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ケダモノ社長のお気に入り 男装秘書は淫らに身体を暴かれる 3

第三話

 この一週間で会社のレイアウトはほとんど把握できたと思う。社長の補佐業務の代わりに社員たちの手伝いをすることで、営業部や開発部、企画部、経理部、人事部、資料室など縦横無尽に歩き回った。頼まれごとついでに社員たちとも会話することが多く、少しずつだが顔と名前が一致しつつある。
(……勢いのある会社、って感じ)
 ざっとフロアを見回しただけでもわかる。社員の平均年齢は若く、議論も活発で、すれ違う社員一人一人にそこはかとない自信が見える。
 すべて父の会社が今はもう失ってしまったものだ。
「あっ、篠崎さん!」
 企画部の前を通りかかると部員の一人が声をかけてきた。主任の成(なる)瀬(せ)さんだ。一児のパパである成瀬さんはふにゃふにゃと人懐っこい笑顔を浮かべてこちらに歩み寄ってくる。
「この間はありがとうございました。お陰で先方に失礼にならずに済みました」
「いえ、お役に立ててよかったです」
 三日前に彼からの頼まれごとを引き受けた。仏語で商談の案内メールを送りたいとのことで、つくった文面におかしなところがないか確認してほしい、という依頼だった。私が前に秘書として勤めていた会社はフランスの会社とのやり取りが多く、ビジネス仏語は必死で勉強したのだ。それが今回たまたま役立った。
 成瀬さんは困ったように笑ってぽりぽりと頰を搔く。
「話すのはまだいいんですけどねー。文章ってなると途端に苦手で……」
「わかります。私も定型文の丸暗記ばかりでほとんど使い回しで……仏語に限らずビジネス用語は難しいですよね」
「ですです。あのまま送信するの怖かったからほんとに助かりました!」
「恐縮です」
「ささやかですけどコレ、どうぞ」
「えっ?」
 手渡されたのは小さな紙袋。上から中を覗くと、円柱型のお洒落な缶ケースが見えた。この紙袋と缶のデザインには見覚えがある。
「最近奥さんとお菓子の取り寄せに嵌まってるんですよ~。休憩にでも食べてください」
「あっ……ありがとうございます。すみません」
「あ! 篠崎さん甘いもの大丈夫ですか? 先に確認すればよかった」
「大丈夫です。あの……大好きです」
 男装中なので精一杯発言に気を遣いつつ結局本当のことを話した。男で甘いのが好きって変かなと一瞬迷ったものの、逆の立場ならまったくおかしいと思わないことに気づいた。それに甘いものには実は目がないので。有難く頂いておくことにする。
「よかった! よければ穂高社長にも分けてあげてください」
「社長に?」
「彼もなかなかの甘党なので。あの人めちゃくちゃ手土産に詳しくないですか? 本人は得意先のためだって言い張ってるけど、絶対趣味が実益兼ねてるだけなんだよな~」
「そうなんですね……」
 そういえば、手土産も自分がいいと思うものを渡したいと言っていたっけ。自分で買いに行ってちゃっかり味見して自分用も買っているのかなと思うと、少し可笑しくて笑ってしまった。そんな私を見て成瀬さんは柔らかく笑う。
「穂高社長のこと、お願いしますね」
 私は「はい」と返事をしながら、不思議な会社だなぁと思った。社員と社長の距離が近いというか。まるで親戚みたいに成瀬さんが社長のことを話すものだから。
 成瀬さんと別れ、頂いたお菓子の紙袋を引っ提げて廊下を歩く。些細なことだけど人の役に立って、感謝されて、心がぽわっと温かくなるやり取りだった。
 ――嬉しい気持ちを反芻しつつ、一方で考える。
 フェニクシアに復讐をするということは、あの善良な人にも迷惑をかけるということだ。成瀬さんだけじゃない。一週間ここの社員と触れ合っただけで、フェニクシアには人のいい人間がたくさんいることを知った。
(……あまり交流すべきじゃないわね)
 この復讐がどんな形で遂げられるのかはわからない。ただ最終目的がフェニクシアの失墜である以上、社員への影響は避けられないだろう。内部の人と仲良くなってしまったら、何か大事な決断を迫られたときに踏ん切りがつかなくなってしまう。
 あくまで私は復讐のためにここにいるんだと、忘れないようにしないと。

「さて」
 定時もとっくに過ぎた深夜。こんな夜遅くに社長室に人が訪ねてくることはない。フェニクシアの転覆に繫がるような不正や不祥事の証拠を探すには、社長が会食に出ているこの時間が一番都合よかった。初日が例外だっただけで彼は滅多に秘書を同伴させないらしい。チャンスをつくってくれて有難い限りだ。
