甘い指先で蕩かせて 絶倫年下御曹司の果てなき愛欲 1
第一話
芦名美桜(あしなみおう)が扉を開けると、自然に視線が引き寄せられ、初めて彼を見た。
このとき、彼はレセプションデスクにつき、パソコンのキーボードに指を載せていた。リラックスフィットのブラックスーツがよく似合っていて、首元を帯状に包むグルカラーがオリエンタルな美しさを醸し出している。
薄明かりの中、不思議と彼の周りだけ光が集まっているように見えた。
〇コンマ八秒ほど見惚れたあと、彼のどこにこれほど惹きつけられるんだろう? と美桜は自問した。ほっそりしたフェイスラインだろうか? それとも、マッシュショートの黒髪? あるいは、つるりとした滑らかな肌?
いや、そうじゃないな、と思い直す。やはり、あの印象的な二重まぶたの目だ。眉頭から目の間が狭く、瞳は水面のようにきらめいている。
こちらの気配に気づいたのか、彼がふと顔を上げ、目が合った。
あ……。
ふっ、と空気の質が変わる。
まるで再生速度を落とすように、時間がゆっくり流れ出す感じがした。
退屈な色褪せた世界の中、彼のいるところだけ明るく、鮮やかに色づいて見える。
え……。なんだろ、これ……。
疲れきって干からびた心に、どっ……と温かい血が流れ込んでくるような感覚。
彼を見つめたまま、わずかに心が浮き立つ。そして、そんな自分に驚く。
なにかが始まりそうな予感がした。
それが良きものにしろ悪しきものにしろ、とにかくこれまでの毎日とは違う、なにか特別なことが起きるような。
しかし次の瞬間、常識がそれを打ち消す。いやいや、全部気のせいだ。ただの勘違い、思い込み。残業続きで脳が疲れているのかも。
それでも、心惹かれているのは真実で、美桜は彼から目を逸らせずにいた。
彼の名前は秦一博(はたかずひろ)という。
美桜が一博に出会ったのは、梅雨入りしたばかりの六月最初の金曜日だった。
場所はグランド・フィネガンズホテル東京。新宿新都心の一角に建つ超高層ビル内にある、ラグジュアリーホテルだ。
グランド・フィネガンズホテルは、アジアを代表するグローバルな高級ホテルチェーンである。一九六〇年代に香港で開業したのを皮切りに、アジアや欧米を中心とした主要都市にチェーン展開し、今や世界各国に百以上のホテルがある。十年前に日本進出を果たし、グランド・フィネガンズホテル東京が西新宿にオープンした。
各界の著名人に大変人気のあるホテルで、歴史ある世界的なビジネス誌の格づけで五つ星を獲得し、最も権威のあるホテルガイドブックから『豪華で最高級』と評価されている。一般の客室に泊まるにしても料金の桁が一つ違うし、一番グレードの高いプレジデンシャルスイートともなると、シーズンやプランによっては美桜の年収の半分近くが飛ぶ。
美桜はこのホテルにあるスパに通っている。月に数回、疲れが溜まったとき、ここで受けるボディトリートメントが人生最大の癒しなのだ。
一般のエステサロンに比べたら料金は破格だ。けど、今の仕事で給料はまあまあもらえているし、実家暮らしだし、節約すれば出せなくはない。毎日頑張る自分へのご褒美であり、明日も頑張るための活力源なのだ。
仕事は、大手住宅総合メーカーで人事をやっている。建速(たけはや)ハウス工業に入社して五年、今年の七月で二十八歳になる。主に新卒採用と教育研修、人事考課が担当だ。
具体的には、学生向けの説明会やインターンシップの開催、エントリーや選考を管理しつつ、採用試験と面接を実施し、毎年百人の採用を目指す。
人事考課は年に二回行われ、昇給額及び賞与額が決定する。データのとりまとめや交通整理、評価制度の見直しを行うのも人事部の仕事だ。他にも、ダイバーシティ推進だのDX化推進だの、社内プロジェクトにも関わっている。
学生から年間相当な応募があるので慢性的に忙しい。学生にとって人事部は企業の窓口であるため、広報的な仕事も多い。よいイメージを持ってもらうため、常に明るく元気にはつらつとを心掛けている。
採用担当もなかなか大変だ。課せられる採用目標のノルマ。人材の質と量を求められるプレッシャー。SNS運用や採用管理システムの複雑化で工数も増え、繁忙期は地獄のような忙しさだ。社内外の調整に疲弊し、大量の内定辞退者を前にすべてが徒労に終わり、絶望する……そして、同じことを毎年延々と繰り返す。
それでも、仕事は楽しい。採用に関わった学生が入社し、立派に仕事をこなす姿を見ると、やりがいを感じる。
美桜も新人の頃は右往左往していたものの、今や肩書きはチーフとなり、頼もしい後輩も増え、そつなく業務を回せるようになった。
元々営業希望だったけど、今では人事部に配属されてよかったと思う。
じめじめした天気が続き、この日もどんよりした曇り空で蒸し暑かった。
今週を乗り切った! という解放感に溢れ、美桜はスパのレセプションへやってきた。
そこで、初めて一博に出会ったのだ。
美桜は少し不思議な余韻を味わったあと、かなりの美青年だなぁ、と感心した。その辺ではちょっと見ないレベルだ。
棒立ちしていたら不審がられると思い、フラットサンダルを履いた足を踏み出す。視線を床に落とし、一歩ずつ進みながら、彼から注がれる視線をひしひしと感じていた。
レセプションデスクにたどり着いてもなお、彼は座ったままものも言わず、こちらをじっと見ている。左の耳たぶに控えめなシルバーのリングピアスが光っていた。
素晴らしい美形だけでなく、目ぢからも強い。クールな切れ長の目尻に、瞳は濡れたような漆黒で、力強い光を湛えている。
近くでよく見ると、目元に物憂げな翳(かげ)りがあり、無性に心惹かれた。他を寄せつけない雰囲気と、ドキッとするような色香が漂っている。
左胸のネームタグに『秦一博』と記されているのを確認した。
そろそろ声を掛けないと不審者だぞ、と頭の中の理性が訴える。こんにちは、とか、はじめまして、とか挨拶しないと。けど、こちらは客なのだから、スタッフである彼のほうから挨拶すべきでは?
