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ケダモノ社長のお気に入り 男装秘書は淫らに身体を暴かれる 4

第四話

「人参ってこんな美味かったっけ?」
「人参しりしりです」
「しりしり?」
「元は沖縄の家庭料理で、すりおろすときの〝すりすり〟を方言で〝しりしり〟って言うそうで」
「ふーん……なんか香ばしい」
「それはごま油が入ってるから……メインも食べてみてください」
「こっち?」
「そうです。……どうですか?」
「んまい。好きな味付け」
「そうですか……」
「全部もらっていいの?」
「はい」
「じゃあ遠慮なく」
 どうしよう。ふつふつと嬉しい。
 男らしい大きな口が弁当の中身をぺろりと平らげていく。私は応接机を挟んで向かい側からその様子を観察し続けた。よっぽどお腹がすいていたらしく彼の箸は止まらない。嚥下のたびに上下する喉仏。濡れる唇。
 途中で視線を上げた鳳穂高と目が合った。
「めっちゃ見てくるじゃん。見てて楽しい?」
「そこそこ楽しいですね」
「変なの」
「鳳社長、気づいてます?」
「何が?」
「あなた今、私に甘えまくりですよ」
 指摘すると、再びお弁当に落とされていた視線がこちらを向いて目が大きく丸くなる。
 さっきは人の肩を借りることも躊躇っていたこの男が自分から膝を借り、勧められた弁当を食べた。これは大きな進歩だと思いつつ、意地の悪い私は嫌味な訊き方をした。
 しかし鳳穂高は挑発に乗ることなく、ただ自分でも驚いた様子で言葉をこぼした。
「ほんとだ」
「……え、本当に自覚なかったんですか?」
「まったくなかった。……ほんとだな。いつもの俺なら〝いらない〟って突っぱねてるところだよな……」
 新しい自分との出会いに驚いている。そんな中でも箸を止めずに私がつくったご飯を食べる。またしばらく黙々と食事を続け、お弁当箱もスープジャーも綺麗に空にしたら、そこで彼はやっと今の事象について結論を出した。
「篠崎に世話を焼いてもらうのは、案外悪くないかも」
「……へ?」
「ご馳走さま」
 聞いたことのない優しい声が聞こえた気がした。次にハッと我に返ったときにはもう鳳穂高はソファから立ち上がっていて、お弁当とスープジャーを洗いに給湯室へと向かっていた。持って帰って洗うからいいですよ、と言いそびれたまま、遠くでドアが閉まる。
「…………私限定?」
 それってどういう感情?
 深い意味なんて特にないかもしれないのに、言われた言葉を頭の中で何度も何度も再放送する。
〝篠崎に世話を焼いてもらうのは、案外悪くないかも〟
 嬉しい気がしてしまうのはどうしてだろう。何が嬉しいんだろう。鳳の息子からそんな風に言われてどうして? 敵の懐に入れて嬉しいのとは、また違うような気がしている。
「なんなの……」
 ぽろっと出たつぶやきが女のときのもので慌てて口を噤んだ。
 冷静にならないと。こんな何気ない一言で心を乱されていたら、復讐なんて到底遂げられない。ぱたぱたと手で顔を扇ぐ。心を落ち着ける。頭に浮かぶのは、私の膝の上で眠る鳳穂高の油断しきった寝顔と、美味しそうに私の手料理を平らげる表情。
(だめだ)
 頭から振り払おうとするほどそのことばかり考えてしまう。

