海に沈む深愛 記憶喪失のCEOは身代わり妻を今夜も離さない 2
第二話
ウィリアム・リー・バトラー。
中国系アメリカ人で、PTS社が社運を賭けて提携するアメリカ企業のCEO(最高経営責任者)。
今日、シカゴ発のスカイエアラインで羽田空港に到着する同氏は、そのまま車で移動し、あと数分でPTS本社に到着する予定になっている。
「ねぇねぇ、誰がバトラーさんに花束を渡す?」
と、突然、華やいだ色彩が香子の視界に飛び込んできた。
見れば、秘書課の女性たちが数人、はしゃぎながら社屋前広場に歩み出てくる。
「リカは彼氏持ちで、ミナは医者と合コンでしょ。私にチャンスをちょうだいよ」
その中の一人が香子と目が合い、あからさまに嫌な顔になった。
「秋月さん、今、めっちゃ怖い目でこっちを見てた」
「ほっときなよ。どうせ彼女、私たちのことを馬鹿にしてるんだから」
聞こえよがしの悪口に、香子は少し戸惑って顔を背ける。
馬鹿になんかしていないし、むしろその無邪気さが羨ましいと思って見つめていたのだが、おかしな風に誤解されてしまったようだ。
香子は男性にも恋愛にも興味がない。どんな男性を見ても心が動かないし、どれだけ好感を抱いた相手でも、性的な関心を向けられた途端、気持ちがすっと引いていく。
高校の頃までは、普通にクラスの誰それが好きとか、憧れの先輩がいたりとか、それなりに女の子だった記憶があるのだが、今となっては遠い前世の出来事のようだ。
おかげで色恋沙汰には無縁のまま、今年の終わりには二十六歳になる。当たり前だが男性経験はゼロ。これからも男性と深く関わることはないだろう。
それが自分らしい生き方だと割り切っているつもりでも、本当にこれでいいの? と、時々自問してしまうことがある。
今朝みたいな夢を見た日は特にそうだ。この会社にいることも含め、まるで他人の人生を生きているような虚しさがまとわりついて離れない。
この厭世観にもし原因があるとしたら、思い当たることはひとつしかない。それは――。
その時、香子の耳につけたイヤホンが入電を告げた。
『こちら空港班、バトラー氏を乗せた車が護国寺(ごこくじ)駅を通過、まもなく本社に到着します』
我に返った香子は、たちまち気持ちを仕事モードに切り替えた。
「了解。――浦島課長、私達も配置につきましょう」
株式会社PTSは、八十年代に設立された警備保障会社である。
主な業務は、施設警備、交通誘導、貴重品運搬、身辺警備の四つで、東京本社の他、五百箇所以上の支店や警備拠点を持っている。同業種では国内三位の大手企業だ。
ただ、今から二年前、社運を賭けて開発した警備システムに致命的な不具合が発覚したのを契機に赤字転落、深刻な経営難に陥ってしまった。
そこで経営陣が打ち出したのが、同業大手との資本提携である。
今年の四月、その相手先として名乗り出たのが、米国企業〈セキュリティドッグ・インコーポレイティッド〉。通称〈SD・Inc.〉、多岐にわたるセキュリティサービスを世界中に提供している、時価総額六千億円の巨大企業だ。
ウィリアム・リー・バトラーは、前年十二月に同社CEOに就任した人物である。
その彼が、突如お忍びで来日するとの連絡があったのが、先月の終わりのことだった。
長期休暇を日本で過ごすついでに、PTSの業務を非公式に視察したいという。その申し出は、殆ど恐慌を持って幹部社員に受け止められた。
なにしろ会社の存亡は、バトラー氏にかかっていると言っても過言ではないのだ。機嫌を損ねたら最後、最悪資本提携が白紙になることだって起こりかねない。
PTSでは、直ちに応対に向けた特別チームが編成された。
空港への出迎え、到着時の歓迎セレモニー、歓迎パーティ、社内視察等々、様々な計画が立てられる中、歓迎セレモニーを任されたのが香子の所属する庶務課だった。
