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甘い指先で蕩かせて 絶倫年下御曹司の果てなき愛欲 2

第二話

 七月末日、月曜日。連日猛暑が続いている。
 この日、美桜は有給休暇を取る予定だったが、部の後輩が体調を崩してしまい、代打で出社しなければならなかった。後輩の担当だったオンライン面接を午前中に三本、昼食も取らずに午後も一本こなし、午後半休を取らせてもらうことにした。
 十四時過ぎ、さすがに空腹が限界を迎える。なにか食べようとVicoに寄ると、またしても一博に遭遇した。
「またお会いしましたね」
 一博は窓際のソファに座っていて、声を掛けてくれた。
 一博の笑顔を見た瞬間、不快な暑さと疲労がすーっと消えていく感じがした。
「一博君! よく会いますね。仕事はお休み?」
 見ると、テーブルには食べかけのスフレパンケーキとアイスカフェラテが載っている。
「いえ。今日は僕、早く上がったんです。今夜、遅い時間の飛行機に乗らなきゃいけなくて。なので、しごおわです」
 一博はにこにこして答えてくれる。
 今日の彼はシンプルな黒のオーバーサイズTシャツに、シックなグレーのテーパードパンツを穿いている。なにを着ていても常に涼しげで汗一つ掻いていない。どこで買ったのか聞きたくなるほど、おしゃれで上品に見えた。
「芦名さんは遅めのランチですか? 昼休み?」
「ううん、実は午後休なんです。元々全休だったけど、急遽出社しなきゃいけなくなって。なので、私もしごおわです」
 なぜ有休を取ったかというと、ここのところ、こはくのお腹の調子が悪いからだ。夕方動物病院に連れていく予定だ。この暑さだから、犬だって辛いだろう。
「そうですか。お疲れ様です。よかったらご一緒にどうですか?」
 今度は立場が逆になり、一博のほうから相席を勧められる。
 店内を見回すと、なるほど満席だった。
「ほんとに? 一博君がいいのなら、ありがたいですけど……」
 テイクアウトして家で食べるつもりだったが、一博に誘われたなら話は別だ。
 というか、彼に誘われて断る女子っているんだろうか?
 美桜は人見知りなので、取引先や担当にプライベートで誘われても基本お断りするけど、一博は別格だった。誘いに乗るかどうかは結局「相手による」のである。
「もちろん、僕はぜひご一緒したいです。でなきゃ、誘いませんって」
 たぶん社交辞令だろうけど、言われて悪い気はしない。彼の言う通り、一人でランチしたいなら誘わなければいいだけだし。
「じゃあ、ぜひ。お腹空いちゃった。ちょっとサンドウィッチ買ってきます」
 こうして、二人でランチする流れになった。
「芦名さんて、最近ずっと出勤されてるんですか?」
 一博に聞かれ、サンドウィッチをパクつきながら答える。
「ううん、出勤は基本週三なんです。月水金」
「そうなんですね。じゃあ、火木がテレワーク?」
「そう。なんですけど、繁忙期は出ざるを得なくなるから、時期によるかな」
 話題は最近仕事どう? になりがちだ。一博はうなずきながら傾聴してくれ、事あるごとに「大変ですね」「お疲れ様です」と労ってくれる。
 あー……。一博君、優しくて癒される。もう存在がトリートメントなのよ。あ、そうだ。今日のランチを記念に撮っておくか……。
 などと思い立ち、スマートフォンでサンドウィッチの断面を撮っていると、SNSをやっているのか聞かれた。アカウントを教えたら、一博のほうからフォローしてくれた。
「僕、そんなに使ってないですし、投稿も少ないですけど、よかったら」
「えっ、一博君すごくない? フォロワー数、八万人もいる!」
 スマートフォンを見て驚く。アカウント名はシンプルに『かず』とだけあり、プロフィール欄には引きで撮った一博の美しい横顔とともに、生年月日のみ記されていた。
 今の世にはフォロワー数=戦闘力、みたいな風潮がある。一万人超えは社会的強者、十万人超えは業界のカリスマ、百万人超えは神と見なされる。誰もが強者と繋がりたがるし、トップインフルエンサーともなれば各界から注目され、企業案件やメディアの出演依頼も殺到する。
 数字で人の価値が決まるなんて怖いけど、現実にある話だ。自分だって推しの配信者と繋がりたいか? と聞かれたらイエスと答える。
 一博は間違いなく強者の部類に入るだろう。フォロワーは海外の人も含め、華やかな女性のアイコンが多いから、きっとモテるに違いない。
 投稿された画像はどれも慎み深い。鉛筆で描いたらしきイラスト、着けているらしき腕時計や眼鏡、お気に入りらしきインテリアの小物、訪れたらしき場所の景色などだ。
 野草やハーブを撮影した写真もアップされている。植物への深い興味と、惹かれている心情が伝わってきて、いい写真だなと感じる。
 まれにある自撮りが格好よすぎて度肝を抜かれた。どこかのアートギャラリーでベンチに座り、長い脚を組んでいる画像だ。流行りのカジュアルブランドで全身を包み、スタイル抜群の彼によく似合っている。
「それ、自撮りじゃないですよ。宣伝で撮ってもらったものです。友だちがやってるブランドのアンバサダーを頼まれちゃって、仕方なく……」
 一博は恥ずかしそうにしている。
「めちゃくちゃ格好いい! すっごくおしゃれに見えます。これは……このブランド買います。皆、絶対買う!」
「いや、その、そうですか。あまり自信はなかったんですが、そう言われるとうれしい……ですけど、恥ずかしいな……」
 一博はひたすら照れまくっている。
 他にもいくつか案件を手掛けているらしい。真っ白な壁の前で立ち、ポケットに手を突っ込んでいる画像や、モダンなカフェのソファに寄り掛かっている画像にもブランドのタグがつけられ、キャプションにアイテムの詳細が記されている。
 とにかく顔が小さく、ウエストの位置が高く、すらりと脚が長いので、なにを着ていてもモデルばりに映える。なにより、一博の持つリラックスした空気感がいい。素朴さや純粋さが画像を通して伝わってきて、見る人の心に響くのだ。
 よく見ると、メンズアクセサリーの写真もある。ブランド物のブレスレットやバングル、腕時計やリングなんかも大写しで撮られていた。
「一博君、すごい! ハンドモデルもやってるんですね」
「モデル……ではないです。ついでにというか、勝手に撮られただけで。僕の手でよければいくらでも構わないんですが、モデルなんて名乗ると本職のかたに怒られそうで」
「いや。一博君の手、本職ばりに綺麗です。私、前からずっと思ってて。すごく手の美しい人だなーって」
「芦名さん、褒めすぎですって」
 一博は微笑んで視線を落とし、自らの手の甲をするりと撫でた。
「けど、一般的な男性の手よりはいいかもしれないです。仕事でアロマオイルを扱ってるんで、すべすべになるんですよ。うちのアロマオイル、業界でもトップクラスの最高品質のものなんで、その素晴らしさを体感してます」
「うん。すごく手、綺麗ですよね。キメも細かくて。見せてもらってもいいですか?」
 一博は「もちろん」と爽やかに微笑み、快く手を差し出してくれた。
 そっと彼の手を取り、手のひらを上にして眺める。一本一本の指がすらりと長く、母指球はふっくらして、触れるだけで胸がドキドキした。
