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それでもずっと、あなただけ 初恋幼馴染みの一途な求愛 1

第一話


 チャイムが鳴り、下校時刻となった。
 高津結衣(たかつゆい)は、机に出してあったペンケースを通学バッグに入れて、スマートフォンのマナーモードを解除し、慌ただしく椅子から立った。
 五月ももうすぐ終わるというのに、まだ冬服着用と校則で決められている。
 じっとりと汗ばむ陽気に耐えきれなかったクラスメイトたちは、授業中に「暑い」「熱中症になる」と教師に訴えエアコンをつけさせたものの、教室中が涼しくなるほどの効き目はなく、ようやく下校時刻となった今、皆、ハンディファンを取り出し顔に当てている。
「先生~明日はエアコンの設定もっと下げてよ~」
「暑過ぎ!」
「勉強どころじゃないっての!」
 そんな声を聞きながら、結衣は汗が滲んだ額をハンカチで拭い、セーラー服の胸元を引っ張りぱたぱたと揺らした。
 クリーニング代もバカにならないから、制服を汗で汚したくない。
「結衣~! 今日もバイト?」
 通学バッグを肩にかけて教室を出ようとしたところで、呼び止める声に目を向ける。結衣に声をかけてきたのは、高校に入学して初めて話しかけてくれた友人、浅葱十和(あさぎとわ)だ。十和は通学バッグを背負って結衣のあとに続いた。
「ううん、今日は充樹(みつき)くんの家庭教師の日なの」
「お、噂の幼馴染み? でも毎日、大忙しだね。今度、クラスの懇親会しようって言っててさ。結衣も来られたらと思ったんだけど、土日もアルバイトしてるんだっけ?」
「あ……うん。いつも誘ってくれるのに、ごめん」
 結衣が申し訳なさそうに眉を下げると、十和は顔の前で大袈裟なほどに手を振った。
「なに言ってんの! 謝らないでよ! 私はダメ元で誘ってるんだから。これからもしつこく誘うからね」
 十和とは、春に入学したこの高校で知り合った。高校デビューをしたらしく、髪は金髪に近い色に染められ、耳にはいくつかピアスが開いていて、かなり目立つ。
 かたや結衣は、なかなか美容室に行けないため腰まで伸びてしまった髪をポニーテールにし、百円均一で購入した日焼け止めを使用するくらいで、化粧一つしていない。
 子どものような丸い頬がコンプレックスだが、それを可愛いと言う幼馴染みを思い出して、柔らかい頬を無意識に指で揉んだ。
「ありがと」
「いいのいいの! それに休み時間は喋れるし」
 すると、結衣の手の動きを見ていた十和が、頬をぷにぷにと押してきた。
「柔らか! 赤ちゃんじゃん!」
「あははっ、よく言われる」
「うわぁ、癖になるぅ~」
 十和は、何度も何度も指で頬を押してくる。
「もう~汗かいてるから触っちゃだめ」
 結衣はおとなしくもないし、喋らないわけでもないのだが、学校以外での交流が難しいせいか、深い付き合いのできる友人がなかなかできなかった。
 だから、十和に初めて話しかけられたときは、驚いたものだ。
 入学初日に絡まれるなんて、と警戒心を露わにしてしまったのは申し訳ないと思うが、目立たない地味な生徒が、複数のピアスをじゃらじゃら付けた金髪、カラコンの女子高生に話しかけられれば驚くのも無理がない。
 ただ十和は、積極的に友人付き合いをしない結衣を見て、心配になっただけらしい。本当は、〝しない〟ではなく〝できない〟のだが、その事情を深く聞いてくるようなこともなかった。何度か言葉を交わしているうちにそんな彼女の人となりを知ったのだ。
 こうして、時間が合わないとわかっていても話しかけてくれるし、放課後のカラオケや合コンにも誘ってくれる。結衣が孤立しないようにほかの女子との橋渡しをしてくれた。
「また明日話そ」
「うん、今日は合コンだっけ?」
「そ! いい男がいたかどうか報告するからさ!」
「ふふ、上手くいくといいね」
 じゃあ、と片手を挙げたところで、十和を呼ぶ声がする。おそらく今日の合コンに参加するメンバーだろう。
「おうよ! じゃね、カテキョ頑張って!」
 結衣は十和が走っていくのを見送り、教室を出た。教師の「走るな!」という怒る声が聞こえて、小さく笑ってしまう。
(私も急がなきゃ)
 自転車に跨がり、毎日の通学コースを走り家へと向かう。太陽の日射しはすでに真夏と大差ないように思える。肌がじりじりと焼けていくような暑さの中、ペダルを漕いだ。
 家庭教師をしてくれている藤澤(ふじさわ)充樹は、姉、麻衣(まい)と同い年の十八歳、高校三年生だ。有名私立の進学校に通っており、週に二日、結衣のアルバイトがない水曜日と金曜日に、麻衣と結衣に無償で勉強を教えてくれている。