庶務課は、主に備品購入や経理を担当する部署だが、入社式や創業祭などの式典運営も担当している。それで白羽の矢が立った形だ。
「それにしてもバトラーさんって、一体どんな方なのかしらね」
誘導に立つ香子の背後では、秘書課の女性たちがヒソヒソ声で会話している。
「SD社からは未だ正式なステートメントがないし、問い合わせても回答がないし」
「さっき空港班から入った連絡を聞いたけど、空港でも本人と対面できなかったそうよ」
「ボディガードに囲まれて、あっという間に車に乗っちゃったんだって。ネットで検索しても、元投資家ってこと以外なんの情報もないし……実はすっごい醜男だったりして」
香子は眉をひそめたが、バトラーの外見については何一つ情報がないので、彼女たちが想像を膨らませるのも無理はなかった。
実のところ、バトラーの秘書を通じて非公式に送られてきた彼の情報は、驚くほど少なかったのである。なのにその少ない中に、女心を鷲掴みにするトピックが含まれていた。
二十九歳、男性、中国系アメリカ人、シカゴ在住。
同行者は五歳の息子、セオドア・シー・バトラー他一名。
配偶者は五年前に事故で死亡。――そして、最後にこう付け加えられていた。
なお、バトラー氏においては、事故時の記憶を喪失しているため、配偶者に関する質問は一切しないでいただきたい。
その一文を目にした時、香子は胸を塞がれるような気持ちになった。
きっとなんらかの事故に夫婦で巻き込まれ、妻だけが亡くなったのだろう。そして生き残ったバトラーは、記憶障害を負ったのだ。
が、そんな悲劇的な過去を持つ彼は時価総額六千億円の会社のCEO。しかも二十九歳という若さだ。女子社員が、韓流ドラマみたいな恋物語を夢見てしまうのも無理はない。
その時、クラクションの音がして、前方の車道に三台の車両が列をなして現れた。
先頭と最後尾がPTSの社用車だ。真ん中にはスモークガラスに覆われた黒のリムジン。バトラー父子を乗せた車である。
三台の車が敷地内に滑り込むと、控えていた警備員が可動式のガードフェンスを閉め、人垣で外部を遮断した。撮影禁止、マスコミに一切情報を漏らさないことは、バトラー氏の出した絶対条件である。
香子は車両停止ラインに走り出て、停止の手信号を送った。
「オーライ!」
車が停まり、隊列を作っていた警備員が一斉に敬礼する。火薬を用いた号砲がドンッドンッと大気を揺らし、社屋の外壁に〈ウェルカム〉の垂れ幕が下がり落ちた。
よしっと、香子は内心拳を握り締める。成功――タイミングは全て完璧だ。
が、十秒経っても、二十秒経っても、誰も車から降りてこない。
花束贈呈役の女性が首を傾げ、最前列に陣取る役員らが眉を寄せた――その時だった。
「マーマ!」
明らかにこの場には不似合いな、可愛らしい子供の声がした。
まるで羽があるかのような軽やかさで、ぴょこんっと車から飛び降りたのは、幼稚園児くらいの男の子だった。
くりっとしたつぶらな瞳にマッシュルームみたいな茶褐色の髪。真っ白なほっぺはぽっちゃりして、見た瞬間、十人が十人頬を緩めてしまうくらい愛らしい。
幼児らしからぬ高級なスーツジャケットとパンツをまとった少年は、この状況から察すればバトラーの息子だと考えるのが普通である。
「マーマ」
やけに言葉遣いがたどたどしいのは、子供だからなのか、日本語が分からないのか。いや、そもそも何故「ママ」なのか。――と、皆が思った時だった。
呆然と立つ香子の腰に、その子が飼い主を見つけた子犬みたいに飛びついた。
「マーマ、僕、マーマに会いたかったです!」
――はい……?
驚きのあまり、香子は石みたいに固まった。
子供が、自分に向かって走ってくるのを訝しく思っていたが、飛びつかれるとは夢にも思っていなかった。しかも、今なんて言った?