「うわぁ……。やっぱり、ほんと綺麗ですね。お肌ツルッツル……」
 心から絶賛すると、一博はクスッと笑う。
「そうですか? なら、よかったです。セラピストの特権かもしれないです」
「しかも、おっきいですね。私の手の二倍ぐらいあるかな?」
「比べてみます? 芦名さんの手と」
 お互いの手のひらをぴったりと合わせ、ピッと指先を伸ばして天井に向けてみる。
 彼の手のひらは、ほんのり温かかった。
 そのあと、一博の子供の頃の話になった。おしゃべりに夢中になっていたら、彼の肘がカフェラテの入ったグラスに当たり、ぐらりと傾く。
「あっ、危ないっ……!」
 反射的に二人してグラスを掴み、事なきを得た。
 美桜の手に一博の手が重なっている。
 一博はパッと手を離すと、わたわたしながら謝罪した。
「あっ、すっ、すみません! 勢いで握ってしまって……」
 なぜか彼は赤面し、おもむろにストローを咥えて飲み、ゴホッとむせた。
「大丈夫? 落ち着いて……」
 急にどうしたんだろう? と訝しみつつ、バッグからハンカチを取り出すと、彼は咳き込みながら「大丈夫です、すみません」と手で制した。
 しばらく待っていると、ようやく彼は落ち着いたらしい。今度はコップの水を飲み、ふぅっと息を吐いた。そして、照れ隠しするみたくスマートフォンをいじりはじめる。
 なんか可愛いな、と内心おかしく思っていると、一博が画面を見ながら声を上げた。
「あ、芦名さんもコーディネートをアップされてるんですね。いいなぁ、似合ってる」
「いやいや。一博君に比べたらぜんぜん。フォロワーも三千人ぐらいだし……」
「こういう服のコーディネート、お好きなんですか?」
「うん。シーンに応じたものを考えるのが好きかも。通勤とかデートとか」
 選ぶアイテムはハイブランドからノーブランドまでこだわりはない。ファストファッションや誰も知らないアジアの格安ネット通販、古着やネットオークションまで活用している。これはと思ったものは、「#夏コーデ」「#オフィスコーデ」「#カジュアルコーデ」といったタグをつける。
 これが女子たちになかなか好評で、いいねもたくさんつくし、お褒めのコメントももらえるようになった。
 少しでも安く、できるだけ着心地よく、おしゃれなコーディネートを見つけ、フォロワーに喜んでもらえるよう日々精進している。
「私、実はスタイリストになりたかったんです。けど、現実とか、両親の反対とか、収入とか、いろいろあって会社員してるんです。SNSがあるから、別に肩書きにこだわらなくていいかなって」
「そうですね。今は個人で配信できますしね。初めて会ったときから感じてたんですが、芦名さんて服を大切にされてますよね。質感とかラインとかカラーリングに心を砕いているというか……」
「あー、そう言われるとうれしいです。結構、気を遣ってるんで……」
「やっぱり。変な言いかたですが、着られてる服が幸せそうなんですよね。芦名さんによく似合っているし、大人っぽくて、とても綺麗だし……」
 一博がはたと口を噤む。美しい頬がほんのり紅潮し、みるみるうちに耳も首も赤くなっていく。
 え……? うわ、ちょっと……。
 巻き込まれ事故みたく、見ているほうも恥ずかしくなる。そんなに照れるなら言わなきゃいいのに。うれしいけど……。
「すみません。変なこと言って、気持ち悪いですよね」
「いやいや。そんなことないよ」
 気持ち悪いわけがない。むしろ気持ちいい。
 彼にはこういう女性の扱いに慣れていない、ウブな感じが随所に見られ、微笑ましい。周りにアグレッシブでガツガツした男性が多いので、なおさら心が洗われた。
「芦名さんはSNSに自撮り上げるの、抵抗ないですか? 僕、恥ずかしくて……」
 シャイなところも彼の美点だと思う。
 いろいろおしゃべりしていたら、一博がアイスカフェラテをおかわりした。
「芦名さん、お時間まだ大丈夫ですか?」
 心配そうな目をされ、「大丈夫です」とうなずく。病院は夕方からなので時間はたっぷりある。
「すみません。芦名さんと話してると楽しくて、つい時間を忘れちゃって」
「気にしないでください。私も一博君の話聞くの、楽しいし」
 これは本心だ。正直、麗しい美形を間近で拝めるだけで眼福です。午後休が取れてよかった!
「ありがとうございます。なら、あと一杯だけ付き合ってください」
 彼はうれしそうに言う。
 それから、かなりプライベートな話をされた。学生時代の話やこれまでの恋愛遍歴についてだ。
 驚いたことに、一博には彼女がいないどころか、今まで一度も女性と付き合った経験がないらしい。
「いや、ほんとに僕ゴリゴリの陰キャだったんですよ。まぁ、今もですが……」
 苦笑する一博に対し、まくし立ててしまう。
「今はとてもじゃないけどそう見えないです。そこまで容姿端麗でスタイル抜群で性格も優しかったら、女子が放っておかないですよ」
「いえいえ、そこまで褒めていただくほどのものでは……」
 一博は赤くなってうつむき、ボソボソと続けた。
「ですが、大学のとき声を掛けられたこともありましたが、これだという人はいませんでした。嫌いじゃないけど別に好きでもなくて。いい加減な気持ちで付き合うのは、相手にも自分にも悪い気がしたんで」
 どうやら声が掛からなかったわけではないらしい。そりゃそうだろう。
「今時めずらしいですね、そういう考えかた。そこまで好きじゃないけど嫌じゃないし、恋人もいないからとりあえず付き合ってみるか、みたいなの多いと思いますよ」
 と主張すると、一博はにこやかにうなずく。
「もちろんアリだと思いますよ、人それぞれですから。その人がそれでいいなら、いいと思います」
 一博はストローをいじりながら頬杖をつき、窓の外に目を遣る。
 街には容赦ない日差しが降り注ぎ、アスファルトに乱反射していた。
 この角度から見る彼が一番綺麗かもしれない。高い鼻梁と長く伸びたまつ毛に、目を奪われた。
「永劫の愛。以外に興味ないんです、僕」
 ぼんやりしたまま、一博は言う。
 さらりと口にされた言葉を、危うく聞き逃すところだった。
 ……永劫の愛?
 場違いなほど真剣なワードだ。永劫の愛?
 即座に笑い飛ばすべきだったかもしれない。あるいは「そんなもの信じてるんだ」と、皮肉を込めて驚いてみせるとか。
 けど、なにも反応できなかった。
 予想外に強く胸を衝かれたから。
 バカみたいに硬直していると、一博がこちらを見て「ふふっ」と相好を崩した。
「僕、ちょっと重たすぎます?」
 どうにか喉から声を絞り出す。
「……ううん、そんなことない。誠実なんだと思います」
「芦名さんてほんと褒め上手ですよね」
 一博はおかしそうに笑い、美桜の異変には気づいていない。
 合わせてにこにこしながら平静を装う。今の言葉は彼の本心だろう。重たすぎるなんて自分で茶化したけど、偽らざる本音なんだ。きっと。
 それからなにを話したのかよく憶えていない。他愛ない、当たり障りのない会話だったと思う。好きなタイプ、嫌いなタイプは? 好きな芸能人は? とか、そういうの。
 にこやかに会話を続けながら、どこか上の空だった。彼の放った何気ない一言がまるで薬のように……あるいは毒のように、じわじわと心に作用していたから。
 永劫の愛。
 そんなものを本気で信じている人が、この世にいるんだろうか?