 しばらくすると鳳穂高が社長室に戻ってきた。彼はしっかりと水気を拭き取った容器を私に返却し、もう一度「ご馳走さま」と。
 それからこう続けた。
「もっと食べたいわぁ、篠崎の手料理」
 本心かどうかなんて知らない。ただ、心底残念そうにこぼしたその口が、下がった眉尻が、傾げられた首が、なんとなく本物に見えたので。
 私はとっさに頭に浮かんだ言葉を口に出した。
「つくりに行ってあげましょうか」
 パッと目が合い、緊張が走る。不自然な沈黙が流れる。
 私の提案に対して鳳穂高は見るからに驚いていた。
(……私は一体何を)
 一介の秘書が社長の自宅にご飯をつくりに行ってあげるなんて意味がわからない。過去に仕えた社長たちにも、もちろんそこまでしていない。
 ……いや、ただ、でも。自宅にお邪魔できるなんて、弱みを握るならこの上ないチャンスじゃないか。誰も知らない鳳穂高のプライベート。やましいことがあるとすれば、それを隠すのは社長室ではなく自宅かもしれない。探りを入れる価値はある。
 名目が立った瞬間、先ほどの私の提案は自分の中で合理的なものになった。
「え……篠崎がウチに来てくれるの? わざわざ?」
「つくりたての温かい食事は消化にもいいので」
「いや、でもさすがに悪い」
「私に世話を焼かれるのは悪くないんでしょう?」
「……まあ」
「ではこれを機に人に頼る練習をしてみてはいかがですか? 手始めに私から」
 努めて冷静な秘書を装った。淡々と事務的に、建設的な提案をする理知的な男性秘書。そんなイメージで篠崎侑李を演じる。
 鳳穂高は少しだけ考えてから、ふっと笑って「それもアリだな」と。
(納得するの早っ!)
 思ったよりあっさり受け入れられてびっくりです。
 この人、こんなに警戒心が薄くて大丈夫……?
「楽しみだなぁ、篠崎の手料理」

 子どものようにワクワクしている鳳穂高の顔を見て、目をそらした。
 彼の笑顔を見ているだけで自分の体温が上がる理由を、私はまだ知らない。

 ◇◆◇◆


「進捗はいかがですか?」
 社長に頼まれていた宅配便の手配を済ませ、社長室に戻ろうとエレベーターを待っていたときのことだ。自分以外に誰もいないと思っていたら、いつの間にか隣に立っていた人物に声をかけられた。私はぎょっとして返事をする。
「……びっくりした。急に社内で話しかけてこないでください」
「おや。人気者の篠崎秘書らしくないですね。物腰柔らかで癒し系だと評判なのに」
「どこ評価ですかソレ」
「各フロアでそう言われてますよ。随分広く顔を売っているようで」
「そういうわけでは……」
 フェニクシアの人事の桐生さん――もとい、父の右腕である桐生秀爾を前に、私は少し緊張した。声が届く範囲に人がいないか周囲を見回す。潜り込んだスパイ同士が敵地でこうして接触を図るのはリスクだ。
 周囲に聞き耳を立てる人間がいないことを確認し、私は言葉を砕けさせる。
「進捗は……あるといえばあるようなって感じです」
「ほう。どのような進捗ですか」
「社長の信頼を順調に勝ち取っているかと」
「素晴らしい。彼は人に頼らないことで有名な人間ですから快挙ですね」
「それで今度、お宅にお邪魔することになりました」
「なんで?」
 桐生のツッコミは冴えわたっていた。いつもの落ち着いたテンポの会話の中で目敏くおかしな点を見つけて追及してくる。今のはスルーしてほしかった……。
 困惑の眼差しを向けてくる桐生に、私はやむを得ず説明する。
「手料理を振る舞うことになったんです。あの方とても不摂生なので」
「はあ。お嬢さんが手料理を……」
「これで自宅まで探りを入れることができます。万々歳ですね」
 作戦上の利点を挙げて小さくピースサインを見せた。ピースはやりすぎだったかしら。桐生は釈然としない様子でありながらも、一応「なるほど?」と相槌を打ってくれる。
「……まあ、男装がバレないように注意なさい」
「わかっています」
 もっともな忠告だと思った。あんなに距離感の近い社長と四六時中一緒にいたら、きちんと注意していないとすぐ男ではないとバレてしまいそうだ。
「社長の懐に入るのも結構ですが、鳳グループの不正について調べることもお忘れなく」
「ええ、もちろん」
 ちらりと隣の桐生の様子を窺うと、「どうしました」と目敏く反応する。鋭く勘のいい桐生の目をなぜか脅威に感じ、私は「いえ」と目をそらす。すべてを事細かに報告する必要はない。膝枕のこととかも余計な情報だから、言わなくていい。
 間もなくエレベーターがこのフロアに到着する。それを察してどちらからともなくフェニクシアの社員同士の関係に戻った。
「では篠崎さん。午後も頑張りましょう」
「ええ」
 私のやり方は正しいんだろうか?
 このまま鳳穂高の傍にいて復讐なんてできるんだろうかと、そんな不安は桐生には打ち明けられなかった。