などと悩んでいる間も、彼は食い入るように見つめてくる。
その迷いのない、まっすぐな視線が、客に対するものとしてはいささか強すぎる気がしたし、初対面のしかもこれほどの美青年に穴が開くほど見られ、ひどく落ち着かない。
仕方なく頭を軽く下げ、口角を上げる。
それでも、彼はこちらを見たまま微動だにしない。
どうも様子がおかしい。やむを得ず「あの?」と声を掛けた。それだけでは足りず、彼の顔を覗き込み、「二十時に予約をしていた、芦名ですけど?」と、さらに声を張る。
ようやく、彼は我に返ったらしい。夢から醒めたように、はっと体を強張らせると、さっと立ち上がり、完璧な角度のお辞儀をした。
「大変失礼いたしました。二十時よりご予約いただいた、芦名様ですね? お待ちしておりました」
発音は明瞭で聞き取りやすい。少し低めの、耳に心地いい声だ。ちょっとした失態があっても焦ったり慌てたりしない冷静さに好感が持てた。
歳は二十代前半だろうか。学生か新卒のような初々しさがある。ここに三年ほど通っているけど、初めて見る顔だ。新しく入った人かもしれない。
気にしなくていいですよ、という意を込め、微笑んでうなずいてみせる。
すると、なぜか彼の頬がほんのり赤く染まった。ように見えた。
……へっ? なに?
彼は赤面したまま、気まずそうに視線を落とす。
美桜は思わず横のウォールミラーで自分の全身を確認した。なにか顔についているか、下着でも透けているのかと思ったから。
今日はチャコールグレーのオールインワンを着て、ライムカラーのサンダルを合わせていた。ヒップラインが高く、ワイドなIラインが脚長に見えるデザインで、通勤服として重宝している。ベージュブラウンのセミロングはうしろで束ねルーズにほぐし、暗い色調でアクセントになるよう、シンプルなゴールドのネックレスをつけていた。
パーソナルカラーがイエローベース秋なので、アクセサリーはシルバーよりゴールドがいい。メイクも落ち着いたスモーキーカラーを心掛け、大人っぽい印象に仕上げたつもりだ。特に変な点は見当たらない。少なくとも、見ただけで赤面される要素はなにも。
なんだろう? 知り合いにそっくりだとか……?
しかし、彼が奇妙な素振りを見せたのは一瞬だけだった。
すぐに本来の責務を思い出したらしく、真面目な表情になり、パソコンの画面に視線を戻す。カタカタとキーボードを叩く指はすらりと長く、綺麗だった。
「芦名様、本日はフィネガンズシグニチャー・ホリスティックヒーリングのコースでよろしいですか?」
急に問われ、戸惑いながらも返事をする。
「あ、はい。その通りです」
いつもオーダーする、全身をオイルマッサージしてもらうコースだ。オプションはその日の気分によって変えていた。
「担当は須佐(すさ)をご指名ですね?」
「はい。いつも須佐さんにやってもらってるんで……」
須佐莉菜(りな)。担当セラピストである三十歳の女性だ。親しみやすい性格で気が合うし、施術も上手なので、初回からずっと指名している。
「かしこまりました。それでは、こちらへどうぞ」
すでに彼は完全なビジネスモードに変わっていた。先ほど垣間見せたプライベートな表情が嘘みたいに。
さっきの……なんだったのかな。私の気のせい……?
などと訝しみつつ、彼のあとに続く。
彼はこちらを気にしながら、速すぎないペースで、垂れ下がったシアーカーテンの間を抜けていく。
うしろから彼を見上げ、かなり背が高いと気づく。一六五センチメートルある美桜より二十センチメートルは高い。一見ほっそりした印象だけど、よく見ると肩幅は広く、背中は大きく、存外がっしりした体つきだ。スーツのサラリとした生地のおかげで、腰や太腿が引き締まっているとわかる。
奥のカウンセリングルームに案内され、豪華な一人掛けのソファに座ると、彼は跪いておしぼりを出してくれた。つるりとした爪は綺麗に切り揃えられている。
「こちらで少々お待ちください。今、お茶をお持ちします」
去っていく背中を見送り、おしぼりで手を拭き、ほっと一息ついた。
スパ内部はアースカラーを基調とし、アジアンモダンなインテリアで統一されている。テーブルやチェアには艶やかな紫檀が使われ、菱形が組み込まれた中華風の格子戸が目を引く。壁面のグリッドシェルフには、鋳鉄の丸い茶壺、茶盤に載った茶海や茶勺などの中国茶器、雅やかな装飾の施された磁器製の壺や、トリートメントで使われるエッセンシャルオイルなどがディスプレイされている。
明かりは控えめに抑えられ、行燈風のフロアスタンドが辺りを照らし、ほのかに漂うインセンスが心を落ち着かせてくれた。
目に美しく、香りは芳しく、こうして座っているだけで贅沢な気分に浸れる。
このスパはアジアの伝統的な哲学をコンセプトにしているらしい。中医学や道教などの中国思想に基づいたトリートメントを施してくれる。
実はここにたどり着くまで、様々なエステサロンに足を運んだ。タイ古式マッサージやバリニーズマッサージ、ハワイのロミロミやスウェディッシュトリートメントなどだ。
それぞれの伝統や文化が感じられ、独自の素晴らしさがあったけど、一番しっくりきたのがここだった。思想や哲学など難しいことはわからないものの、なんとなく自分に合っている気がした。
まもなく、彼がトレイを手に戻ってきた。
「こちらをどうぞ。生姜のお茶です」
テーブルに置かれた茶碗の中には、きはだ色の液体が揺らめいている。
一口飲むと、ふくいくたる香りがし、胃がじんわり温かくなった。
「いい香りがしますね。美味しい」
そう言うと、彼はうれしそうに微笑む。細めた目は優しげで、見ているだけで心が和んだ。笑うとかなり印象がよくなる。
「お好きですか?」
と聞かれ、うなずいた。
「はい、好きです。なんかあったまりますね」
「生姜は末梢血管を拡張して、血行をよくする働きがあります。あと、レモングラスとルイボスがブレンドされてるんですよ。レモングラスはリラックス効果があって……」
ハーブが好きなんだろうか。楽しそうに話す様子がちょっと可愛いな、と好感度が上がる。少しセクシーで穏やかな声は、聞いているだけでリラックスできた。
今まで、いわゆる格好いい男性はたくさん目にしてきたけど、彼はレベルが違う。整った美貌、滑らかな肌、しっとり落ち着いた美声。顔は小さく長身、鍛えられた体躯にすらりと伸びた手足。ゆっくり歩いたり、すっと跪いたり、首を傾げてうなずいたり、なんてことのない動作も驚くほど絵になり、つい見惚れてしまう。美しく無駄のない動きになるよう、頭の先から爪先まで神経が張りめぐらされているみたいだ。
「あっ……と。つい長話してしまって、すみません。須佐と交代いたします」
彼は申し訳なさそうに言い、さっと立ち上がる。
いえいえ、ずっとここで話してくれていいですよ。声を聞いていたいので。
と、言いたくなったけど、もちろん言わずに見送る。
まもなく、担当の須佐がやってきた。
「芦名様、お待たせいたしました。本日もお越しいただき、ありがとうございます!」
須佐は人懐っこい笑顔で言う。元気そうでよかった。