 サンタクロースじゃあるまいし、実在するわけない。ありえない。今時そんなものを信じているのは夢見がちな少女ぐらいだろう。
 永劫の愛はとっくに滅んだのだ。中世か近世か、それぐらいの時代に。現代人はもっと軽く付き合い、気に入らなければ別れ、また新たに次を探す。相性のいい相手を求め、あるいはよりよい条件を探し、まるで次々とドレスを試着するみたいに。
 永劫の愛なんて……。真顔で言われたら、笑っちゃうよ……。
 頭ではそう思っているのに、なぜか笑い飛ばせない自分がいた。


 ――三年前。
 小野孝行はボクサーショーツだけ身に着けた姿で、悪びれもせず言い放った。
「これも仕事の一環だから」
 美桜はなにも言わず、孝行の背後に目を遣る。
 くしゃくしゃのシーツ。脱ぎ捨てられた衣類。床に落ちたレースのブラジャー。ベッドには裸身にブランケットを巻きつけた小柄な女性。そして、空気中に漂う、ねっとりした匂い……。
 ここは孝行の自宅ベッドルームだ。港区赤坂にあるタワーマンションの十八階。地下鉄赤坂駅まで徒歩四分。六本木まで徒歩八分という抜群の立地である。
 間取りは1LDKで、家賃は恐らく美桜の月収に近い額だろう。いや、今はそんなことどうでもいい。
 どうやら二人でお楽しみだったところに、美桜が踏み込んでしまったらしい。この状況はどう見ても完全に事後だろう。
 交際中の彼氏であるはずの孝行の、浮気現場を目撃してしまった。
 正直、交際中だったかも怪しい。孝行から合鍵をもらい、彼女気分で浮かれたけど、もしかしたら美桜がセカンドだった可能性も大いにある。
 控えめに言って、孝行は非常にモテる。誰もが知る広告代理店勤務。花形のクリエイティブディレクター。詳しいことは知らないけど、最近出世して肩書きにシニアだかエグゼクティブだかを冠したらしい。しかも、長身、美形、おしゃれ。
 仕事熱心だけど、遊びも熱心だ。いつも六本木のクラブでパーティーだの、銀座のラウンジで呑み会だの、西麻布のバーで合コンだの、芸能人やインフルエンサーのいる華やかな場に出入りしている。付き合う前から女性関係の派手な人だった。
 こういう場合、漫画やドラマならブチ切れるか怒り狂うべきなんだろう。
 しかし、美桜の口から出たのは相反するセリフだった。
「ごめんなさい……。私、お邪魔だったみたいで……」
 おどおどした自分がつくづく嫌になる。自分が彼女なのかどうかも自信がないし、孝行を怒れる立場にいるのかどうかもわからない。
 孝行は忌々しげに舌打ちした。
「合鍵は渡したけど、俺ん家来るときは必ず事前に連絡しろって言ったよね?」
 孝行は偉そうに腕を組み、顎を上げて傲然と見下ろした。
「悪いけど俺、謝る気ないから。今回は沙穂(さほ)のほうから俺に頭下げてきたんだからな」
 沙穂、というのはベッドにいる全裸の彼女のことらしい。
「俺の業界さ、こういうことよくあるから。CMにキャスティングしてほしいんだと。要は取引みたいなもん」
 孝行は鬱陶しそうに前髪を掻き上げ、さらに続けた。
「斡旋してくれたのが大手の芸能事務所だからさ、断れないわけ。わかる?」
 いつもは柔和な孝行が、かつてないほど怒っていて、なにも言い返せない。
「うちだけじゃなくクライアントも制作会社も、ある程度の権力を持つ人なら誰でも受けてるサービスだから。俺らの激務の代償な」
 ただし支払うのは金銭ではなく、口を利いたりCMタレントに起用したりということだろうか。
「まかり間違っても俺がこんな……田舎から出てきたアイドル志望の女と浮気したとか思うなよ。こんなん浮気でもないから。店舗のない風俗みたいなもん」
 孝行はいかにも嫌そうに、沙穂に向かって顎をしゃくる。
 普通そこまで言う? 今、抱き合ったばかりの女の子に対して?
 美桜の背筋が冷たくなった。
 沙穂は自分の話をされていると気づいたのか、立ち上がってこちらを一瞥する。
「……甘ちゃん。うっざ」
 たしかにそう聞こえた。
 沙穂は素足のままバスルームへ消えてしまう。
 沙穂の眼差しは刺すように冷ややかで、孝行を好きではないとわかった。それどころか、美桜まで軽蔑しているように見えた。
 孝行の言う通り、沙穂は出世のために一夜の接待をしただけなのかもしれない。
 いっそ沙穂が美桜に対し、本気で嫉妬したり怒ったりしてくれたほうがマシだった。ちゃんとした浮気ならまだ救いはある。そこに血の通った人間らしさがあるから。
 怒りよりも悲しみよりも虚脱感に襲われていると、孝行が追い打ちをかけた。
「男はさ、女とは違うの。抜かないと生きてけないわけ。男の性生活に首突っ込むの、やめたほうがいいよ。それ、誰も幸せになんないから」
 美桜は黙って立ち尽くすことしかできない。
「とりあえず、今日のところは帰ってくれる? さすがに間が悪すぎる。うちの業界、こういうの日常茶飯事だって知っといたほうがいいよ。小さなことでいちいち騒いでたら、この業界の男とは付き合えないから。それだけは言っておく」
 返事をする気にもなれず、ふらふらと廊下を引き返したら、うしろから孝行がしつこく言ってきた。
「俺さ、おまえによくしてやったよな? 食事は全部俺のおごりだし、パーティーにも連れていったし、会員制の店にも案内したし、宿泊するときもハイクラスホテル一択だし、タクシー代も出してやったよな? そういうの忘れんなよ」
 忘れていないし、感謝していたし、なんならそういうところも大人っぽくて憧れていたけど、今みたく恩着せがましく列挙されると台無しである。
 この一連の流れの中で、彼に美点があるとすれば、正直であるところだろうか。
「それだけ稼げる男にはこういうことがついて回るんだよ。俺たちが裏で汚れ役をやり、おまえらが贅沢できる。綺麗なままでは稼げないの。これが大人の世界なわけ」
 孝行はわざとらしくため息をついた。
「おまえもバカだな。こういう裏側さえ知らなければ、俺にチヤホヤされて大切にされて幸せでいられたのに」
 実は心のどこかでわかっていた。
 孝行のような男性と付き合うなら、多少のあれこれはあるだろうと。なぜなら、女性たちが放っておかないからだ。
 孝行と出会った頃が思い出される。
 当時美桜はまだ大学生で、孝行とは学生向けのクラブイベントで出会った。スポンサーが孝行の取引先で、孝行はイベントプロデューサーをしていた。誰もが知る大手広告代理店のクリエイティブ部門に勤め、流行りのヘアスタイルにブランドスーツをパリッと着こなす孝行に、恋をするのは簡単だった。
 六本木や麻布を庭みたいに遊び回り、芸能人やアスリートにも知り合いがいて、どこへ行っても歓迎される孝行は、憧れそのものだった。アメリカン・ドリームのような成功の概念が日本にもあるとしたら、学生の美桜にとっての孝行がそれに近い。キラキラしてゴージャスで、この世の楽しさをすべて結集させたような人。
 今なら、当時の孝行を調子に乗っていると思うけど、そういう男性が格好よく見える時期がある。
