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それでもずっと、あなただけ 初恋幼馴染みの一途な求愛 2

第二話


 結衣は通知に気づき、スマートフォンの画面に表示されたメッセージを見ると、返信しないままロック画面に戻した。ついため息を漏らしてしまい、ごめんと両手を合わせる。
「無視していいの?」
 コーヒーフラッペの生クリームのせを飲みながら、テーブルの向かい側で首を傾げたのは、高校入学時からの付き合いで、十二年経った今は親友と言っても差し支えない、浅葱十和だ。十和は、高校時代に金髪にしていた髪を現在はピンクに染めており、アパレルメーカーで働いている。
「うん、あとで返信するから」
「あ、束縛彼氏だ~?」
 にやりと口元を緩めて言ったのは、同僚の佐藤鈴(さとうすず)。十和と結衣で、鈴が幹事を務める合コンに無理矢理連れていかれたのをきっかけに仲良くなり、たまに三人でお茶をするようになった。
 三人がいるのは表参道近くにあるカフェだ。買い物が終わってランチをするために入ったが、そこからすでに二時間は経っており、先ほど二皿目のケーキを頼んだところだ。
 通りから一段高い位置にあるウッドデッキのテラス席は店内と違い客が少なく、取り付けられたオーニングが初夏の強い日射しを遮ってくれるとちょうどいい涼しさで、つい居座ってしまう。それに女性同士の話は止まることがない。
「違うってば! ただの幼馴染みなの!」
 束縛彼氏──は誤解だが、充樹との付き合いは、生まれたときから数えてもう二十八年にも及ぶ。
 ずっとそばにいる──という彼の言葉通り、充樹とは社会人になってからも月に一度は食事に行っており、メッセージのやりとりはそれよりも頻繁だ。だから鈴が束縛彼氏と言いたくなるのもわからないでもないが、充樹と結衣の関係は変わっていない。
 結衣はいまだに執念深く初恋を引きずってしまっているのだが。とはいえ、充樹と恋人になりたいなんて願望はすっかり消え失せており、そろそろ新たな出会いを探そうかと模索しているところだ。
「何年経っても心配性なんだよね。あの人、私が二十八歳なの忘れてると思う」
 結衣はスマートフォンの上に手を置き、ふっくらとした頬を窄めリップで彩った唇を尖らせた。
「そんなこと言ってぇ~。嬉しいくせに~」
 鈴が揶揄うように言った。
「嬉しいよ、でも限度はあるでしょ」
 高校時代とは違い、社会人となった今、見た目にも気を使えるようになった。アイブロウは太めに引き、ぱっちりと大きい目にはなにもせず、ピンクのチークを丸い頬にのせているだけだが、それなりには見えているはずだ。
 肩の下まで伸びた髪は、長くなれば切りそろえる程度で色を変えたことはない。髪に手を加えまくっている十和から「髪が傷んだ」「潤いがない」と何年にもわたり聞かされていると、カラーをする気にはなれなかった。
 結衣は、高校を卒業したあと、豊洲に本社を置く『ぺんねっと』という会社に就職した。就職する際の結衣の第一条件は、まず社員寮のある会社だった。
 教師と相談しながら就職先を探し、ある程度は決めていたのだが、就職しすでに家を出ていた麻衣に、自分の就職先が取り引きしている会社だと『ぺんねっと』を勧められた。社員寮もあるし会社の雰囲気もいいと聞いて、面接を受けたのだ。
 『ぺんねっと』は、オフィス用品の企画、開発、販売をする会社だが、ネットやカタログでの通信販売がよく知られている。
 結衣が在籍する営業部は、自社商品以外の様々な商品を探し契約、カタログ掲載したり、顧客からの注文でカタログの送付手続きをしたりする部署である。
 今は、学生時代とは比べものにならないほど自由だ。寮生活のため貯蓄もそれなりにあり、こうして友人と過ごす時間も取れる。
 麻衣とは、大人になってもわりと連絡を取り合っているが、互いに忙しいのと、麻衣の住んでいる場所がやや遠いことでなかなか顔を合わせられない。
 麻衣は高校卒業後、義正に紹介してもらった会社で、商品企画のデザイナーをしている。
 正直、姉の不器用っぷりを知っている妹としては、就職が決まったと聞き心配しかなかったのだが、かなり楽しく働けていると知り安堵したものだ。
 充樹と麻衣は、家族や叔父らに知られないよう、ひっそりと愛を育んでいるようだ。
(お互い想い合ってるのに、ままならないな……家のことがなかったら、とっくに結婚してたよね)
 何年か前、充樹と結婚しないのか、と尋ねたとき、麻衣は悔しそうに「結婚なんてできるわけがないよ」と言った。
 そのときの麻衣の顔は、高校時代に「付き合えるわけがない」と言っていたときと同じだった。理由を聞かなくとも、二人が交際を公にできる状況でないのはわかっている。
 子どもの頃はよくわからなかった事情が大人になると見えてくる。
 たとえば、藤澤ホールディングスと言えば、オフィスへのOA機器の導入や設置、事業者向けの支援システムの開発を手がける『藤澤OA機器』を初めとした数々の子会社のトップだ。
 親会社である藤澤ホールディングスは売上高数千億規模の大企業であり、トップである義正、息子であり『藤澤OA機器』の取締役に就いている充樹もまた、本来なら両親が生きていた頃でさえ、麻衣や結衣のような一般人が関わることのできないような地位にいる人だということ。
 父が社長を務めていた高津フードサービスは、関東に数店舗展開する肉料理専門店を経営する同族会社である。
 従業員は三十名ほどと少ないものの、少しお高めのファミリーレストランとして主婦に人気があり、当時は銀行からの借り入れもなく安定した企業だった。
 そのため両親が亡くなるまでは、姉妹がお嬢様学校と呼ばれる私立に幼稚部から通えるくらいには裕福だったのだ。
 だが、藤澤家と比べれば天と地ほどの差があるとは知らされていなかった。親同士に繋がりがあったとはいえ、自分たち姉妹はとんでもない家にお世話になっていたものだ。
(これ以上、義正さんたちに迷惑をかけるわけにはいかないよ)
 義正も美沙子も、充樹も、結衣がそう言えば、気にするなと返すだろう。けれど、恩を仇で返すような真似ができるわけがない。
「ずっとスマホぶるぶるしてんじゃん。相変わらずの過保護っぷり!」
 明るい十和の声に現実に引き戻されて、結衣はテーブルに置いたスマートフォンに意識を向けた。
「愛されてる~幼馴染みからの束縛たまらないね~! ドSだったらなおよし!」
 親指を立てて言う鈴に笑ってしまう。鈴は漫画オタクで、特に好きなのがハイスペックでドSな男らしい。そのため結衣から充樹の話を聞いては妄想を滾らせている。
 鈴はまだ鳴り止まないスマートフォンを指差して爆笑しているが、充樹の過保護っぷりは本気で笑えないレベルだ。
「愛されてないってば。過保護なだけ。合コンに行けば説教されるし、夜九時を過ぎると電話がかかってくるし……」
「それお父さんじゃん!」
 十和と鈴の声が揃った。結衣も同じ思いで、うんと頷いた。
 金曜日には必ずと言っていいほど連絡があり、土日の予定を聞かれる。
 一度しか参加したことがないのに、合コンの予定があると言ったときは、一次会が終わると迎えに来て「うちの娘に近づくな」とばかりに周囲を牽制していた。
 合コンは自分には向かないと気づいてからは参加していないため、出会いがない。けれど、この年齢で彼氏の一人もいたことがないのは、実のところかなり焦るのだ。
「ほんとそれ」
 本人に突っ込みを入れたくなるくらい「酒を無理に勧めてくる男はやめておけ」だの「ホテル街が近くにあるようなところに行ったらお前なんてすぐに食われる」だのと苦言を呈してくる。
 結衣はもう二十八歳の大人だ。そういったことも覚悟の上で男性と関わろうとしていたのがわかっていないらしい。そんな風に心配されることを嬉しいと感じてしまうから、募り続けた結衣の恋心もなかなか消化されない。最近では、結婚相談所にでも行こうかと真剣に考えているくらいだ。
「いまだに可愛い、可愛いって撫で回されるとか!」
「そう……それもねぇ」
 充樹の甘やかしが普通ではないことくらいわかる。ぎゅうぎゅう抱き締めて、撫で回して、おでこにキスをして。
 結衣も大人になり、変に知識だけがインプットされてしまっているため、想像力ばかり逞しくなっていけない。