「え、えと、……え? セオドア……君かな?」
「はいっ、僕、セオです、お母様」
固まったまま、香子は視線だけを子供の小さなつむじに向けた。
もちろん名前が一致しているのだから、この子がCEOの息子なのは間違いない。
ということは、まさか私を亡くなった母親と勘違いしてる?
いや、でも五歳っていったら、さすがに母親の死くらい理解してない?
混乱する香子を、潤んだ可愛らしい瞳がすがるように見上げた。
「お母様、もしかしてセオのことを忘れてしまったのですか?」
「ぇ……え?」
セオの顔がみるみる歪んだ。あっという間に涙が瞳を包み、ポロポロと溢れ出す。
「っ、ちょっ、ちょっと待って、お願いだから泣かないで」
わぁわぁ泣き始めた子供の背中を、香子はびっくり仰天しながら撫でさする。その時、
「おい、秋月! お前、CEOのご子息に何をやったんだ」
宮迫の大声がきっかけで、それまで固まっていた場が一気に騒然となった。
「何をやっとる、早くお坊ちゃんをお助けしないか!」
役員も声を荒らげ、還暦を過ぎた社長まで口角泡を飛ばしてわめいている。
が、烈火のごとく慟哭する子供に誰一人として手が出せず、遠巻きに見守るばかりだ。
無理に子供を引き離すわけにもいかず、さすがの香子も途方に暮れた――その時だった。
「借過一下(ジェグゥォイーシア)」
人垣の向こうから、低い、けれど深みのある男の声がした。
中国語だと、今、目を覚ました人のように香子は気がついた。学生の頃に習っていたから、日常会話程度なら分かる。
あの謎の言葉――マーマは媽媽でお母さん。借過一下は、ちょっとどいてくださいという意味だ。
人混みを押し除けるようにして、目の前に長身の男が現れる。
濃いネイビーのイタリアスーツ。見上げるほど背が高く、艶やかな黒髪が後ろに緩く流されている。
凜々しい眉と澄んだ瞳。それらは全て美しい墨色で、額に一房落ちた髪の下から、切れ長の双眸が、強い緊張をはらんで香子を見下ろしていた。
恐ろしさで喉が鳴ったのは、この男がウィリアム・リー・バトラーだと分かったからだ。
それを裏付けるように、彼を追いかけてきた黒服の男が、香子の前で仁王立ちになる。
短い角刈りに凶悪な三白眼。軍人か傭兵か――人殺しでもしていそうな形相だ。
「我來處理嗎(ウォライチュリーマー)?」
その人殺しが低く言った。中国語で処理しましょうかという意味だ。
――ち、違うんです。
香子は、ガクガク震えながら、ぎこちなく首を横に振る。
私が泣かせているのでも、無理に引き留めているのでもないんです。この子が勝手にお母さんだと勘違いして――そうだ、中国語、中国語で喋らないと!
「……ド、ドゥ、ドゥ、對不起(ドゥイブーチー)」
馬鹿馬鹿、ここで最上級の謝罪をしてどうするの。これじゃ本当に私が悪者に――
「お父様!」
と、突然、香子にしがみついていた子供が弾むような声を上げた。
腰に密着していた体温が不意になくなる。駆け寄った愛息を抱き止めたCEOが、冷徹な顔をみるみる優しく変化させた。
「セオ、勝手に車を降りたら駄目じゃないか」
あ、日本語――と思った時、男はその笑顔の余韻を残した目をゆっくりと香子に向けた。
「すみません、咄嗟に使い慣れた言葉が出ましたが、私もセオも日本語を喋れます」
色恋に興味のない香子でさえ、思わず見惚れてしまうほど綺麗な顔だった。
男らしい輪郭を持つ顔は珠を彫ったように清爽で、切れ上がったまなじりは極上の絵師が筆で佩いたようだ。透明感のある白い肌は鼻筋までも透き通って見える。
でも、その白さは明らかに西洋人のそれではない。息子と同じ、生粋の東洋人だ。
その父を見上げ、セオがきらきらした目で訴えた。
「ごめんなさい。でも僕、一番にお母様にご挨拶したかったんです」
――はい……?