 孝行から「彼女になって」と言われたとき、心からうれしかったし、幸せだった。
 中学からずっと女子校育ちで男性経験がなく、実は孝行が初めての人だった。
 一途に美桜だけを愛してくれ、なんの障害もなくゴールインし、ささやかながらも温かい家庭を築き、ハッピーエンドが永遠に続くとは信じていない。
 孝行は本人も宣言した通り、最初からそういう男だ。孝行自身も彼を取り囲む環境も、変えることはできない。
 美桜にできることは、孝行をそのまま受け入れるか、拒否するかの二択だけ。
 結論はすぐに出た。
 川崎の自宅に戻って、孝行に「もう無理です」と別れを告げた。
 孝行についてこれ以上考えたくなかったし、沙穂のことも忘れたかった。浮気をされて許せなかったというより、この夜の沙穂の軽蔑の眼差しと、孝行の見下すような言葉が、どこまでも気分を滅入らせたのだ。
 しかし、すんなりとはいかなかった。意外にも孝行はしつこく食い下がった。「別れたい」とはっきり伝えても、「まぁ落ち着け」とか「カッカすんな」とか、まるで美桜が一時的に怒っているように扱った。
 美桜も粘り強さを発揮した。孝行にスルーされても、しつこく何度でも「別れたい」と伝え続けた。会おうと誘われても断り、ヨリを戻そうと言われても「別れる」の一点張りで押し通した。
 沙穂の正体はすぐにわかった。あの夜から三か月ほど経った頃、沙穂がキャストを務めるCMが一斉に流れはじめたのだ。
 これまでにない洗顔フォームが新登場。新技術で開発されたミクロ粒子の泡はふわっふわのもっちもち。毛穴の汚れが驚くほど落ちる! しかも、洗顔後は化粧水要らず……。
 沙穂はSAHOという芸名で活動し、とあるアイドルグループの一員だった。業界に疎い美桜でさえ知っている大手の芸能事務所に所属していた。
 画面に映し出された沙穂は、洗顔フォームを手ににっこり微笑んでいる。ぱっちりした瞳、元気よく上がった口角、肌はみずみずしく、鎖骨まで伸びた黒髪はサラサラだ。清楚で可愛らしく、優しそうに見えた。あの夜、こちらを睨みつけた悪鬼みたいな形相とは別人だ。今が旬の売れっ子アイドルという印象で、勝者の余裕さえ感じられた。
 私なんかより、この子のほうがはるかに可愛いよなぁ……。
 こんなに可愛い子なら、あんなことしなくても正攻法で売れそうだけど……。
 テレビや動画で、駅構内や電車内で、沙穂を見かけるたび、そんなことを考えた。
 けど、もう美桜には関係のないことだ。
 一つだけ困ったのは、孝行の自宅に置いてきた荷物だった。着替えや化粧品やデバイスなどだが、大切なものなので手放したくない。
 着払いで送ってくれと頼んでも、孝行は了承しない。美桜が取りにいくついでにゆっくり話をしようと迫ってくる始末だ。
 仕方ないので、孝行が不在の時間を見計らい、直接取りにいくことにした。
 合鍵もまだ手元にある。荷物を回収するついでに合鍵も返せばいい。
 そして、事件は起こった。
 孝行が不在であろう、平日の午後四時。美桜は孝行のマンションのリビングにいた。
 荷物をまとめ終え、一息つく。勝手に住居侵入した謝罪を一応書き残そうと、デスクのボールペンを取ったとき、それが目に入ってしまった。
 デスクには仕事関連らしき書類が山と積まれていた。それは孝行が直近で手にしたものらしく、一番上に無防備に置かれていた。真っ黒な背景に白いモヤモヤしたものが写っている。
 エコー写真だと、すぐにわかった。
 去年結婚した親友が妊娠し、エコー写真をSNSに上げていたからだ。毎週アップされるエコー写真を眺めながら、友人たちと祝福のコメントを交わしつつ、いいねを押していた。つい先日、友人たちと水天宮にお参りし、安産のお守りを買ってきたばかりだ。次に会ったとき渡すつもりで。
 だから、間違いない。丸い子宮の中に豆粒ほどの胎児らしき姿を確認できた。
 足にうまく力が入らなくなってしまい、その場にへたり込む。
 孝行の子供だろう、と推察できた。きっと相手の女性が持ってくるか、送りつけるかしてきたに違いない。
 相手は沙穂だろうか? もしそうだったら最悪だ。それとも別の女性だろうか? いや、別の女性だったら余計悪い。いったい同時並行で何人と関係しているんだという話になる。
 なぜか祈るような気持ちでスマートフォンを手に取り、メッセージを打っていた。
【デスクにあったエコーの写真。母親は誰?】
 気遣い忖度一切なしの直球ストレートな質問だ。
 すぐに既読はついたが、返信はなかなか来なかった。
 辛抱強く待った。ひたすら待った。息を詰めてスマートフォンを握り続けた。
【沙穂だよ。俺は父親にはなれないって断ったから】
 やはり沙穂だったらしい。返信は続いてくる。
【請求された分は、ちゃんと支払ったよ】
 ちゃんと? いったいなにがちゃんとなの?
 嫌な予感で心拍が速くなる。あらかじめバッドエンドだとわかっている物語を、目で追うみたいに。
【大丈夫だよ。多めに支払ったし、もう処置は終わったから】
 警報が鳴るみたく鼓動が轟き、うまく息ができなくなる。
 もう処置は終わった……。
 さらに受信音が鳴る。
【ちなみに沙穂の要求通り、CMに起用したから。美桜もさすがに見ただろ? クライアントからも好評で、彼女喜んでたよ。つか、なんで勝手に入ってんのw】
 生やしている草をボールペンで刺し潰したくなる。
 もう返信するつもりはない。一刻も早くこの場を去ろうと頑張って立ち上がる。
 ショルダーバッグを抱え、地下鉄のホームに立つ頃には、人を一人殺したみたいに気分はどん底まで落ちていた。
 人を人とも思わないこと。
 命をまったくなんとも思っていないこと。
 そういう感覚が怖かったのだ。とても。
『まもなく、一番線に各駅停車……行きが参ります。黄色いブロックの内側でお待ちください……』
 電車到着のアナウンスが響いている。
 薄っすらわかっていた。孝行や沙穂だけでなく、そういう感覚を持った人が大多数いることを。こんな風に怖がるほうがおかしいのかもしれない。
 今回の件、私には関係ない。けど、私は完全に無関係でした、なんて言えない……。
 嫌だな……。まるで本当に片棒を担いだみたい……。
 こちらを睨みつける沙穂の眼差しが思い出された。そこにあったのは強めの憎悪、もしくは軽蔑だ。
 あれは孝行ではなく美桜に向けられたものだと、今ならすんなり理解できる。
 沙穂は自らを犠牲にし、欲しいものを取りにいった。体を差し出し、見返りに出世を求めた。
 幸い美桜はそんなことをせずに済んでいる。実家暮らしだし、そこそこの企業に勤め、そこそこの報酬をもらえている。高い地位も名声も財産もないけど、母とこはくが元気ならそれでいいし、そんな自分に満足している。
 つまり沙穂から見た美桜は、上も目指さなければなんの努力もしない、「甘ちゃん」でしかない。
 安全地帯でぬくぬくしてる能天気な女に、カラダ張って闘ってる私の気持ちがわかる?
