遠距離溺愛 大人な社長に愛されすぎる甘い旅

-
- 本販売日:
- 2022/07/04
- ISBN:
- 978-4-8296-8490-0

会えない時間にも二人の愛は育って――金沢で見つけた永遠の幸せ
金沢にある大叔母の家を譲り受けた珠姫。
大叔母の知人だという彬利に誘われて美術館やひがし茶屋街を巡る。
大人な彼とのひとときは楽しくて離れがたくて。
「僕を忘れないで」
濃厚なキスと愛撫。
逞しい熱で貫かれ、意識も融ける。
ずっと一緒にいたい。
でも無情にも時は過ぎ、珠姫は東京へ。
すると「会いたくてどうしようもなかった」と彼が現れ!?
遠い地で見つけた運命の恋!

富上彬利(とがみあきとし)
金沢にある、酒造会社の代表取締役社長。色気のある顔立ち。珠姫の大叔母の家を訪ねて来た。その縁で彼女と観光地を巡る。

大沢珠姫(おおさわたまき)
都内のカフェで働く、明るく元気な24歳。大叔母の遺した金沢にあるという家を相続し、現地に赴くことに。そこで出会った彬利に惹かれる。
トンネルを抜けても、そこは雪国ではなかった。
「暑っつ……」
新幹線を降りるなり、湿度の高い空気が身体に纏わりついてきて、私大沢珠姫は思わず顔を顰めてしまう。晴天の八月となれば、暑くて当然、雪なんてあるわけがない。
私は今、夏の休暇を利用して石川県金沢市を訪れていた。
残念ながら金沢はついさっき新幹線で通過してきた軽井沢のような避暑地ではない。
昨今の温暖化で北海道や東北でも連日真夏日を記録しているのだから、日本のどこにいてもこの暑さから逃れられないことはわかっている。
けれどやっぱり雪が降る地域まできたら、涼を求めたくなっちゃうじゃないか。
「うわっ、でっか!」
右も左もわからない状態で駅を出るなり、そびえ立つ巨大な門に驚いてしまう。木製のパーツが螺旋状に組み合わされた柱が、ゆるくカーブした屋根を支えている。こんなに巨大な木の建造物、なかなかお目にかかれない。
「えっ、思ってたより全然大きいんですけど」
新幹線の中で軽くチェックした観光情報サイトに掲載されていた画像では、ここまでの大きさだとは思わなかった。巨大な建造物にテンションが上がって、写真に収めるべく携帯を構える。私の他にも観光客と思われる人達が目を輝かせてカメラや携帯を大きな門に向けていた。
「あれ?」
けれどあまりの大きさに全体像が小さな携帯カメラには全然収まってくれない。角度や撮る位置を変えてなんとか納得できる写真を撮り終えた時には、ちょっとした達成感を覚えていた。
「さすが百万石……!」
駅も綺麗で大きいし、玄関口からインパクトがあり過ぎる。
「えっと、ここから歩いては……行けないか」
地図アプリを起動させ、目的地を確認する。どうやら車で十分程度の距離らしい。
視線を巡らせれば駅周辺は整備され、傍には大型の商業施設やビルが立ち並んでいる。
「結構都会なのね」
一番に思い浮かんだのは地元の人に聞かれたら失礼だと怒られそうな感想だった。
東京生まれの私の中の金沢は「城下町」だとか「加賀友禅」だとか、いわゆる京都のような伝統ある古い街というイメージ。
だから新しい駅舎や整備された駅前にちょっと面食らってしまったところはある。
でも、駅舎が新しいのは京都も同じだ。高校の修学旅行で初めて行った時は古都の駅らしくない造りでびっくりしたっけ。まあこれは、私が古い街に過剰な期待をし過ぎているせいもあると思う。
さすがにこの炎天下、車で十分の距離を歩く気持ちにはなれず、タクシーに乗ることにした。バスもあったけれど、そもそも最寄りのバス停がよくわからないような状態では利用しづらい。自分が地図を読めないタイプである自覚もある。
「すみません、ここに行ってもらいたいんですけど……長町、で合っていますか?」