 社長室には入口がふたつある。ひとつは社員や来客、社長自身が利用する正面入口。そしてもうひとつは私がいる秘書室と行き来できる通用口。後者は私の持っている社員証でいつでもロックを解除できる。私は同階に人影がないことを確認してから社長室に忍び込んだ。
 日常的に出入りしているのでだいたいの配置は把握している。ほとんどの資料がオンラインで管理されているなか、一部の紙媒体の機密情報はエグゼクティブデスクのキャビネットの中に保管されている。デスクの奥には棚も兼ねた備え付けのロッカーもあるが、そちらは何に使われているか知らない。
 試しにデスクのキャビネットの引き出しに手をかけてみる。手前に引く。
 鍵がかかっている。
「まあそうですよねぇ……」
 これで施錠されていなかったら、逆に私は彼を叱らねばならないところだ。社長である以前に一社会人として情報セキュリティマネジメントはしっかりしてもらわねば。
 今日いきなり成果を出そうとは私も考えていない。とりあえず今日のところは不都合な情報の隠し場所に目星をつけることが目的だ。情報の在処さえわかれば、奪取できるタイミングなんてこれからいくらでもある。
(……あの男も、人を陥れたりするんだろうか)
 ――フェニクシアが父の会社を陥れたのはもう二十五年も前のことだ。昔のことといえば昔のこと。企業の体質も変わっているだろうという見方もある。ただ、一度悪事を働いた会社がその後クリーンであり続けたとも思えない。ここまで成り上がる過程で必ず何かはやらかしている。……というのが、父の目算だ。
 できれば二十五年前のことについても証拠が欲しい。二十五年前に父の会社が競争に負けて勢いを失ったのは、営業秘密侵害をはじめとする重大な不正があったせいだと、世間に認めさせることができたなら。私たち親子は復讐への執着から解放されるかもしれない。
(キャビネットの鍵は社長が肌身離さず持ってる。あと、パソコンのログインIDとパスもどこかで入手しないと。緊急対応を任せてもらうことができれば……)
 だけどあの男はどんなときも他人を頼らない。地味に困った性格だなぁと憂いていると、正面入口の外から物音がした。
「――え?」
 こんな時間に?
 ちらりと時計を確認すると時刻は深夜二十三時前。社員のほとんどはとっくに退勤している時間だ。考えられるとしたら警備の人か?
 私は秘書なのだから、ここに居ても何も不思議じゃない。……どうしてこんな時間に? とは思われるかもしれないけど。それも、緊急の用事があったということにすればいい。
 感じよく「お疲れ様です」と挨拶する準備をして、正面入口のドアを開ける。
 そこにいたのは昼間と違い、少しヨレッとした姿の鳳穂高だった。
「……あれ? 篠崎……?」
「どうされたんですか」
 なぜ、という気持ちを押し殺してなるべく冷静に尋ねた。今日は会食だったはず。時間的には解散していても不思議ではないけれど、戻ってくるとは思わなかった。
「あー……そっか。今日残業するって言ってたっけ」
「……いえ」
 言ってないです。勝手に残って部屋を漁ろうとしていただけです……。
「何か忘れ物ですか」
「いや? 仕事」
「こんな時間に?」
「家でやるよりも捗るから」
「でも仕事ができそうなご様子では……というか……」
 ほんの一瞬のやりとりの間にも顔色の悪さが目立つ。デスクに向かう足取りも心なしかふらついていて頼りない。見ているとハラハラして、声をかけずにはいられなかった。
「あの……手を貸しましょうか?」
「いや……」
 見た感じ相当酔ってる。通り過ぎた場所に残ったアルコールの匂いに〝どれだけ飲んだんだ〟と更に不安になって、すぐに隣に追いつき、返事を待たずに手を差し伸べた。
 するとその手をやんわり断り、鳳穂高は言う。
「気にしないで」
「でも」
「ただの酔っぱらいを相手にすることないって。それに言ったでしょ~? 俺、誰かに手助けしてもらうの無理なの。ごめんね面倒くさい上司で」
 自覚があるならなおせばいいのに、と思う。だけどそう簡単になおせないと本人も言っていた。それに、そういう厄介な〝業〟というものが人にはあると、私もよく知っている。
 本人が構うなと言っているんだから放っておけばいい。邪険にされる善意ほど虚しいものはない。……だけどそうやって人を遠ざけてきてしまった結果、この人はこんな時間に会社で仕事することになったんじゃないの?