 きっと、あれはそういう軽蔑だったのだ。
 ヒュオーッ……という機械音とともに、電車が地下鉄のホームに滑り込んできた。
『赤坂。赤坂。TBS前です。足元にご注意ください……』
 電車のドアが開き、乗客がパラパラと降りてくる。
 重い体を引きずるようにして、どうにか電車に乗り込んだ。座席がポツポツ空いていたので、ショルダーバッグを抱えて座る。
『ドアが閉まります。閉まるドアにご注意ください……』
 孝行が悪いのは間違いない。
 けど、孝行のポジションに行くまでは大変な努力が必要だ。人よりはるかに勉強しただろうし、毎晩かなり遅くまで残業していたのも知っている。
 昔から孝行は仕事熱心で努力家だった。今もそれは変わっていない。
 業界の風習もある。ああいう接待が当然のように行われる世界で、個人になにができるんだろう? ああいう風習を常識だと信じさせ、当然だと思い込ませる。一種の洗脳か、宗教みたいな体制がどうかしている。
 中にいる人はその異常性には気づけないだろう。
『次は、乃木坂です。The next station is Nogizaka……』
 ふと、孝行に連れられていった、いつかのホームパーティーが思い出された。
 孝行の会社の先輩が催した、身内だけのホームパーティーだ。郊外にあるプールつきの豪邸の庭にテーブルやカウンターが設えられ、芸人と歌手がパフォーマンスしてくれる盛大なものだった。
 参加者は皆、孝行の会社や取引先の人間らしく、妻や恋人を同伴していた。美桜も孝行の彼女として紹介され、挨拶して回った。女性たちは目を見張るほど綺麗な人ばかりで、ラグジュアリーブランドで身を包み、モデルやアナウンサーまでいて驚いた。皆、パートナーに愛されて幸せそうで、美桜にとても優しく接してくれた。
 女性たちに共通していたのは、おっとりしてほんわかした印象と、どこか天然っぽい可愛らしさがある点だ。孝行曰く、才媛ばかりなのだという。
 誰もが憧れる、おしゃれでゴージャスな生活。
 彼女たちを眺めていると、『プロ彼女』というワードが脳裏をよぎった。
 夫や彼氏が裏でなにをしていても、きっと彼女たちなら寛大な心で許すに違いない。すべて見なかった振りをし、夫の同僚や友人をホームパーティーに招いて家庭円満を見せつけるぐらい朝飯前だろう。
 ――おまえもバカだな。こういう裏側さえ知らなければ、俺にチヤホヤされて大切にされて幸せでいられたのに。
 孝行の声が脳裏に蘇る。たぶん、彼の言う通りだ。
 視線を上げると、偶然か必然か、そこにSAHOの笑顔があった。洗顔フォームの上で水滴が弾け、SAHOがタオルを頬に当てて微笑む、デジタルサイネージだ。
 有名になりたかった一人の女の子と、ホームパーティーで笑い声を上げる美女たち。
 業界の風習に抗おうなんて夢にも思わない、孝行のように仕事熱心なエリートたち。
 彼らの間からこぼれ落ち、人知れず葬り去られた小さな命を思った。

  ◇ ◇ ◇

 孝行と沙穂の顛末について、美桜は誰にも話さなかった。
「孝行に浮気されて別れた」とだけ周囲に告げた。嘘はついていないし、それなりに説得力もある。
 とりわけ慶子は残念がった。かつて孝行を実家に連れてきたとき、礼儀正しく見た目のよい孝行をいたく気に入ったのだ。孝行の会社は茂雄が役員をしていた企業の広告に携わっていたのもある。
 家族や友人の反応は様々だった。「浮気する奴はクズ」と憤る人もいれば、「一回ぐらい許してやれば」と言う人もいた。
 どちらの意見に対しても共感できず、そんな自分が少し不思議だった。
 沙穂に対し、怒りはない。出世したいと望むのは悪いことじゃないと思うから。売れっ子になって、有名になってチヤホヤされたいというのは、女性なら誰もが一度は抱く、ささやかな願望じゃないだろうか。
 美桜も子供の頃、スタイリストになって芸能界で活躍するのを夢見ていた。才能も努力も足りなかったし、親に負担も掛けられず、就職する道を選んだけど。
 いろいろ便利で贅沢なものが巷に溢れ、人々の目は眩まされたのかもしれない。今より華やかな場に立ちたい。競争に負けたくない。尊敬されたい。誰よりも上に行きたい。もっと認められたいし、もっと有名になりたいし、もっと裕福になりたい……。
 望めば望むほど、手を伸ばせば伸ばすほど、大切なものを見失っていくんだろうか。
 この一件でよくわかったことが一つだけある。
 私はやっぱり誰かを愛し、愛されたい。そして、できる限り命を大事にしたい。
 芽吹いた命が摘み取られることなく育ち、大切に慈しまれる世界にいたい。
 けど、たぶん現実はそうはいかないんだろうなぁ……。
「あんた、こはくを何時間眺めてるわけ? 頭大丈夫?」
 突然、背後から声を掛けられ、美桜は飛び上がるほど驚いた。
「やめてよ、お母さん! 心臓とまりそうになるじゃん」
 美桜が振り返って文句を言うと、慶子は嫌そうに顔をしかめる。
「ほら、こはく見てみなさいよ。延々とあんたにじーっと凝視されて、すっかり萎えてるじゃない。なにがあったか知らないけど、こはくは今お腹の調子悪いんだから、圧を掛けるのやめなさいよ」
「あー、ごめん! ちょっと昔を思い出してて、そんなつもりなかったんだけど。おー、こはく。よしよし、ごめんね。よーしよしよし……」
 こはくを撫で回す。こはくはゴロリと横たわり、一応お腹を見せてくれたけど、やれやれという感じで目は鬱陶しそうだ。
 昨日は一博とVicoでランチをしたあと、夕方こはくを動物病院に連れていった。獣医から、夏バテのようなもので大事ないと診断され、整腸剤を処方してもらった。
 ふわふわの毛を撫でながら、こはくと出会った当時を思い出す。
 こはくは保護されたばかりで、痩せ細って毛はバサバサ、耳はちぎれまぶたは腫れ、たくさんの細菌とウィルスに侵されていた。薬を飲ませ、ワクチンを打ち、一つ一つ病を治し、現在に近いふわふわの状態になったとき、小さな命を救った満足感があった。
 手のひらの下で力強く打つこはくの鼓動を感じるたび、幸せな気分に浸っていた。
 けど、必死の思いで一つの命を救おうとする横で、その何十倍、何百倍もの命が次々とこぼれ落ち、消えていく。
 それに比べると、こはく一匹を救った行為なんてほぼゼロに等しい。
 そんな風に思いたくはない。けど、心が冷えていくような虚しさを感じる。
 いろんなことがあった。ずっと考えていること。どうしていいかわからないこと。なぜだろうと疑問に思っていること。そして、密かに怒っていることがあった。
 だから、一博から「永劫の愛以外に興味ない」と言われたとき、心を打たれたのだ。
 三年前、美桜を含めあの場にいた全員が、永劫の愛を信じない人たちだったから……。
 昨晩、一博からSNSのメッセージが届いた。
【今日は付き合っていただいてありがとうございました。せっかくのランチタイムにお邪魔してしまってすみません。とても楽しかったです】
 礼儀正しい文面に好感度がさらに上がる。さっそく返事をした。
【こちらこそ相席させてくれてありがとう。おかげで楽しかったです。こはくも大丈夫でした。お医者さんが大したことないって。】
 一博はこはくの心配をしてくれていた。すぐに返事がくる。
【病気じゃなくてなによりです。僕の分もこはくを撫でてあげてください】
 こはくに優しさを向けてくれてうれしく、笑みがこぼれてしまう。バイバイのスタンプを送り合って会話は終了した。
 それから、なにかにつけて一博を思い出すようになった。
 仕事を終え、オフィスビルを出て夜風に当たるときに。早朝こはくの散歩に出て、朝日を浴びるときに。あるいは、地下鉄の駅のホームで電車を待っているときに。
 ――永劫の愛。以外に興味ないんです、僕。
 このときの一博の声音や眼差しや横顔を、何度も反芻してしまう。
 一博の言葉には嘲笑や揶揄を寄せつけない、真摯な力があった。悪しき業界の風習も、命をなんとも思わない感覚も、吹き飛ばしてくれそうな力強さが。
「私は永劫の愛を信じています」なんて言ったら、孝行を含め知人友人は笑うだろう。
 そんなものを本気で信じるのは愚かでおめでたい人。夢見がちで世間ズレしていない人。「あの人ってちょっとアレだよね」と嘲笑の的になるだろうことは想像に難くない。
 一博はそういう反応を想像できないほど愚かではない。わかった上で敢えて口にしたんだろう。自分のありのままの、リアルな本音を。
 本音をそのままさらけ出せるのは、ある種の強さだと思う。
 美桜も含め多くの人は成長するに従い、周囲に迎合していく。自分は白だと確信していても、周りの人たちが黒だと言えば、「黒だよね」と調子を合わせるようになる。
 孝行だってそうだ。業界の皆がやっていることだから、躊躇なく自分もやる。
 美桜も同じだ。心の底では永劫の愛を信じたくても、多くの人がくだらないと笑い飛ばせば、信じていない振りをする。
 なぜなら、それが傷つかないで生きる術だからだ。
 一博君、なんで私にわざわざあんな宣言したんだろう……?