「この人が、セオのお母様ですよね?」
そこでバトラーと目が合った香子は、顔を蒼白にさせながらかろうじて微笑んだ。
配偶者の質問は絶対NG。このあり得ない勘違いを、バトラーが喜ぶはずがない。
「ぁ……あの、ミスターバトラー、これはですね」
が、彼は特に怒った風もなく、立てた人差し指をそっと唇に当てて香子を見る。そして、
「うん、そうだよ」
冷淡な顔からは想像もつかないくらい甘い声。男らしい大きな手が、子供の頭を愛おしげに撫でた。
「きっと神様が、お父様とセオの願いを叶えてくださったんだ。でもお父様はこれからお仕事だから、ハオランと向こうに行っておいで」
「お母様は?」
「あとでセオのところに来てくれる。まずはお父様に、お母様と話をさせてくれないか」
笑顔で「はいっ」と頷いたセオが、凶悪な三白眼の男に抱き上げられる。紅葉みたいな手を振ってくるセオに、香子も仕方なく――硬い笑顔で、ぎこちなく手を振った。
少し離れた場所では、社長を始めとする幹部社員が、怒りを込めた目でこちらを見ている。浦島が宮迫に頭を下げているのを見た香子は、さすがに悄然とした気持ちになった。
これは――早く事情を説明しないと大変なことになる。
「息子が、大変失礼しました」
「っ、いえ」
突然、CEOに話しかけられた香子は、我に返って直立不動になった。
一刻も早く浦島に事情を伝えたいが、声をかけられた以上、そんな勝手は許されない。
立ったままの香子の前に、スッと白いハンカチが差し出される。
「よろしければこちらを使ってください。服は、後で私が弁償します」
意味が分からずにハンカチの方に視線を下げると、スーツの腰辺りに鼻水みたいなものがベッタリと付いている。
「セオが付けたものだと思います。思い入れのある服でなければよいのですが」
思い入れは特にないが、上下で七万もする一張羅だ。が、悲鳴は根性でのみ込んだ。
「だ、大丈夫ですのでお気遣いなく、では、私はこれで失礼します!」
チャンスとばかりに深々と頭を下げると、香子は急いで人垣の外に逃れ出た。
何か訳がありそうだけど、後で私が来るなんて残酷な嘘をついて、どうフォローするつもりなのだろう。
もしかして父親だけでなく、息子まで記憶障害? さすがにそれはないだろうが、本気で私を母親と思ったのなら、なんだか可哀想――
「待ってくれ」
ぐいっと背後から腕を引かれ、香子は驚いて足を止めた。
「メイユィだろう?」
振り返ると、息をのむほど端整な顔が目の前にあった。黒曜石のような漆黒の瞳が、真摯な光を帯びて香子を見下ろしている。
「バ、バトラーさん……?」
「君が死んだなんて信じていなかった。そう、一日だって信じたことはなかった」
墨を溶いたような双眸に薄い水の膜が張り、一筋の涙が頬を伝う。その美しさに思わず息をのんだ時、腰に腕が回され、ほのかな甘い香りに包まれた。
えっと思った時には顔が影に覆われ、唇に柔らかなものが押し当てられている。
優しい温(ぬく)みが離れ、息ができるようになっても、香子にはまだ何が起きたか分からない。
額にポツリと雨が落ちてきた。
天気予報を裏切って降り始めた雨が、彼の濃紺のスーツの肩で弾けている。
大きな胸に閉じ込められた香子の耳に、切なく掠れた声が聞こえた。
「メイユィ、ようやく君を見つけた――」
「あっはは、それで引っぱたいちゃったんだ。会社の命運を握るCEO様の横っ面を」
翌日――表参道の商業ビル。その二十二階にある〈すみれレディースクリニック〉。
午後一時。この病院の院長で十四年来の友人と、香子は二人きりで向き合っていた。
宮沢菫(みやざわすみれ)。友人と言っても香子より十歳上、兄の同級生で、元恋人でもある。
「っ、当たり前ですよ。あんなの、ただの性加害じゃないですか」
「イケメンでなかったら、即逮捕ね」
「何を昭和みたいなこと言ってるんですか、顔関係なく逮捕ですよ」