「……失礼しますよ」
 思い直した私は、なかば無理やり自分の肩を貸して彼に掴まらせようとした。
「えっ……いや、ちょっと」
「あなたが人を頼るのが苦手なのはなんとなくわかりました。だけど秘書にくらい上手に頼る努力をしてみては?」
「やだよ、格好悪い」
「今のほうが格好悪いです」
「……」
「人の好意を素直に受け取れないで、フラフラになってる今のほうがよっぽど格好悪いですよ」
「……二度も言うなよ」
 そうつぶやくと社長は少し私に寄りかかる。素直に頼る気になってくれたのかと思いきや、加減されているとわかった。これはポーズだ。私に全然体重を預けていない。
「ちょっと。ちゃんと寄りかかってください。まっすぐ歩けないんでしょう」
「いやぁ、でもなぁ……」
「早く」
「……じゃあ」
 一瞬後、肩にずっしりとした重みが加わった。
(……お、重い……!)
 いくら普通の女子より背格好が大きいとはいえ、私に成人男性を余裕で支えられるほどの筋力はない。社長が細身だからって舐めていた。
 ちゃんと男の人なんだなぁ……。
 若干よろめきつつなんとか足を踏ん張って社長を応接用のソファまで運ぶ。
 その様子を見て、鳳穂高は耳元で私をせせら笑った。
「あれ? もしかして篠崎ってヒヨワ?」
「突き飛ばしてもいいですかっ……」
「社長になんて仕打ちを~。自分から肩貸すって言ってくれたのに……」
 軽口を叩く彼をソファに座らせ、自分はその目前に立った。見下ろしてあらためて確認した鳳穂高の顔色はやはり芳しくなく、具合も悪そうに見える。
「どれくらい飲まれたんですか」
「わかんない」
「お食事は?」
「あんまり。取引先の前でガツガツ食べないだろ。そういうキャラで売ってない限りは」
「お酒もガブガブ飲まないでしょ」
「そこは相手によりけりじゃない?」
 つまり、今日はよく飲む相手だったからそれに付き合ったと。ろくに食事も胃に入れずに。それに加えていつもの過重労働を思えば、そりゃまあ……当然の結果というか。
 呆れはしたが、今は小言を言っていても仕方がない。小さくため息をついて、今夜はこの人の介抱をしようと覚悟を決めた。
「とりあえず横になりましょう。胃腸薬買ってきます」
「俺の机の、キャビネットの二段目」
「え」
「取って。鍵これ」
 ゴソゴソとスーツの内ポケットを探り、鳳穂高はシンプルなキーホルダーがついた鍵を高く掲げて私の前にぶら下げた。外に出てコンビニに行かずとも胃腸薬はそこにある、と、そういう話なのだろうけど……。
「不用心ですよ。そんな風に簡単に渡すの」
「薬を取ってもらうだけだろ」
「でも……」
「さすがにこんな状態で介抱してくれる相手のことくらい信用する」
 いとも簡単に渡された小さな鍵を手に、私は戸惑った。具体的な形を以て手渡された信頼に少しばかり圧倒されて居心地が悪い。
 こんなものを私に渡してはいけないのに。
「……では、お借りして」
 小さな鍵を手にエグゼクティブデスクの前に移動した。キャビネットの鍵穴に預かった鍵は当然ながらピッタリで、閉ざされていたキャビネットが開く。二段目の引き出しの中には胃腸薬の他、名刺のストックや他の何かの鍵、社章の予備、社長印などがあるのがざっと目についた。
「お水入れてきますね」
 胃腸薬と鍵を社長に返して給湯室に向かう。キャビネットの中で見つけた鍵は、なんとなく盗れなかった。絶好のチャンスだったのに。
 水の入ったコップを手渡すと社長は「借りが増えていく……」と嘆きながら胃腸薬を水で流し込んだ。すると自分の不調を自覚したのか、片腕を瞼の上に乗せ、それを重しにして静かに休み始める。
(……さて)
 私はこれからどうしようか。まさか社長本人がいる前で証拠探しを続けるわけにもいかない。鳳穂高を自宅に送り届けるとして、彼が少し回復するのを待つ間、何か片付けられそうな仕事はあっただろうか……。
 仕事を探そうと秘書室に戻ろうとしたとき、ソファに沈む社長から小さな声がした。
「〝社長のくせにバカだな~〟と思ってるでしょ」
「……」
「思ってるでしょ」
「そうですね、少し」
「思ってるのかよ」
 正直に答えると軽快な笑い声が返ってきた。少し前よりも幾分すっきりした声に戻っているのを感じて安堵する。
 話しかけられたことで秘書室に戻るタイミングを失った。こんな時間に一人で残っていた理由を問い詰められたら困るなと思っていると、鳳穂高は自分の腕をアイマスクにしたままぽつりと話し始める。
「言われた通りなんだ」
「え?」
「人に頼るのがあんまり得意じゃない」
 一体何が始まったんだろう。酔っぱらいの戯言?