 ただの顔見知りの客に話すには、心の深い部分に触れすぎている。
 しかし、美桜はしっかり影響を受けていた。一博の言葉を何度も思い出し、考え込んでしまうぐらいには。
 あれから何度かVicoに足を運んだけど、一博には会えなかった。SNSもあの日の夜のやり取りだけだ。
 数日後、美桜がスパを訪れたら、レセプションに一博は立っていた。
 一博はビジネスとプライベートをきっちり分ける人だ。セラピストとして接客するときは敬語を崩さないし、馴れ馴れしい態度を取ることもない。Vicoでいろいろ話したプライベートな情報を持ち込むこともなかった。
 あくまで礼儀正しく予約内容を確認し、カウンセリングルームに案内し、ウェルカムティーを出す。美桜の問いかけにはなんでも答えてくれる。穏やかで親切だけど、きっちり一線を引いてくれているのはわかった。
 そういうところはとても信頼できる。常に自然体でありながら、心地よい距離感を保ってくれる人だ。
 そのことがちょっと寂しい気もした。

  ◇ ◇ ◇

 八月も下旬に差しかかった、ある日。
「須佐さん、ウィルス性の感染症……ですかぁ」
 美桜は思わず声を上げた。
 レセプションデスク越しの一博は深々と頭を下げる。
「大変申し訳ございません。感染リスクを避けるため、本日は急遽お休みをいただいております」
「ですよね。仕方ないですね」
 ウィルス性の感染症と聞いた瞬間、あきらめていた。世の中にはどうにもならないこともある。
「一応、携帯のほうにご連絡差し上げたのですが、お出にならなかったので……」
 一博から申し訳なさそうに言われ、慌ててスマートフォンを取り出すと、たしかに不在着信がある。スパのアドレスからメールも受信し、一博からDMも届いていた。
【こちらから失礼いたします。本日のご予約の件で至急お話ししたいことがありますので、ホテルスパのアドレスから送ったメールをご確認いただけますでしょうか?】
「あ……ごめんなさい! 今日忙しすぎてスマートフォンほとんど見てませんでした。時間もギリギリだったんで、仕事終わってダッシュでここに来たんで……」
 職場からここまで距離にすると一キロぐらいだ。
「こちらこそ大変申し訳ございません。せっかくお越しいただいたのに……」
「いえいえ、しょうがないですよ。けど、須佐さん大丈夫なんですか?」
「私も電話で話したんですが、声はしっかりしてまして症状は軽いそうです。ご主人もいらっしゃるので大丈夫、とのことです。ご心配ありがとうございます」
「そうなんだ。よかった……というか、不幸中の幸いですね」
 一博は表情を和ませ、話を続けた。
「本日なんですが、いかがいたしましょう? 須佐が復帰してからのお日にちでも優先的に予約をお取りしますし、もちろんキャンセルも謹んで承ります」
 一博は卓上カレンダーを手に取ると、広げて見せてくれた。
 すらりと伸びた指に目を奪われる。しっかりした骨格に男性らしさを感じる。
「本日がよろしければ、別の担当者を指名されてはいかがでしょう?」
 一博に聞かれ、考えるより先に答えていた。
「なら、一博君にお願いしたいです」
 自分で自分の言葉に驚き、慌てて付け足す。
「あ、いや、もし可能だったら、ですけど。絶対じゃないです、絶対じゃ。特に誰にやってほしいというこだわりもないので。別の日にリスケしてもいいですし……」
 一博は顔色を変えずうなずいた。
「かしこまりました。ご指名いただけて光栄です。私が担当しますね」
「えっ……。いいんですか……?」
 お願いしておいて変だけど、聞かずにはいられない。
「もちろんです。喜んで担当させていただきます」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
 トリートメントを受けるとき、身に着けるのはペーパーショーツだけ……というかなり無防備な状態になるけど、問題ないんだろうか? その、道徳的に、倫理的に。
 こちらの迷いを察したのか、一博は「あぁ」と涼やかな双眸を細めた。
「お客様がそれでよろしければ、我々としては問題ありません。男性のお客様を女性のセラピストが担当するケースもありますし、その逆もまた然りです。どうしても同性でないと嫌だというお客様もいらっしゃいますし、あくまでお客様のご意向に従います」
 こともなげに言われ、意識しすぎた自分が恥ずかしくなってくる。
「あっ、そうなんですね。それもそうですよね……」
「もし不安があるようでしたら、着衣のメニューに変えますか? 指圧のみや足つぼマッサージのメニューもございます。ご無理をなさらないほうが……」
 一博の申し出を、「いやいやいや」と遮る。
「大丈夫です。別に不安はありません。いつものでお願いします」
 不安だというのも失礼だし、実際不安はないのだ。
 名誉のために弁解すると、どちらかと言えば一博を案じた。自分なんかを担当するのは嫌なのでは……と余計な気を遣ったのだ。
 一博は穏やかに説明する。
「たとえば女性セラピストのほうがキメ細やかだったり、男性セラピストのほうが握力が強かったり、といった多少の差はありますが、我々は同じ研修を受けて修練しておりますのでサービスレベルが劣ることはありません。どうかご安心ください」
 曇りない眼で見られ、変に意識してしまった自分が汚く思える。
 ここは一博君に任せよう。少なくとも私よりは汚れていないし、誠実だし……。
 心を決め、ペコリと頭を下げる。
「わかりました。じゃ、今日はどうかよろしくお願いします」
 一博は力強くうなずいた。
「かしこまりました。私にお任せください。では、こちらへどうぞ」
 いつも通りカウンセリングルームに案内され、ウェルカムティーを出される。
「一博君てレセプション専任なのかと思ってました。CEOもされてるし、実際に施術はしないのかなって。ほら、綺麗な人が立ったほうがお客さんも目の保養になるだろうし」
 一博は「またそんなことを……」と頬を赤らめる。
「レセプションの担当は特にいないんです。手の空いている者が立って接客します。私はお客様と関わりたいのでなるべく立つようにしています」
「そうなんですか。そういう意識、いいですね。私も見習いたいです」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、自信が持てます」
 それから、バスルームでシャワーを浴び、頭の先から足の爪先まで入念に洗った。
 ここのアメニティもすべて『anam』のものだ。バスジェルはフローラルベースにカルダモンやジンジャーがブレンドされ、男性用とも女性用ともつかない、少し癖のあるユニセックスな香りが好きだった。
 素肌にコットンのバスローブだけまとい、ふわふわのスリッパを履き、バスルームを出る。そこで待っていた一博に導かれ、トリートメントルームの個室に移動する。
 個室はチベットの山岳地帯にある岩窟のイメージだそうで、インテリアに天然石と自然素材が使われ、ぬくもりのある明かりが灯っている。壁には曼荼羅の装飾布が掛けられ、密教らしき二柱の神様の銅像が飾られ、神秘的な静謐に満ちていた。
 ここが都心の高層階とは思えない。
「それではバスローブを脱いで、こちらへうつ伏せになってお待ちください」
 一博はビジネスライクに告げ、個室から出ていった。
 ここまでの流れは完全にいつも通り。須佐のときとまったく同じ……なんだけど。
 うわー、どうしよ。めちゃくちゃ緊張してきた……!