 諦めきれず、何度、充樹との交際を夢見たか。充樹にキスをされて、抱かれるところを、何度想像してしまったか。
 抱き締められるたびに、私の気持ちも知らないで、と言いたくなる。まさかこの歳になってまで、恋心を諦めさせてもくれないなんて思いもしなかった。自分の計画ではとっくにほかの誰かと結婚しているつもりだったのに。
「つか、それで付き合ってないとかマジでウケるよね」
「ね~」
 十和の言葉に、鈴も首を縦に振った。
「昔からこんな感じだからね。もう慣れた」
「抱き締めたり? キスしたり~? 頭撫でたり~?」
 そこんとこ詳しく、と鈴が前のめりになった。
「いや、キスって……頭とかおでこに軽くされるだけだよ」
 それをキスとは言わないだろう。亡くなった両親の代わりに、結衣に愛情を注ごうとしてくれるのはわかっている。充樹の母親である美沙子にも、麻衣や結衣はしょっちゅう抱き締められているくらいだ。
「それ、お姉ちゃんにやってるの見たことあるんだっけ?」
 十和は真剣な表情をして首を傾げる。
「あるある」
 ほかの女性とそういった触れあいをしているのを見たことはないが、麻衣や結衣を抱き締めるのは彼にとって普通だった。
 特別な相手──麻衣には、それよりもっと特別な態度を取るのだと知っている。いまだに麻衣を愛おしそうに呼ぶ彼の声が、頭にこびりついて離れていかない。
「それ、思わせぶり過ぎない? だから、結衣が引きずっちゃうんじゃん」
「うんうん」
 十和の言葉を聞いた鈴は、ほかに気を移す男は絶対だめだと顔の前でバッテンを作った。
「思わせぶりって言うか、子どもの頃からそうだからね。それに私はもう十年以上前に失恋してるから諦めてるよ。ただ、お姉ちゃんは今の状況だと辛いだろうなって……叔父さんのこともあるから、応援もできないし」
「そういや、最近は叔父さんたちと会ってないの? 充樹くんと結婚しろとか言ってくるんでしょ?」
「あ~、うん」
 十和の言葉に頷くと、ため息が漏れる。
 彼女には、藤澤家との関係を始め、叔父たちの虐待に近い自分たちの扱いも含めて話していた。高校時代の話をすると、涙ながらに怒りを露わにしてくれたことを思い出す。
「どっちでもいいから充樹くんと結婚しろとか、落とせとかさ、いい加減にしてほしいよ。投資の会社を始めたとか言って藤澤の家にも電話してるみたいで。これ以上、充樹くんの家に迷惑かけたくないんだけど、なんか焦ってる感じ。たぶんだけど、高津フードサービスも、投資の会社もあまり上手くいってないんだと思う」
 結衣はぎりっと歯を食いしばり、つい先日届いた和広からのメッセージを思い出す。
 それは今までの生活費として給与から一部を払えというもので、結衣は当然、あり得ないと断り続けているが、連絡は執拗だった。
 結衣が家を出てから、年々、彼らからの連絡が増えているのは、両親の遺した金をついに使い果たし、よほど金に窮しているからだろう。
 充樹の父、義正の会社や、藤澤の家にも頻繁に連絡があると聞いている。そして、あろうことか麻衣か結衣のどちらかを充樹の結婚相手にと勧めるのだ。
 もしも麻衣が充樹と交際しているとなれば、叔父夫婦は諸手を挙げて歓迎するに決まっていた。そして、縁戚となった藤澤家に対してあれこれと無心するだろう。
 義正と美沙子は姉妹にとって家族のように近しい人たちだからこそ、麻衣は「結婚なんてできるわけがない」と言ったのだ。もし自分が麻衣の立場なら、同じ選択をするだろう。
 充樹としても、麻衣への想いだけで藤澤家に不利益をもたらすわけにはいかない。
(でも、ずっとこのままで、いいわけがないよ)
 充樹と麻衣の気持ちを考えると苦しくなる。愛し合っているのに、結婚も許されず、交際すら公にできないなんて。
「高津フードサービスは結衣のお父さんたちの遺してくれた会社なのにね。普通に考えてあり得ないっしょ。お金目当てにお姉ちゃんか結衣を充樹くんと結婚させるとか」
「なにそれ~、ひどいね」
 そこまで詳しい事情を知らなかった鈴にも簡単に説明すると、憤った表情を見せた。
「結婚なんて歓迎されるはずないよね。叔父さんのせいで、従業員が路頭に迷うようなことにならなきゃいいけど……」
 叔父夫婦の問題が片付けば、麻衣たちの結婚もあり得るが、あの諦めの悪さを思うと解決は難しいだろう。
(あの、お金と地位に対する執着心を、仕事に向ければいいのに……)
 自宅、両親の保険金、貯金、それに高津フードサービスの報酬もある。贅沢をしなければ一生暮らしていけるくらいの額だったはずだ。それを十数年で使い果たすなんて。
 大企業のトップである充樹の父、義正が、叔父たちにいいように使われるとは思えないが、迷惑には違いない。姉妹と縁を切ろうとしないのが不思議なほどだ。むしろ、叔父が申し訳ないと謝罪するたびに苦笑されてしまう。
「意味わからーん。身の丈に合った生活をすればいいのになぁ。その家だって、一括でぽんって買えるくらいはお金があったんでしょ?」
「うん、私たちにかけるお金はないって感じだったけど、叔父さんは会社の近くにある自分のマンションに女の人を住まわせてたし。叔母さんは旅行やらブランド物やら。私のバイト代でメロン食べてたのに。そんな人たちが親族とか、ほんと恥ずかしい。散々お世話になっておいて、恩を仇で返すような真似ばっかりでさ。義正さんは気にしないでいいって言ってくれるけど。そういうわけにいかないでしょ?」
 結衣はふたたびため息を漏らし、スマートフォンに視線を向けた。先ほどからずっと、スマートフォンは短く振動し続けている。
 今日は出かけるからあとで連絡する、と言ったきり返信しなかったため、心配しているのだろう。一人にはしないという約束をずっと守り続けてくれるのは嬉しいが、本当に過保護過ぎる。彼は今、藤澤OA機器の取締役の地位に就いており、暇なはずもないのに。
「そろそろ返信しないと、寮の前で待ってそうじゃない?」
 十和がスマートフォンを指差して言った。
「う……ごめん」
 結衣はアプリを開き、メッセージを表示する。
 充樹からのメッセージ内容は見なくともわかる。次の食事についての話だ。土日に連絡してくるのは、結衣が合コンに行っていないかの確認も含まれている。
「なに言ってんの、もう慣れたって! ね?」
 十和はがははと笑いながら鈴にも同意を求める。鈴も楽しそうに頷いた。電話を聞く気満々である。
 メッセージに既読が付いたからだろう。何件も立て続けに入っていたメッセージが止まり、電話がかかってきた。彼の声を聞けることに、いやが上にも気持ちが弾む。
(これだから諦められないんだよ)
 大人になっても学生時代の約束を守り、自分を気にしてもらえるのは嬉しい。
 だからこそ恋愛感情がなくならないという弊害はあるのだが、それ以上に充樹がそばにいてくれると思うと心強くもあるし、孤独感に苛まれそうになるとき、すぐに彼の顔を思い出せる。ただ、そろそろ充樹を想い続けるのにも、疲れてしまっているが。
「……はい」
『やっと出た。お前、まだ外にいるのか?』
「うん。友だちと……十和と鈴と会ってる」
『あぁ、浅葱さんと同僚な。話して平気か?』
「少しならね。っていうか、食事はいつにするかって話でしょ? あとでスケジュール見て連絡するってメッセージ入れたよ」
『土日、そんなに忙しい? もしかして、好きな奴とでも会うのか?』
「忙しくないよ。好きな人って……私が彼からなんとも思われてないって話したよね?」
 好きな人がいる──充樹の麻衣への想いを知ったあと、折を見てそう伝えた。充樹は疑いもせずにその話を信じた。結衣が十数年にも及ぶ片思い中だと彼は思っている。
『忙しくないなら来週でいいな。で、なにが食べたい?』
「ちょうどご飯食べ終わったところだから、今は考えられないよ」
『なに食べたんだ?』
「グラタンとパン。このあとで二回目のケーキも来るけど」
『じゃあ、和食にするか。寿司は?』
「寿司は……って、前も言ったけど、そんなほいほい私にお金使わないでよ。昔と違って、私だって少しくらいいいものを食べられるようになったんだから」
 ただでさえ、充樹に連れていかれる食事処は格式高い店が多くて緊張するのだ。昔の餌付け感覚で、腹を満たしてやらなければとでも思っているのかもしれないが。
『昔はよく『充樹くん、プリンが食べたい』って甘えてくれたのになぁ。最近は『充樹くん、大好き』とも言ってくれないし』