(お姉ちゃんはもう充樹くんちに着いてるよね。お姉ちゃんの高校は近くていいな。どうせ卒業したら就職するんだから、私もあっちにすればよかったかも)
 今、麻衣と充樹が二人きりでいると思うと、どうしようもなく焦ってしまう。
 二人は、もともと同じ学校の同級生であるため、結衣よりもずっと距離が近い。
 ただ、麻衣にも結衣にも恋愛をしている余裕はない。それでも、苦しい環境に置かれている姉妹にとって、充樹に会える家庭教師の時間はご褒美のようなものだった。
 高校から、渋谷区内の北端にある叔父夫婦の家までは自転車で二十分ほどかかる。
 結衣は自転車を漕ぐスピードを速め、家までの道を急いだ。
 両親が揃って事故で亡くなったのは、結衣が中学に上がったばかりの頃だ。
 それから結衣たち姉妹は、父の弟である叔父──和広(かずひろ)と、その妻である佳子(けいこ)に引き取られ、養子になった。
 どうしてこんなことになったのかと、何度、自分の人生を呪っただろう。
 もともと同窓で親友同士だった母親の繋がりで充樹と麻衣が知り合い、そこに結衣も加わり、藤澤家と高津家は家族ぐるみで親しくしていた。誕生日やクリスマスは、必ずどちらかの家でパーティーをした。部屋を飾り付け、子どもらしいプレゼント交換をして、みんなで一緒にケーキを食べた。
 結衣は通学バッグの中でちゃりんと音を鳴らすキーホルダーに意識を向ける。
 色とりどりのガラスと金属パーツで作られたイニシャル入りキーホルダーは、結衣が小学生のときに充樹と麻衣がプレゼントしてくれたものだ。ずっと鍵につけていたため、すでにメッキが剥がれてくすんでしまっているが、だからこそ佳子に捨てられずに済んでいる。
(あの頃は……幸せだったな)
 当たり前のようにずっと続くと思っていた幸せが、ある日突然壊れることもあるのだと、両親が亡くなってから初めて知った。
 家族と住んでいた家は売られ、知らぬ間に転校手続きが取られ、大事なものは捨てられた。手元に残っている宝物は数枚の家族写真とこのキーホルダーだけだ。
 両親の通夜の日にやってきた叔父夫婦が麻衣と結衣を引き取ったのは、誰に言われるまでもなく金目当てだと気づいた。
 だが、幼かった自分たちになにができるわけもなく、あれよあれよという間に彼らの養子にされると、家と土地は売却、両親の遺した生命保険金も貯金も奪われた。
 思い出すと今でも悔しさで怒りが込み上げてくるが、当時、中学生だった自分たちに抗う術はなかったし、たとえ抗ったところで、子ども二人で生きていけるはずもなかったのだ。自分の境遇を嘆いても両親は還ってこない。結衣は思い出すたびに迫る悔しさを噛みしめ、自転車のペダルを踏み込んだ。

 藤澤家の邸宅は渋谷区内の中でも高級住宅街と呼ばれる地域にある。
 高い塀に囲われた大きな邸宅は、叔父夫婦の家の何倍あるのかもわからないくらい広い。家の隣には車庫があり、高級車が二台停められていた。
 結衣は息を整えて、インターフォンを鳴らした。藤澤家で働く家政婦──真鍋京子(まなべきょうこ)が取り次ぎ、門扉のロックが外された。
 結衣は勝手知ったる足取りで門扉を開け、庭を進む。
 自転車を停めていると、京子が白の割烹着姿で玄関のドアから顔を出した。
「結衣さん、いらっしゃいませ」
「お邪魔します。京子さん、お姉ちゃんってもう来てるよね?」
「いらっしゃってますよ。充樹さんの部屋で先に勉強中です」
 京子のあとに続き玄関を上がり、正面のリビングダイニングに足を踏み入れた。
 天井が高く木の温もりのある室内は非常に広い。リビングダイニングだけで三十畳以上はあるだろう。窓が大きく庭も広いため、採光を遮るものがなくかなり明るい。そこかしこに花が飾られていて高級感はあるのに、不思議と落ち着く雰囲気もあるのだ。
 一階には、そのほかにゲストルームとして使用する洋室が一部屋、和室が二部屋ある。
 それこそ生まれたときから世話になっているので、両親が生きていた頃は頻繁にこの家に泊まりに来たものだ。
「あれ、美沙子(みさこ)さんは?」
 美沙子は充樹の母親だ。夫、義正(よしまさ)とは、大恋愛の末に結婚したらしく、麻衣と結衣に惚気を聞かせるのが好きな人である。
「奥様は、急なお呼ばれがあってお出かけになりましたよ」
「そっか」
「あ、そうそう。旦那様が取引先からいただいたお菓子がたくさんあるんです。お夕飯が入る程度に召し上がってくださいね」
 盆に載せられた飲み物と菓子を京子に手渡された。
 甘いものなど、叔父の家では食べられない。