タクシーの運転手さんに住所と地図が表示された携帯の画面を見せると、すぐにどこだか分かったようで「わかりました」と笑顔で請け負ってくれた。
車内の冷房でほっと一息ついていると、運転手さんが話しかけてくる。
「どちらからですか?」
「東京です」
「それなら暑さには慣れとられますかね。今日は真夏日になるらしいですから、観光中に熱中症にならんようにお気をつけて」
運転手さんの気遣いに思わず笑ってしまう。
「観光に来たわけではないんですが、気をつけます」
私の返事に運転手さんは「あれ、違うんですか」と少し驚いたような様子だった。
「武家屋敷の辺りに行かれるからてっきりそうかと」
どうやら目的地は観光名所の近くだったらしい。まあ金沢駅からキャリーケースを持って乗ったら誰だって観光だと思うよね。
「いえ、親戚の家を訪ねるところなんです」
「いいところにお住まいですねぇ。ならお時間があれば是非行かれるといいですよ。本当にすぐ近くですから」
駅からしばらくは近代的な街並みが続いている。けれどそこから一本入るとすぐに景色が変わった。
「あ……」
さらに細い路地に入ると、昔ながらの重厚な土塀に囲まれた趣のある屋敷が見えた。それも一軒二軒ではない。これがさっき聞いた武家屋敷なのだろう。
そのまるでタイムスリップしたかのような景色こそ、まさに思い描いていた金沢の風景で、なんだかわくわくしてくる。
──ここで生まれた人は、住んでいる人は、どんな感じなのかな。
昔から「故郷」の話があまり好きじゃなかった。というのも私の家は祖父母の代から東京に住んでいるので、いわゆる田舎がないのだ。
もちろん両親が今も住んでいる地元に愛着はある。けれど環境も文化もまるっきり異なる地方の人々の「故郷」に対する思い入れほどの強さはないと思う。
東京生まれの東京育ちであることは、時に地方出身の友人には羨ましがられる。けれど、こちらからすると逆で「故郷」を持つ友人こそ羨ましいと思っていた。
でもそれを言うと嫌味ととられることもあって難しかった。テレビで見た昔のアニメ映画で、田舎に憧れる会社員の話を見て、そう感じるのが私だけではないと安心したっけ。
もしかして……りっちゃんは「故郷」を求めて、全く縁のないこの金沢の地に仮の棲家を求めたのだろうか。
りっちゃんこと瀬尾利津子は、私の母方の祖母の年齢が十五歳離れた妹、つまりは大叔母にあたる。祖母より母の方と年齢が近かったせいか、私は小学校の高学年になるまで彼女のことをずっと母の姉、つまり伯母だと勘違いしていた。大叔母と伯母、響きがほぼ同じだから意味も同じだと思い込んでいたのだ。
それに気づいた祖母からは「こんな大きな娘を産んだ覚えはない!」なんて怒られたけれど、母が二十代半ばで私を産んだ時、りっちゃんはまだ三十代。実際私がりっちゃんと二人でいると、よく親子に間違われた。子供の私が勘違いするのも仕方ないと思う。
りっちゃんは子供から見ても、凄く綺麗な人だった。
顔立ちそのものは祖母や母と通ずるところがあったけれど、長いまつ毛に縁どられた大きな目と優しく弧を描く唇が本当に美しかった。読者モデルなんて言葉もなかった時代に、ファッション雑誌に度々登場していたというのも納得だ。
デパートの販売員という仕事柄、流行にも敏感でおしゃれな人でもあった。ランドセルもピアノの発表会で着たドレスも、成人式の着物も、全部りっちゃんに選んでもらった。
仕事中、店頭に立っているりっちゃんは笑顔なのに遊んでくれている時よりも引き締まった表情をしていて、それがとっても格好よかった。私が業種は違えど接客する仕事に就いたのは、間違いなくりっちゃんの影響だと思う。
私の大好きな大叔母さん。