「須佐さん、こんにちは。今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします。メニューはいつもと同じですね。特に疲れているところはありますか?」
「そうですね……。えーと、肩がこっちゃって……」
施術前にこうしてカウンセリングしてもらう。すでに体質とアレルギーは伝えてあるので、メニューとオプションを確認し、最近の体調や気になるところを相談し、トリートメントに使うエッセンシャルオイルを選ぶ。
この日は、ラベンダーとローズヒップとレモングラスが配合されたオイルにした。
このあと、バスとスチームサウナに入って体を温め、紙製のショーツだけ身に着け、バスローブを羽織って個室へ移動し、施術を受ける流れだ。
「では、ゆっくり体を温めてくださいね」
須佐に言われ、バスルームのロッカーキーを受け取る。
バスルームへ続く廊下を歩きながら、さっきの彼にまた会えるといいなと思った。
建速ハウス工業の公式サイトにある、新卒採用ページは毎年三月にオープンする。
学生たちが続々とエントリーしてくるので、人事部はエントリーシートとWEBの適性検査結果をチェックし、合否の判定を下す。
一次選考を通過した学生たちの面接が、六月から本格的に始まる。
学歴や検査のスコアで足切りの基準はあるものの、エントリーシートは企業に向けられた声でもあるため、一応すべてに目を通し、気になる点があれば社内にフィードバックせねばならず、なかなか骨が折れる。
美桜は働く意欲に満ちた学生の声を聞くのが好きだ。学生たちの間で、建速ハウスの評判が上々なのも知れてうれしい。
六月は大学生や大学院生に向けに、サマーインターンシップの申し込みも始まる。美桜は受け入れ先の部署とやり取りし、スケジュールと実習内容の調整に追われた。
インターンにしろ説明会にしろ面接にしろ、そつなく運営するのは一苦労である。当たり前のように進行していく裏側で、美桜のような担当者たちが汗水流しているのだ。
次から次へとタスクが降り注ぎ、ちぎっては投げちぎっては投げしているうちに、六月最後の金曜日がやってきた。
ふらつく足でグランド・フィネガンズホテルにやってきた美桜は、スパのレセプションで一博に再会した。
一博はレセプションデスクに姿勢よく座り、綺麗な十本の指をパソコンのキーボードに載せていた。前回と同じように。
きちんとして清涼感のある一博と、疲れきってボロボロの自分に落差を感じ、美桜はため息が出る。仕方ない。だからこそ癒されにきているわけだし。
一博の前に立ち、前回と同じく二十時に予約した旨を告げた。
今度は不自然なほど見つめ合ったり、時間がゆっくり流れたりはしなかった。
あの不思議な現象はただの気のせい。そう信じておくのがよさそうだ。
例によってカウンセリングルームに案内され、ウェルカムティーを出された。雑談する流れになり、詳しそうな一博にエッセンシャルオイルについて聞いてみた。
「とにかく疲労回復したいんですが、どれを選んだらいいと思います? 種類がいっぱいあるから、実はよくわからなくて……」
彼は少し考え、答えてくれた。
「でしたら、フランキンセンスを試していただきたいですね」
「フランキンセンス?」
思わず聞き返すと、彼は親切に教えてくれる。
「乳香(にゅうこう)とも呼ばれる樹脂です。今ちょっとしたブーム……と言うと大げさですが、界隈で注目されている精油です。とにかくパワーがすごいんですよ。老化を防ぎ、細胞レベルでDNAを修復してくれて、抗がん作用もあると言われてます」
「へぇ……。ぜんぜん知らなかった。初めて聞く名前で」
彼は小さなボトルを持ってきて見せてくれた。
「これがフランキンセンスです」
うわー……すっごく綺麗な手……。
ボトルそっちのけで気を取られてしまう。手は意外と大きく、長い指は少し骨張っていて、手の甲に血管がくっきり浮き出ているのが男らしかった。
そうだ。初めて会ったときも、手が綺麗な人だなって思ったっけ……。
カタカタとキーボードを叩く指がまぶたの裏に浮かび、少し鼓動が速まる。
「……綺麗ですね、とても」
手を褒めたつもりだけど、彼はボトルの中身についてだと勘違いした。当然ながら。
「ええ、綺麗ですよね。フランキンセンスの歴史は古くて、キリストが誕生したとき、三賢人が乳香を贈ったという記載が聖書にあります。クレオパトラも香油として使っていたらしく……」
やっぱり、ハーブについて語るときの一博は饒舌だ。エピソードも興味深いけど、彼の楽しそうな表情が好きだった。
恋愛感情を抱いているわけじゃない。楽しそうな人を見るのが好きなだけだ。
ハーブに関する質問をすると、彼はうれしそうに目を輝かせる。「あなたも素晴らしさをわかってくれるんですね!」というように。
この日以降、スパに行くたびにレセプションで一博と顔を合わせた。
カウンセリングルームに案内され、お茶を飲み終わるまでの間、いろいろ話すようになった。話題はハーブ関連のみならず、仕事や趣味、興味あるものハマっていること、行きつけのお店や好きなお酒についてなどだ。生活習慣や趣味嗜好はトリートメント方針にも関わるらしい。
お互いの情報を交換し、打ち解けていく過程でも、プライベートに踏み込まれたり、苦手な話題を振られたりは一切なく、一博はスタッフとして適切な距離を保ってくれた。こういうところ、さすがいいホテルだなと思う。
ただ彼自身について語るのは好きらしく、オープンに打ち明けてくれた。
一博は二十三歳で、セラピストは副業なのだという。本業はオーガニックブランドの輸入販売業のCEOを務めているらしい。
「CEO! その若さで? すごいですね……」
どうりで詳しいわけだ。驚いていると、彼は照れくさそうに首を横に振った。
「まだまだ小さい会社で。取引先もフィネガンズホテルグループだけですし」
フィネガンズホテルグループは世界中にある。取引規模は小さくないはずだ。
一博はアメリカの大学に在学中に起業し、英国のオーガニックコスメブランド『anam』の日本国内独占販売権を取得したそうだ。
「アナムって……どこかで聞いたことがあると思ったら、ここのアロマオイルですね」
そう言うと、一博はボトルを手にしてにっこりうなずく。ボトルには『anam』とラベルが貼られている。ゲール語で「魂」を意味するらしい。
他にも、セラピスト養成スクールの運営や、オーガニックフードの輸入販売、エステサロンの経営コンサルティングも手掛けているという。
去年の五月に大学を卒業し、会社を経営する傍ら自社の卸す製品を使い、フィネガンズ・スパのセラピストを兼業しているらしい。
「スパは大体週二ぐらい。あとは経営が忙しくてほとんど休みなしですね。けど、楽しいですよ」
渡された名刺には、『株式会社パンカクサラ CEO 秦一博』と記されていた。
「サンスクリット語で五つの音節を意味します。たぶん正しい表記はパンチャクシャラなんですが、思い入れがあってこの表記にしています」
サンスクリット語って、たしか古代インドの言葉だっけ……?
