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愛してはいけなかったのに 御曹司は幼馴染みを諦めない

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本価格:792(税込)

電子書籍価格:--円(税込)

  • 本販売日:
    2022/07/04
    ISBN:
    978-4-8296-8489-4
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書籍紹介

全部、俺のものだ。誰にも渡さない――

偶然再会した元同級生の理玖。
彼は亡き親友が『アイツだけは好きになるな』と言い遺した人物だった――。
想いを断ち切るために離れたのに
「そばにいたい」
激しいキスに溺れ、隙間なく熱杭で埋め尽くされれば悦びでいっぱいに。
身体は繋げても理玖との未来を望まない。
決意も虚しく
「千莉しか好きになれない」
切実な囁きに恋心が再び……。
諦めない御曹司と切ない愛。

ジャンル:
現代
キャラ属性:
社長・セレブ
シチュエーション:
幼馴染・初恋の人 | 甘々・溺愛 | 年の差
登場人物紹介

早坂理玖(はやさかりく)

千莉とは中学生時代からの同級生。彼女のことを一途に想っているが、学生時代からフラれ続けてきた。再会を機に、彼女との距離を縮めようとして!?

相馬千莉(そうませんり)

亡き親友との約束で、理玖のことを諦めるべく彼がいる東京から去った。しかし、転勤した先の社長が理玖だったことで思わぬ再会を果たし……。

立ち読み

 

 

 


 東京駅の新幹線ホームは、いつだってさよならであふれている。
 たった四文字で関係を断ち切るには、速度が必要だ。最高時速三二〇キロメートルでも足りないほどに、心は彼を求めていた。だからこそ、距離を置くしかない。物理的な距離に頼らなくては、この気持ちを隠せないと知っている。
 乗車口が開くアナウンスを耳に、千莉は小さなバッグを肩にかけ直した。
「それじゃ、行くね。見送りに来てくれてありがとう、それと──」
 三月の晴れた空に、薄い雲がかかっている。
 言葉の続きを声に出す前に、息を吸った。わずかに途切れたその隙間を気まずくしない素振りで、彼がやわらかに微笑む。
「たった一時間半だよ。そんな深刻な顔をしないで、千莉」
 千莉のバッグのストラップが裏返ったのを自然に直しながら、理玖が「ね」と優しく囁いた。
 何度終わりにしようとしても、終わりにできなかった恋。
 低く優しい声が好きだった。笑うとまなじりが下がるところが好きだった。
 ときに場を和ませてくれるカジュアルな振る舞いと、苦しくてたまらないときを絶対に見逃さず声をかけてくれる愛情深い面と、困ったときに小さく首をかしげる癖と、髪が濡れると毛先がくるりとカールするのと──
 好きなところを数え上げたらきりがない。
 何も言えずにうつむきそうになった千莉の耳に、理玖のいつもと変わらない声が響いた。
「遊びに行く。サークルのみんなと休みを合わせて、仙台まで行くからさ」
 ──ああ、今、わたしは理玖を困らせている。
 サラサラとやわらかな前髪が、かすかに左側に揺れた。彼が首をかしげたからだ。それは、困ったときの彼の癖。
 大好きだった。今だって大好きでたまらない。ずっと彼のそばにいたかった。
 ──だけど、わたしが決めたさよならだから。
 もう一度、息を吸って、静かに吐いて。
 千莉はまっすぐに理玖を見つめた。彼はまだ、千莉のバッグのストラップに指を絡めている。名残惜しいと訴える指先が愛しかった。
「……ここで、終わりにしよう」
「千莉?」
 喧騒にまぎれて、震える声を振り絞る。
 最初から好きになってはいけないと知っていた。この世でただひとり、好きになってはいけない人だった。
「今までありがとう。理玖がいてくれて、ほんとうに楽しかった。たくさんありがとう。ずっと幸せでいてほしいから、仙台には来ちゃ駄目だよ」
 ひと息で言い終えるには、伝えたいことが多すぎた。だけどそれでいい。伝えたいことと同じくらいに、伝えてはいけない気持ちが胸に渦を巻いている。
 乗車列に並ぶ前の人たちが、青みがかったメタリックグリーンの新幹線の乗車口に吸い込まれていく。ふたりに残された時間は、あと三十秒もなかった。
「友だちなのに、終わりなんておかしいよ」
 にじんだ真実を冗談めかして、理玖が笑う。
「友だちだから、理玖が幸せになるのを願うの。ありがとう、……さよなら」
 さっきは言えなかった四文字を声に出して、足を踏み出す。
「千莉」
 列にならって歩きだした千莉のバッグから、理玖の指がぷつりと離れた。
 ありがとうは、何百回、何千回言ってもきっと足りない。
 さよならは、一度言うだけで心が押しつぶされそうになる。
「千莉!」
 彼の声から逃げるようにして、千莉は新幹線に乗り込んだ。空調の効いた車内は、ホームにくらべて妙に静かだ。
 指定席を確認し、少ない荷物のまま腰を下ろした。スマートフォンの電源は、東京駅についたときに落としてある。もう、彼の声は聞こえない。
 好きなところをいくらでもあげられるのに、その人を好きになってはいけないだなんて、どうしてこんなことになったんだろう。愛情を差し出してくれた理玖を拒絶するたび、心が引きちぎられた。けれど、ちぎるその手も自分の手だ。
『千莉、早坂理玖のことだけは好きになるなよ』
 彼の声が、脳裏によみがえる。
『千莉たちにはこれから先、たくさん時間があるんだろ? 受験して、高校に行って、大学にも行って、夢を叶えたりするんだよな? だったらひとつくらい、オレのためだけに頼みを聞けよ』
 ──そうだね。約束したよね。
『早坂理玖だけは好きにならないって約束しろよ。ほかの誰でもいい。千莉が好きになるなら、理玖だけはやめてくれ』
 乗車口が閉まる。
 理玖はドラマの登場人物のように、新幹線の窓を叩いたりはしない。千莉も辺りを気にせず、泣き出すことはない。
 現実は、とても静かだった。静寂が耳にひんやりと寄り添う。出会ったときより、お互いに大人になっている。そのことを痛感した。
 そして同時に、大人になれなかった彼のことを思い出す。
 ひとつくらい彼の望みが叶ったっていい。それが、千莉の恋の終わりというだけのこと。
 なめらかに走り出した新幹線は、加速度を増して理玖を置き去りにする。千莉の恋が遠ざかっていく。
 長い恋に蓋をして。
 噛んだ唇に痛みを感じるまで、ずいぶん時間がかかった。
 だけど、痛みに気づかないほど麻痺してはいない。いっそ、痛くないくらいに痛かったらいいのにと思う。痛くて痛くて、痛くない。そうならないから、逃げ出すのだ。
 あふれたさよならをひとかけらバッグに詰めて、相馬千莉は東京をあとにした。