 心拍がいつもより速い。もっと筋トレして体を絞っておけばよかった、と後悔に襲われる。ひどくはないはずだがしかし、自信を持って晒せる体ではないぞ……。
 いつもなら仕事で疲れきってぐったり横たわるところだが、今日は疲れも吹っ飛んで異様なテンションだ。
 ちょっと刺激が欲しかったんだけど、冒険しすぎたかな……。
 後悔してもしょうがない。観念してバスローブを脱ぎ、ショーツだけになってエステベッドに上がる。ベッドはゆったりと大きく、電動式なので体を動かす必要がない。
 ふんわりした触り心地のタオルに横たわる。フェイスホールに顔を埋めて床を見つめると、ほのかなアロマが気分を落ち着かせてくれる。
 カチャリ、と扉が開き、一博が戻ってきた。
「失礼いたします」
 しっとりした、穏やかないい声だ。ずっと聞いていたい。
 まぶたを閉じ、静寂に耳を澄ませる。
 一博が近づいてきて準備を始める気配がした。キャビネットを開け、なにか取り出し、台に置く、蛇口から水を出し、手を洗う。須佐と同じ動きだからわかる。
 ボトルからアロマオイルを手に垂らす、トポポ……という音が鼓膜をくすぐった。
「それでは始めていきますね」
 落ち着いた美声に心が安らぐ。
「はい。よろしくお願いします」
 と言って、全身の力を抜いた。
 ぴたり、と背中に手のひらが二枚押し当てられる。ちょうど心臓の裏側だ。手は大きくて温かい。
 トリートメントはいつもここから始まる。須佐のときとまったく同じだ。
 手のひらを通し、こちらとあちらが繋がる感じがする。まるでコンセントにプラグを差し込み、電流が流れ出すみたいに。
 するり、と手のひらは滑りはじめた。
 アロマオイルを潤滑油にし、右半身と左半身にそれぞれ大きく弧を描く。右手と左手は、強さも速さも変わらず、完璧な左右対称に動く。背骨の中心から肩甲骨をぐるりと回り、あばらを下へなぞっていき、腰骨から臀部へ……そして、背骨を上がって中心へ戻る。するり、するり、それを何度も繰り返す。
 一博の手は須佐より圧が強く、迷いがなく、頼もしかった。特にこりの気になる肩甲骨や腰にはグッと力を入れてくれ、他はサラリと流してくれる。
 こ、これは……。きっ……気持ちいい……かも……。うぐぅ……効くぅ……。
 かなり的確にツボを押さえられ、全身の神経にビリビリ響く。これ以上強いと痛いけど、気持ちいい……のギリギリのラインを攻めてくる。
 手のひらとの摩擦で熱が生じ、徐々にオイルが肌に馴染んでくる。
 ふわっ、とエキゾチックな香りが鼻孔を掠め、うっとりした。
 はぁ……いい匂い……。このオイルにしてよかったぁ……。
 アルガンオイルをベースに、ローズヒップやジャスミンをブレンドしたものだ。さらにイランイランのスパイシーで官能的な香りと、サンダルウッドの安らぐ香りが癖になる。
 このオイルを嗅いだとき、ちょっと個性が強すぎると感じたけど、慣れてくると病みつきになる。今ではこれなしではいられない体になってしまった。
 ちなみにアルガンの実は、モロッコでしか採れない貴重なものらしい。アルガンの樹は砂漠でも枯れない驚異の生命力を持つという。アルガンオイルは食用にもなるし、肌の潤いを保ち活性化させてくれるそうだ。
 以上、一博が事前に教えてくれた知識である。
 こうして肌に直接触れられても、嫌悪感はまったくない。むしろ好ましく、心地よい。
 須佐の手より少し硬くて骨張っているのと、異性に触れられているシチュエーションがちょっと刺激的だ。
 触れかたに性的なニュアンスは感じられず、「癒してあげたい」という真摯な想いが伝わってくる。しっかり触られているとわかるのだ、なんとなく。
 お金を払っているとはいえ、本物の優しさを感じ、感動してしまった。やっぱりプロなんだなと感心し、指名してよかったと思った。
 んー……。はぁー……。あったかくて、いい匂いで、癒されるなぁ……。
 すっかりリラックスしてしまい、だんだん眠くなってくる。
 このとき、リビングの毛布の上でだらーんと寝そべるこはくが脳裏をよぎった。たくさん散歩して、たらふくご飯を食べたあと、満腹感と幸福感でいっぱいのこはくもこんな感じなんだろうか。
 うとうととまどろみはじめた、そのとき。
 それは起こった。
 いつしかマッサージは下肢へ移動し、内腿の付け根に限りなく近いところにそっと触れられる。
「……っ!」
 ゾクッ、と腿の産毛が逆立つ。
 一気に目が醒め、変な声が漏れないよう息をとめた。
 そろそろと内腿を優しく撫で上げられ、震えそうになる。すごくくすぐったいのと、どうしようもなく……感じてしまって。
 私、こんなところ性感帯だったっけ? って、それどころじゃない……!
 須佐から聞いた話によると、足の付け根にはリンパ節があるという。たぶん、これはリンパの流れをよくするため……なんだろうけど。
 柔らかさをたしかめるように、大きな手は内腿をじわじわと這い上がる。がっつり掴まれれば平気なのに、デリケートな部分のせいか、触りかたに遠慮がある。
 彼の戸惑いと優しさを感じるほど、余計に性感を煽られるのだ。
 あっ……くっ……! そ、そこ……ちょっと、ダメ……かも……。
 大きな手は円を描くように内腿から腿裏を滑る。次第に手の圧は強くなり、お尻の割れ目を開くように、腿裏をグッと引っ張られる。密かに蜜口がそっと開いた。
 不意に、硬い指先が際どいところを掠め、息を呑む。
 キーボードを叩く美しい指を思い出し、乳房の蕾がキュッと固まる。蜜が、じゅわっとペーパーショーツに沁みた。
 あの指に触れられてみたい、と思っていたから。
 あっ……。やっ、やばい……どうしよ……。
 素直な生理反応なのでコントロールできない。太腿を閉じるわけにもいかず、結局なにもできずされるがままだ。
 さらにストロークは大胆になり、大きな手は太腿から膝裏へ、ふくらはぎまで滑り回り、全身を揺らされる。
 う……わっ……。
 上下に揺さぶられる動きがセックスを想起させ、一気に体温が上がる。背後から圧し掛かられ、うしろから挿入され、ゆっくり腰を振られているみたいで……。
 しかも、そうされるのが、それほど嫌ではなく……。
 ますます蜜が沁み出し、ペーパーショーツを濡らす。このままだと紙が破れるかもしれない。万が一感じているのが彼にバレたら……と焦りは加速する。
 いや、待て待て! 落ち着け、私。妄想よ、とまれ。妄想スト―――ップ!