 結衣の口調を真似しているのか、充樹の声が一段高くなる。食べたい、のあとにハートマークが見えて、自分の気持ちを言い当てられたような気がしていたたまれない。
「そんなこと言って……たかもしれないけど。私も大人になったんです。今度から割り勘にしてください」
『お前に出させるかよ。んなの、俺のプライドが許さないわ。寿司のあとは、ほら、この間食べてみたいって言ってたケーキ。予約が取れたぞ』
「えっ! 『Boite à bijoux(ボワットアビジュー)』の!? やった! 充樹くん大好き!」
 感情のままに声を出すと、向かいに座る十和が呆れたような視線を向けてきた。鈴はニヤニヤ笑いが止まらないらしく、黙ったまま耳を澄ませている。
『そうそう、お前はそうやって俺に甘えていればいいんだよ。そうだ……お前さ、最近、麻衣に会ったか?』
「ううん、それなりに連絡は取ってるけど……なんで?」
 充樹からは麻衣の話がちょくちょく出る。
 自分と月一で顔を合わせるくらいだから麻衣とはもっと頻繁に会っているのはわかっているが、充樹の口から麻衣の名前が出るたびにおかしな緊張感があった。
『たまには会いに行ってやれって話。あいつさ、昔、散々結衣に迷惑をかけたって負い目があるから、なかなか会いたいって言い出せないんだよ。じゃあ、遅くなる前に帰れよ。また電話する』
 結衣が返事をする間もなく電話が切れた。
 なにか言いたげな視線を正面から向けられて、どぎまぎする。
「充樹くん、大好き……ねぇ」
「う……言わないで。わかってるから」
 十和にも鈴にも、結衣の恋心はバレている。どうやら長年の付き合いである十和に言わせると、見ていてモロバレ、らしいのだ。それなのに、恋愛関係に発展しないのがもどかしくてならないと彼女は言う。
(恋愛関係になんて、発展するはずないのに)
 素直に「大好き」だと言えるのなら、そのノリで告白してしまえばいいと十和は簡単に言ってくれるが、結衣の気持ちが恋愛だと知ったときの充樹の反応を想像するだけで軽く死ねるレベルだ。それに、叔父たちのせいで充樹は麻衣と隠れて交際するしかないのに、結衣の恋が叶うはずがないではないか。
(……困った顔をするに決まってるんだから)
 可愛いだの、大好きだのとどれだけ言われていたとしても、そこに恋愛感情が伴っていなければ、なんの意味もない。それに、あのとき麻衣に向けていたような目で自分を見てくれたことなど、一度もないのだ。
「必死な充樹くんには悪いけど……結衣はさぁ、一回ほかの男と付き合ってみたらいいと思うんだよね。じゃなきゃ、男の下心とか一生わからないままだよ」
「充樹くんが必死って?」
「私にはそう見えるってだけ。本当のところなんてわかるはずないっしょ! だから、それを知るために、もうちょっと男心を学びな!」
「……?」
 十和の言葉の意味がわからず首を傾げると、彼女はジタバタと足を動かして「あぁ~、もどかしい!」と叫んだのだった。


 翌週の土曜日。
 結衣は充樹との待ち合わせのため、社員寮の前で待っていた。社員寮は会社から一駅離れた場所にあり、十四階建てのオートロック付きマンションで、ぺんねっと本社で働く独身の従業員が住んでいる。
 駅までは徒歩十分、駅から会社まではバスで十五分ほどだ。築二十年と新しくはないが、住み心地がよく、光熱費、家賃込みで三万円という破格のため、あまり空きが出ない。
 ただ、ほかにも社員寮はいくつかあり、三十歳までは利用できる。東京の家賃の高さを考えると、ぺんねっとの福利厚生制度は非常にありがたかった。
 充樹が車で来ることを考えて、一時駐車スペースのある場所に向かう。その途中で、同じ三階に住む男性、山川(やまかわ)とすれ違った。
 山川という名字しか知らないが、毎日のバスの時間が同じなようで、たまに朝、駅までの道で一緒になるのだ。彼は商品企画部に所属しているらしい。
「こんにちは」
 結衣が挨拶すると、山川も足を止めて笑みを浮かべた。
「あ……お出かけですか?」
 彼はそう言いながら、髪をぽりぽりと掻いた。爽やかな好青年といった外見でひょろりと線が細い。結衣に会うと、いつも手汗を拭ったり髪を弄ったりしているから、他人と話すのが苦手なのかもしれない。
「はい、山川さんも?」
「俺は……あの、買い出しに。高津さんは……もしかして、デートですか?」
「デート?」
「あ、すみません! 立ち入ったことを聞いて。ただ……あの、会社と違う感じだなぁ、と思って」
「デートじゃないんですけど。ちょっと、幼馴染みと会うので」
 好きな人ではあるから、精一杯のおしゃれをしてしまうのは仕方がない。山川に指摘されたことで、頑張り過ぎだろうかと自分の格好を見直した。
 胸の下で切り替えのあるAラインの半袖ワンピースは、充樹との今回の食事が決まってから新しく買ったものだ。あまり意識していると思われたくもなくて、バッグも靴も仕事に行くときと同じ物にしたのにデートだと思われてしまうとは。
 着替えてきた方がいいだろうか、とスマートフォンの時刻を確認すると、もう約束の時間間近だった。
「幼馴染み……男性、でしょうか?」
「え? まぁ、はい」
「あぁ……そうなんですかぁ」
 どうしてそこで肩を落とすのかがわからず、結衣が首を傾げていると、車のエンジン音が聞こえてくる。ちょうど道路から車が左折して駐車場に入ってくるところだった。
 世界に名だたる国産車のセダンが、一時駐車スペースに停められた。新車のごとく艶めいた黒のボディは結衣の見慣れたものだ。なにせ充樹は大学時代からこの車を乗り回している。けっこう年数は経っているようだが、充樹のお気に入りらしい。
(当時はなにもわからなかったけど、学生が乗る車じゃないよね)
 万が一ぶつけたら修理代がいくらかかるかなんて考えたくもない。そんなことを考えていると、運転席のドアが開けられ、充樹が車から降りてきた。
 結衣に向けて笑みを浮かべた充樹は、隣にいる山川に気づくと一転して目を鋭くした。
「結衣」
 車のドアに手をかけて、こちらへ来いと顎をしゃくられる。どうせまた、そう簡単に男を信用してはならないと懇々と諭されるのだろう。
「迎えが来たので。じゃあ、また」
「あ……あのっ!」
 充樹のもとに行こうとしていた結衣は足を止めて振り返る。山川は先ほどよりも頬を赤く染めて、震える声で言った。
「か、彼氏……じゃないんですよね!?」
 頷こうとすると、なぜだか充樹が背後から抱き締めるようにして、結衣の耳を両手で塞いだ。水の中に入ったかのように周囲の音がぼやっと聞こえる。
「今はまだ、な。だから、あんたに結衣はやらない」
 彼がなにを言ったのかはわからなかった。ただ、驚いたような山川の顔を見れば、またいつものように、保護者代理として牽制したのだろうと推測できる。
「行くぞ。お前、なに膨れてるんだ」
「べつに」
 充樹はなぜ自分が睨まれるのかわからないという顔をして、結衣の頭にキスを一つ落とした。キス一つで機嫌を取られ、まんまと浮き立ってしまう自分が悔しい。
 結衣は今度こそ、立ち尽くしたままの山川に会釈をして、助手席に乗り込んだ。
 シートベルトを締めていると、運転席に乗り込んだ充樹が覆い被さるような体勢で額を押し当ててくる。ごつっと鈍い音がして涙目で彼を見上げた。
「痛い。なにするの?」
「今の男、知り合いか?」
 充樹は逃がさないとばかりに、覆い被さったままの体勢で聞く。
 彼の胸元が触れるほど近いが、この距離感にドキドキしているのは自分だけ。
「同じ社員寮の三階に住んでる山川さん。朝たまに同じバスになって、それで挨拶するようになったの」
「本当にそれだけか?」
 べつに充樹に怒られるような真似はしていない。知り合いと挨拶をしただけでどうして問い詰められなければならないのだろうか。
「それだけに決まってるでしょ」
 結衣がそう返すと、充樹は深くため息を吐いて窓の外に目を向けた。そこにはまだ山川が立っていて、こちらを見ている。
「それだけ、ね。そう思ってるのはお前だけだろ。危なっかしい。これだから放っておけないんだって、いい加減に気づけよ」
 髪を撫でられて、両手で頬を包まれた。額と額が触れて、頬をぶにぶにと押し込まれる。外から車内を見ている山川からすると、口づけているように見えると、結衣は気づいていない。唇をタコのように突きだした結衣の顔を見て、充樹が噴きだした。