正直、小さな頃はもう少しりっちゃんに似ていればなぁと思ったことは何度もある。……母は美しいというよりは少し愛嬌があるタイプの顔立ちで、その娘である私もほぼ同じ顔をしていたから。
りっちゃんと同じで目は少し大きい方だと思うけど、私は母に似て目尻がとろんと垂れているのだ。ここに父から受け継いだ丸顔が加わると完全にたぬき顔。美人で格好良かったりっちゃんとは真逆の顔だ。さらに百五十五センチという平均よりもやや低い身長も相まって、未だに子供扱いされる時がある。それが嫌で、ついアイラインはきつめに引くのが癖になってしまった。
「りっちゃん……」
タクシーの中から見知らぬ道をひとり眺めながら、優しかった大叔母を思い出す。彼女もこの道を通ったのだろうか。
大好きなりっちゃんは、もうこの世にいない。
数か月前、交通事故に遭い、亡くなってしまった。病院に運ばれた時にはもう手の施しようがなかったという。まだ六十歳、あまりにも早すぎる死だった。
それまで大きな病気もなく還暦を迎えても元気に働き続けていたから、亡くなったと連絡を受けた時は、正直信じられなかった。
……それでも、棺の中で眠る姿を見れば、どうしたって受け入れざるを得ない。
「順番を守れ、姉よりも早く逝く妹があるか」と棺に縋り泣く祖母を親族総出でなんとか励まし、葬儀を執り行った。祖母と大叔母は、本当に仲のいい姉妹だったのだ。
悲しい衝撃がほんの少しだけ落ち着いた四十九日。法要と納骨を終えた直後、母と祖母から「話がある」と切り出された。
「珠姫ちゃんに利津子が遺してくれたものがあるのよ。何か話は聞いている?」
「何も聞いてないよ。片付けた時にもらったネックレスとかのことじゃないよね?」
祖母から尋ねられたけれど、全く覚えがない。思い当たるものとしてはりっちゃんが愛用していたアクセサリーや洋服などの服飾品くらい。けれどそれは形見として既に分けてもらっている。
「あれは別よ。りっちゃんね、結婚してなかったから何かあった時のために遺言書を用意してくれていたの。それをお母さんとおばあちゃんでこの間確認してきたのだけど……」
そこで母は言葉を切るとなぜか戸惑うように祖母と視線を合わせる。祖母も困惑を隠していない。
一体何があったのだろう。もしかして借金があった、とか?
ところが母の口から出たのは、思いもよらないものだった。
「りっちゃん、珠姫に遺産全部くれるって」
「全部!? いや、おばあちゃん飛ばして私がもらうのおかしくない?」
大叔母は独身で、兄弟姉妹は祖母だけ。もちろん両親、私から見れば曾祖母は亡くなっている。普通に考えて相続人は祖母になるだろう。ところが祖母は「いらないいらない」と顔の前で手を横に振った。
「私が貰っても使い道ないもの」
「だったらお母さんは?」
「別にいらないわ。今特別困っているわけでもないし、結局最終的には珠姫のものになるわけだし。……ただね、遺してくれた中に家があるのよ」
「家!? で、でもりっちゃんが住んでいたの賃貸だったよね?」
これまで何度も遊びに行ったし、最後母と一緒に片付けに行き解約手続きも手伝った。
「それがね、別荘を買ってたみたいなの」
「別荘……ってことは都内じゃないの? どこ?」
「金沢」
「金沢!?」
こうして私は大叔母から譲られた家を確認しに、この北陸の街へとやって来たのだ。
タクシーが止まったのは観光名所である武家屋敷跡から少しだけ離れた場所だった。確かに目と鼻の先だ。
「ありがとうございました」
親切な運転手さんにお礼を告げて降りれば、そこには木造二階建ての家が建っていた。
色褪せた瓦の切妻屋根と灰色に変色した板張りの外装に、年季の入った木製の引き戸の玄関。この外観を風情と感じるか、それともただ古いと捉えるかは人によるだろう。
