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俺の女神に手を出すな
年下眼鏡男子の一途な愛【白石さよの名作4冊刊行記念キャンペーン対象商品!】

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本価格:825(税込)

電子書籍価格:--円(税込)

  • 本販売日:
    2022/07/04
    ISBN:
    978-4-8296-8486-3
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書籍紹介

俺の独占欲を甘くみないでください

失恋の痛手から立ち直れないまま後輩・篠田に抱かれた美紀。
あんなに激しく求めてきたくせに不遜な態度は相変わらず。
癪に障る男だけど
「俺の気も知らないで」
甘いキスに蕩け、最奥に淫らな快感を刻まれる。
身体を重ね、共に過ごすうち彼の隠れた優しさを知り……。
でも距離が近づいたと思うとまた遠のく。
彼の心が読めなくて――。
身体から始まった不器用な恋の結末は?

ジャンル:
現代
キャラ属性:
部下・後輩
シチュエーション:
オフィス・職場 | 甘々・溺愛 | 年の差
登場人物紹介

篠田陽一郎(しのだよういちろう)

美紀の後輩。彼女とは別部署で仕事でかかわったことはなくさほど交流もなかった。無表情な眼鏡男子。美紀に対して憎まれ口や皮肉を言うが、その心は……?

亀岡美紀(かめおかみき)

才色兼備のバリキャリ。華のある美人のため男性遍歴多数と思いきや、一途で潔癖。10年付き合っていた同期がいたがフラれて失恋の傷が癒えないでいる。

立ち読み

 

 

 


『結婚、決まったんだ』
 私の愛した優しく撫でるような声が、昔と変わらぬ微笑みをたたえてその言葉を告げた。
 穏やかなダークブラウンの瞳、同じ色のさらさらの髪。長身の私よりさらに頭一つ高い、すらりとしなやかな身体にも、たくさんのキスをくれた唇にも、もう二度と触れることは叶わなくなった。
 別れを経ても、どんなに遠く離れても、他の男に抱かれても、この十年、心の奥底で連綿と消えることのなかった私の恋。そのすべてを微笑みに変えて彼に告げる。
『おめでとう、怜』
 好きなの、怜。今でも、前よりも──。

***

「ん……」
 埋もれ火のように身体の奥で燻る、濃厚な夜のひそやかな余韻。その微熱を再び味わおうとするかのように身体の芯がざわめいている。
 後朝独特のそんな甘く重い倦怠感に包まれ、亀岡美紀はうっすらと目を開けた。
「怜……」
 美紀の唇から自然にその名前がこぼれ落ちる。
“結婚、決まったんだ”
 ところが不意にその言葉が蘇り、一気に覚醒して飛び起きた。
(ここは……?)
 見慣れぬ眺めに美紀は目をしばたたいた。そこが想い願うかつての恋人、怜樹の部屋でないことに鈍い落胆が広がる。しかし、美紀の部屋でもない。
 ベッドの隣は冷えた窪みを残すだけで、この部屋の主は不在だ。飾り気のない空間に、海のような青のカーテンだけが唯一の色彩を放っている。外は曇天なのか、カーテンの隙間から差し込む日差しは鈍い。でも微運転しているエアコンのおかげで冬の朝の寒さは感じなかった。
 それにしても、やけに頼りないこの感触は……。
 恐る恐る布団をめくった美紀は眩暈を覚えた。一糸纏わぬ裸だったのだ。
「ああ……」
 昨夜の記憶が徐々に鮮明に蘇り、美紀は恥辱のあまり布団に突っ伏した。世間ではよくあるパターン──失恋の痛手で一夜の関係に身を投じてしまった愚かな女、まさにそれだ。
 三十三年生きてきて、こんな失態は一度もなかったのに。胸にお腹に、脚の付け根にまで赤く残る行為の印に、美紀は呻き声を漏らした。