 

 

 

「理玖……」
 手を伸ばして、そこに何もないことを知る。宙に浮いた指先が、虚しさとともにひたいの上に落ちてきた。
 ──夢を、見ていた。
 もう六年も前のことだというのに、何度同じ夢を見ただろう。
 相馬千莉はベッドの上で胸の痛みを感じながら、まだ見慣れない天井を仰いだ。
 七月も終わりに近づき、梅雨明けから数日過ぎた都内。引っ越してきたばかりの部屋は、未開封の段ボール箱がいくつも置かれている。
 ──東京に戻ったからって、理玖に会えるわけじゃないのに。
 この胸の痛みは、今に始まったものではない。六年前のあのときほど悲しみは鮮明ではなくなった。思い出さない日が増えていくけれど、忘れることもできないのだ。
 そして、一度脳裏に浮かんでしまったら思い出さずにはいられない。その人の声を、優しい手を、困ったときに首をかしげて微笑む癖を。
「よし、がんばらなきゃ」
 自分を鼓舞する言葉で、強引にベッドから背中を引き剥がす。
 初夏の朝陽が東向きの窓にかけられたロールスクリーンカーテンを物ともせずに射し込んでくる。まずはこのカーテンを交換すべきか。それとも目覚まし代わりにこのままにしておくべきか。
 新居の備え付けのウォールラックには、夏空を思わせる笑顔の少年の写真が置かれていた。何より先に、段ボール箱から出したフォトフレームだ。
「おはよう、夏衣。今日は新しい職場に書類を提出に行ってくるよ」
 十二年前に亡くなった友人の写真に声をかけて、千莉はキッチンへ向かう。冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターと炭酸水のペットボトルが一本ずつ入れてあった。
 炭酸水を取り出してグラスに注ぐと、ひと口飲んで大きく深呼吸する。
 新しい一日が、始まる。