武家屋敷目当ての観光客が狭い通りを賑わせている中、さびれた外観にボロボロの郵便受けを塞ぐために貼られたガムテープも相まって、目の前の家はまるで時間を止めてしまったかのように静まり返っている。
……ごめんりっちゃん、私にはただのボロい空き家にしか見えないよ。
もちろん周囲にある歴史のある屋敷よりはずっと新しいとは思う。とはいえ、外装の風合いから、すでに古民家と言って差し支えない年数が経過しているであろうことは一目瞭然だった。デザインからしても建てられたのは昭和前半、それとも、もっと前だろうか。
「別荘って感じじゃないなぁ……」
なにしろ観光地の近くではあるものの、立地としてはごく普通の住宅街である。両隣もなかなか歴史を感じさせる立派なお宅だ。こちらは植栽や外装にちゃんと手が入っているので古いというよりも趣あると表現した方が合う。
「りっちゃんも誰かから譲られたとか?」
……しかし仮にも不動産だ。近しい親族ならともかく、他人からほいほいと譲られるものではない。まして周囲はどう見ても古くからこの場所に根付いているような家ばかり。建物に値はつかずとも土地はそれなりにするのではないだろうか。まさに謎だらけだ。
首を捻りつつバッグから古めかしい棒鍵を取り出し、引き戸の鍵穴に差し込んだ。
「なんか変な気分」
見知らぬ家の鍵を開けるという行為のせいか、なんだかやましいというか、悪いことをしているような気分になってくる。親しい人の秘密を覗き見しているような、罪悪感。
「……おじゃましまーすって、あれ、案外キレイ?」
恐る恐る中を覗き込めば、締め切っていた家特有の匂いや埃はあれど、見えた所は外観と違い思いのほか整っていた。
玄関の三和土は玉砂利洗い出しで、上がり框は使い込まれた木材独特のとろりとした光沢を放っている。天井から吊るされた照明のランプシェードはステンドグラスでレトロな感じが可愛い。けれどそんな中、壁だけは経年変化がほとんど感じられなかった。これはおそらく張り替えしてあるのだろう。
「中はリフォームしてある感じかな。……あれ?」
作り付けの下駄箱の上に飾られている物が目に留まる。赤いだるまのような小さな人形と、鮮やかな刺繍が施された手毬細工。
「これ……りっちゃんの家にあったやつだ」
この人形に見覚えがある。色違いのものがりっちゃんの東京の家にあった。形見のひとつとして持ち帰り、今は母のドレッサーに飾られているはず。
「ここ、りっちゃんの家、なんだ」
この家が見知らぬ場所ではないことに、なんだか酷く安心した。りっちゃんの暮らしはここにもちゃんとあったのだ。
そのまま何気なく下駄箱を開けてみる。
「ん? これ大きくない?」
入っていたのはたった二足、それもサイズの違う草履だった。一足はりっちゃんのものだろう女性用のデザインとサイズだったけれど、もう一足は明らかに男性用だ。
「もしかして、りっちゃんの彼氏の、とか!?」
思わぬ発見にこれまで感じていた罪悪感はどこへやら、急にこの家への興味が増してくる。
りっちゃんは美人だったし、恋人のひとりやふたりいて当然だ。でもこれまで私は色恋に関する話だけは全く聞いたことがない。まあ、私はりっちゃんからすれば子供みたいなものだったから、当然だろう。
「あのりっちゃんの恋人かぁ……」
いったいどんな人なのだろう。
正直、金沢の家なんてちょっと面倒なことになったという気持ちが強かった。けれどりっちゃんの秘密と思うとがぜんやる気が出てきた。
今日はこの家に泊まる予定なので、まずは掃除である。
「なんか……すごい家だなぁ」
探し出した掃除用具片手にひと通り見て回ると、改めて感心してしまった。何しろこの家、すごく広いのだ。