“常勝女王”──周囲は陰で美紀をそう呼ぶ。
 子供の頃から才色兼備ともてはやされ、難関大に進学後は大学のミスコンにも選ばれた。しかし美紀は顔を武器に生きるような女を目指しているわけではない。大企業に就職し、女性初の海外駐在員にも選ばれるなど、すべてにわたってトップを走り続けてきた。恋も同じく、自分を安売りすることなく常に完璧を貫いてきたはずだった。
 なのに何、激しく踏み外したこの状況は。
 茫然としていると、遠くで玄関ドアらしい重い開閉音が聞こえた。足音はまっすぐ美紀がいる部屋に向かって近付いてくる。態勢を立て直そうと美紀が慌てているうち、軽いノックと共にドアが開いた。
 戸口に立つのは、コンビニ袋をぶら下げてダウンジャケットを着込んだ長身の男。こちらだけ裸という圧倒的劣勢の中、せめてもの威厳を保とうと、美紀は布団にくるまりながら顎をツンと上げた。
「よかった。もう起きてますね。おはようございます、亀岡先輩」
 男の第一声は拍子抜けするほど事務的だった。冷たいメタルフレームの眼鏡の奥には感情の読めない切れ長の瞳。名前も知らない行きずりの男と、というパターンではない。
「……おはよう、篠田君」
 女王のプライドにかけて落ち着きを装ったが、美紀の声はわずかに上ずった。
 この男のことは知っている。どうして自分がここにいるのかも。信じられないことに、自分から誘ったのだ。記憶が正しいなら“誘った”というより“迫った”という表現の方が妥当だろう。
 篠田陽一郎は美紀が所属する海外事業本部の二年下の後輩だ。後輩といっても部署は違い、美紀はアジア部、篠田は隣の米州部に所属している。仕事で直接の関わりはないし、美紀も海外赴任で四年のブランクがあり、これまで特に喋った記憶もない。名前以外はほとんど知らないし、篠田に興味を持ったこともなかった。
 そんな彼と、どうしてこんな状況になろうと思ったのだろう?
 美紀自身も説明がつかない。昨夜は海外事業本部全体で開かれた盛大な新年会の帰り、二次会でたまたま一緒になった篠田と──とにかくそういうことになったのだ。
 しかし相手云々はともかく、美紀はこの失態の原因を痛いほど自覚していた。
 昨日、美紀は同期で元恋人の片桐怜樹から結婚が決まったことを知らされた。
 誰もが見とれる端麗な容姿、明晰な頭脳。誠実で優しい最高の男。“王子”と呼ばれ社内一の人気を誇る怜樹と美紀は、かつて理想のカップルとして羨望の的だった。しかし出世の道を歩む二人は会社の期待に背けず、それぞれの海外赴任で別離を選んだ。
 遠く離れた地で幾つかの恋を経ても、美紀は彼を忘れることができなかった。しかし長い赴任を終えてようやく再会した時、怜樹は他の女性を見つめていた。
『結婚、決まったんだ』
 いつかこの日が来ると覚悟を決めていたはずなのに、美紀の二十代を染めた十年の恋を完全に失った衝撃はあまりに大きかった。それでも美紀は笑顔を貫き、彼を祝福した。最後まで綺麗な自分でいたかったからだ。昨夜の出来事はその反動だろうか。
 パシャ、とコンビニ袋が揺れる音で美紀は我に返った。今は失恋の傷を舐めている場合ではない。とにかく目の前の事態の収拾をつけなければならないのだ。この一夜は過ちで、そこに永続的な意志はないのだから。
「あの……、篠田君」
 こんな時、傷つけず穏便に収めるにはどう言えばいいだろう? 自分から“迫った”手前、決まりが悪い。男性から好意を寄せられるのが常だった美紀はこの時、この彼もそうなのだと思い込んでいた。ところが未経験の場面に必死で脳内を掻き回している美紀の頭上に耳を疑う言葉が降ってきた。
「すみませんが、早く服を着てもらえますか? もうすぐ人が来るので」
 ……え?
 思わず顔を上げ、ポカンと口を開けて篠田の顔を眺めた美紀の視線は、ボソッと落ちてきたコンビニ袋と共にまた布団の上に逆戻りした。袋からはおにぎりと牛乳パックが透けて見えている。
「十時に約束があるので、それまでに帰って頂けたら」
 さらに聞こえた台詞に、美紀はもはや自分がどんな表情をしているのか取り繕うことも忘れて視線を上げた。その顔面にとどめが刺さる。
「今九時二十分ですから、あと三十分でお願いします」
 要するに、三十分以内にとっとと立ち去れと。