 それを知っているため、美沙子や京子は姉妹がこの家に来るたびに菓子やフルーツを出してくれる。自分たちが気にしなくて済むように、もらえる理由を必ず付けて。気遣いは嬉しいが、可哀想な子だと思われているのではないかという恥ずかしさもあった。
「いつもすみません。いただきます」
 結衣は、なんとか笑みを浮かべて礼を言うと、盆を手に持ちリビング奥にある階段から二階に上がった。充樹の部屋は二階の左側の突き当たりだ。
 義正も美沙子も、姉妹を本当の子どものように可愛がり、両親が亡くなったあとも力になってくれている。藤澤の両親がいなかったら、麻衣と結衣はもっと悲惨なことになっていたに違いない。結衣にとっては、叔父夫婦よりもよほど頼りになるため、感謝をしているし、大好きな人たちだ。
 それなのに複雑な気分になるのは、結衣の心の貧しさ故だろう。
 卑屈な考えだとわかっているし、彼らがそういうつもりではないことも承知の上だが、なにかを与えられるたびに施しを受けているような気分になる。優しくしてくれて嬉しいのに、迷惑をかけて申し訳ないと思ってしまう。大好きな人たちなのに、隔たりができてしまったかのような寂しさがあり、彼らの優しさを素直に喜べない。
(ずっとあの頃のままだったら、今頃どうなってたかな……充樹くんが、私を好きになってくれる可能性だって……)
 考えて、それはないかと苦笑が漏れた。年下の幼馴染みとして結衣を甘やかしてはくれるけれど、恋愛対象ではない。彼はいつだって〝お兄ちゃん〟だった。
(お姉ちゃんと顔はそっくりって言われるのにな……やっぱり年の差かな)
 なんにしても今は恋愛どころではないかと考え、ため息が漏れる。ここに来ると両親が生きていた頃を思い出し、気持ちが浮き立ってしまう。今は毎日を生きていくのに精一杯だというのに、それを忘れそうになる。
 結衣は両手で持っていた盆を片手に持ち直し、顔一つ分ほど開いていたドアをノックしようと手を伸ばした。
 窓際に置かれたデスクで勉強する麻衣と、その横の椅子に腰かける充樹。それはいつもと同じ光景だったはずなのに、どこかいつもとは違っていた。
 そして耳に届いた彼の言葉に衝撃を覚え、その手を動かせなくなる。充樹は愛おしそうに麻衣を見つめて、うっとりと目を細めていた。そして──。
「好きだよ」
 室内から、充樹の声が聞こえてくる。それは、結衣が聞いたこともないような、愛情を含んだ声だった。ドアの隙間から見える充樹の横顔もまた、希っているようで。
「……キスして」
 麻衣の言葉に応えるように充樹が椅子から腰を上げた。
 徐々に近づく二人の距離に心臓が激しく音を立てる。二人はなにか囁くように言葉を交わす。そして、充樹が麻衣の頭を引き寄せ、抱き締めた。
(うそ……)
 二人の影がぴたりと重なったのが見えて、結衣は慌てて目を逸らした。
 自分が見ている光景を信じたくなかった。いつかこうなる日が来るのではないかと予感はあっても、きっとまだ大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
(そっか、やっぱり充樹くんも、お姉ちゃんが好きだったんだ。両思いじゃん)
 同い年だからか、自分には入れない二人の空気感があった。気の置けない二人の関係がいつも羨ましかった。
(充樹くん、お姉ちゃんの世話焼いてるとき、いつも楽しそうだしね)
 麻衣は、マイペースでものすごく不器用だ。パンをトースターで焼けば炭が出来上がり、皿を持たせれば落とすという不器用っぷりのため、家での料理は結衣が担当している。勉強も大嫌いで、いつも充樹に真面目にやれと怒られていた。
 だが、麻衣のそんなところを放っておけないと思うようで、もっとしっかりしろよ、と怒りながらも、いつだって彼の目は愛情に溢れていた。
 結衣も穏やかでのほほんとした姉が大好きだから、充樹の気持ちもわかる。
(だから、ずるいなんて……思っちゃだめ)
 充樹をいつから好きだったのか、なんてもうわからない。それくらい幼い頃からずっと一緒にいるから。ただ、彼を男性として意識し出したのは、中学に入ってすぐだと思う。
(お父さんとお母さんが亡くなったとき……抱き締めてくれたんだよね)
 幼稚部の頃、頬にキスをしたとか、抱っこをしたとか、そういった話は両親から散々聞かされていたが、記憶にある中で充樹に触れられたのはあのときが初めてだった。
 当時、中学三年だった充樹は今より細身だったけれど、結衣との体格差はすでにかなりあった。充樹に抱き締められて、不覚にも大泣きしてしまったあの日を思い出すと、両親の死を知らされたときの痛みまで蘇り、苦しさと恥ずかしさと、衝動を覚える。