一階には台所、トイレ、お風呂の水回りの他、庭に面した縁側のある大きな和室とは別の和室とそれに続いている板の間の計三部屋。さらに二階は納戸と和室と洋室の二部屋、つまり5SLDKという間取りだった。古い家とはいえ、なかなかの広さだ。廊下もかなりゆとりのある造りで、いくら別荘にしてもひとりで暮らすには大きすぎる。
全部掃除しようと思ったけど、部屋数が多すぎて一日じゃ到底無理だ。とりあえず今日使う場所、寝室とトイレとお風呂だけ使えるようにしたところで力尽きてしまった。
「あつ……」
本当に最低限の掃除だけだったのに、もう汗だくだ。残念なことにエアコンは寝室にしかついていなかった。
でも家中の窓を開けると案外風が通る。きっと昔はこの風で十分だったんだろうな。
「それにしても誰か一緒に過ごす人がいたのは確定だね」
寝室にしていたであろう二階の洋室にどーんとダブルベッドが鎮座していた上に、収納には男性用の着替えまで各種取り揃えてあったからこれは間違いない。サイズからすると相手はかなり大柄な人のようだ。
「でもこの家りっちゃんの趣味と全然違うんだよなぁ」
つい数か月前片付けたりっちゃんの東京の自宅は、ナチュラルテイストのシンプルなインテリアでまとめられていた。単身者向けの1LDKのマンションでは何かと制約が多いから、別荘で思いきり趣味に走っていた可能性もあるし、彼氏の好みが反映された結果なのかもしれない。
見て回ると玄関だけでなく室内にはリフォームのあとがあった。水回りなどは最近のものに替えられていたから、もしかして外観はわざとそのままにしていたのだろうか。
それ以上に不思議なのは、生活に必要と思われる家電が全く足りないことだ。調理器具やお皿なんかのキッチン用品やシャンプーとトリートメントなどの消耗する日用品は揃っているのに、冷蔵庫やテレビはない。あるのは掃除機だけ。これじゃまるで民泊施設である。
別荘だし、休暇を楽しむために敢えて置いていなかったとか?
真実を知る人はもうここにいないから何もかもが憶測になってしまう。
「それにしてもここ、ぶっとんでるな……」
家の中心にある十畳以上はありそうな和室を眺めながら独り言ちる。
何しろこの部屋、壁が一面鮮やかな青に塗られているのだ。それも深みのあるロイヤルブルー。立派な床柱もある格式高そうな場所なのに青。
この部屋以外の壁はごく一般的な落ち着いた色合いだから、余計に異質さが際立って感じた。何か意味があるのか、それとも彼氏の趣味なのか。
さらにこの和室、なんと室内に土間がある。縁側の下が土間になっていて、その外側にガラス戸と雨戸があるという不思議な造り。古い家だからこんな感じなのだろうか。
縁側の向こうには庭が見える。けれど残念ながら夏の勢いそのままの雑草に覆われていて、以前の姿が立派だったのかどうかすらよくわからない。
「もー! りっちゃん謎多すぎだよー!!」
どうして住みもしない、金沢のそれも古民家を持っていたのか。どうして私に譲ってくれたのか。なぜこんな色の和室にしたのか。この家を見てからも尋ねたいことだけが積み重なっていく。
「なんでこの家を私にくれたの……?」
遺書には財産を私に譲る以上の記載はなかったと聞いている。
せめて少し説明も書いていて欲しかった。なんてつい、りっちゃんを責めるようなことを思ってしまう。
……でも、本人だってこんなに早くこの世を去るだなんて考えていなかっただろうし。もしかしたら、もう少し死というものを近く感じるようになったら、教えてくれるつもりだったかもだし。
「会いたいよ、りっちゃん……」
記憶の中で微笑む大叔母に、語り掛ける。
亡くなったことはもちろん理解している。でもまだ、心では受け入れられてない。目をそむけ続けていた喪失感がぐっと迫ってきて、また涙が溢れそうになった。
この家以外の譲られた遺産の額も私の年齢で持つには多すぎたから、正直まだ、戸惑っている。