「それじゃ月曜、会社で。お疲れ様です」
 三十分後、まるで出張明けのような挨拶を残して走り去る車のテールランプを美紀は茫然と見送っていた。手には食べかけのおにぎりが入ったコンビニ袋を下げている。
「何たる屈辱……」
 あのあと、美紀は急かされるまま学校給食のような組み合わせの朝食を胃袋にねじ込み、メイク直しもそこそこに“時間です”というまた事務的な一声で駅まで送られた。冬の寒空の下、不案内な場所に放り出されずに済んだことはありがたいが、実際のところは篠田が早く美紀を追い出したかったからに違いない。
『約束って……彼女?』
『そんなところです』
 呆れ返って二の句を継げず、車内の会話はそれっきりだ。駅正面のロータリーではなく一筋裏手で降ろされた理由は説明されなくてもわかる。“そんなところ”に目撃される危険を回避するためだろう。
「最低……」
 車内で我慢していた言葉を口の中で呟きながら改札口に向かえば、そこは怜樹の最寄りと同じ駅だった。こんな状態でここにいることに美紀は泣きたい気分に襲われたが、今は失恋の痛みより湧き起こる憤怒の方が強かった。
 階段を上っても歩いても、身体の違和感のせいで動作がぎこちなくなる。
 しっかりするのよ、バージンでもあるまいし!
 叱咤しても身体は正直だ。隠微な熱を反芻する自分の身体が腹立たしくて仕方がない。
 それにしてもあの男、会社で見せている真面目眼鏡の下はとんでもない悪党だ。いや、あれはAIと表現した方がいい。軽薄とか冷酷とかの方がまだ感情が見えるだけましだろう。でもその無感情AIに、昨夜自分は──。
「ああ嫌……」
 今朝何度目になるだろう、美紀の口から呻き声が漏れた。篠田に意識を飛ばされかけた昨夜の自分を思い出すと、恥辱のあまり消えてしまいたくなる。
「忘れよう……」
 電車に揺られながら美紀は必死にプライドを立て直そうと試みたが、気持ちが乱れてうまくいかない。項垂れると、脚につけられた赤い痕が目に入り、慌ててスカートの裾を引っ張った。
「最低……」
 恋人がいながら悪びれもせず他の女を抱く男。
 しかし、美紀はわかっていた。いくら篠田に腹を立てたところで、逆恨みというものだ。強引に誘ったのは自分なのだから。そして、軽くあしらわれたのも。
「月曜、どうするのよ……」
 人目も構わず呻いて顔を覆う。三十三年の人生で、間違いなく史上最悪の朝だった。