 社長室に戻ると彼は待っていたとばかりにパソコンから顔を上げた。
「遅かったな」
「エレベーターがなかなか来なかったんです」
「階段使えばいいのに。ちんたらしてたら俺の秘書は務まらない」
「最近まで放置だったのに随分な言い草じゃないですか?」

〝篠崎に世話を焼いてもらうのは、案外悪くないかも〟

 あの日の殊勝な言葉に絆されかけたのも束の間、鳳穂高の変わり身は見事なものだった。これまで自分の仕事に一切手を触れさせなかった彼は、朝にその日の予定をすべて口頭で羅列し、その中からいくつかを私に手伝わせるようになった。経費精算や出張手配、会議の準備などの雑務に始まり、挨拶状の草案作成やメディアとのやり取り、メールチェックの代理に至るまで。
 前の会社では当たり前に任されていた仕事がやっと手元に回ってきた。本来これらは多忙な経営者に代わって秘書がこなす仕事だ。
「ほんとに……こんなことまで自分で対応していて、今までよく仕事が回りましたね」
「だろ? 優秀だからさー」
「本当に優秀な人はもっと上手に他人を頼るんですけどね」
「あーあーあー、聞こえなーい」
 そう言って耳を塞ぐ鳳穂高を尻目に、私は自分が引き取った仕事の全体を把握しようと中身をチェックする。知れば知るほど思う。本当に、よくこの量を一人で……。
「私に任せて少しは楽になりました?」
「うん、かなり」
「そうですか」
 他人任せにして勝手にがっかりしたくはないのだと、彼は前に言っていた。だから手落ちがあってはいけない。一度でもがっかりさせてしまえば〝やっぱり自分でやるのが一番だな〟と、前の彼に戻ってしまいかねない。そうなれば今度こそ体を壊すかもしれないから。
「IT新報の事前インタビューの回答、草稿をまとめたのでここに置いておきますね」
「回答の草稿?」
「過去に社長が受けたインタビューの中にも似たような質問がいくつかあったので、そのときの回答をまとめたものです。お考えが変わっているものは適宜加筆修正してください」
「ゆっ……有能~!」
 社長は興味深そうにデスクの上の草稿を手に取り、ぺらぺらと捲って中身を確認する。
「へぇ。WEB媒体だけじゃなくて雑誌も? バックナンバーまでよく見つけたな」
「……ええ、まあ」
 それはあなたの動向を追う際に集めた私物です、とは口が裂けても言えない。復讐計画に勘付かれてはいけないのはもちろん、インタビュー記事を網羅するように雑誌を所有しているなんて社長のファンみたいじゃないか。
 バックナンバーの出所を訊かれる前に話題を変えよう。
「そういえば鳳社長――」
 この間、成瀬さんから貰ったお菓子があるんですけど。よければ一緒に頂きませんか。
 そう誘おうとした瞬間、デスクの上に置いてあった社長のスマホが震えた。
「ああ、悪い。着信だ」
「どうぞ」
 ……なぜだろう? 誘いそびれて内心ひどく脱力している。ただ休憩に一緒にお菓子を食べましょうと言うだけなのに、もう一度誘うことを考えるとものすごくエネルギーが要る。なんならお菓子は別に私一人で頂いたっていいのだ。好物だし。
「はい、フェニクシアの鳳です。お世話になっております。……ええ、大丈夫ですよ。どうされましたか?」
 電話の相手はお得意先のようだ。不用意に会話を聞くべきではないなと秘書なりの判断をし、社長の手元にメモとペンだけ寄せて秘書室に引っ込もうとした。
 しかし、それは社長の手によって妨げられた。
「……えっ」
 メモとペンを用意したその手の、男物の時計を嵌めた手首の部分をパッと摑まれる。急なことに素っ頓狂な声が漏れた。……この手は何?
「ああ、先日の会議でも議題に挙がっていた件ですね。前向きに動きたいとは思っていますが、先方にもそれなりのメリットがないと協業は難しいでしょう。どんな提案が考えられますか?」