くすくす笑う菫は、いつ会っても三十五歳とは思えないほど若々しい。みずみずしい肌と肉感的な唇。それでいて年相応の知性と貫禄を白のドクターコートから漂わせている。
「で、初めてのキスはなんだったの? プレッシャーキス? バードキス? それとも」
「っ、ちょ、そんなの覚えてないですよ。一瞬です、一瞬!」
「へぇー、初めてのところは否定しないんだ」
菫はおかしそうに笑いながら、対面のソファで綺麗な脚を組み直した。
「で、キスはまぁいいとして、それからミスターバトラーとはどうなったの?」
この婦人科クリニックは、セレブ御用達の人気医院で、外来には一ヶ月前から予約がいる。にもかかわらず、今朝、突発的に予約の電話を入れた香子を、菫はいつものように昼休憩に招き入れてくれた。
診察の後、聞かれるがままに昨日の出来事を話してしまったのは、菫にじっと見つめられ、「何かあった?」と聞かれると、隠し事ができない気持ちになってしまうからだ。
今も、持ち上げたカップに唇をつけてから、香子は続きを話し始めた。
「軽く叩いただけなのに、バトラーさんがよろめいて尻餅をついたんです。で、助け起こそうとしたら、取り押さえられました。……バトラーさんじゃなく、私が」
その後の騒ぎは、さすがに思い出したくもない。
あたかも凶悪犯のように羽交い締めにされた香子は、あっという間にバトラーから引き離された。バトラーの姿は、すぐに人の輪に囲まれて見えなくなったが、
(やめろ、私のメイユィをどこに連れていくつもりだ!)
そう叫ぶバトラーが恐ろしく、香子は警備員を急かすようにして社屋に逃げ込んだ。
五歳の子供ならまだしも、大人に本気で誤解されているのはさすがに怖い。
「CEOに記憶障害があるのは分かってますし、会社の人たちも事情は察してくれたんですけど、……まぁ、手を出しちゃったんで、今日の午後二時まで出勤停止です」
「二時? えらく半端な処分なのね」
「今日の午前中、バトラーさんが社内視察をする予定だったんです。午後からは社長と取引先企業に行かれるそうなので……、私と顔を合わせないための配慮だと思います」
これ以上菫に話すつもりはないが、香子の処分は、むろん半日の出勤停止ではない。
なにしろ会社の命運を握る人物を平手打ちし、転倒させたのだ。事情を説明した後でも社長の怒りは収まらず、今日の三時から懲罰会議にかけられる予定になっている。減給か異動か――ことによるともっと悪い処分が待っているかもしれない。
「そんなわけで午後まで暇になったので、急きょこちらに来させてもらったんです。ピルも鉄剤もとっくの昔に切れちゃってたので」
「どっちも多めに出してあげるわよ。普段から貧血気味なんだから気をつけて」
礼を言った香子は、残りのコーヒーを飲み干して、傍のショルダーバッグを持ち上げた。
「付き合っちゃえばいいのに」
「……はい?」
「初対面の男にいきなり唇を奪われたらね」
菫は人差し指を立て、それを自分の唇に押し当てた。
「それがどんなイケメンでも、吐き気がして、何度うがい薬で口をゆすいでも屈辱と気持ち悪さは忘れられないものよ。私なんて自分の唾も飲み込めなくなったくらい」
あ、そんなことがあったんだ――と思いながら、香子は慌てて両手を振った。
「まさに、そんな感じでしたよ?」
「そう? 恥ずかしがってたけど、嫌がってる風には見えなかった。きっとバトラーさんのプロフィールとお子さんへの態度を見て、香子ちゃん、彼に惹かれちゃったのよ。キスされた時には、もう彼のことを受け入れちゃってたの」
――はい……?
「付き合うのが無理なら、セックスだけでもしてみたら? バカンスが終わればアメリカに帰っちゃうから後腐れないし、バトラーさんだって喜んでくれるわよ」
尊敬する菫の宮迫みたいな発言に、香子はもう言葉もなかった。