「む~~~~!」
「ははっ、まぁいいや。行くぞ、遅くなる」
「まぁいいや、じゃないでしょ。人の顔を見て笑うなんて失礼なんですけどっ!」
「笑ってない。可愛いって思っただけだ」
 充樹はエンジンをかけて、車を発進させた。
「充樹くんは〝可愛い〟って言えばなんでも誤魔化せるって思ってない!?」
 呆れた眼差しを向けつつも、その言葉に胸をときめかせてしまう。
 たとえ恋愛感情の〝可愛い〟ではなくとも、そう言われるたびに喜んでしまうのを、彼はまるでわかっていない。
「誤魔化してない。心底可愛いと思ってるに決まってんだろ」
 挨拶のような軽い口調で言われて、どうして信じられると言うのか。結衣は、充樹に女性として可愛いと思われたい。充樹の恋愛感情が自分に向くことはないとわかっていながら、胸の中に押し込んでいる恋心がたまに溢れそうになる。
 麻衣も充樹もどちらも大切な人だ。幸せになってほしいと思うのはうそではない。
 ただ、そのたびに頭の中にちらつくのは、麻衣に好きだと言っていたときの充樹の顔だ。心底愛おしいような目を向けて、麻衣を抱き締めた彼。その顔を、その声を一度でいいから自分に向けてほしいと、叶いもしない願いを胸の奥底に隠している。
 どうしたらこの恋を終わらせられるのか、もうわからなかった。
 湾岸線を見渡しながら、都道を銀座方面へ二十分ほど走ると、ホテルや美術館といった高層ビルが建ち並ぶエリアに出る。
 混雑する歩行者天国を避けたのだろう。充樹は、新橋寄りにあるホテルの駐車場に車を停めて外に出た。
 御門通りから細い道に入ると、高級腕時計でおなじみのブランドや飲食店が建ち並ぶ通りになる。飲食店を利用する客が何台かのタクシーから降りてきて、通りを歩いていく。
 しばらく行くと、ぽつんと看板の置かれた店が見えてきた。よくよく店の名前を見れば、結衣でも知っているような有名な寿司店だった。
「ここ?」
「あぁ」
 勝手知ったる足取りで前を歩く充樹についていくと、通路を歩き自動ドアを抜けた先にエレベーターがあり、それで三階へと上がった。
 予約をしていたのか名前を告げるとすぐに席に案内される。
「こちらになります」
 通されたのは六畳一間の和室で、黒のテーブルの周りに座椅子が四つ置かれている。廊下を挟んで反対側にも個室があるようだ。
 テーブルに置かれたメニューには、握りと鮨懐石とだけあり、値段は目が飛び出るほど高かった。なにがいいかとは聞かれない。充樹は、こういうとき結衣が一番値段の安いものを選ぶとわかっているからだ。
「飲み物はどうする?」
 ドリンクメニューを手渡されて、ついつい冷酒に目が吸い寄せられる。向かいに座る充樹がくすりと笑い、仲居に冷酒を一つとウーロン茶を一つ頼んだ。
 突出しと冷酒、ウーロン茶が運ばれてくると、いつものように充樹と乾杯をしてグラスを傾ける。先にグラスをテーブルに置いた充樹が切りだした。
「お前が酒を飲む日が来るなんてな」
 そのセリフは父が息子や娘に言うものではないだろうか、と結衣は目を細めながら、椀を手にする。本来ならば一生に一度程度しか来られないであろう高級店にも、何度も充樹に連れて来られているせいで、緊張はするもののそれなりに慣れてしまった。
「それ何回も言うけど……私たち二つしか離れてないよね。あ、お吸い物、美味しい」
 テーブルに刺身が置かれて、そのあとに焼き物、握りと続く。その美味しさに感動しながら握りを頬張っていると、さっさと食べ終えた充樹がグラスを傾けながら口を開いた。
「足りなかったら、追加で握りを頼むからどんどん食え」
「もうお腹いっぱいだよ。それに『Boite à bijoux』の予約してくれたんでしょ?」
 結衣は無理矢理笑みを浮かべながら、お腹を摩った。一品は物足りないくらいの量でも、何皿も食べていると腹は膨れる。
「じゃあ、食べ終わったら行くか」
「うん。ごちそうさまでした。いつもありがとう」
「結衣にたらふく食わせるのが俺の趣味だからな」
 空になった皿を見て、充樹は満足そうに笑う。昔から餌付けされていたのはそういうことかと納得しつつも、それもいつまで続けられるかと考えてしまう。
(一緒にいられない方が……忘れられていいかもしれないけどね)
 胸を締めつける切なさも、顔を見なければ時間と共になくなっていくだろう。
 きっと、本当はその方がいい。期待することもなく、優しさに甘えることもなくなれば、ほかの人に目を向けられる日が来るかもしれない。
 駐車場には戻らず、歩いて予約をしていた次の店に向かった。
 そう待たされることもなく、個室に通される。楽しみにしていたケーキを食べながら、いつもと同じように近況報告をしていると、充樹がふいに真剣な目でこちらを見る。
「お前さ……昔、好きな男がいるって、俺に言ったよな?」
「う、うん」
 突然、なんの話だろうと、結衣は動揺しフォークを落としそうになる。
「叶わなくても、一生そいつのことが好きだって言ったな?」
 結衣はそう言った当時のことを思い出し、目を細めながら頷いた。
「そうだね……今さらどうにかなりたいわけじゃないけど、忘れられないから。でも、周りがどんどん結婚していくと焦りはするんだよね。ほかの男の人と付き合った方がいいって十和にも言われたし、どうせなら結婚相談所とか行ってみようかなって」
 恋心を向けている相手は、昔から充樹だけだ。けれど、充樹が好きなのも、昔から麻衣だけ。そこに自分が入る余地はない。
「新しい出会いだって、誰でもいいわけじゃないだろう」
「なにが言いたいの?」
 当たり前だ、誰でもいいわけではない。できるなら相手は充樹がいいけれど、それが叶わないから、好きになれそうな人を見つけたいと思っているだけだ。
「お前さ、好きな相手とじゃなくても付き合えるわけ? 結婚相談所ってことは、結婚をゴールと捉えてるよな? その先も、好きでもない相手とずっと一緒にいられるのか?」
「好きになれるように努力するしかないでしょ。だって……私の好きな人は、べつの人と付き合ってるんだから」
 結婚できなくとも、障害があっても、互いに想い合う二人に割って入れるはずがない。
 結衣は唇を噛みしめながら、テーブルに視線を落とした。
 いつまでも不毛な片思いに身を焦がすより、その方がずっと健全である。なにも知らないからだとわかっているが、充樹にだけは言われたくなかった。
「結衣、男と女が付き合ってなにするか、知ってるか?」
 そこまで子どもではないと叫び出しそうになって、言葉を詰まらせる。いつもとはどこか違う充樹の目。それが男の欲を感じさせるような眼差しに見えて動揺が胸を突く。
「好きな男を忘れられないまま、ほかの男とセックスできんの?」
「……っ」
 鋭い目に射貫かれて、息が止まりそうになる。
 彼は、息をするのも躊躇ってしまうようなひりついた空気をすぐさま霧散させると、やれやれと肩を竦めて呆れたように言った。
「この程度の会話で真っ赤になるくらいじゃ、お前にはまだまだ早いよ」
 どうやら結衣を試しただけのようだ。けれど、彼の口から男女の色事に触れられたのは初めてのことで、まんまとおちょくられた結衣は、目に涙を滲ませる。
「早くない! ずっと想い続けてるのが辛いから、もう忘れたいから、ほかの誰かを好きになりたいと思ってるだけだよ! 意地悪ばっかり言わないで」
 結衣の気持ちをわかってくれない悔しさと腹立たしさで目の前が霞んでくる。
 どうせ想い続けたところで叶わないとわかっているから、ほかの誰かと出会いたい、ほかの誰かを好きになりたいと思うことのなにが悪いのだろう。
「泣くなよ」
「だって……充樹くんが」
「忘れたいなら、俺が相手になってやる」
「え……?」
 涙を拭った指先が唇に触れて、頬を撫でられた。
 一瞬、なにを言われているのかがわからず、結衣は首を傾げる。
 どうせまた揶揄っているだけだろう。どうせまた触り心地がいいと言いながら頬を揉むのだろう。
 そう思いながら、顔を上げて恐る恐る彼の目を見た。すると、自分を見る充樹の目が先ほどと同じように情欲を孕んでおり、それがあのとき麻衣に向けていたものと同じに思えて、ふたたび息が止まりそうになった。
(なんで? その目で私を見るの? 充樹くんは、お姉ちゃんを好きなんでしょ?)