 東京に転勤してきたとはいえ、千莉はもともと東京生まれだ。
 ただし「地元はどちらですか?」という質問には答えにくい。生まれてから六歳まで、東京都文京区で育った。その後、喘息持ちで体の弱かった娘を気遣う母とともに、小学校六年間を母方の祖父母宅がある宮城県仙台市で過ごした。中学入学をきっかけに東京へ戻り、大学卒業まで両親と三人暮らし。就職先は、仙台に本社のあるホテルグループを選んだ。東北を中心にホテルを複数経営する企業だった。そこで千莉は広報担当として働いていた。さて、この場合、千莉の地元というのは東京と宮城のどちらになるのだろう。
 仙台で就職してから六年、千莉の働いていた企業は経営難に見舞われて、昨年末にHayaSグループという国内大手企業に吸収合併された。
 HayaSグループにはホテルHayaSというビジネスホテルとカプセルホテルを経営する直属の子会社がある。
「相馬さん、急で悪いんだけどホテルHayaS東京本社の広報部で人手が足りなくて異動の打診が来てるの。あなた、実家は東京だったよね。お願いできないかしら」
 ベテランの広報部長は、千莉の憧れの女性だった。明るくしなやかで、仕事を楽しむ大人の女性。その広報部長から直々の打診に三日考えて異動を承諾した。
 あとから聞いた話によれば、東京本社の広報部で前任者が急な退職をし、その穴を埋めるため別部署から異動した社員が対応していたが無理がたたり入院したという。本社の広報部がよほどブラックなのか不安はあるが、引き受けてしまったものは仕方がない。やれるだけのことをやるまでだ。
 最初に打診をされた日から二週間後には、千莉は東京に引っ越してきていた。
 会社が準備してくれたマンションは、JR高円寺駅から徒歩六分、築三年の1DKという千莉の収入ではとても手が届かない部屋である。ダイニングキッチンが六畳、ベッドルームが変形の四畳。ひとり暮らしにはじゅうぶんな広さだ。築浅で駅近なことを考えれば、個人負担が月額四万円というのは驚きの値段だろう。
 ホテルHayaS東京本社の最寄りは神田駅なので、JR中央線で二十分強。通勤にも便利で、大手スーパーやコンビニ、カフェに書店、昔ながらの商店街も複数あるとなれば生活にも困らない。
 両親は「東京に戻ってくるなら実家から通えばいいのに」と言ってくれたけれど、千莉は高円寺のマンションを選んだ。仙台に就職してからずっと祖父母宅に住まわせてもらっていたので、二十七歳にしてこれが人生初めてのひとり暮らしになる。
 いつも、誰かの優しさに包まれて生きてきた。
 祖父母も両親も友人たちも、千莉にとっては大切な存在だ。人に恵まれた人生だと心から思う。
 東京に戻って最初に実家へ顔を出した。この六年で、東京へ帰省したことは一度もなかった。それというのも、母が頻繁に仙台へやってくるからだ。ゴールデンウィークや年末年始ともなれば、両親そろって祖父母宅に集合する。なので、千莉が東京に帰省することなく家族そろって過ごすことができた。
 だが、理由はそれだけではない。
 大学卒業後、千莉は東京に大好きな人を残して仙台へ向かった。彼を傷つけたことはわかっている。そして、どんなに好きでもその気持ちを彼に告げることのできない約束が、千莉にはあった。
 思い出のたくさんある東京に戻ることを、六年間避けて生きてきた。
「ぼんやりしてたら遅くなっちゃう!」
 長い髪を手早くまとめて、洗面所へ向かう。とりあえず今日は必要な書類を提出しに行くだけだ。広報部の社員たちへのあいさつなどは、初出勤の週明けになるだろう。
 歯磨きをしながら、千莉は今日つけていくピアスのことを考えていた。
 季節柄、髪はアップにしていくほうが暑苦しくない。だったらピアスはシンプルかつ印象的なものが好ましい。
 ──去年の夏に作った、バラの花びらのピアスにしよう。服の色がモノトーンなら、ピアスがいい差し色になる。
 唯一の趣味は、ピアスを作ることだ。ビーズ細工だけではなく、ここ数年はレジンクラフトも取り入れている。バラの花びらのピアスは、丸みや厚さ、色にこだわって作ったお気に入りで、前向きになりたいときによくつけている。
 五分袖の白シャツと黒いアンクルパンツというシンプルなコーデに、履き慣れた五センチヒールのパンプス。長い髪は両サイドをゆるめの三つ編みにして、ローポニーにまとめた。そして、バラの花びらのピアスと同系色のリップ。
 準備を終えた自分を姿見で確認し、千莉は両手を顔の前で組んだ。
 ──新しい職場でうまくやっていけますように。
 神さまを信じていないのに、ときどきこうして祈るように自分を励ますのはなぜだろう。幼いころからのクセといってしまえばそれまでだ。おそらくは祖母が千莉を励ましてくれるときに、そうして両手を組んでいたのが記憶に強く残っているからだと思う。