(今はもっとかっこよくなったもん……好きになるよ、そりゃ)
 充樹の体格はそれなりによく、父である義正とよく似た端整な顔立ちだ。眉にかかる程度に伸ばされた黒髪はワックスで整えられている。
 バレンタインには大量にチョコレートをもらっていて、迷惑そうにしながらも、いつも姉妹にお裾分けをくれるから、かなりモテるであろうことは想像に難くない。
 充樹の顔を見慣れている結衣でさえ、頻繁に見蕩れてしまう。麻衣が時々惚けたような顔で充樹を見ているのにも気づいていた。
 彼は、叔父夫婦に引き取られた姉妹を心底心配し、学校が変わっても、引っ越しをしても、ずっと変わらずにそばにいてくれた。
 叔父夫婦のやり方に怒り、なにかあったら自分に言えと、藤澤の両親と姉妹の橋渡し役を買って出てくれている。
 姉妹にとって、週に二日の家庭教師の時間だけが、心の拠り所になった。
 かっこよくて、優しくて、頼りになる幼馴染み。そんな相手が近くにいて恋愛感情を持たずにいられるはずもない。
 もちろん麻衣の方が充樹と過ごす時間は長かったし、ついこの間まで中学生だった結衣が、彼の恋愛対象外であることもよくわかっていた。
 だから、いつかこんな日が来るのではないかと覚悟はしていた。そうなったときは、悔しいけれど「おめでとう」と笑って言おう、そう思っていたが。
 両思いになった二人を見ていると、喉が詰まってしまったかのように苦しかった。
 充樹に愛される麻衣が羨ましかった。あの場にいるのが自分ならと、嫉妬で頭の中がぐちゃぐちゃになる。
(なんで……なんで、私じゃないんだろう)
 麻衣は自分よりたった二年早く生まれただけなのに。それが理由ではないとわかっていても、麻衣に恨みがましい気持ちを抱いてしまう。そんな自分にぞっとした。
 結衣は、ノックしようとしていた手で口を塞ぎ、ずりずりと後ずさる。
 今、二人に会ったらきっと泣いてしまう。絶対に自分の気持ちを知られたくなかった。困らせたくないし、自分に遠慮をしてほしくない。
 結衣は、ドアの横に音を立てないように盆を置くと、逃げるように階段を下りた。
 すぐに二階から下りてきた結衣に気づき、京子が首を傾げる。
「結衣さん?」
「あ、ごめんなさい。なんか頭痛くって、今日はやっぱり帰ります」
 結衣は誤魔化すように空笑いをして額を押さえた。
「あら、それなら、ここで休んで行かれた方が。今、頭痛薬を持って来ますね。ソファーに横になっていてください」
「いえ、そんなにひどくないので大丈夫です」
「そうですか? なら、今日の晩ご飯に、なにか包めれば……」
 心配した京子がばたばたとキッチンに走る。家事のほとんどを結衣がやっているのを知っているから、夕飯に出せるものを探してくれているのだろう。
「いえっ、それも大丈夫です! 材料は買ってあるし、簡単なものにするから。お姉ちゃんたちの勉強の邪魔したくないし、このまま帰ります」
 結衣が頭を下げると、京子は切ないような、困ったような顔をして頷いた。玄関を出て急いで自転車に跨がる。
 藤澤家の庭を出ると、一瞬しか見ていないのに、頭に焼きついたように先ほどの映像が繰り返された。忘れたくても、忘れられない。
 充樹と麻衣が恋人同士になったら、今度こそ自分はひとりぼっちになってしまうのではないか、そんな孤独感に苛まれる。
 充樹も麻衣も、結衣をはじき出すような真似はしないとわかっているのに。
(いやだ……なんて、思っちゃだめ……っ)
 自暴自棄な気分になって、がむしゃらに自転車を漕ぐと、マンホールの蓋でタイヤが滑り、がしゃんと大きな音を立てて自転車ごと倒れてしまう。
「……っ、いったぁ」
 膝がじんじんと熱を持ったように痛む。膝を見ると血が滲んでおり、ますます痛い気がしてくる。足は痛いし、情けないし、苦しいしで、寒くもないのに唇が震えた。
 目の前がぼやけるが、必死に涙をこらえる。叔父夫妻に泣き顔を晒したくはない。彼らに弱さを見せたくなかった。
「……っ」
 車も通らず、人通りもないことは幸いだった。目を真っ赤にしながらも、結衣はのろのろと立ち上がり自転車を起こした。
 すぐに家に帰る気にはなれず、行く当てもなく自転車を走らせる。近くにあった公園で靴と靴下を脱ぎ、足を洗った。
(付き合うことになったって言われたら、お姉ちゃんにおめでとうって言わなきゃ)
 麻衣はたった一人の大事な家族。
 両親が亡くなってから、いつだって二人で支え合ってきた。
 麻衣はあまり姉らしくないし、アルバイトや家事といった負担はほとんど結衣にかかってくるが、結衣にばかり負担を負わせるわけにはいかないと、いつも必死になってくれた。結衣は、優しい姉が家族としてそばにいてくれるだけでよかったのに。
