に、甘くささやかれる。触れるだけなのに、貴司のキスは相変わらずひどく甘い。
「し、しらな……んんっ……」
「こうやって口から神通力を送り込んでるんだ。すごく微量なものだから、耳も尻尾も出ないで済んでるんだけど。こうすれば人間のたいていの病気は治るんだよ」
 そんなの、初耳だ。
 だけどそれは確かなことのようで、貴司にキスをされるたび、身体が楽になって頭もすっきりはっきりしてきている。
「風邪が治れば、してくれるんだろ? 口移しとチョコレートプレイ」
「なっ……!?」
 ちゃっかりつけ加えられた単語に上がった驚きの声は、またしてもキスで封じられた。
 そのあとも二度、三度と続けられ、もうすっかりわたしは健康体になっていた。
 ……違う意味で、身体が火照ってはいるけれど。
 貴司はそのことにも気づいているはずで、小悪魔のように微笑んでいる。
「ほら。おまえの手作りチョコ、食わせて?」
「う、うう……」
 ここまでねだられたら、断れない。惚れた弱味とはこのことだろう。
 わたしはベッドサイドに置かれた箱から、ハート型のチョコをひとつ手に取り、唇だけでくわえてみる。思ったよりもそれは難しくて、気を抜くとチョコが溶け始めてすぐに唇から落ちてしまいそうになる。
 落ちないうちにと急いで貴司の唇めがけ、ちょっと強めにチョコを押しつけた。
 貴司の唇がチョコを受け取る瞬間、その熱い唇が唇に触れる。チョコとはまた違う魅力的すぎる甘さに、恍惚となりそうになって慌ててぶんぶんとかぶりを振り、意識を保った。
「チョコレートボンボンか。すごくおいしい。これ、作るの大変だっただろ」
「う、うん……」
 その気遣いの言葉が、すごくうれしい。
 だけど貴司は、もっとうれしいことを言ってくれた。
「俺にとっては、これが幸せの味だよ」
「っ……」
 不覚にも涙が出そうになったところへ、そっとキスをされる。
 チョコとお酒が混じった絶妙な甘さが、貴司のキスをさらに魅力的なものにしてわたしを誘惑する。
 やがてキスは深いものになっていき、耳にも落とされる。
「み、耳は……だめ……っ……」
「弱くてすぐ濡れちまうもんな」
「や……っ……そ、そういうのも、だめ……っ……」
「おまえの肌、すごく甘い。チョコと一緒に食べたら、病みつきになりそうだな」
 まさか貴司、本当にチョコレートプレイをする気!?
「だ、だめっ! 食べ物を粗末にしちゃいけません!」
 焦って声を裏返したわたしに、貴司はぶはっと吹き出した。
 こっちは真剣そのものなのに、そういう反応ってとっても失礼だと思う!
 恨みがましく見つめていると、お腹を抱えて笑っていた貴司は、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「わかってるよ、おまえってそういうやつだよな。つか、一生懸命おまえが作ってくれたものを食べる以外に使うとか、俺だってしたくねぇし。おまえの反応が見てみたくて言ってみただけだよ。ごめんな」
 そういうことなら……と引き下がりかけたわたしは、はっと気がついた。いやいや、見事に踊らされてるよわたし! いつものことだけど!
「そういうことじゃなくてっ……ン……っ!」
 またも濃厚なキスが降ってくる。わたしの弱い舌先に自分のそれを擦りつけ、ちゅぱちゅぱと吸う。そうされるたびに身体が甘美な痺れでいっぱいになり、貴司のこと以外なにも考えられなくなってくる。蜜口はもう、自分でもわかるくらいにぐっしょりと濡れていた。
「かわいい、七海」
「や……っ……ひぁっ……!」
 服の上からぱくりと乳首を甘噛みされ、びりっと甘い電流がそこからお腹の奥へと走り抜ける。蜜口から子宮口のあたりにかけて、中がずくずくと疼いて仕方がない。
 貴司と婚姻の儀式を終えてから、何度彼に抱かれたかわからない。
 だからきっといまのわたしがこんな状態になっていることも、貴司には見抜かれてしまっているだろう。
 その証拠に、貴司は狙ったように耳元でささやいた。
「チョコレートプレイはしない。そのかわり、今夜はおまえをすみずみまで食べ尽くすからな」
 理不尽すぎる! と抗議の声を上げようとしても、またチョコのように甘いキスに阻まれた。
 本当にその夜の貴司は、いままでで一番すごかった。すごかったというか違う意味でひどかったというか激しかったというか。
 おかげで翌日、風邪とは違う理由でわたしが会社を休むことになったのも、初めてのことだった。
「ほんと、ごめんな。おまえからの本命チョコってほんとに破壊力あるな。ゆうべの後半くらいかな、俺、理性なんかほとんど残ってなかったし」
 会社に行く前に、貴司はわたしの額にキスをくれた。
「ほんとに絶対、大切にするから。ずっと俺のものでいて。かわいい七海──」
 ただそれだけで胸がきゅんと疼いてたまらなくなるわたしも、相当貴司に溺れている。それもまた、いまさらだけれど。
「これからは本命チョコは毎年だから、覚悟しておいてね? 旦那さま」
 とたんに貴司は耳まで真っ赤になり、ぎゅうっと背骨が折れるかと思うほど抱きしめてくれたのだった。