 JR中央線の神田駅を出て五分と歩くことなく、ホテルHayaS東京本社が入っているオフィスビルに到着する。エントランスホールは二階まで吹き抜けになっていて、明るく清潔感がある内装だ。床、壁、天井はすべてやわらかい白色で統一されている。入館用のセキュリティゲートは四台。軽い打ち合わせができそうな応接セットが三箇所に設置され、観葉植物の緑色が鮮やかだ。
 IDカードをもらっていない千莉は、セキュリティゲートではなく受付デスクに向かう。
「ホテルHayaS広報部の前島秀明さんとお約束しております。相馬と申します」
「かしこまりました。奥のソファでお待ちくださいませ」
 言われたとおり、ソファのある応接セットに向かって歩いていると、突然コッコッコッと速歩の足音がホールに響いた。
 ──なんだろう。こっちに向かってくる?
 なんの気なしに足を止めて振り返る。
 そこには、信じられない人物の姿があった。
「せん、り?」
 相手もまた、千莉を見て驚いている。大きく開いた目が、彼の動揺を物語っていた。
「理玖、どうしてここに」
「それはこっちのセリフだよ。俺は仕事で」
 早坂理玖。六年前、千莉は彼と距離を置くために仙台で就職した。
 会いたくて会いたくて、会いたくない人。学生時代のほとんどを一緒に過ごした、大切な友人である。
「わたしも仕事で来たの。来週から、このビルで──」
「社長、お疲れさまです」
 セキュリティゲートを出て、三十代半ばくらいのスーツ姿の男性が声をかけてきた。理玖はこのビルにオフィスのある会社の社長なのだろうか。
 そう思ったときだった。
「ああ、前島さん。お疲れさまです」
 理玖が声をかけてきた男性に向き直る。
 ──前島さん? 待って、わたしの約束の相手も前島さんのはず。
「以前からお願いしていた広報の人員補充ありがとうございます。今、書類提出に来てくれて──」
 カジュアルなコンビフレームのメガネをかけた前島は、千莉に気づいて「もしかして、相馬さんですか?」と尋ねてくる。
「はい。仙台からまいりました。相馬千莉と申します」
「急な異動だったのに、すぐに来てくれて助かったよ。主任の前島です。これ、ゲストカード。じゃあ、行きましょうか。社長、失礼します」
 さっと千莉にネックストラップのついたゲストカードを渡すと、前島が理玖に会釈してセキュリティゲートへ向かう。
「…………失礼します」
 彼にならって、千莉も小さく頭を下げてから歩き出した。
 ──HayaSグループって……まさか、そんなことってある?
 偶然の再会は、ふたりの関係をこれで終わりではないと告げている。運命を決めるコインは、誰が投げたのか。
 背中に感じる視線に振り返ることなく、千莉は前島を追いかけた。
 千莉は、神さまを信じない。どんなに祈っても助けてくれない神さまなら、いてもいなくてもどちらでもかまわない。
 ──もうあのころとは違う。理玖だってきっと、ただの思い出になってる。お互いに大人になった。六年前よりずっと……
 見上げた彼の優しい目は、六年前と何も変わっていなかった。その目を見ただけで、六年前の自分が引き戻されてしまいそうになる。そばにいられないほど、彼を好きだったあのころ。あのころのすべてだった理玖。理玖にだけは言えない、千莉の抱えた秘密──
 神さまは、どこにもいない。