 当の社長は素知らぬ顔で電話での商談を続ける。私の手首をしっかりと握ったまま。私は椅子に掛けた社長の前から動くことができず、電話の邪魔になってもいけないので抗議することもできない。
「広告費用をそちらで負担する、ですか。……なるほど。それは確かに好条件かもしれません。あちらももっと露出を増やしたいでしょうし」
 目に野心がちらつく表情を間近で見ている。酔って潰れたところや愚痴をこぼす姿を目にしてきたから忘れそうになるけれど、彼は社長だ。鳳穂高は優秀だった。仕事を捌くスピードが尋常ではないし、決断も早い。事態に先回りして対処することにも長けている。そして恐らく、相当に野心がある。
(……いずれは邪魔な会社を蹴落とす?)
 あなたの父親が、私の父親にそうしたみたいに。
 仕事に傾倒している姿を見ているとそう思わずにはいられなかった。自分よりずっと年上で経験値のあるビジネスマンたちと渡り合う姿は格好よく見える。そんな姿に不思議なほど魅せられているのも、実は自覚している。
 それでもあなたは私の復讐の対象だ。申し訳ないけれど。
「検討材料に数字を出してみましょうか。あくまで試算にはなりますが」
「っあ」
 不意に、手首を摑んでいた手の親指が〝すりっ……〟と私の肌を撫でた。微細な接触にびくりと肌を震わせ、何をするんだと鳳穂高を睨む。彼の目はちらりとこちらを見上げていた。目が合った。なぜかそこでもう一度ドキッとした。
「大丈夫ですよ。仕事の速い部下がいるので」
 ――ああ、この通話で発生する仕事を任せたかったから呼び止めていたのか。
 目配せとともに発せられた言葉でようやく理解した。アライアンスを成立させるための検討資料を準備しろと。
 その後、鳳穂高は電話の相手と二、三言葉を交わして電話での商談を切り上げた。その間も彼は私の手首を握って繫ぎ止めたまま。通話を切り、スマホをデスクに置き、こちらを見上げて最初に発した言葉は――。
「篠崎ってちょっと敏感すぎない?」
「さっさと放してください」
 通話が切れているのをいいことに思い切り社長の手を振り払う。ぶんと勢いをつけて振り払うと手首を摑んでいた手は簡単にほどけた。社長は「乱暴だなぁ」と口を尖らせる。
「こんな風に捕まえなくても、後で指示してくだされば――」
「それはそうなんだけどさ。何か言いかけてたじゃん」
「えっ」
「電話がかかってくる前。俺になんて言おうとしたの?」
「……」
 先ほどの野心に溢れた目とは違う無垢な目を向けられる。何かにとてつもない期待を寄せていそうな少年らしい純粋な眼差し。私はたじろいだ。電話がかかってくる前に考えていたことなんて、もうすっかり忘れてしまっていたからだ。
 なんだっけ。何に勇気を出そうとしていたんだっけ。
 数分前のことを必死で思い出そうとする。期待に輝く目が私の答えを待っている。
(なんだっけ…………ああ、そうだ)
 成瀬さんからもらったお菓子だ。休憩がてらに一緒にどうですかって。
 たったそれだけだ。
「……いえ、あの。全然たいしたことではないので」
「俺にはたいしたことかもよ? 電話の間ずっと気になってたから、教えてくれないと困る……」
「そう言われましても……」
 さっさと言っておけばよかったかな。勿体ぶったぶん、どんどん言いにくくなる。
 電話の間も気になってたって本当?
「篠崎。……なぁに?」
 とても秘書にかける声とは思えない、極上に甘い声で問いかけられる。今ここに社員がやってきたらどんな関係かと疑念を持たれるだろう。それくらいの声で懐柔してくるので、私ももう、限界で。
「――成瀬さんが」
「成瀬? って、企画部の成瀬?」
 こくりと頷く。秘書ならばもっとハキハキと要領よく話すべきだ。今の私は話すのが下手すぎて目も当てられない。
「成瀬がどうしたの。ってかそことも交流あんのね……」