乏しい知識を掻き集め、耳を傾ける。
「元々植物が好きで、人の心にも興味があって。アロマテラピーは植物から抽出したエキスで心身を癒すので、どちらにも繋がりがあるんです」
大学では比較宗教を専攻したという。
「簡単に言えば、世界中の宗教や神話から類似点を見出して考察する学問です。特にアジアの宗教は薬学とも結びついているんで、面白かったですよ」
まだ学生らしさが残る顔で彼は語った。
大学名を聞くと、誰もが知る世界屈指の名門でびっくりした。学費や渡航費や生活費を考えると、お金持ちじゃないと入れないだろうし、当然ながら英語力が相当ないと卒業できないだろう。
そっかぁ……。一博君て見るからに育ちよさそうだし、起業なんて普通できないよね。きっとどこかのお坊ちゃんなんだろうなぁ……。
ド庶民の美桜には留学も起業もかなりハードルが高い。卒業した都内の女子大でさえ、バイトしながら通っていたぐらいだし。
「大学にはいろんな国籍の、いろんな人種の人がいて、楽しかったですね。それまで僕は狭い世界を生きてきたんで、生まれて初めて世界は広いんだ、僕は地球人なんだって実感できました」
一博は無邪気に微笑む。笑うと少年ぽくなるのが素敵だ。ビジネスのとき、一人称は「私」だけど、プライベートでは、「僕」に変わる。「僕」と聞くたび、ちょっと親しくなれた気がしてうれしかった。
はぁー……。一博君、今日も尊いなぁ……。これは癒される……。
いつしかボディトリートメントのみならず、一博の存在も癒しになっていた。
七月の下旬に差しかかり、うだるような暑さの中、新卒採用の面接ラッシュが続く。
そろそろ内々定も決まりはじめ、毎日が目まぐるしく過ぎていく。
ある日、仕事を終えた美桜は、代々木にあるカフェ『Vico(ヴィーコ)』にいた。
コンビニやファミレス、ファストフード店やカラオケ店などがひしめく商店街から、一本入った細い通りにそのカフェはある。JR新宿駅まで歩いて七分、JR代々木駅はすぐ、という便利な立地にも関わらず、そこだけふつりと人通りが途絶え、静寂に包まれていた。まるで結界でも張られているみたいに。
この辺りは一戸建てや低層マンションが並ぶ住宅街だ。Vicoは一見古い戸建て住宅のようで、出入口はヤマボウシの木で隠され、看板もないせいで周囲に溶け込んでいる。前を通っただけではここにカフェがあるとは気づかないだろう。
Vicoは美桜のお気に入りの穴場である。WiFiと電源完備、ゆったりとくつろげるソファ、空調は快適で涼しく、苦くて濃いエスプレッソが絶品だ。シチリアの港にゆかりのあるインテリア、ローズマリーやラベンダーのプランターが置かれ、天井まで届くオリーブ、キョウチクトウ、レモンツリーといった地中海の観葉植物に溢れている。
ゆっくりと回転するシーリングファンの下、緑豊かな空間にいるだけで癒された。
都内に勤務していると、こういう隠れ家的な休憩場所がないと厳しい。誰かと待ち合わせしたり、ちょっと休んだり、急に空いた時間を潰したりするのに、さっと入れるVicoは貴重だ。いちいち予約を取ったり行列に並んだりしなくていい。
建速ハウスのオフィスはJR新宿駅前にある。新南口改札からサザンテラスを経由して通える高層ビルだ。
新宿駅へ寄れば寄るほど人が多くなり、コーヒー一杯飲むのも一苦労である。かといって、オフィスビル内のカフェで知り合いに会いたくない。人の多い場所が苦手ゆえに、なるべく新宿駅周辺を避け、代々木や千駄ヶ谷のほうに足が向きがちだ。
今日は母方の従妹、橘千波(たちばなちなみ)と待ち合わせをしていた。なんでも目黒にオイスターバーができたそうで、知る人ぞ知る名店らしい。ワインの種類も豊富で価格も良心的、初心者も楽しめるカードゲームがたくさんあり、お酒を呑みながら好きなだけ遊べるそうだ。どうしても行きたいという千波に誘われ、面白そうなので行くことにした。最近、仕事しかしていないし。
三歳年下の千波とは、幼い頃から姉妹のように仲がいい。千波が就職で都内に出てきてからは一緒に遊んだり、なにかあれば相談に乗ったり、近況を報告し合ったりしている。
千波は例のグランド・フィネガンズホテルで正社員として働いていた。
実は美桜がグランド・フィネガンズホテルのスパを選んだのも、千波の存在が大きい。どうせお金を落とすなら、千波の勤務先を応援したかった。
職場が近いのもあり、千波とは頻繁にランチしたり呑みにいったりしている。オンラインのときもあるし、直接会って話題の店に行くことも多い。
さて、現在時刻は十七時半。待ち合わせまで二時間ほど潰さないといけない。
ありがたいことに、建速ハウスはフレックスタイム制を導入している。なるべく早朝に出社し、コアタイム終わりに退社が理想だけど、繁忙期はそうもいかない。ここのところ毎日二十時過ぎ退社だった。
今日はたまたま面接もイベントもなく、溜まっていた事務作業も捌(さば)けたので、十七時でさっさと切り上げた。人事部だからこそ、働きかた改革を率先してやるべき。
そんなこんなで、今はプライベートタイムだ。やっと一息つけるし、読みたい漫画も観たい動画も山ほど溜まっている。美味しいコーヒーでも飲みながらのんびり過ごそう。
うきうきとイヤホンを取り出し、片方の耳にはめた……そのとき。
「……芦名さん。芦名美桜さん」
背後から名前を呼ばれ、声のしたほうを振り仰ぐ。
「えっ……。一博君!」
トレイを手に立っていたのは一博だった。
「奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
一博ははにかんだ表情で軽く会釈する。
「わー、びっくりした。一瞬誰だかわからなかった。いつも黒いスーツだから……」
今日の一博はゆったりした白のドロップショルダーシャツに、ストンと綺麗に落ちるパンツを合わせ、グルカサンダルを履いていた。一博らしいリラックスしたシルエットで、パンツにシアンブルーを選ぶあたり、おしゃれ上級者という感じだ。
「っていうか、一博君……。私服めちゃくちゃ格好いいですね!」
絶賛すると、彼は恥ずかしそうに頬を染めた。
「またそういうことを言う……」
仕事帰りだろうか、髪は少しクシャッと乱れ、肩からシンプルなショルダーバッグを提げている。バッグもサンダルもレザーの部分は磨かれ、シャツもパンツもシワ一つなく清潔感に溢れ、毎日をきちんと丁寧に生きてそうだな、という印象を受けた。
一博はなにかに気づいた様子で、「あっ」と口を手で覆う。
「すみません、プライベートな時間なのにお邪魔してしまって。声を掛けたあとで遅いですけど」
「いえいえ、とんでもない。ちょうど暇してたんで、声掛けてくれてうれしいです」
つい満面の笑みになってしまう。
一博は空席を探しているのか、ぐるりと店内を見回す。
いつの間にか客は増え、ほぼ満席だ。小さなカフェだから元々席数も少ない。
テラス席だけ空いているけど、この暑さでは厳しいだろう。
「あ……。もしよかったら、ここ……座ります?」
テーブルを挟んだ正面のソファを勧めてみる。
一人でソファを二脚も陣取ってるのは悪い気がして誘ったけど、不躾だろうか?