 興味を惹かれてソファへと歩み寄った。腕を瞼の上に乗せてだらりとソファに沈み込んでいる無防備な男は、そのまま私に語り掛けてくる。
「篠崎はさ。子どものとき〝自分のことは自分で〟って言われなかった?」
 ……どうだっただろう。
 すぐには思い出せなくて黙ってしまう。
「俺は幼稚園から最近まで、ずーっとそうだったんだよね」
「……」
「今まで散々〝自分でなんとかしろ〟って自立を求めてきたくせにさー。偉くなって急に周りを上手に使えって言われても無理だろ。ってか〝使え〟ってなんだよ。俺は何様になったんだよ……」
「……急にめちゃくちゃ愚痴りますね」
「愚痴る。この状態が既に格好悪いからもう一緒」
 本当に急に愚痴り始めるから私はちょっとびっくりした。
 ワンテンポ遅れて鳳穂高がこぼした言葉の数々を反芻する。――そうか。人に頼るのが苦手なのは、子どもの頃からそういう風に教育されてきたからなのか。理由がわかって今までの彼の態度に少し合点がいった。
 そうだよなぁ。誰も好きでこじれた性格をやっているわけじゃない。
 弱って愚痴をこぼす鳳穂高の顔を上からそっと覗き込む。気配を感じたのか彼は瞼の上から腕をずらしてこちらを見た。子どもみたいに純粋な瞳と目が合う。
 私は興味本位で尋ねる。
「いいんですか? 私に弱みを見せて」
 人に頼るのが苦手なこの男は、きっと自分の弱みを他人に晒すことだって得意じゃないはずだ。そんな人が酒の勢いとはいえ自分の悩みを吐き出すものだから、単純に〝いいの?〟という気持ちになって。
 すると鳳穂高は一瞬きょとんとした。本当によかったのかあらためて考えている間のように感じられた。数秒が経った後、彼は吹っ切れたように歯を見せてニカッと笑う。
「男同士の秘密だ」
 ――その瞬間、私の心臓はどうしようもなくさざめいた。
 誰かに気を許される瞬間って、こんなにも、胸が騒がしくなるものなのか。
「……いいからもう少し休んでください」
 自分が嬉しい顔をしてしまっている気がして、それを鳳穂高に見られぬように手のひらで彼の視界を塞いだ。「おわっ」と彼が戸惑う声をあげるのを聞き、すぐに離すつもりだったのに、瞼を覆うように乗せた手は彼の手に捕まってその場に引き留められる。
「え」
「篠崎の手、冷たくてきもちぃね」
「ちょっと」
「しばらく貸しててよ」
「体勢がしんどいっ……」
「隣座れば?」
 釈然としないまま言われた通り隣に腰掛ける。手のひらから伝わってくるこの男の体温にドギマギしつつ、瞼の上に手を置いたままでいる。この体勢もこの体勢で、腰を捻ることになるのでつらい。
「ああ、ちょうどいいや。ついでに膝貸してよ」
「は」
「借りるね」
「待っ……」
 いいともダメとも言わぬ間に、気づけば彼の頭は私の膝の上にあった。しっかりと重い人間の頭部。柔らかなウェーブがかかった前髪が重力に従って下に流れる。形のいい耳がよく見える。
 どこからどう見ても言い逃れのしようがない。これは膝枕というやつだ。
「はぁ~。篠崎の太腿、柔らか……」
「っ……!」
 その一言が発火材になって私の頰を熱くする。鳳穂高に他意はなかったのかもしれないが、その発言は私に、私たちが男と女であることを強く実感させた。上半身は肩パッドや補整下着で男の身体をつくっているが、下半身には何もない。スラックスの下にあるのはただの女の太腿である。
(こんなことで男装がバレたら困る……!)
 膝から転げ落としてもいいから立ち上がってしまおうかと思った。――けれどできなかった。私にそれを思いとどまらせたのはうっすらと聞こえてきた寝息。はたと膝上の鳳穂高の顔を覗き込むと、目を閉じてすぅすぅと規則正しい呼吸の音がする。
「…………寝てる」
 噓でしょう? 人の膝の上でそんな一瞬で寝られるもの……?