† † †

 小学校に入学する以前、千莉は文京区にあるマンションで暮らしていた。幼稚園の思い出はほとんどない。それもそのはずで、入園してから卒園までの間に千莉は四回の入退院を繰り返したそうだ。
 小児喘息で頻繁に発作を起こしている娘を前に、両親はひとつの決心をした。
 母方の祖父母宅がある宮城県仙台市への移住だ。父は会社を経営しており、忙しくしていたため一緒に行くことはできない。母と千莉のふたりで引っ越すことになった。
 幼稚園にもあまり通うことができなかった上、見知らぬ土地での小学校生活は幼い千莉には不安でいっぱいだった。真新しいランドセルに詰め込んだのは教科書と連絡帳よりも「おともだちができなかったらどうしよう」「きゅうしょくがたべられなかったらどうしよう」という心配ごとのほうが多かったように思う。
 実際、小学校一年生の夏休み明けの時点で、千莉には放課後に遊ぶ友だちはひとりもいなかった。登下校の班があるからひとりになることはなかったものの、引っ込み思案で体も小さく、一学期の半分近くを発作でお休みしてしまったのだ。
 夏休みが明けた始業式の日、千莉は緊張しながら学校へ向かった。
 登下校班には同じクラスの男子もいるのだが、その子と話したこともない。学校を休みがちな千莉を、みんなは覚えていてくれるだろうか。
 教室につくと、すでにクラスの半数以上がそろっている。自分の席につくまで誰ともあいさつを交わすことなく、千莉はランドセルを下ろした。そのとき──
「そこ、オレの席」
 同じ登下校班の男の子が、千莉の横に立っていた。
「えっ、でも、ここは」
「夏休みの前に席替えしたの、しらねーの?」
 知らなかったのも無理はない。千莉は夏休み前にひどい発作を起こして、一週間ほど入院生活を送っていた。そのため、終業式にも参加できなかった。担任が病室まで成績表を届けてくれたのを思い出す。
 ──どうしよう。わたしのせき、わかんない。
「ほら、ここにカイって書いてあるだろ」
「…………」
 うつむいて黙り込む千莉に、彼が机の落書きを指差す。言われてみれば、覚えのない落書きがたくさんある机だった。席替えのときには、机と椅子を持って移動する。では、千莉の席はどこにあるのか。
「なあ、おまえなんでしゃべんないの? 名前なんだっけ」
「な、なまえは……」
 そうませんり、と言おうとしているのに、喉と鼻と目の奥が熱くてジンジンして声がうまく出ない。
 なんとか返事をしようとすると、涙がぽろぽろと頬を伝った。
「ちょっと夏衣くん、相馬さん泣かせることないじゃない」
「相馬さん、だいじょうぶ?」
 同じクラスの女の子たちが、泣き出した千莉に寄ってくる。
「だっ、だいじょ、ぶ。わたしの、つくえ……」
 ヒックヒックとしゃくりあげる千莉を見て、ひとりの女子が「あっ」と声をあげた。
「相馬さん、ぜんそくだって先生言ってた。泣いたらぜんそくになっちゃう!」
「夏衣くんのせいだよ!」
 早く泣き止まなければ。そう思うのに、なかなか涙は止まらない。
「うるせーな。ここはオレの席なの。だれかそいつの席しってる?」
 ふん、と鼻息荒く夏衣と呼ばれる少年が机にランドセルを置いた。
「こっちだよ、相馬さん」
「ほら、いっしょにいこう」
 女子たちが千莉の肩をなでながら、ランドセルを持って机まで案内してくれる。そのとき、千莉は泣きながら夏衣に感謝していた。
 もし彼が強く言わなかったら、泣かなかったと思う。そのかわり、誰にも自分の席を聞くことができずに、担任が教室に来るまで所在なく過ごすことになったはずだ。
 ──カイくん。おなじ班の夏衣くん。
 それをきっかけに、千莉はクラスの女子たちと打ち解けることができた。女の子の間で、夏衣は常に話題の人物だったのである。