お金なんかより、りっちゃんにもっともっと生きていて欲しかった。
「……ああ、もう、やめやめ! 飲み物でも買って来よう」
口に出して喉が渇いていることを自覚する。そういえば新幹線でお弁当を食べてから、水分を摂っていない。
このままぼんやりしていたら、タクシーの運転手さんが言っていたように熱中症一直線だ。下ろしたままだった髪が汗で首筋に張り付いて気持ち悪い。
もう少し涼しい服で来ればよかっただろうかと、本日着てきた服を見て思う。
袖がフレアになっている、ゆったりとしたレースの白ブラウスに、キャメル色のワイドパンツ。どちらも新幹線での過ごしやすさ重視だったから、今この冷房無しの状況ではちょっと暑すぎる。
肩を覆っていた髪をざっと手櫛でまとめてくくり、バッグを掴んで玄関まで戻ったところで、家じゅう開けっ放しなことに気づいた。
「窓は……このままでいいか」
雨の気配はないし盗まれるようなものもないから構わないだろう。
「近くにコンビニとかあったかな……えっ!?」
がらりと玄関の引き戸を開けた瞬間驚いてしまったのは、目の前に人が立っていたからだ。通りすがりではなく、玄関に身体を向けていたから、明らかにこの家に用事があるとしか思えない。
すらりと背の高い、三十代くらいの男性だった。セールスか何かかと一瞬思ったけれど、ネイビーのジャケットに白のカットソーといういで立ちはどう見ても営業さんではない。男性もまた、突然開いた扉に驚いているようだった。
こざっぱりと整えられた黒髪。開いた額の下にすっと描かれたような月の形の眉、すっきりと通った鼻。そして奥二重なのに眠たげではない目の下にある涙袋から、滲むような色気を発している。まるでテレビで見る俳優さんのように格好いい。
「あの……こちらにお住まいの方、ですか?」
男の人が戸惑いながらも尋ねてきて我に返る。いけない、なかなかお目にかかれない男前さんを前にしてちょっと呆然としてしまった。
「いえ……あっ、もしかして、りっちゃ、いえ大叔母のお知り合いですか!?」
この家を訪ねて来るひとなんてりっちゃんの知り合い以外に思いつかない!
「大叔母……?」
男性は首を傾げる。そうだ、彼からすれば私こそ何者って感じだよね。
「えっと、私は瀬尾利津子の姪の子供なんです。先日この家を譲り受けまして」
姪の子供って関係遠いなと思うけど、これ以上わかりやすい説明が咄嗟に思いつかない。一応「姪孫」や「大姪」という呼び方はある。けれどほとんどの人は知らないだろう。私だってりっちゃんとの関係を人に説明する時のために調べて知ったのだ。
「譲り受けたとは……?」
私の説明を聞いて、男性の顔色が変わる。それだけでこの人が大叔母の訃報をまだ受け取っていなかったのだとわかってしまった。こんな離れた土地の人なら、共通の知り合いや親族からの知らせがなかったら伝わるはずもない。
「大叔母は夏前に亡くなりまして……それで」
「なんと……そうでしたか」
案の定男性は衝撃を受けていた。形のいい眉をぎゅっと寄せる姿は痛ましくなんだかこちらが申し訳ないような気分になってくる。
「……お悔やみ申し上げます。……できましたら線香をあげさせて頂きたいのですが」
「すみません、ここは大叔母の別宅で、位牌も墓もこちらではないんです」
りっちゃんの位牌は祖母の元だし、墓も当然東京にある。金沢から気軽に足を運べる距離ではない。
「ああ、そうですよね……」
見るからに気落ちした男性を見ると、ますます申し訳ない気持ちになる。
金沢でもこんなに悲しんでくれる人がいたなんて、りっちゃんは本当に果報者だ──なんて少しうるっときた所で、ハタと気づく。
……なんて待てよ。もしかしてこの人が、りっちゃんの恋人なんじゃないの!?