 そんな麻衣が好きな人と両思いになった。麻衣を羨む気持ちは簡単には消えないけれど、安堵もある。充樹ならば、絶対に麻衣を不幸にはしないと断言できるから。
 二人が寄り添っている姿を見るのは辛いが、充樹との関わりを失うくらいなら、気持ちに蓋をして幼馴染みとしてそばにいる。
 交際を聞いても、仲睦まじい二人を見ることになっても、耐えよう。そして、絶対にこの気持ちを知られてはならない。
(お姉ちゃんの幸せのため。それに、充樹くんのそばにいるため)
 結衣は、無理矢理自分を奮い立たせて、自転車を押しながら、のろのろと帰路に就いた。
 叔父の家に着くと、麻衣の自転車が玄関横に停めてあった。すでに帰っていたようだ。玄関には叔父の靴も置かれていた。
 今日は和広が帰る日らしい。叔父は二、三日に一度この家に帰ってくる。
 和広がこの家を購入したのは、両親が亡くなり、父──稔(みのる)が社長を務めていた高津フードサービスの経営を引き継いでからだ。
 もともと両親と結衣たちが住んでいた土地と家を売り払った金で、この家をぽんと買い、妻と自分たち姉妹を住まわせた。
 そして、仕事で遅くなったときのためだという理由で、会社近くにこの家よりも豪華な自分用のマンションを買い、そこに愛人を囲っている、と佳子が憤懣やるかたなしといった様子で語っていたのを覚えている。帰って来ない日はマンションで過ごしているようだ。そんな夫婦関係にもかかわらず離婚する様子はまったく見られない。
 佳子は佳子で好きなブランドの服や服飾品を買いあさったり旅行に行ったりと自由にしているから、金の繋がりがある限り縁は切れなそうだ。
「なにをしていたの!? 夕飯までに帰りなさいっていつも言ってるでしょう!」
 佳子は結衣が帰るなり捲し立てた。夕飯を早く作れだの、メロンが食べたいから買って来いだのと言う。そんないつも通りの佳子の言動のおかげで、麻衣と顔を合わせても動揺せずにいられたのは幸いだった。
 和広と佳子の食事の準備を終えて、姉妹に与えられた二階の部屋のドアを開けると、麻衣がテーブルの前に正座し自分を待っていた。
「待ってたの?」
「当たり前だよ。早く食べよう」
 麻衣はピースサインをして、ふふふと笑った。ふにゃりと溶けそうな麻衣の笑顔を見ていると、荒んでいた気持ちが落ち着いていく。
 見た目はそっくりなのに、雰囲気も性格もまるで違う。
 麻衣の話し方はゆっくりで、自分は早口。麻衣はつらいときでも楽しみを見いだし笑える人、かたや自分はいつもなにかを諦めていた。
 麻衣は懐が深く、どんと構えているところがあるからか、不思議と頼りがいがあった、結衣は麻衣のそんなところが大好きだ。
(充樹くんが、お姉ちゃんを選ぶのも、当然だよ)
 そう考えて、また胸がずきりと痛んだ。
 食べ終わったら食器の片付けをして、キッチンを徹底的に掃除させられる。だが、今日は和広もいるし食事もゆっくりだろう。
 佳子は和広をよいしょし、あれこれねだるのにいつも必死なのだ。
「いただきます」
 二人で手を合わせて、食事を口に運んだ。
 結衣は食事を進めながら、隣に座る麻衣をちらりと見る。
 あのあと、どちらかが告白したのだろうか。もし交際に発展したなら教えてくれそうなものだが、麻衣はいつもと変わらないように見える。
「お姉ちゃん……」
「ん、なに?」
 麻衣が箸を止めて首を傾げた。
「今日……充樹くん、なにか、言ってた?」
 意気地がなくて、そんな聞き方しかできない。結衣はテーブルに視線を落として、咀嚼をしながら麻衣の答えを待つ。
「あ~うん」
 肩がびくりと震えて、箸を持つ手に力が入る。ショックを受けているのが麻衣にバレないように、結衣は静かに深呼吸を繰り返した。
「頭痛、心配だって。なにかあったらすぐに電話しろって言われてるよ。メッセージ入ってるでしょ? あとで、連絡してあげてね」
「そっか……うん、わかった」
 二人の交際の話でなかったことにほっとしつつも、首を捻る。
「ねぇ、お姉ちゃんと充樹くんは……付き合うとか、ないの?」
 覗き見してしまったことがバレるだろうか。二人の交際は複雑だが、どうせショックを受けるなら早く知っておきたかった。
「なに言ってるの。付き合えるはずないよ。もちろん、そうなれたらいいなとは思ってるけどね。今の状況じゃ恋愛とか無理でしょう?」
 すると、麻衣はそう言って泣きそうに目を細め、微苦笑を浮かべて、なにかを思い出すように遠い目をした。