 ずっと女として見てほしいと思っていた。それが叶ったはずなのに、失望のような気持ちまで芽生えてきて、頭の中が冷えていく。
「どういう、意味?」
「だから、俺と結婚しようって言ってる。たとえお前がほかの男を好きでも、それごと受け入れてやる。結婚相談所に行くくらいなら、恋人も、セックスの相手も全部……俺でいいだろ」
 ぴしゃりと言い切られて、手に持ったフォークがテーブルに落ちた。結衣の動揺が伝わったのか、落ちたフォークをそっとケーキの皿に置かれ、真剣な目に見つめられる。
「どうする?」
「なに言ってるの……本気?」
「冗談で言うかよ。本気に決まってるだろ」
 揶揄っている様子も、茶化すような雰囲気もない。
 だからなおさら意味がわからなかった。麻衣と交際しているはずの充樹が、まるでなんでもないことのように自分と結婚しようと言う。充樹が、知らない人に見える。
 麻衣に対しての申し訳なさと、充樹に裏切られたような気持ちで、頭の中は混乱を極めていた。受け入れがたいはずなのに、麻衣を裏切れるはずもないのに、自分が首を縦に振れば彼と結婚できるのかと想像してしまい、どうしようもないほど気持ちが揺らぐ。
(なんなの……意味がわからない)
 断る一択に決まっている。冗談でも受け入れられるはずがない。
 それなのに、言葉が出てこなかった。
 だめだと、無理だと言えなかった。
 彼との未来を期待してしまう。叶わないと思っていたから余計に、目の前に差しだされたごちそうに飛びつきそうになってしまう。
「そろそろ行くか」
 充樹に腕を引かれて、答えを出せないままスイーツ店を出た。
 駐車場に戻るまで、互いに言葉はなかった。彼はいつものように茶化すこともせず、結衣の手を引いた。
「二週間後、あいつらのとこに結婚の挨拶に行く。それまでに決めろ」
「待ってっ、充樹くんは、お姉ちゃんじゃなくて、いいの?」
「麻衣はだめだろう」
 充樹はそう言って目を細めた。その顔は切なげで、麻衣への想いに溢れている。本当は麻衣と結婚したい、けれどできない、そんな気持ちが垣間見えた気がした。
「なんで」
「それは本人に聞け」
「充樹くんは……本当にそれでいいの?」
「あぁ、いい加減ウザいからな。あいつらの思惑に乗ってやろうと思って」
 充樹は迷惑そうにしながらもそう答えた。
 和広は充樹にもさりげなく姉妹との結婚を勧めていたはずだ。その思惑に乗り、なんらかの形で和広を排除しようとしているのかもしれない。
「でも、義正さんと美沙子さんが許すとは思えないけど」
 和広は間違いなく今まで以上に藤澤家に擦り寄ろうとするだろう。藤澤家に仇なす存在が縁戚となるなんて、人のいい義正と美沙子であっても許すはずがない。
「父さんたちは大丈夫だ。俺の気持ちは伝えてあったからな」
 義正と美沙子は結婚に反対していない?
 ならばどうして、麻衣ではなく、結衣と結婚するなどと言うのだろう。
 充樹は結衣の頭にぽんと手を置き、いつものように髪をくしゃくしゃにする。
 この人がほしい、そんなどうにもならない恋情に呑み込まれそうになる。
 自分と充樹が結婚すれば、麻衣との関係が壊れる可能性だってあるのに、なにも考えられなかった。
「二週間以内に連絡しろよ」
「わかった……」
 助手席に座ると、エンジンがかけられる。
 そのとき、結衣のバッグの中でスマートフォンが振動した。メッセージを見て、一気に血の気が引く。なんというタイミングだろう。
(お姉ちゃん……)
 麻衣からのメッセージは、話があるから近々会えないかというものだった。最近はメッセージのやりとりばかりだったのに珍しい。
 結衣は一つ息を吐いて、窓の外に視線を向けた。
 なぜ突然プロポーズされるのか、麻衣はだめだという意味はなんなのか、訳がわからず頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。
 それでも、高鳴る胸は抑えられず、麻衣に対しての申し訳なさばかりが募っていった。


 結衣は鍵を開けて部屋に入ると、バッグを床に置いてベッドにダイブした。
「……無理……ほんと無理。喜ぶとか、私、最低」
 まだ手も洗っていないし、風呂にも入っていないが、なにもしたくない。
 それもこれも充樹のせいである。
(結婚するとか……なに考えてるの)
 しかし、自分自身、拒否感がまったくないことに嫌気が差す。
「お姉ちゃんは充樹くんが好きなのに……充樹くんだって」
 その妹である自分と結婚しようとしているなんて信じがたい。
 それならどうして麻衣と結婚しないのだろう。
「もう~、お姉ちゃんを好きでもいいから、できるなら結婚したいわ!」
 結衣は自分の顔を枕に押しつけて叫んだ。
 本心ではあの場で頷いてしまいたかったのだ。
 充樹が誰を好きでもいいから、自分を選んでくれるなら受け入れると。もし、麻衣からのメッセージの受信がなかったら、どうなっていたか。
「そうだ……返信しなきゃ」
 小さくあくびをこぼしてベッドから身体を起こす。このまま眠ってしまったら、化粧を落としていないせいで顔がカピカピになるだろうし、肌にも悪い。
 バッグに手を伸ばし、ベッドの上であぐらを掻きながらアプリを開いた。すると、ちょうど麻衣からの着信でスマートフォンが振動する。
「電話? 珍しい……もしもし、お姉ちゃん?」
『結衣? 今、平気?』
「うん、平気。今、メッセージに返信しようと思ってたんだよ。遅くなってごめん」
 既読がついていたのに返信がないから電話してきたのだろうか。けれど、麻衣はそこまでせっかちなタイプではない。
 結衣は、まぁいいかとスマートフォンをスピーカーにして、ベッドに放った。
「そういえば、最近、仕事はどう?」
 つい心配で聞いてしまうのは、昔の癖だ。
 すると、麻衣が噴きだすように笑う。
『もう……っ、充樹といい、結衣といい、私ってそんなに頼りない? これでも、ちゃんと社会人できてるのよ?』
 お姉ちゃんがちゃんと会社で働けているなんて思えなくて……と言ったらさすがに怒るだろうから言わないが、気持ちとしてはそのようなものだった。
「わかってるけどさぁ。昔のお姉ちゃんを知ってるとね。心配になっちゃうの」
『それは……ほんとに申し訳なかったなって思ってます。いくら結衣がしっかりしてるからって、妹に甘えるなんて姉失格だし。充樹にも、結衣に心配かけるな、もうちょっとしっかりしろって何度も怒られたもの』
「だから私にあまり連絡して来ないんでしょ」
 麻衣は高校を卒業したあとすぐ、就職した会社の社員寮に入った。麻衣がちゃんと働けるか心配だったし、寮なんて生活力のない麻衣には難しいのではとも思ったのだ。
 きっとすぐにでも助けを求める連絡があるに違いないと覚悟していたのだが、予想に反して社会人になった麻衣からの連絡は少なかった。
 むしろ、自分はちゃんとやっているから心配するな、というような内容のメッセージが多かったように記憶している。
 その頃、結衣は高校二年生になり、相変わらずの叔父夫婦の世話に毎日のアルバイトで、麻衣を気にする余裕もなく会いにもいけなかったのだが、充樹がちょくちょく麻衣の様子を教えてくれていたのだ。
『ん~まぁ、それだけじゃないんだけどね。ほんとに心配しないで。掃除、洗濯、アイロン掛けだってお手の物だし。あ、最近は料理だってできるようになったのよ。ふふ、信じられないでしょ~?』
 麻衣は、電話の向こうでガッツポーズでもしていそうな調子で声を弾ませた。
「え~お姉ちゃんが料理? ほんと? 火事起こさないでよ?」
『まったく……本当に充樹と同じことばっかり言うのよね、もう。でも本当よ。寮の隣に住んでる後輩がね、教えてくれたの。最初は、あり得ないって何度も怒られたわ。あんたは社員寮で火事を起こす気か! なんて怒鳴られてね……でも、いろいろと助けてくれて、その人と料理をするようになったの』
 不器用な麻衣がと思うと、妹として感慨深くはあるが、心配ないと言った声色が明るくてほっとした。きっとその人が、麻衣をフォローしてくれていたのだろう。
「そっか、よかった」
『言い方まで充樹そっくり。充樹がパパなら、結衣はママね。二人とも心配性』
「え~! 私は充樹くんほどじゃないって」
『そうかしらねぇ~?』
「ところで、近況報告で電話してきたの? 話があるってメッセージに書いてあったけど」
『あ、そうだった。忘れてたわ』
 ぺちんと額を叩くような音が聞こえて、そんな相変わらずなところにほっこりしながら結衣は笑った。
「もう~お姉ちゃんってば」
『ごめんごめん。あのね、近々会えないかって送ったのはね。今、お付き合いしてる人と結婚することになったから、一度結衣に会ってほしかったのよ。ほら、さっき話した、社員寮の隣に住んでる人なんだけど』
「……え? け、結婚っ?」
 まさかそのような話だったとは夢にも思っておらず、叫ぶような声を上げてしまう。
『結衣、声が大きいわ』
「ご、ごめん! でも驚いて……」
『そうよね。最初は私もいやなやつ~って思ってたんだけど。不思議なことに、あの人に怒られないと一日が終わった気がしなくなっちゃって。おかしいでしょう?』
 出会ったのは半年前で、デートはどこでと語られる。そんな話を聞きたいわけではなかったのに、電話口で惚気られると、相変わらずのマイペースな麻衣に力が抜ける。
「ねぇ、それ……充樹くんも知ってるの?」
『もちろん知ってるわ。この間、こっちに会いに来てくれたときに紹介したもの。結衣には自分で言いたいから黙っていてって言ったの』
「そっか……」
 今日会ったときには、充樹は麻衣の結婚を知っていたのだ。
 たとえ傷ついていたとしても、それを顔に出すようなタイプではない。ただ、ずっと想い続けていた麻衣に恋人ができたと知り、思うところはあっただろう。
(だから、あんなこと言ったの……?)