 狸寝入りではないかと疑って顔をつついたり小さく声をかけたりしてみたが、返ってくるのは寝息だけだった。本当に寝ている……。
 アルコールで少し赤くなった目元と、それとは別の疲労による目の下の青クマ。こんな一瞬で寝こけてしまうくらいに疲れが溜まっていたんだとしたら、どれだけ無茶な働き方をしているのか心配になる。ブラック企業の社員ですか? でもあなた社長ですよね?
 会社の粗を探すためにフェニクシアの労働環境についても調べた。私が見た限り三六協定はきちんと守られ、残業自体も少ない。社員の労働環境はこんなにホワイトなのに社長だけなぜ。それはきっとさっき本人が漏らした〝人に頼るのが得意じゃない〟のせいなんだろうけど……。
 相手が眠っているのをいいことに、この一週間常々感じていたことを打ち明けた。
 それは決して仇にかけるべき言葉ではないのだろうけど。
「……もっと自分を大切にしてください」
 頑張っている人が壊れていく姿を、私は見たくない。
 脳裏に浮かんだのは自分の父親のことだった。
 あの当時、フェニクシアとの企業競争に敗れてから起死回生のために躍起になっていた父は、身を粉にして働いた。自分の体力と時間さえ犠牲にすれば何とかなると思っていたのかもしれない。何日も自宅に帰ってこない日が続いた。毎日様子を見に来てくれる桐生に「父様はいつ帰ってこられる?」と尋ねては困らせていた。
 父も今の鳳穂高のように、会社で潰れる夜があったのだろうか。
(……私何してるんだろう)
 父の仇の息子の頭を膝に乗せて。これからこの男も含めてフェニクシアを陥れる気でいるのに、油断したあどけない寝顔を見ているといつか情が移ってしまいそうで怖い。
 鳳穂高はしばらくの間、私の膝の上で眠りこけていた。


「……ん」
 身じろぎの後にゆっくりと目を開ける。段々意識をはっきりとさせて、彼は目前にある私の顔を見て仰向けのまま目を見開いた。衝撃、といった表情で。
「うそ、寝てた?」
「一時間ほど」
「……まっっっじか~」
 両手で顔を覆って大きな欠伸をする。もっと慌てだすかと思いきや、落ち着いたもので彼は欠伸を終えてからゆっくり緩慢な動きで私の膝から起き上がった。
「ごめん、一時間も。重かったでしょ」
「そうですね。脚がしびれました」
「ごめん……」
「ご気分はどうですか」
「んー……うん、悪くない」
「それはよかっ」
 たです、と言いかけた私の言葉に被せるように〝グギュルルルル……〟と地鳴りのような腹の音が鳴り響く。すごい音量に目を剥く私に対し、鳳穂高は恥じる様子もなく「あ、俺だわ」と自己申告した。
 あまりの轟音に気圧された私は、当初まったく予定していなかった提案をしてしまう。
「……夜食。ちょっとしたものですけど、食べられるなら食べます?」
「え、何それ」
「残業用につくってきたんです」
「篠崎が?」
「他に誰が?」
 本当は夜通しこの社長室を探ってやろうと意気込んでつくってきた夜食だ。だけどこうなってしまってはもう調べられない。
 鳳を陥れる作戦のためにつくってきたご飯を彼に食べさせてあげるって、すごく滑稽だなぁ。そう思いながら給湯室のレンジでチンして温める。社長室に戻ると鳳穂高は応接ソファに座り、ソワソワ落ち着かない様子で私を待っていた。
「どうぞ」
「……おお~」
 私が差し出したのはなんてことない普通のお弁当だ。白米に、おかずは昨日の夕飯の残りの豚肉とキャベツの炒め物と、切り干し大根の煮物。人参しりしり。ブロッコリーの塩ゆで。レンジ対応の保存容器に詰め、保冷バッグに入れて持ってきた。それからスープジャーに入れたお味噌汁。
〝なるべく温かいものを食べなさい〟と桐生から教わってきた。
 身内以外に食べさせるのは初めてで、社長が「いただきます」と手を合わせておかずへ箸を伸ばす一瞬、緊張が走る。あまり意識してないフリをしようと思っていたのに、気づけば祈るような気持ちで見つめていた。形のいい唇。並びのいい歯列。
 人参しりしりをパクッと口にして、鳳穂高はちらっとこっちを見る。
(……それはどういうリアクション?)
 私が不安になってきた次の瞬間、彼はニヤッと笑みをこぼして「うま」とつぶやいた。