「いいんですか? 相席になっちゃいますけど……」
一博が驚いたように目を見開く。
「あ、うん。一博君がよければ……。あちらでもこちらでも、どちらでも」
テラス席と正面のソファを交互に指差すと、一博はソファのほうに腰掛けた。
「もちろん、こっちがいいに決まってます。ありがとうございます」
屈託のない笑顔を見て、誘ってよかったと心が和んだ。
一博はショルダーバッグをバスケットに入れ、トレイをテーブルに置いた。トレイにはスフレパンケーキとアイスカフェラテが載っている。
彼はスフレパンケーキをフォークで刺しながら言った。
「これ、大好物なんです。図体のデカい僕には似合いませんが……」
恥ずかしそうな笑顔に、胸がキュンとしてしまう。
「そんなことないです。とっても似合ってるし、素敵ですよ」
心のメモに、一博君はスフレパンケーキが大好物、と記す。
一博は少し前のめりでこちらへ顔を寄せてきた。
「ここ、穴場ですよね。今日はめずらしく混んでますけど」
美男子に近づかれ、不覚にもドキドキしてしまう。
間近で見ると、彼の肌はゆで卵みたくつるつるだった。究極の美肌……!
「うん。ここ、いいですよね。一博君もよく来るの?」
鎮まれ鎮まれ、私の心臓……と念じながらに平静を装う。
「はい。ここ、かなりよく使います。新宿駅は人が多すぎて……」
「わかる! 暑さもひどいし、人混みには行きたくないですよね」
このカフェを選ぶ理由が同じで、ついテンションが上がってしまう。
「今、仕事帰り?」
聞くと、一博は首を横に振った。
「休憩です。このあと、社に戻ります。本業のデスクワークが山積みで。どうせ仕事なんて永久に終わらないんで、休憩はのんびり取ってます。芦名さんは仕事帰りですか?」
「うん。これから従妹と待ち合わせなんです。一緒にご飯行く約束してて……」
「いいですね、ご飯。僕は社に戻る前にちょっと買い物するんですが、ここの隣……知ってます?」
一博は言いながら東側の壁を指差す。
隣は小さなアパートだった気がするけど、はっきり憶えていない。知らない、とかぶりを振ると、彼は教えてくれた。
「観葉植物の専門店があるんですよ。界隈では結構有名なお店で」
「そうなんだ、知らなかった。そういやここも観葉植物だらけですよね」
「もしかしたら、隣から仕入れてるのかもしれないですね」
一博はにこにこして言い、ストローをパクリと咥えた。その仕草がなんとも可愛らしく、またしてもキュンとしてしまう。
「じゃあ、このあとお隣に行くんですか? 観葉植物を買いに?」
内心のドキドキを押し隠し、会話を続行する。
「はい。日によって仕入れがいろいろ変わるんで、買うかどうかはわからないんですが、とりあえず見に。その前にコーヒーでも飲もうかなって寄ったんです」
彼は美味しそうにアイスカフェラテを啜った。
グラスに添えられた指は長く、骨張っていて、心惹かれる。手の綺麗な男性は得だ。清潔に見えるし、上品な印象を与えるし、色気を感じさせるから。
「あと、ここから一本向こうの通りにパーソナルジムがあるんですよ。そこもかなりの穴場なんです。あまり知られてないんですが、トレーナーがすごい人ばかりなんですよ」
今度は窓のほうを指差し、彼は秘密を打ち明けるように言う。
「そうなの? もしかして一博君、そこに通ってます?」
「はい、そうなんです。週二か週三を目標にしてて、仕事帰りとか休みの日に」
「あー、やっぱり。かなり鍛えてそうだなって前から思ってたんで」
そう告げると、彼は「わかりますか?」と満更でもなさそうだ。
服の上からでもわかる。肩はいかついし、胸板は厚いし、かなり筋肉質な体つきなのは気づいていた。
よく見ると、半袖から覗く前腕の筋肉も発達している。相当鍛えていないとこうはならないだろう。
少年みたいなあどけなさと、ワイルドな男らしさ……相反する要素を兼ね備えた人だと思う。
「すごいなぁ。ちゃんと鍛えてるの、偉いですね。私もそうありたいなぁ」
しみじみ言うと、彼は真っ白な歯をこぼした。
「そんな、大したことないですよ。先週も忙しくてジムサボッちゃいましたし……」
「サボりながらでも鍛えてる人はやっぱり違いますよ。一博君、すごく姿勢いいですし、身のこなしもしなやかですし、体のバランスも美しいなって」
「いやいや。ですから褒めすぎですってば……」
一博はひとしきり照れたあと、なにかを思い出したように顔を上げた。
「芦名さんもなにかスポーツされてます? 結構ふくらはぎとか筋肉ついてますよね」
「わかります? 実は私もボディメイクに興味があって、筋肉伝道師の動画観てるんですけど」
「あー、筋肉伝道師ちゃんねる! 知ってます知ってます」
「それそれ。あれを毎日三十分やってるんですけど、めちゃくちゃキツくて……」
一博は興味深そうにうなずき、にこにこ傾聴してくれる。今日の彼はすこぶる上機嫌で、なんてことのない会話なのに、楽しい気分になれた。
普段はあくまでスタッフとして接する人なので、こうして友人のようにおしゃべりしているのは不思議な感じがする。
初めて一博を見たとき、冷たそうな印象を受けたけど、そんなことはなかった。
実際の一博は素朴で照れ屋で、心優しい。仕事熱心で誠実だし、ハーブについて語るときは生き生きした情熱が垣間見える。
それに、自分の美しさに自分でまったく気づいていないような、無垢さ純粋さに溢れている。それは努力や金銭で手に入るものではないし、誰もが持ち得るものではない。
一博の持つ、自然体なありのままの美しさに惹かれていた。
美桜は一博と別れたあと、目黒のオイスターバーで千波と落ち合った。
「美桜、ひさしぶり! 場所すぐわかった? 大丈夫だった?」
千波は愛くるしい瞳をきらめかせて言う。ショートボブのよく似合う、小動物っぽい可愛らしさのある子だ。