 四肢を揺らされながら、鼓動は早鐘を打ち、肌が微かに汗ばんでくる。理性ではダメだとわかっているのに、一博にうしろからされているイメージが頭にこびりつき、どうやっても離れない。
 あー……。まずいよ、これは。どうしよう……。私、欲求不満なのかも……。
 直近でしたのって、いつだっけ? って、今それどころじゃない。
 唇を痛いほど噛みしめ、両手でベッドの縁をギュッと握りしめる。とにかくすべてが終わるまでできる限りじっとしているしかない。寝たふりでもするしか。
 どうかショーツが破れませんように。
 ひたすら祈りながら美桜はまぶたを閉じた。

  ◇ ◇ ◇

 結局、トリートメントの最後まで、美桜はドキドキしっぱなしだった。
 いつもなら熟睡するところだけど、寝落ちするなんてとんでもない。とにかく平静を装い、じっとしているだけで精一杯だった。
 幸いペーパーショーツは破れなかった。危なかったけど。
「以上になります。お疲れ様でした」
 一博の声がトリートメントの終わりを告げる。
 美桜はまぶたを開け、バスタオルを慎重に上半身に巻きつけ、ゆっくりと身を起こす。
 見ると、一博は全力疾走したみたく汗だくで、頬は紅潮し、息が上がっている。
 きっと一生懸命してくれたんだろう。かなり力が必要だし、結構な肉体労働なのだ。
 感謝の念が湧いてくるとともに申し訳ない気持ちになる。
「一博君こそ、お疲れ様でした。本当にありがとうございました」
 美桜は深々と頭を下げ、心の中で謝罪した。
 よからぬ妄想をしてしまい、ごめんなさい。私はなんて罪深い汚れた女なんだ……。
 当然ながら、一博は美桜の謝罪に気づいた様子はない。
 このあと、カウンセリングルームでお茶を飲み、会計をした。一博は疲れてしまったのか、別のスタッフが対応してくれた。顔を合わせなくて済み、少しほっとした気分になる。
 そのあと、まっすぐ家に帰った。ちなみに、夜はぐっすり熟睡できた。
 翌日(つまり今日)は土曜日でオフだった。ひさしぶりに予定がなかったので、起きて朝食を食べたあと、こはくにご飯を作った。野菜を細かく刻んで牛肉と一緒に鍋で煮込んだスペシャルメニューだ。いつもは買い置きのドライドッグフードだから、手作りのご飯は美味しいらしく、こはくの食いつきもいい。
 満腹になったこはくは、定位置であるリビングの毛布にゴロンと横になり、すやすやと寝入っている。
 美桜はこはくのお腹を優しく撫でながら、昨日のトリートメントを振り返っていた。
 やー、なんて言うか……天国? 楽園? 夢みたいな時間だったなぁ……。
 須佐のトリートメントも疲れは取れるし癒される。けど、一博のほうが圧は強く、握力があったため、肩こりや腰のこりがいつもよりほぐれた。それだけではなく、ちょっと官能的で刺激的だった。密かに感じてしまったことは絶対に言えないけど……。
 孝行と別れてもう三年かぁ。気づかないうちに私、女として枯れてたのかも……。
 相手がいないから、当然そういうこともしていない。
 ひさしぶりの異性との触れ合い。しかも、一博というとびきりの美青年にドキドキしたおかげで、女性ホルモンが活性化した気がする。
 あー、気持ちよかったなぁ……。できれば毎晩受けたい。お金ないけど。
 かつてないほど頭がすっきりし、視界が一段階明るくなり、視野が広がった気がする。
 これが健康な状態なんだとしたら、私だいぶ疲れてたのかもなぁ……。
 という新たな気づきを得るほど、新境地のトリートメントだった。あの素晴らしい感覚は言語化できない。
 ついさっき、一博からメッセージが届いた。
【こちらから失礼します。昨日はお越しいただきありがとうございました。トリートメントはいかがだったでしょうか?】
 おかげ様で寝覚めもすっきりと気分爽快で、感謝と絶賛の旨を返信すると、【よかったです。ありがとうございました】と礼儀正しい返しがあり、やり取りは終了した。
 また、一博君を指名しようかなぁ……。
 大っぴらには言えないけど、一博によってもたらされた夢のような時間は、抗いがたく心惹かれる。あの最高に気持ちいい、ドキドキするとともに背徳感も味わえるという、非現実的な時間を過ごしたい。
「あんた。なにニヤニヤしてんの?」
 突然慶子に声を掛けられ、美桜の意識は現実に引き戻される。
「えっ? 嫌だ。私、ニヤニヤしてた? 気づかなかった」
 美桜が思わず頬を撫で回すと、慶子は顔をしかめた。
「してたわよ、気持ち悪い。こはくのお腹撫でながら、なに妄想してんの?」
「いやー、別に。ふわふわで気持ちいいなーって」
 こはくは撫でられても眠り続けるあたり、随分警戒心がなくなった。昔は人の気配がするたびにビクッと飛び起き、怯えていたから。信頼されているようでうれしい。
「そんな何時間も、何日もこはく眺めてて楽しい? あんた、よく飽きないわねー」
 慶子はリモコンを手に、連続ドラマのオープニングを早送りしながら言う。
「ぜーんぜん飽きないよ。こはくが息して寝てる姿、永久に見てられるもん」
 慶子はなにも言わず、画面に集中している。アジアの歴史物の恋愛ドラマらしい。
 そんな慶子を見ていたら、ふと質問したくなった。
「ねー、お母さん。永劫の愛って信じる?」
 返事はない。しばらくすると、慶子は「は?」と声を上げ、ドラマを一時停止した。
「ごめん。今、なんつった? なにを信じるって?」
「だから、永劫の愛を信じますか? って聞いたの」
 慶子は眉をひそめ、しばし考え込んだあと、逆に質問してきた。
「それっていろんな愛を含むの? 親子愛とか、家族愛とかも?」
「いや。この場合、恋愛に限定します。色恋というか、異性に限定する愛で」
 慶子はきっぱり答えた。
「なら、信じないな」
「おー。はっきり言うね。信じないんだ」
 慶子は「うん。信じない」とあっさり言い、付け加えた。
「けど、親子の愛……特に、母親の子供への愛は信じるよ。そこに永劫の愛はある」
「そうなんだぁ。なら、恋愛限定で永劫の愛を信じてた時期はあった? 若い頃とか」
 質問を変えると、慶子は「もちろんだよー」と声を上げた。
「そりゃあ、お母さんだって若い頃は信じてたよ。二十歳か……二十五……ぐらいまでかぁ? もっと若いかなぁ? もう百億年ぐらい前だから忘れちゃったよ」
「そんなに生きてないでしょ。化石か」
 ツッコむと、今度は慶子が聞いてきた。
「美桜は信じてるの? 永劫の愛」
 とっさにイエスともノーとも答えられない。自分の本心、意外と自分で把握していないのだ。
 どう答えるのがより真実に近いか、数秒考えた。
「信じてる……とは言えないかも。とても信じたいと思っている。信じたいと強く願っている……が正解かも」
 慶子は「つまり信じてないと?」と切り込んできた。
「そうだね。ほら、サンタクロースなんかもさ、いたらいいな、実在したら素敵だなって思うでしょ? それと同じで、信じたいと願ってるけど、正直信じてない……ってのが本当のところかも。私も汚れちまったのかな」
「はぁ? 汚れてる? ちゃんと現実見てるだけでしょ。いいんじゃないの、それで。信じてるって言われたら、お母さんも困っちゃうわ」
 慶子はあっけらかんと言い、視線をドラマに戻す。
「そうだよね。そういうもんだよねぇ、普通は……」
 つぶやきつつ、一博のはにかんだ笑顔が脳裏をよぎる。
 そこはかとなく寂しくなった。誰一人、永劫の愛なんて信じない世界の中、一博は独りぼっちで立っているのだ。
 あるものを信じるかどうか。
 実はこれは自分でコントロールできない。信じる心は努力や鍛錬はどうにもならない。
 どんなに信じたいと強く願っても、心の奥底で信じられなければそれまでだ。
 そして、美桜は一博とは反対の、信じられない側に立っている。
 こはくを眺めながら、犬には永劫の愛はあるんだろうか? などと考えてしまった。