「お菓子をくださったんです。たまたまお手伝いをすることがあって……ほら、鳳社長が私に仕事を分けてくださらなかったときに」
「〝穂高〟」
「え」
「呼び方は〝穂高〟でいい。親しい人間はみんなそう呼ぶ」
「は?」
 親しい、とは? 私はただの秘書ですが。
 急に色めきだした空気に戸惑っていると、彼が「それで?」と優しく続きを促した。
「…………穂高社長も一緒に食べませんか。……と」
 どうしてここまでしどろもどろになってしまったのか。ようやく口に出してから〝それだけ?〟と心の中で自分に突っ込んだ。絶対こんなに勿体ぶることじゃなかった。
(社長もきっと呆れているわ)
 羞恥心に耐えかねて目を伏せる。こんなの私じゃない。
 社長の顔はとても見ることができなかった。それからしばらく黙っていたけど、彼は一体どんな顔をしていたんだろう。たいした時間ではなかったのかもしれないが、沈黙に耐え切れず私は言葉を継ぎ足していた。
「お忙しいですよね、すみません。いつでもつまんでいただけるように準備します」
「待て待て待て待て」
 強めに引き留められる。気づけばまた手首を摑まれ、逃げられなくなっていた。
 社長は優しい顔をしていた。
「篠崎が手伝ってくれるお陰で最近は余裕がある。ちなみに成瀬から何もらったの」
「……マダム・ミチコのガレットブルトンヌです」
「最高~」
 成瀬さんと奥様のチョイスは社長に刺さったらしい。ガレットブルトンヌと聞いた瞬間、電話の最中の計算高そうな顔からは想像できないほど締まりなく頰を緩めた。成瀬さんの言う通り、社長はただお菓子が好きなのかもしれない。
「それじゃあ男二人でスイーツ休憩としよう」
 そう言ってからの彼の動きは見るも鮮やかなものだった。彼はエグゼクティブデスクの背後にある大きなキャビネットからティーポットやストレーナーを取り出し、瞬く間にお茶の準備を整えていく。
「え……?」
「ちなみに篠崎は紅茶いける? 苦手な茶葉ある?」
「いえ、だいたい好きです。でも、あの、私やります」
「じゃあ一緒に給湯室いこ。銅のケトルがあるからそれ持って」
「いえ、だから……そうじゃなくて!」
 社長にお茶を淹れさせられるわけがないでしょう! という私の主張は通らなかった。彼は腹の立つ顔で「俺のほうが巧く淹れられるから見てて」と言って譲らず、私に紅茶を振る舞う。
 結局淹れてもらった紅茶は本当に美味しくて、よっぽど自信があったんだなと思った。
「……あの」
「ん?」
「なぜ正面ではなく隣にお座りになるのでしょうか……上座はそちらです」
「まあまあ」
 彼は適当にそう返事してガレットブルトンヌを手に取った。発酵バターの豊潤な香りがこちらにまで漂ってくる。彼はこぼさぬように片手を皿にしながら、丸い厚焼きクッキーにザクッと歯を立てた。……いい音~。
「うん……ん! うまぁ……!」
 一口頰張って幸せそうな顔をこちらに向けた。成瀬夫妻チョイスのガレットブルトンヌは本当に美味しかったらしく、ワンマンで有名な鳳穂高の顔を少年のように変える。
「篠崎も食べてみ。めっっっちゃ美味い」
 そうやって笑う口の端にはクッキーの欠片がしっかりついていて、そんなところも少年みたいで私はつい笑ってしまった。
「口元、ついてますよ」
 そう言って口の端の欠片を指で拭って取り除く。照れとかは別になかった。物理的な距離の近さがそうさせたのか、はたまた屈託のない笑顔に乗せられたのか。拭ってあげることが、そのときの私にとっては自然な行動だったから。
 呆れと可笑しさと可愛さで、こう言ってしまったくらい。
「しょうのない人ですね」
 彼はなぜか口を半開きにしたまましばらく固まっていた。

 この人のことをもっとよく知ってみよう。
 そうすれば、胸に引っかかっているこの気持ちの正体もわかるかもしれない。
 ――なんて思いながら、ガレットブルトンヌを私も一口頂いた。
 うん、美味しい。