「うん、すぐにわかったよ。二カ月ぶりぐらい?」
美桜は言いながら、テーブルを挟んで腰掛ける。
「それぐらいかな。慶子(けいこ)伯母さんは元気?」
千波に聞かれ、美桜は「元気元気。元気すぎるぐらいだよ」と答えた。
美桜の母、芦名慶子は今年還暦を迎えた。気晴らしにパート勤務をし、アジアドラマ沼にハマりつつ、気ままに人生を謳歌している。
千波は「そっか。なら、よかった」と微笑んだ。
「じゃーせっかくだし、さっそく食べよっか!」
二人でシャブリのボトルを注文し、ぷりぷりの新鮮な生牡蠣を堪能した。
前評判通り、モダンなインテリアの素敵なお店で、女性客も多く入りやすい。シェフおすすめの料理は予想以上に美味しく、ワイングラスはどんどん空になっていく。
だいぶ酔いも回ってきた頃、美桜は一博について聞いてみた。
「秦一博ね、知ってる知ってる。あれほどの美形だもん、F&B部でも有名だよ。うちの社員なら全員知ってるんじゃないかなぁ。私は直接話したことはないけど……」
と、千波は教えてくれた。
千波はグランド・フィネガンズホテルのフード&ビバレッジ部門に勤務している。ルームサービスを運んだり、レストランやバーカウンターに立ったり、ケータリングを管理したりする仕事だ。
「うちのホテルの運営会社、本社は香港にあるここなんだけど……これ」
千波はスマートフォンをタップし、とある企業のWikiを見せてくれた。
《芬尼根控股有限公司 Finnegans Holdings Ltd.
フィネガンズホールディングス(※以降FHL)は香港を本拠とし、不動産開発と
ホテルチェーンを中心とした国際的コングロマリットである。
フィネガンズホテルグループは、FHLの筆頭株主である秦一族によって管理運営
されている》
見覚えのある名前を発見し、思わず声を上げてしまう。
「えっ? この秦一族って、まさか……」
「そうそう。そのまさかですよ。一博氏のご家族のことです。現FHL会長の秦ナントカさんが、一博氏の祖父。CEOの秦凱(かい)さんが実父というのは、社員の間では有名な話」
千波はこともなげに言う。
「そうなんだ! なら、一博君はいわゆる御曹司……?」
と聞くと、千波はうなずいた。
「そういうこと。元々曽祖父の代に香港で事業を始めたらしい。三代でここまで巨大なグループにのし上がったんだとか。一博氏はFHLから出資を受けて、在学中に輸入販売会社を起業したらしい。会社役員だから、ただの社員とは違うよね」
さすが千波は内情に詳しい。
千波は神妙な顔になり、合掌のポーズを取る。
「こういう話、本当はしちゃいけないから、絶対口外しないようお願いします。個人のプライバシーに関わることだし、万が一バレたらマジで首が飛びますので」
「もちろんわかってるよ。ここだけの話にするから大丈夫。話したい相手もいないし」
「美桜は家族みたいなものだから話すけど、家族以外には絶対しちゃダメな話だからね」
「わかってるって。千波以外話す人いないし。胸に秘めておくだけにするから安心して」
力説すると、千波は安堵したようだ。
「やっぱり、一博君って一般人とは違うんだね。あの若さでCEOだし、育ちのよさもにじみ出てたから……なるほどなぁ」
一人納得していると、千波は声を落とし、さらに情報をくれる。
「彼、あれだけ容姿端麗だから、SNSでもちょっとした有名人なんだよ。フォロワー多いし、あっちにもファンがたくさんいるよ」
「そうなんだ。なら、日本人じゃないのかな?」
質問すると、千波は首を横に振った。
「いや。噂によると、お母さんが日本人で日本で生まれ育ったらしい。だから、国籍は日本なんじゃないかな。けど、香港に父親の実家があるから、行ったり来たりして中国語ペラペラらしいよ」
「へー、すごいねぇ……」
アメリカの大学を卒業できる英語力もある。中国語も合わせると三か国語話せることになる。
「私が入社したとき、当時の先輩に教えてもらったんだけど、一博氏ってスパのオープンに関わってたらしいよ」
千波に言われ、意味がわからず聞き返す。
「オープンにも関わってた? どういう意味?」
千波によると、フィネガンズ・スパのインテリアは当時学生だった一博によってコーディネートされたらしい。一博は他にも、スパをどういうコンセプトにするのかコンサルティングし、どのプロダクトを使い、どんなトリートメントをするのか、ディレクションし、スタートアップに深く関わっていたそうだ。
現にスパは素晴らしい仕上がりになっている。普通の学生にはあそこまでできないだろう。
「一博君、すごいなぁ……」
感動していると、千波もうんうんと同意した。
「すごいよね。なんかそっち系に造詣が深いらしい。東洋の思想っていうの? 私にはよくわからんけど……」
たしかに以前、大学で学んだアジアの宗教が面白かったと話していたっけ。
「美桜もさ、初めてうちのスパに来たとき、インテリアが素敵だって感動しまくってたでしょ?」
千波が思い出したように言う。
「うん、そうそう! あの素晴らしき家具調度品に囲まれただけで癒されるもん」
「それをコーディネートしたのは一博氏らしいから、センスが合うのかもしれないね」
「あー……なるほどなぁ……。そうなのかも……」
あんなに美青年でグローバル企業の御曹司、CEOでトリリンガル、しかもセンスも抜群? そんな奇跡ある? 天が二物どころか三物も四物も与えちゃったのかな……。
「美桜がそんなに興味を示すなんて……。まさか、ガチ恋勢ですか?」
千波にニヤニヤされたので、全力で言い返す。
「いやいや、違うって! それだけはない。絶対にない。そもそも五歳も年下だよ? さすがに無理だよ」
これは本心だ。一博は恋愛対象というより弟みたいな存在だ。
「まー、それもそっか。美桜は年上好きだもんね。ちょっと頼りないか」