 麻衣が結婚してしまうと知っていたからだとしたら、彼らしくない言動にも納得がいく。

 ──忘れたいなら、俺が相手になってやる。
 ──俺と結婚しようって言ってる。たとえお前がほかの男を好きでも、それごと受け入れてやる。

 もしかしたら彼は、かなり自暴自棄になっていたのではないだろうか。
(そうだよね、何年も想い続けるくらい……好きなんだから)
 そう考えてはたと気づく。
 今日の食事の際、彼はすでに麻衣の結婚を知っていた……ということは。
 ざっと血の気が引き、いやな予感が胸を突く。
(だから、私を)
 こくりと喉が鳴り、心臓が早鐘を打つ。
 麻衣と自分は顔立ちだけは似ている。双子だと間違われるくらい。
(私を……お姉ちゃんの代わりにしようと思った……?)
 麻衣の気持ちが離れていったことを知り絶望した彼が、同じように過去の恋を忘れられないでいる結衣を、傷を舐め合う関係に選んでもおかしくはない。
『結衣? 聞いてる?』
 麻衣の声が聞こえて、電話中だったことを思い出す。
 自分の考えは憶測の域を出ないのだ。けれど、考えれば考えるほど、まるでそれが真実であるような気がしてならなかった。
「ごめん、聞いてるよ」
『あのね、結衣……もう私に遠慮しなくていいんだからね』
 麻衣は、結衣に言い聞かせるような口調で言った。
「遠慮?」
『充樹のこと、好きなんでしょう?』
「……っ」
 驚きに息を呑む。
『結衣が必死に隠そうとしてたから言わなかったけど、ずっと前から気づいてたの。私が充樹を好きだって知ってたから、遠慮してたんでしょう?』
「知ってたんだ……」
 充樹の想いに気づいてからは、気持ちがバレないように麻衣の恋を応援するような態度を取っていたし、好きな人がいるとも伝えていたのに。
『少し前までは複雑だったのよ。結衣を応援したい気持ちはあっても、自分の気持ちに折り合いが付けられなくて。結衣に充樹と幸せになってほしいなって思えるようになったのは、今の彼のおかげ。ほんと私っていつも自分のことばっかりよね。ごめんね、こんなお姉ちゃんで』
 麻衣の懐かしむような声の中に、充樹への恋情はないように思えた。どういう葛藤があったのかはわからないが、麻衣の中ではすでに決着のついている感情なのだろう。
「お姉ちゃん……もしかして、私の気持ちを知ってたから、遠慮したんじゃ」
 結婚適齢期に差しかかっても、二人がその決断をしないのは叔父が理由だとばかり思っていた。だが。
 結衣が、充樹への想いを断ち切ろうとしたように、麻衣もまた同じだったとしたら。
 結婚なんてできるわけがない、と言ったのは、結衣の気持ちを知っていて、充樹と結婚できるわけがないという意味だとしたら。
(私の、せい?)
 結衣が自分の気持ちを隠しきれなかったからだ。
 申し訳なさや己の不甲斐なさに苛まれながらも、麻衣の結婚を聞き、どこか安心している自分もいて、そんな自分のずるさが嫌になる。
『結衣……勘違いしないで。今の彼と付き合ったのは、私が彼を好きだと思ったからだし、ずっと一緒にいたいから結婚を考えたの。充樹のことは関係ないのよ』
 麻衣は少し怒ったように、珍しく早口に言った。
「ごめん……そうだよね……お姉ちゃん、おめでとう」
『ありがと。そういえば、まだ叔父さんたちから連絡あるの?』
「あ~けっこうしつこいよ。充樹くんと結婚しろだのなんだの。お姉ちゃんは、着拒のままでいいからね」
『結衣も着拒にして、あの人たちからの連絡なんて無視すればいいのに』
 麻衣は、高校を卒業し叔父夫婦の家を出てすぐに、彼らとの連絡を絶った。就職先も寮の場所さえも知らせなかった。その方がいいと結衣も思う。
「だって、充樹くんになに言ってくるかわからないし」
『もちろん藤澤家に迷惑をかけてるのは私も申し訳なく思ってる。でも、義正さんも美沙子さんも充樹も、そんなことぐらいで動じないでしょう? むしろ頼った方が喜ぶし、結衣が一人で抱え込んでいたら心配するわ』
「うん、きっと、そうなんだろうけどね」
『あまり我慢しないで。なにかあったらちゃんと充樹に助けを求めるのよ?』
 充樹に、と言われて、思わず噴きだす。
「そこはうそでもお姉ちゃんにって、言うところじゃないの?」
『私が下手に関わったら裏目に出そうだもの。あの人たちにこれ以上利用されるわけにいかないでしょ。だから、難しいことを考えるのは充樹に任せる。そりゃあね、姉としては心底情けないと思うけど』
「そんなことないよ。一緒にいてくれるだけで心強かったもん。ありがとう」
 麻衣との電話を切ったあと、なにをする気も起きず、スマートフォンの画面を見ていた。
 充樹を好きでいたはずの麻衣が、べつの男性と結婚する。
 充樹もそれを知っているという。
 ひっそりと愛を育んでいた二人が結婚に至らなかったのはなぜか。
(お姉ちゃんは違うって言ってたけど、やっぱり、私のせいだよ)
 二人にどういう話し合いがあったのかはわからない。ただ、麻衣が充樹との別れを決断し、ほかの男性の手を取ったのだけはたしかだ。結衣がその一因となったことも。
「充樹くん……ごめん」
 結衣は膝を抱えて、自らの身体を抱き締めるように腕を回した。
 彼に対して申し訳ないと思うのに、彼の愛がもう二度と叶わないことに安堵する自分もいる。そして、たとえ充樹の心が手に入らなくとも、身代わりだとしても、自分を選んでもらえたことを喜んでしまっていた。


 麻衣の電話から二週間。
 今日は叔父夫婦の家に充樹と結婚の挨拶に行く。結衣は、社員寮まで迎えに来てくれる充樹を一時駐車スペースの近くで待っているところだ。
 結衣は結局、なにも気づかないふりをして、充樹の提案を受け入れた。たとえ麻衣の身代わりとして求められたとしても、好きな人の手を拒めるはずがなかった。
 先日の夜の充樹の態度を見れば、結衣に麻衣を重ねて見ているだけだとしても、少なくともセックスの相手になってもいいと考えてくれているわけだ。
 今は、それでいい。
 約束の十分前だが、見慣れた車が駐車スペースに入ってくる。結衣は車に近づき、運転席を覗き込み手を振った。ロックが解除されたのを確認し助手席のドアを開ける。
「迎えに来てくれてありがとう」
 結婚の挨拶に行くためか、充樹はワイシャツにネクタイを締めていた。休日に会うことがほとんどでスーツ姿を見られる機会は多くないから、少し嬉しい。
「あぁ。さっさと終わらせて、夕飯食いに行くぞ」
 充樹はエンジンをかけて、車を発進した。
 叔父には十四時を目処に行くと伝えてある。
「そうだね」
 結衣は、充樹の真意を探るように運転席に目を向けた。
「そういえば……お姉ちゃんから結婚するって連絡が来たよ。知ってたんなら、教えてくれればよかったのに」
 冗談っぽく口に出してはみたものの、顔が強張っているのが自分でもわかる。
「自分で言うからって麻衣に言われたんだよ」
「旦那さんになる人に会ったんでしょ? どんな感じだった?」
 自分にほとほと呆れてしまう。彼を傷つけたいわけではないのに、止められない。
「しっかりした人だったな。麻衣のポンコツぶりに呆れもせず付き合うし……あぁ、雰囲気がお前に少し似てるよ」
「私に?」
 充樹は頷き、なにかを思い出すように目を細めて笑った。
「麻衣ができるようになるまで、根気強く家事を教えてただろ。あいつがネガティブにならないように、お前はいつもさりげなく手を差し伸べてた。そういうところが似てる」
 充樹の話を聞いていると、麻衣はいい人と出会ったのだと思える。彼の表情の中に憂いはないように見えるが、麻衣の結婚についてどういう気持ちで語っているのだろう。
「それは……自分のためだよ。あのときは、お姉ちゃんにも手伝ってもらわないと、どうしようもなかったから」
「だとしても、中学生ができることじゃない。俺はあの頃、自分がなにもできない子どもだって現実を突きつけられて、ものすごく悔しかったからな。お前たちが苦しんでいるのに、助けることもできなかった」
「なに言ってるの、どれだけ助けられたかわからないよ。忙しいのに、家庭教師してくれたし……たまに美味しいご飯が食べられるの、嬉しかったんだよ」