目の前の人はどう見ても三十代で、りっちゃんとは親子程の年の差になる。でもりっちゃんならそんな存在がいても不思議ではない。それくらい魅力的な人だったのだ。
彼がりっちゃんのお相手だなんて、全くの仮定である。でも思いついてしまうともうそれ以外に考えられない。ここでこの人逃しちゃだめだ!
「あの、よかったらあなたが知っている大叔母の話を聞かせてもらえませんか!?」
こちらの勢いに男性が少し驚いたように瞠目したから、慌てて言い訳を続ける。
「大叔母がなぜここに家を持っていたのかわからないんです。だから、こちらの知り合いにお話を聞きたくて!」
私の言い訳を聞いた男性はなんだか困惑したような表情に変わる。それを見て言い方がまずかったと気づいた。
「あっ、金沢のことを悪く言っているわけではなくて、その、こちらに親戚もいないし生前金沢に行ったとかそういう話も聞いたことなかったから! 別に変な意図はなくて! って……すみません、おかしなこと言いました!」
金沢のことを貶めるつもりはなかったし、話を聞きたいと思ったのは本当だ。けれど話している途中からなぜかおかしな雰囲気になってきたから焦って話を打ち切る。
「本当にすみません、忘れてくださいっ!」
あまりの恥ずかしさと居たたまれなさに思いきり頭を下げた。
この早合点する癖を直せっていつも母から注意されているのに。私ってば子供の頃から全然成長していない。
「……ふふっ」
ところが一拍置いたのち、私の頭に降ってきたのは男性が噴き出した声だった。驚いて思わず顔を上げると、男性が懸命に笑いを堪えている。
「大丈夫ですよ。そんなこと思っていませんから」
笑いの発作をなんとか治めた男性はそう言ってくれたけれど、こちらとしては気まずさが増しただけだ。
「で、でも初対面の方にずうずうしいお願いをしてしまいました。すみません」
「いえ、僕も金沢のどこがいいのかわかりませんし」
ところが男性は笑顔のままそう言い切ったので、こちらの方が慌ててしまう。
「こ、こちらのお生まれではないのですか?」
「いえ、金沢生まれ、金沢育ちですよ」
「えっと……」
にこやかに返されて言葉に詰まってしまう。これは遠回しに嫌味的な何かを言われているのかしら。京都みたいに本音と建前は全く別的な県民性があったりするのかな、石川県。
「だからどこがいいのか、よろしければ一緒に探してみませんか?」
「えっ!? ……っと」
そんなやりとりをしている間に、額に滲んだ汗が粒になって滴り落ちた。それを慌てて手の甲で受け止めた私を見て、男性はまた笑う。
「このままここで話しているのもなんですし、どこか涼しいところに行きましょうか」
「えっ、ああ、はい」
こちらから誘ったのに、なんだかあちらから誘われたような感じになっていることに首を傾げつつ、私は促されるまま男性と共に歩き始めた。

ブラウザ上ですぐに電子書籍をお読みいただけます。ビューアアプリのインストールは必要ありません。
- 【通信環境】オンライン
- 【アプリ】必要なし
※ページ遷移するごとに通信が発生します。ご利用の端末のご契約内容をご確認ください。 通信状況がよくない環境では、閲覧が困難な場合があります。予めご了承ください。

アプリに電子書籍をダウンロードすれば、いつでもどこでもお読みいただけます。
- 【通信環境】オフライン OK
- 【アプリ】必要
※ビューアアプリ「book-in-the-box」はMacOS非対応です。 MacOSをお使いの方は、アプリでの閲覧はできません。 ※閲覧については推奨環境をご確認ください。
「book-in-the-box」ダウンロードサイト- オパール文庫
- 書籍詳細