 二人の気持ちはたしかでも、やはり今の状況では交際は無理だと判断したのかもしれない。充樹は、麻衣が高校を卒業するのを待っているのだろう。
「そう……だよね」
 自分に腹が立つ。交際を聞いたら「おめでとう」と伝えるのだと決意していたはずなのに、まだ付き合っていないと聞いてほっとするなんて。
 自分自身への腹立たしさで涙が溢れそうになるのをぐっとこらえて、ご飯を口の中にかき込こんだ。
「結衣はどうなの?」
「どうって……恋愛なんて、してる暇ないよ」
 結衣が言うと、麻衣が痛ましげな顔をした。二人揃ってため息をつき、食事を進める。今日は少しだけ余裕があるが、それでもなるべく早く食べ終わらなければならない。
「早く、大人になりたいね」
「うん」
 麻衣はあと一年もしないうちに就職し、この家を出る。
 結衣もまた、高校を卒業したら働いて家を出る予定だ。
 麻衣にとってこの環境は相当苦しかっただろうから、自分より早くここを出られてよかった。それに、麻衣には充樹がついている。なにも心配はないだろう。
 自分には──そう考えてしまい、胸の奥の苦しさを誤魔化すために、結衣は手を動かし続けたのだった。


 その翌日。
 二十二時にアルバイトを終えた結衣が、アルバイト先であるコンビニエンスストアを出ると、自動ドアの脇に立つ人影が目に入った。
「よう」
「充樹くん? なんで?」
 充樹がこちらを見て片手を挙げた。近づいて彼を見上げると、案じるような眼差しが返される。
「お疲れ、ちょっとこっちに来い」
 充樹は入り口近くでは邪魔になると判断したのか、結衣の背中を軽く押し、自転車置き場へと歩く。隣を歩く彼はかなり背が高い。聞けばまだ伸びているらしい。
(それに……この顔だもんね)
 太い眉に、真っ直ぐに通った鼻筋、笑うと細まる目はいつも穏やかに弧を描いており、勉強中に見せる真剣な横顔は大人っぽくクールな印象を与える。
 数年前まで女性と見間違うような細くしなやかな肢体をしていたのに、体格もどんどん男らしさが増していき、顔を合わせるたびに動揺してしまう。
 自分自身の恋心がそうさせているのだろうが、いくら幼馴染みでもこれだけのイケメンを前にすると、いちいちときめいてしまって落ち着かない。
「どうしたの?」
「昨日、急に帰っただろ。メッセージ入れてもお前からは返信がないし。どうした? 具合が悪かったなら、うちで休んでいけばよかったのに」
 心配そうに言う充樹になにも返せない。麻衣にも言われていたのに、体調を心配する充樹からのメッセージに返信できなかった。うそでも「大丈夫」だと言えなかった。
「ごめん、返そうと思って……忙しくて忘れてた。昨日、叔母さんが急にメロン食べたいとか言い出すから、それでばたばたしてて」
「金はあるのか? お前、顔色悪いぞ。今日くらいアルバイト休めばよかっただろ。うちに来て寝てたっていいんだから」
 充樹の手が頬をなぞるように触れた。家庭教師の日以外は、ほとんど毎日アルバイトを入れているが、昔から健康だけが取り柄な結衣は滅多なことでは具合を悪くしない。今、顔色が悪く見えるのは、昨日のことで動揺したせいだ。
「大丈夫だよ。貯金はできないけど、なんとかなるから。うちのことなのに、充樹くんはいつも心配し過ぎだよ。バイト先まで来て」
「大事な幼馴染みなんだ、心配するに決まってる」
「心配しなきゃならないのはお姉ちゃんの方でしょ」
「たしかに麻衣の方が心配ではあるけどな」
 暗に好きな相手だけ心配していろ、と言うと、充樹が納得したように首を縦に振った。
 そんな彼の反応に傷ついてしまう。自分で口に出したくせにショックを受けるなんて。ほらやっぱりと思いながら、切りつけられたかのように痛む胸を手のひらで押さえた。
「お前はしっかりし過ぎてるから心配なんだよ。もっと俺を頼ればいいのに」
「大丈夫だってば。心配し過ぎ。それに、これ以上頼れないよ。充樹くんだって高校生じゃん。なにができるって言うの」
 顔を背けて言うと、頬を両手で掴まれて顔を覗き込まれた。急に近づいてきた端整な顔にドキドキしてしまうが、彼の目を真っ直ぐに見つめ返せず、すぐに逸らした。充樹が自分を見る目が、麻衣に向けているものとは違うのだと、今はまだ突きつけられたくなかった。すると、こちらを見ろとでも言うように顎を持ち上げられて、見つめられる。
「お前、反抗期でも来たのか?」
「反抗期じゃない!」
「じゃあ、どうしてむくれてる?」
 充樹の手を振り払おうと思ったのに、思いのほか力強く頬を掴まれていて、動けば動くほど頬がむにむにと押されてしまう。彼はその感触を楽しむように口元を緩めて、柔らかい肉を押し込んでくる。