「そうだよ。ガチ恋ではないけど、年下の美青年を推すぐらい許してくださいよ。誰にでも心のオアシスは必要なんですよ」
半分冗談半分本気で訴えると、千波は「許しましょう許しましょう」と笑っている。
ふと千波は真顔になり、少しためらったあと、質問してきた。
「美桜さ、孝行(たかゆき)さんのことは……もういいの?」
その名を耳にした瞬間、ドクンと胸の奥に冷たい衝撃が走る。
「孝行の話はいいよ……。もう別れたんだし、関係ないから……」
小野(おの)孝行は元カレである。美桜が大学三年のときから付き合い、社会人になってからも二年以上続いた。約四年付き合って別れた計算になる。慶子にも千波にも紹介したし、当時は結婚も考えていた相手だった。
「けど、まだ連絡は取ってるんでしょ?」
千波に聞かれ、正直に答えるしかない。
「まぁ、共通の知り合いがいるから、一応。私から連絡することはないけど」
「なら、完全に切れたわけじゃないんだ」
不本意ながらそうである。共通の友人知人がいる場合、関係をバッサリ遮断するわけにはいかない。そうしたくてもできないのだ。
「孝行さん、結婚するには最高だと思うけどなー」
酔いの回った千波は頬杖をつき、指を一本ずつ折っていく。
「国内最大手の広告代理店出身。現在はWEBデザイン会社の経営者。自宅は港区赤坂。芸能人、著名人の人脈広し。しかも長身。かなりのイケメン。いいなぁ、憧れるなぁ~。いったいなにがいけないの?」
「いや、いけないことはないよ。条件とかそういう問題ではなくて……」
セリフの語尾を遮り、千波は畳みかける。
「年齢も美桜好みの六歳年上でしょう? こんなにすべてが揃ってる人、いる? すっごいもったいなくない?」
つい苦笑が漏れてしまう。
「それはそうなんだけど……」
「話聞いてるとさ、まだ美桜に未練がありそうじゃない? 今年も誕生日プレゼント届いたんでしょ? 別れたはずなのに」
「ああ、そうなんだよね……。家にハンドバッグが届いて」
「どこのやつ?」
千波に聞かれ、渋々ブランド名を告げると、「超高級品じゃん!」と驚かれた。
「迷惑でしかないよ、こういうことされると。返すために会うのも嫌だし。だから、宅配便で送り返したんだけど……送料無駄じゃない?」
「えーっ、もったいない! 送り返すなんて、孝行さん可哀そう……!」
瞳を潤ませ、大げさに嘆く千波を睨みつける。
「困るんだって! こっちはその気もないのに。もらういわれはないでしょ」
「孝行さん、まだ美桜のこと好きだと思うな。あんなに死ぬほど忙しい人がさ、そんな時間割かないって」
心当たりはある。なぜか孝行に執着されている。
添えられたカードには『お互いいい歳だから、将来を一緒に考えよう』と記されていた。友人を介し、SNSで繋がっており、なにかと「そろそろ会いたい」「食事しよう」と誘ってくる。いくら断っても孝行には響かない。美桜はまだ孝行が好きだと信じ込んでいるからだ。高級ブランド品と結婚をエサに元サヤに誘われているのは明らかだった。
「別れた理由ってシンプルに浮気でしょ? 許せない気持ちもわかるけどさぁ。私も昔、昌彦(まさひこ)に浮気されたとき、めちゃくちゃブチギレたこともあったけど……」
昌彦とは千波の彼氏で、現在は順調に付き合っている。
「浮気もなにも、昌彦君は職場の女性と一緒に食事しただけでしょ?」
すかさずツッコむと、千波は半眼になって「食事も立派な浮気です」と断言した。
「孝行と昌彦君はぜんぜん違うよ。私は現場をもろに目撃したわけだし」
「行為があったとしても……だよ? 本人も魔が差しただけって言ったんでしょ? そんなに孝行さんのこと嫌いなの? 一時期は結婚も本気で考えてたよね?」
千波は首を傾げている。当時から千波は、華々しい経歴を持つ孝行の大ファンだったから、頑なに拒絶する気持ちがわからないんだろう。
「正確には、嫌いっていうわけじゃないの。そういうんじゃなくて……」
どう説明すればいいんだろう? おしぼりをいじる自分の指を見つめ、逡巡する。
実は千波に言っていないことがある。話したところで誰も幸せにならないし、純粋で未来のある千波に、暗い顔をさせたくない。
「嫌いじゃないなら、いいと思うけどなぁ。伯母さんも孝行さんのこと気に入ってたでしょ? 私も含め周りも皆二人を応援してたし。伯母さんを早く安心させてあげたら?」
慶子の話をされると胸がチクリと痛む。もう三十歳近いし、なるべく早く身を固め、慶子を安心させてあげたい。
元サヤの可能性を考えなかったわけではない。孝行に百パーセントの理想を求めているわけでもない。人は過ちを犯す生き物だし、誰もが知らず知らずに誰かを傷つけている。美桜だって決して聖人君子ではない。孝行を断罪できるほど偉くもない。
けど……だけど……。
「あの……孝行の話、もうやめない? せっかくの夜なんだし……」
おずおずと申し出ると、千波は申し訳なさそうに手を合わせてくれた。
「それもそっか。ごめんね、なんか。無神経って昌彦からもよく言われるんだよなー」
千波があっけらかんとした性格でよかった。
ここで孝行の話題は終了し、デザートのガトーショコラを食べながら、カードゲームに興じた。海外のカードゲームがたくさんあり、特にポーカーと陣取り合戦を合わせたゲームに夢中になった。ちなみに美桜の連戦連勝である。
そんなこんなで美桜が自宅に帰りついたときには、二十三時を回っていた。
玄関に入ると、飼い犬のこはくが真っ先に出迎えてくれる。
「こはくー! ただいまー! お利口にしてた? よしよしよし……」
こはくはうれしそうに尻尾を振っている。こはくはミックスの白犬で今年十一歳になる。まだ子犬だったとき、保護犬の譲渡会で譲り受け、大切に育ててきた。
はー……。ふわっふわで可愛い! 癒される……。