「それは俺の力じゃないだろ。俺の希望ではあったが、お前たち姉妹の様子を見るために家庭教師って形にしたのはうちの両親だ。父さんはあいつらがうちと関わりを持ちたいのを知ってたからな。反対されないとわかっていたんだろう」
「そうだったんだ」
 考えてもみれば、姉妹の両親が亡くなった当時、充樹はまだ中学生だった。抜きん出て頭がよかったが、まだ十代の子どもが、結衣たち姉妹を助けられるはずもない。
「大人になったら今度こそ自分の手でお前を助けられるようになりたいと思ってた。ようやく、それが叶う」
 彼が助けたいと望んだのは、結衣ではなく麻衣だろう。彼は愛する麻衣の穏やかな生活のために、この結婚を決めたのかもしれない。
「お前が誰を想っていても、俺はもう遠慮しない。不毛な片思いに終止符を打ちたかったんだよな? 一足飛びに夫になるが、俺は夫としてお前だけを愛するよ。結衣は?」
 切なげに歪む彼の顔に、麻衣への恋情が見え隠れしている気がする。麻衣を好きでいながら、結衣に愛を伝えなければならないのは、ひどく虚しいだろう。
 それでも、結衣だけを愛するという言葉は嬉しかった。
「私も同じだよ。結婚したら、妻として充樹くんだけを一生好きでいる。一生だからね。別れないよ? 本当にそれでいいの?」
「あぁ」
 結衣が問うと、彼は自分の想いさえ断ち切るようにはっきりとした口調で言い放った。そして、どうしてか安堵の笑みを浮かべる。
「じゃあ、決まりな。どうせ金の話になるだろうから、あいつらとは俺が話す。お前は話を合わせてくれ」
「……うん」
 叔父夫婦の家の近くにあるコインパーキングに車を停めて、徒歩で家に向かった。チャイムを鳴らすと、すぐに中からばたばたと足音が聞こえてドアが開けられる。
 佳子は、結衣から充樹に視線を移し、目を輝かせた。
「まぁまぁ! 充樹くん! 立派になって! 久しぶりね~」
 佳子は甲高い声を上げると、充樹にだけ声をかける。
「お久しぶりです。十年ぶり、くらいでしょうか」
「えぇ、えぇ! そうよ、麻衣も結衣も働き出したらまったく顔を出さないんだもの。麻衣なんて連絡すら取れないし。こっちは心配してあげてるって言うのにねぇ。充樹くんはご実家によく帰ってるんでしょう? ご両親はお元気?」
 充樹の実家と、結衣たちにとってのこの家を同列に語れるわけもないのに、佳子はさも実家に寄りつかない娘への愚痴のように語った。
「そうですね……今は年に数回ですが。父も母も変わりありません」
「よくできたご子息ね~。充樹くんからもこの子に言ってやってくれないかしら」
「結衣は、うちの親を本当の親のように慕ってくれていますから、俺と一緒に実家に顔を見せていますよ。両親も結衣が来ると喜ぶので」
「あら……そうなの。充樹くん、どうぞ、あがって」
 佳子は一瞬、眉を顰めて結衣を見たが、すぐに切り替え笑みを浮かべると、充樹をリビングのテーブルに案内した。そこにはすでに叔父──和広が席に着いていた。
 この家に来たのは高校を卒業して以来だが、なんというかずいぶんと荒れた印象だ。
 結衣が住んでいた頃と家具は変わっていないのに、掃除がまったく行き届いておらず、ソファーの革も破れている。一応片付けた、という状態なのか、なにかの書類がリビングの脇に積まれていた。それに、室内はエアコンがついていなかった。今日はすっかり夏日の陽気で、和広も佳子もかなり暑がりだったように記憶しているが。
 和広の頭は白髪が増え、でっぷりと肥えていた腹が引っ込んでおり、やつれたように見える。佳子は服や宝飾品を買い集めるのが好きで、買って着ないまま捨てることも多かったのに、着古したような服を着ていた。いっさいアクセサリー類を身につけておらず、昔を知っている結衣からすると同一人物とは思えないつづまやかさだ。
「結衣、なにをぼうっとしているの! 早くお茶の準備をなさい!」
 性格は変わっていないらしい。充樹と一緒にテーブルにつこうとしていた結衣に、佳子が言った。ため息をつきながら立ち上がろうとした結衣を制したのは隣に立つ充樹だ。
「長居するつもりはありませんから結構です。結衣も座れ。いいですよね?」
「……あぁ、君がそう言うなら」
 有無を言わせぬ口調で充樹が言うと、苦々しい顔をしながらも和広が頷いた。
 藤澤と懇意になりたい和広からすれば、充樹の機嫌を損ねるわけにはいかないのだろう。
「気が利かない子でごめんなさいね」
 来て早々に空気が重苦しい。充樹の言う通り、用件を済ませてさっさと立ち去りたいものだ。そう考えていると、場を和ませようと思ったのか和広が口を開いた。
「うちの結衣が藤澤の家にちょくちょくお邪魔しているとさっき聞こえたが……君は結衣と付き合っていたのか? てっきり麻衣と付き合っているのかと思ったよ」
 〝うちの結衣〟という言葉にぴくりと肩が震える。なんていやな言葉だろう。たしかに未成年だった結衣たちには、庇護してくれる保護者は必要だったし、叔父夫婦の養子に入っているため、結衣も麻衣も書類上は二人の子どもだが。
 一緒に暮らした六年強、彼らは名前だけの保護者で一度たりとも〝親〟だったことなどないと言うのに。
「えぇ、そうですね。実は、今日は結衣との結婚の報告に来ました」
 充樹が言うと、和広の顔に喜色が浮かんだ。目に見えてそわそわし始めて、頬が緩んでいる。これでいつでも藤澤家の金を自由にできるとでも思っているのだろうか。
「そうか! それはめでたいな! 結衣もそろそろいい歳だし……親として心配してたんだ。充樹くんなら家柄もしっかりしてるし、私も肩の荷が下りるよ。な?」
 和広は横柄な態度でそう口にすると、佳子に話を振った。だが、結婚の話からどうやって金の話に移ろうかと考えているのか、額は汗が滲んでおり、落ち着きがない。プライドが高く権力が大好きなだけの凡小な男は、実のところ小心者なのだ。
「この歳になっても、関係が続いてるんですもの。ただの幼馴染みってわけじゃないとは思っていたのよ。二人で食事にも行っているってご両親から聞いていたしね。男と女ですもの。いろいろあるわよねぇ」
 佳子はそう言っていやらしい笑みを浮かべた。そんな佳子からの視線をものともせず、充樹が堂々と頷いた。
「まぁそうですね。ところで……結婚にあたり、あなた方に一点ご承諾いただきたいことがあります」
「……なにかな」
 和広が警戒するように眉を顰めた。
 充樹はバッグから書類を取り出し、テーブルに広げた。そこには〝養子離縁届〟と記載されている。結衣が驚いて隣の充樹を凝視していると、安心しろとばかりに笑みが向けられる。二枚あるうちの一枚にはすでに麻衣の名前が記入されている。
「これは……どういうことだね?」
「あなた方と結衣と麻衣の親子関係を解消するものですね。あなた方が姉妹になにをしてきたのかはわかっています。俺はこれ以上、二人をあなた方の養子にしておきたくはない」
 養子離縁は、養子本人と養い親の承諾があれば紙一枚で受領される。
 できることなら離縁したい。だが、結衣が充樹と結婚すれば、万が一自分たちになにかあった場合、子がいなければ親である和広と佳子にも相続の権利が発生する。
 和広はおそらくそれについて考えているのだろうが、相続についてを口にできるはずもなく、目を泳がせる。
「いや、しかし……」
「今すぐに書いてもらえるなら、高津フードサービスを言い値で買い取る、と言ったら? うちから出資してほしいと父に連絡していましたよね?」
 和広が唾を飲み込む音がやたらと大きく響く。充樹は養子離縁届の隣にボールペンを置き、どうぞと言わんばかりに手のひらを差しだした。
「言い値……それは、本当か?」
「えぇ、今の高津フードサービスを純資産で評価するなら、せいぜい一億弱ってところでしょうが……あなたの言い値で構いませんよ」
「一億五千……いや、二億……でもいいと?」
 和広は落ち着きなく目を泳がせながら頬を紅潮させた。売却の方向に気持ちが揺れているのが手に取るようにわかる。
 相続で和広に金が入る確率は低い。それよりも、姉妹との養子縁組を解消してすぐに金が入ってくる方が得だと考えたのだろう。天秤にかけ、売却の方へ傾くのも当然だ。
 しかし父の会社を奪っておきながら、経営が上手くいかなくなったらあっさりと手放そうとするなんて、結衣には信じがたかった。