「夏衣くん、きょうしつにネコつれてきたんだって」
「えー! このあいだは先生のいうこときかないで、ぞうきんサッカーしてたよ」
「三年生のだんしとケンカしてたんでしょ?」
 けれど、彼女たちは夏衣を嫌っていないのが千莉にも伝わってくる。夏衣は足が速くて運動神経がよくて、クラスの男子たちといつもふざけているリーダー的存在だった。
 始業式の日以降も、夏衣とは同じ登下校班だったけれど個人的に話したことはない。
 男子に話しかけるのは、女子相手よりもなんとなくハードルが高く感じた。
 だが、ひとつのきっかけをもとに千莉には放課後に一緒に遊ぶ友だちができたのも事実だ。母も喜んでくれてほっとした。
 九月が終わりに近づいたある日、同じクラスの女子の家に友人たちと遊びに行った。その帰り、祖父母の家からほど近い公園で、夏衣がひとりブランコに立ち乗りしている姿を見つけた。
 ──夏衣くんだ。
 足を止めた千莉は、公園の外から彼の姿を眺めている。ほんとうは、あのとき声をかけてくれてありがとうと言いたい。けれど、もしまた彼が自分の名前も知らなかったら少し怖い気がする。クラスメイトだと覚えているだろうか。
「なあ」
 ブランコに乗っていた夏衣が、大きな声で呼びかけてくる。
 ──わたし?
 千莉はビクッとして、辺りを見回した。誰もいない。
「おまえだよ、おまえ。せんり!」
「な、なに?」
「友だちできたの、よかったじゃん」
 そう言って、上の前歯が二本とも抜けた歯抜けの顔で夏衣がニカッと笑った。
「っっ……、あ、ありがとうっ」
「へ?」
「夏衣くんのおかげで友だちできたよ!」
 高くこいだブランコが、振り子のように大きく揺れる。男の子はすごい、と千莉は思った。自分なら、あんなに高い立ちこぎはできない。そう思ったとき、夏衣はひゅーんと跳び上がり、砂地に両足で着地した。残されたブランコが、キイキイと金属音を鳴らして前後に動き続ける。
「夏衣くんとも友だちに、なっ、なれるかなあ」
 緊張しながら言った千莉に、夏衣はそっけなく横を向く。
「オレ、おんなと友だちになんねー」
「……そっか」
「でも、おまえは特別。おまえんちのばーちゃん、オレの母ちゃんにやさしくしてくれるんだって! 母ちゃんが言ってた」
「えっ?」
 あとから聞いたことだが、夏衣の母親は再婚して仙台へ引っ越してきたため、地元になかなか馴染めずにいたのだそうだ。町内会の夏祭りの作業をしていたとき、長く地元に暮らす千莉の祖母と顔見知りになり、それからだんだん知り合いが増えた。祖母のやっている裂き織り教室にも通っているという。
「こんど、うちにゲームしにきてもいいぞ」
「ゲーム?」
「たんじょう日に買ってもらったんだ!」
 彼の誕生日は八月三十一日。
「オレの父ちゃんさ、すっげーいろんなこと教えてくれんの。ゲームも強いし、サッカーもやきゅうもできるんだ。かっこいーだろ」
「すごいね。夏衣くんのお父さん、つよいんだね」
「それに、うちに小さい妹がいんの」
「いもうと?」
「ネコもいる。見たい?」
「うん!」
 じゃあ、今度な、と言って夏衣はまた歯抜けの顔で笑う。早生まれの千莉は、まだ上の前歯がグラグラしてこない。
 ──夏衣くんってすごいなあ。ブランコから、あんなに遠くまでとんでた。それに、ゲームもできるんだ。
 その日から、夏衣は千莉の友だちになった。
 彼の家には柚梨という名前の四歳になる妹がいた。夏衣にとっては異父妹だが、彼は柚梨のことをとてもかわいがっている。家に遊びに行くようになると、千莉も妹ができたみたいで嬉しかった。

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