「私のほっぺたを揉むからでしょ!」
「相変わらず、触り心地がいいな~可愛い」
「やめてってば!」
 充樹はなにも悪くないのに、彼を責めたくなる。心配だと言って近づいてきて、好きでもないのに触れないでほしい。麻衣が好きなら、麻衣だけを大切にすればいいのに、優しい彼は、いつだって結衣をもすくい上げようとする。
 だから困らせたくない。充樹の気持ちを知った今は特に。
「なぁ、あいつらになにかされたのか?」
 ふいに真剣な目に見つめられて、動けなくなった。
 充樹の言う『あいつら』は叔父夫婦のことだ。彼は、麻衣と結衣がどういう状況にあるかもすべて知っている。
 藤澤と関わりを得たいがために許されている家庭教師の時間を使って、困りごとはないか、食事は与えられているかと確認してくるのだ。
「なにもされてないよ」
「本当に? 殴られたり、食事を抜かれたりとかはないんだよな?」
 充樹は結衣の全身を検分するように目を凝らす。世間体を気にする叔父夫婦は、自分たち姉妹に暴力は振るわない。それでも、やっていることは虐待だと充樹は言う。
 充樹の両親が児童相談所に通報することも考えたらしいが、躾のために家事を手伝わせているだけだと言い逃れするのがわかりきっているし、下手したら今よりも悪い状況になる可能性もあるため、やめてほしいと結衣が止めた。
「ないよ。ちょっといろいろ考えごとをしてただけだってば」
「なにを」
「なにって……いろいろ?」
「誤魔化すなよ」
 誤魔化すしかないのに無茶を言う。
 結衣が自分の気持ちを告げて、困るのは充樹なのに。
「もう、充樹くんは心配し過ぎ。昨日、叔母さんに頼まれたメロン代の分、一日バイト増やそうかなって考えてただけだよ。そんなことでいちいち充樹くんに甘えていられないでしょ」
 充樹に甘える心地好さにどっぷりと浸っているのは結衣の方だ。充樹の気持ちを知ってもなお、できるならずっとこのままでいたいと思っているのだから。
 そんな自分の感情を隠すように結衣が視線を落とすと、ふいに目の前が陰った。その直後、腰を引き寄せられて、充樹の胸に顔が埋まった。
 こうして抱き締められるようになったのは、両親が亡くなってからだ。頭を撫でたり、額にキスをしたり、親から与えられるべき愛情を代わりに充樹からもらっている。
「バカ、お前はもっと甘えていいくらいだ。本当はさみしがり屋の泣き虫のくせに、一人でなんとかしようとすんな」
 彼の顎がごつんと頭頂部を直撃し、少し痛い。だが、こうして怒ってくれるのが嬉しいなんておかしいだろうか。
「もしまた、あのばばぁがメロン食いたいって言ったらうちから持っていけ。父さんが取引先からよくもらうから。どうせ食べきれないんだ。無駄にならなくていいだろ」
 充樹のそんな優しさが好きだ。
「あの家じゃ、お前たちの口には入らなかったよな。金曜日のおやつはメロンにするか。京子さんに言っておく」
 メロンが食べたいと泣くほど子どもではないのだが。彼の優しさに触れていると、いつだって泣きたくなるほど嬉しい。
「そんなに甘やかして、離れられなくなったらどうするの」
「べつにいい。お前が甘えられる相手は、俺だけだろ」
 麻衣を好きなくせに、結衣を放っておかないから、これでは諦めることもできやしない。
 自分に与えられた情が恋情ならば、どんなによかっただろう。
 でも、それは過ぎたる願いだ。
 幼馴染みだが、言ってみれば赤の他人なのに、大事にされている。それで十分だ。
 両親が亡くなったときに一緒に泣いてくれたのは、充樹とその家族だけ。叔父夫婦の家で過ごすようになって、辛い日々を慰めてくれたのも充樹だ。感謝してもしきれない。
「うん」
 結衣が背中に腕を回すと、ますます彼の腕の力が強まった。
「それに、お前が俺にだけ甘えてくれるの、けっこう優越感があるんだよな」
「そんなこと言っていいの?」
「いいんだよ。結衣は俺が好きだろう? 甘やかすのは俺の特権」
 彼は結衣を抱き締めながらクスクスと声を立てて笑った。
「まぁ、それなりに好き」
「おい」
 不機嫌な声が聞こえてくると、心が満たされる。彼の求める「好き」は恋愛感情ではない。けれど、こうして腕に包まれていると、それでもいい気がしてくる。
「うそうそ、大好き。いいって言ったの、充樹くんだからね。ず~っと甘えてやる」
「いいぞ、受けて立つ」
 ならば、結衣は自分の心を隠し、心の底から二人を祝福してみせよう。
 幼い頃から募っていった想いはそう簡単に消えてなくならないけれど。離れなくていいと言うのなら、充樹が自分の手を離すまでは、与えられる優しさに甘えてしまえばいい。