「えぇ、もちろん。個人的な借金もあるでしょうしね。幼馴染みである姉妹の亡きご両親が興した会社ですから、助力は惜しみません。ただし今後、高津フードサービスにあなたたちの椅子を用意するつもりはありません。社長の地位には俺が就きます。それをご承知おきいただければ」
 充樹の口調は終始冷ややかで、和広に対しては侮蔑の表情を崩さず、にこりともしない。そうすれば助けてやる、と言わんばかりだった。
「それは……」
「どうしますか?」
 和広は目論見が外れたとばかりに、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 経営の傾いた会社を高く買ったところで、充樹にメリットはない。おそらく充樹は本気で高津フードサービスの経営を立て直すつもりでいるのだろう。
 膝の上でキツく拳を握りしめていると、ふと彼の手が重ねられる。隣を見ると、柔らかく微笑まれ、慰めるようにぽんぽんと手を叩かれた。
「……まぁいい」
「では、こちらにサインを」
 和広は終始警戒した様子ではあったが、最終的には養子縁組を解消した方が自分たちの得になると判断したのか、届にサインをした。
「金は、いつ」
「うちのM&A担当者から連絡を入れます。金額も決まってますし、そう時間は取らせません」
「そうか」
「あとは引き継ぎがありますから、ほかの取締役の方を交えて打ち合わせの日程を。取り急ぎ十年分の会計書類を用意してください。会計監査は経理が?」
「そうだ」
「では、その人にも連絡を」
「……わかった」
 和広は援助を乞う立場にもかかわらず、年下の充樹に頭を下げるのはプライドが許さないようで、背を仰け反らせながら鷹揚に頷いた。
「じゃあ、話は終わりですね。結衣、行こうか」
 充樹は書類をチェックし間違いがないか確認すると立ち上がり、結衣を促した。すると、今まで結衣など目に入っていなかったというのに、焦ったように和広が充樹を手で制する。
「すまんが……久しぶりに家族が揃ったんだ。今日は遠慮してもらえないか? 結衣も私たちといろいろと話すことがあるだろう?」
「家族、ですか……結衣、どうする?」
 和広を無視し、充樹は結衣に問いかけた。ここで結衣がいやだと言えば、すぐにでも連れて帰ってくれるだろう。結衣としてもこれ以上、叔父夫婦と話をしたいとは思えない。
「叔父さんと叔母さんを親だと思ったことは一度もありませんので、帰ります。それに、書類を出せばもう、ただの親戚でしょう?」
「なっ、誰がお前たちをここまで育ててやったと思ってる!」
「あなたたちに育てられた覚えはありませんし、ここに住まなきゃいけなかったことは不幸だったと思っています」
「お前!」
 結衣が言い切ると、和広は顔を真っ赤にして拳を振り上げた。その手を受け止めたのは、もちろん充樹だ。
「警察を呼ばれたいですか?」
「い、いや……これくらい躾だろう! 結衣! あとで連絡をする。出ないなら、家に行くからな!」
 叔父夫婦には就職先も寮の場所も教えていない。それでも万が一来たら、不審者として通報してやろうか、と思いつつ、和広を無視して立ち上がった。
「充樹くん、行こう」
 養子離縁届を出したところで叔父夫婦は変わらないのでは。また金に困ったら自分に連絡をしてくるのではないかという予感がする。
 充樹がその考えに至らないはずがない。傾きかけた会社を二億で買うという餌に食いつかせてまで、自分たちの養子縁組を解消させたかったのだ。
(お姉ちゃんが憂いなく結婚できるように、かな。こんな人たちが親だなんて、紹介できないもんね)
 充樹は、和広を警戒するように結衣を先に玄関に向かわせて、あとからついてきた。
 家を出て駐車場に停めた車に乗り込むと、強張っていた肩から力が抜ける。何年も住んだ家だと言うのに、ずいぶん緊張していたようだ。
「疲れただろう?」
 充樹が結衣の頭をくしゃりと撫でて、いつもと変わらない様子で笑う。暑かったのかネクタイを引き抜き、後部座席にぽんと投げる。
「いろいろと、ありがとう。あの人たちと離縁したいってずっと思ってたの。でも、あんな大金で会社を買うって、本当によかったの? 充樹くんが社長になってくれるなら安心だけど……」
 和広に二億もの大金を払うと約束するなんて。充樹にそれほどの負担を強いるつもりはなかった。藤澤家の人たちになんと言って謝ればいいのだろう。
「いいんだよ。高津フードサービスをあいつから取り戻すのは最初から決めていたことだ。そのための準備はしていたし、父さんにも許可はもらってある。それに、それくらいの金ならいくらでも巻き返せるから……それで」
 充樹はハンドルに頭を乗せて、結衣をじっと見つめた。
「このあと、俺たちの婚姻届を書いて区役所に出す。本当にいいんだな?」
 彼は確認するように言った。ここで頷いたら、もう後戻りはできない。
「充樹くんこそ、いいの?」
「俺から言い出したんだから当然だろう。もし、結婚を断っても、高津フードサービスについては俺がなんとかするから安心していい」
 どうしてここに来て選択肢を与えるのだろう。
 結衣を、麻衣の身代わりにすることに罪悪感でも覚えたのだろうか。たとえそうでも、彼から結婚を望まれているのなら断るつもりはない。
「断らないってば。ずっと恋人ほしかったし。一足飛びに旦那様ができるとは思ってなかったけど、結婚できるのは嬉しいよ。充樹くんはなんと言っても初恋の人だしね」
 結衣がそう告げると、充樹は驚いたように息を呑み、破顔する。
「初恋か……そうか」
 彼が誰を想おうが、好きな人が夫としてこれからそばにいてくれるなら願ってもない。
 結婚して一緒に生活していくうちに、麻衣を忘れて、結衣を好きになってくれないかという下心もあった。
「結婚したら、今まで以上に大事にする」
「ありがとう」
「結衣、好きだよ」
 充樹は切なそうに目を細めて、結衣への愛を口にした。
 好きでもないのに、好きだとうそをつくのは虚しいだろう。
 結衣にもその気持ちはわかる。好きな人なんて充樹以外いないのに、気持ちを抑えてうそをつき続けてきたから。
(でも、いつか……本当になるかもしれない)
 充樹は幼い頃から、自分たち姉妹を大切に思ってくれていた。たとえ彼の本心がどこにあろうとも、結衣を傷つけるような真似をするわけがない。
 麻衣への感情はそれこそ一生隠し通すつもりだろう。
「うん、私も」
 そのとき、膝の上に置いたスマートフォンが振動し、メッセージの受信を知らせる。
 メッセージは和広からで、先ほどの話の続きだった。
(金が入ってくるまで、生活費の一部を私たちに回せ、ね。〝家族〟だなんて言っておいて、娘によくこんな話ができるよね)
 結衣から充樹に伝わるとは少しも考えないらしい。
 おそらく叔父夫婦は、麻衣と結衣も自分たちと同じ価値観で充樹のそばにいると思っているのだろう。つまりは藤澤家の金目当てだと。
(義正さんと美沙子さんが、お金目当てで近づいてきた人を充樹くんに会わせるはずがないのに)
 そんな浅はかな考えだから、高津フードサービスを経営危機に陥らせたのではないだろうか。結衣がメッセージを見てため息をついたのが聞こえたのか、充樹が口を開く。
「誰だ? あいつか?」
「あ~うん。でも、ある意味想像通りって言うか」
「生活費から金を送れって?」
 充樹は前を向いたまま、ふっと鼻で笑った。予想通りと言いたげだ。
「すごいね、叔父さんの性格完璧に把握してる」
「したくないけどな」
「言えてる」
 充樹とこうして話していても、これから夫婦になる実感はまったくない。
 運転席に座る彼を見つめると、目が合った。彼とこうして目を合わせるのは、久しぶりのような気がする。
「じゃあ、行くか。養子離縁届を出して……あと、婚姻届も書かないとな」
「うん」
 叶うならいつか愛してほしいと思う。
 だから結衣は、そうなるように願いながら、精一杯、彼を愛そう。

 ──俺は夫としてお前だけを愛するよ。結衣は?
 ──結婚したら、妻として充樹くんだけを一生好きでいる。

 いつかこの約束を思い出し、二人で笑い合えるように。
 結衣は、ようやくこの恋と向き合うことを決めたのだった。