こはくをさんざん撫で回したあとリビングに入ると、母の慶子がソファに寝そべってネット配信のアジアドラマを観ていた。
「お母さん、晩ご飯ちゃんと食べた?」
言いながら冷蔵庫を開け、アイスティーをグラスに注ぐ。
「大丈夫だって! 年寄り扱いしないで。ご飯もモリモリ食べましたわ。それより、楽しかった? 呑み会」
慶子がドラマを一時停止し、背もたれに顎を載せて聞いてくる。
「うん、楽しかった。牡蠣食べてきたよ、生牡蠣」
報告すると、慶子は「へぇーいいわねー!」とうらやましがっている。
美桜と慶子とこはくは川崎市内にある一戸建てに住んでいる。築三十年超の木造二階建ては、両親が結婚したときに購入した持ち家だ。住宅ローンは完済し、これから余生を楽しもうとしていた矢先、父の茂雄(しげお)が亡くなった。今からちょうど五年前のクリスマスイブである。
生前の茂雄は大企業に勤め、精力的に働き、役員まで務め上げた人だ。
「お父さんは会社が好きで、働くのが好きでね。仕事してるときが一番生き生きしてた。たくさん頑張りすぎちゃったせいで、がんになっちゃったのかなぁ」
慶子は少し寂しそうに語る。
たしかに茂雄は会社にいる時間のほうが長かったし、詳細はわからないけど、いつもなにか重大なプロジェクトに携わっている様子だった。
かといって、家庭をないがしろにしたわけじゃない。不器用だったし、感情表現は苦手な人だったけど、彼なりに家族を愛している気持ちは伝わってきた。
茂雄は血液のがんを患っていたが、亡くなるまでの数年の間、貯金をすべて慶子の口座に移してくれていた。おかげで慶子の老後を心配しなくて済んでいる。
未亡人になったけど、慶子が人生を悲観したことは一度もない。周りをパッと明るくするような慶子の楽天的な性格を、美桜も多少は受け継いでいた。
「それより千波、元気にしてた? 例の彼ピッピと仲良くしてる?」
さっき千波から聞いた内容を伝えた。
「うん、元気元気。仕事忙しいけど、楽しいってよ。今度昌彦君と旅行いくんだって」
慶子は「わーお、いいわね~」と喜んだあと、冷やかしの目でこちらを見る。
「千波は順調なのにあんたのほうはどうなの、ねぇ? いい人いないの?」
うっ、あまり触れられたくない話だ。この手の話題は慶子の追及がしつこい。
「いないよ。毎日まっすぐ家に帰ってくるんだからわかるでしょ。いたらとっくに報告してるって」
「好きな人もいないの? それっぽい人も? 誰か思い浮かばない?」
チラッと、一博の美しい面影が脳裏をよぎる。
が、すぐに内心で自分を𠮟りつけた。ダメダメ。さすがに彼だけはない。五歳差は大きすぎだし、弟みたいな存在だし、なにより汚らわしい目で彼を見てはいけない。
「うーん……誰も思いつきませんね。まったくの虚無です」
正直に申告すると、慶子は「色気ないわねぇ」と嫌そうな顔をした。
いないものはいないんだからしょうがない。二十八歳にもなると結婚が現実味を帯びてくるし、何事にも慎重にならざるを得ないのだ。
慶子はしばし考えたあと、少し言いにくそうに口を開く。
「その、孝行さんのことは……もういいの?」
冷たい風が吹きつけたみたく胸がヒュッと冷え、手にしたグラスをカウンターに置く。
美桜は慶子の問いには答えず、逆に質問してみた。
「そのことなんだけど……。お母さん、一つ聞きたいんだけどさ……」
「なによ」
「お父さんてさ……まぁ若い頃でもいいんだけど、浮気したことあった?」
「あるに決まってるでしょ」
即答され、聞いた美桜のほうがびっくりしてしまった。
「ええっ、そうなの? そういうもんなの?」
「そらあんた、結婚して二十年も三十年も経てば、そんなこと余裕であるがな」
慶子は顔を梅干しみたくクシャクシャにし、謎の方言で言い放つ。
「えー……。それで、どうしたの? まさか、お咎めなし?」
「なしなわけないがな。そりゃあ、どえらい大喧嘩して、家出するわ離婚するわ大騒ぎして、結局……まぁ最終的には許したかな。お父さん、頭下げてくれたし」
「そうなんだ。やっぱり最終的には許したんだ……」
「大事な一人娘もいたしね。お父さんは美桜のこと、愛してくれてるのは伝わってたし。まーモテないお父さんのことだから、お店の若い美女に誘惑されてさ、断れなかったんでしょ。おおかたそんなもんやろと踏んでるわ」
「すごい。わかってんだね、お父さんのこと」
慶子はフフッと笑い、ソファの背もたれに頬杖をつく。
「結婚も家庭生活もさ、ある程度妥協が必要なのよ。築き上げなきゃ、保守しなきゃ、っていう努力が大事。あなたとお父さんと三人の家庭を守るためなら、お母さんの個人的な感情なんてどうでもいいかなーって。最終的には」
「えええー、お母さん、すごい。自己犠牲的……」
感心して言うと、慶子は目を丸くする。
「犠牲なんかないって。だって、お母さんが望んだことなんだから」
「お母さん、菩薩に見えるよ……」
「菩薩でもなんでもないわ。当時お父さんのこと、どつき回し倒して、しばき倒し散らかしたからね」
そんな場面を想像し、笑ってしまう。
「なぁに? 急に浮気の話なんかして。あんた、孝行さんのこと許す気になったわけ?」
慶子にニヤニヤされ、とっさに言い返す。
「許すも許さないもないよ。孝行と別れたのは、浮気が直接の原因じゃないから」
慶子は「そうなの?」と怪訝そうな顔をする。
「もうさ、孝行の話はいいよ。関係ないって言ってるじゃん」
こうして否定すればするほど、実はまだ好きかもしれない、忘れられないのかもしれない、と慶子に思われている気がして、そういう誤解を解くのも面倒なのだ。
「あっと。そろそろ推しの配信が始まるから上に行くね。ほら、こはくおいで」
本当は配信なんてないんだけど、このまま孝行の話をされるのは嫌だ。
慶子の心配そうな視線を振りきり、こはくとともに階段を上って自室に戻った。