「俺の愛情は重いからな」
 そう言ったかと思えば、突然、後頭部を引き寄せられて、息ができないほどに強く頭を抱え込まれる。
「む~~~~っ!」
 あまりに苦しくて、思わず回した手でばんばんと彼の背中を叩いた。
「苦しい! 殺す気!?」
「悪い悪い。結衣が可愛くて、ついな。コンビニでデザート買ってやるから機嫌直せよ」
 髪に額にと口づけられて、呆れた目で充樹を睨む。こうやって甘やかしてばかりだから、顔を合わせるたびに好きになってしまうのだと、彼はまったく気づかない。
(お姉ちゃんのことはうっとり見つめてたくせに。あんなに甘ったるい声で好きだって言って抱き締めるくせに……私には、そんなこと、絶対にしないのに)
 三人でいるときは、充樹は自分を抱き締めてはこないし、麻衣に対しても同じだ。が、麻衣と二人きりでいるときは、昨日のような甘い声で話し、触れあうのだ。好きだと囁く彼の声と麻衣をほしいと乞うような目を思い出すと、苦しくてたまらなくなる。
 結衣は充樹の腕の中で顔を上げて、にっこりと微笑んだ。
「プリン食べたい」
「買ってくるから、待ってろ」
 充樹は抱き締めていた腕を離し、結衣の頭を撫でるとコンビニエンスストアへと入っていく。離れていった腕を名残惜しく思ってしまうが、頭を軽く振り切なさを打ち消す。
 すぐに戻ってきた充樹は、買ってきたプリンをその場で開けた。彼はプリンをスプーンですくうと、結衣の口元に持ってくる。
「ほら、口開けて」
 必死に結衣を甘やかそうとする充樹を見ていると、不思議と胸は凪ぐ。
 恋愛ではなかったとしても、彼が自分を愛してくれているのは間違いないのだから、それ以上を求める必要はない。求めればきっと、すべてを失ってしまう。
(大丈夫。充樹くんへの気持ちは、そのうち、家族としての好きに変わる)
 自分に言い聞かせるように願った。いつか、充樹を好きな気持ち以上にほかの誰かを好きになれますようにと。
「あーんだろ」
 つんと唇をスプーンで突かれて、口を開けた。充樹が買ってきたのは、結衣の好きなとろけるプリンだ。
「……美味しい。ありがとう。充樹くんも食べていいよ」
 充樹の持っているスプーンを取り、彼の口にすくったプリンを差しだす。口を開けた彼が嬉しそうにプリンを口に含む様を見ていると、間接キスではあるが、これも一応キスに入るのかな、と変態じみた考えが頭に浮かび頬に熱がこもる。
「甘いな」
 彼の口を見ていられずに咄嗟に目を離すと、顎を持ち上げられた。
「目が赤いぞ。もしかしてまだ具合が悪いのか? 熱は?」
「熱なんてないよ!」
「なら、俺にドキドキした?」
 揶揄うように言われて、その通りだと素直に頷けるはずもない。
「するわけないよね? いつから一緒にいると思ってるの?」
 結衣は呆れたふりをして、肩を竦める。もしも充樹の目を真っ直ぐに見ていたら、こんな風に平然と答えられなかった。
「あはは、まぁそうだよな。ほら、送っていくからもう帰ろう。遅くなったらあいつらに怒られるだろ?」
 充樹は空になったプリンのカップをゴミ箱に捨てた。彼は歩きでここまで来たようだ。なら、徒歩で帰る時間分、一緒にいられる。
 自転車を押してくれる充樹の横に並び、夜道を歩いた。
「いつまで、こうしていられるのかな」
 ふと疑問に思ったことが口を衝いて出てしまう。言葉にするつもりはなかったのに。
 すると充樹は、首を捻りしばらく考え込んでいた。
 ややあって答えが返される。
「結衣が一緒にいたいと思ってくれるなら、ずっとそばにいるよ」
「ずっとって、いくらなんでもそれは無理でしょ。就職したり、環境が変わったりしたら……なかなか会えないよ」
 今はまだ、自分が働くなんて想像もつかない。けれど、その未来はそう遠くない。
 自分もあと三年もしたら、金を稼いで一人で生活をしなければならない。不安はあるが、叔父夫婦から離れられるという期待も大きい。
 そのときもまだ、充樹は今と同じように思ってくれるだろうか。麻衣とはどれだけ離れていても、家族という切れない繋がりがあるが、彼とはそうではないのに。
「今より時間は減るだろうが、まったく会えなくはないだろ」
「そうかな」
「そうだよ。絶対にお前を一人にはしないから、心配するな」
「うん……充樹くん」
「ん?」
「大好き」
「知ってる」
 なにもかもを見透かされたように頭を撫でられて、また泣きそうになった。
 彼にこっそりと恋心を伝えるのは、今日が最後。
 彼の優しさは先ほどのプリンと同じくらい甘い。しばらくはこの恋を忘れることはできないだろうが、きっと時間が経てば、この恋心は家族愛に変わっていく。