 月曜、午前八時半。いつもと同じ時刻、いつも通り上質なファッションに身を包んだ美紀がヒールの音も軽やかに海外事業本部の大部屋に入っていく。
「主任、おはようございます!」
「おはよう。宮崎君、中野君」
 早くに出社している若手男性社員から飛んでくる挨拶に笑顔を返しながらアジア部の島へと進む、いつも通りの朝だ。
 パソコンの電源を入れるのは昨日ネイルサロンで仕上げてもらった完璧なネイルの指だ。美しいベージュのグラデーションに美紀は微笑を浮かべた。
 怜樹と並ぶトップの評価で入社して十一年。努力を重ね、時に大切な恋も犠牲にしながら今のポジションを築いてきた。いくら会社に献身したところで所詮は歯車にすぎないと言う人もいるが、小さく非力な歯車も会社という集合体になれば、経済のうねりを生み出せる。
(私はそのダイナミズムが好き。小さな歯車も世界を動かせるのだと感じさせてくれる、この場所が好き。さあ、今日も──)
「…………」
 背筋を伸ばし顔を上げたところで、ここまで無理して盛り上げてきた美紀のテンションは穴の開いた風船のように萎んだ。
 正面に見えるのはお隣、米州部。美紀の薄暗い過去──と呼ぶにはまだ新しすぎる、二日前の記憶。……の男。
 現地とあまり時差がないアジア部と違い、米州部はアメリカとの連絡が早朝に集中する。だからこの時間帯、米州部の島は当たり前に全員揃っているのだ。当然、できることなら一生顔を合わせたくない篠田も。
 ブルーのシャツに紺色のネクタイという特に目立つものではないはずなのに、いつもと同じ眺めの中から、今日は美紀の意識に飛び込んでくる。
「見ない見ない……」
 冷や汗をかいている美紀とは対照的に、篠田は美紀に注意を払う様子もなく、受話器を手に取引先の問い合わせに応対している。
 この土日、どん底の落ち込みを紛らわそうと、美紀は手当たりしだいにいろんなことを試した。ヘアサロンに行き、高いトリートメントを入れてもらった。エステも予約して、少し荒れ気味だった肌をぴかぴかに磨いた。ただし顔だけだ。身体は篠田がつけた痕のせいで、とても露出できたものではない。百貨店のセールにも突入して、服を新調し気合を入れた。一体それらが何のためなのか美紀にもわからなかったが、とにかくじっとしていられなかったのだ。
 しかし、そんな完全武装は何の意味もなかった。篠田の姿を認めた途端、美紀はパソコンのログインパスワードすら何度も打ち間違える始末だった。
 篠田が座るのは美紀の真正面にあたる席だ。かつてそこは怜樹の席だった。
 入社当時は海外事業本部の米州部に所属していた怜樹は、美紀の上海赴任の数か月後、アメリカに赴任した。しかし、社長直轄部門である経営企画室からどうしても怜樹が欲しいという要請があり、通常より早い二年での帰国となったらしい。上海の任期が終われば怜樹に会える、また一緒の職場で過ごせると思っていたのに、帰国してみれば怜樹は経営企画室の人となっていた。
 仕事中に目が合うと、密かに微笑を送ってくれた怜樹。ずっと戻りたくて待ち続けた、幸せだった日々。
 しかし現実は違った。怜樹は経営企画室の部下でもある新しい恋人を、美紀には向けたことのない愛しげな目で見つめていた。
 そんな二人を祝福しながら、美紀の心はいつも泣いていた。誰も知らない涙を流し、誰も知らない寂しさを抱え、怜樹との過ぎた日々を思いながら、心の中でずっとあの席を見つめ続けてきた。美紀にとって、あの席はそういう席だった。篠田は“怜の席に座ってる人”、ただそれだけだったのに。
 週末に届いたメールをチェックする美紀の耳に、篠田の英語が途切れ途切れに聞こえてくる。それがかなり流暢であることに美紀は驚いた。初めて聞く気がするのは、今まで美紀が“怜の席に座ってる人”の声など意識に入れてこなかったからだ。しかし今日の美紀は周囲のざわめきから篠田の声を拾い上げてしまう。
(どうして私が意識してるの……)
 中国語ソフトを立ち上げて躍起になって返信文を打っていると、隣の席に同期の相原梨香子が出勤してきた。
「美紀、おはよう」
 梨香子は一番気心の知れた友人だ。幸せ絶頂の新婚で、現在つわり中のためラッシュアワーを避けて出社してくる。
「金曜、美紀は三次会行かなかったらしいね」
 梨香子にいきなり新年会の話題を持ち出され、キーを打つ美紀の指が乱れた。
「……誰か何か言ってたの?」
 まさか篠田と二人で消えたところを誰かに見られたとか?
「ううん。珍しいなと思って」
 その時、けたたましい声で聞きたくない名前が美紀の耳に飛び込んできた。
「篠田先輩、ひどいですぅ」
 美紀がちらりと正面の席に視線を向けると、電話を終えた篠田に管理部の若い女子が話しかけているところだった。
「三次会、篠田先輩の隣に行こうと思ってたのにぃ」
 どうしてあっちもこっちも新年会の話題なのだろうか。生きた心地がしない。
「美紀って飲み会は大抵ラストまで付き合うのにさ」
「ああ……まあ、もう歳だからね」
 正面が気になってしまい、つい適当な返事になる。
「篠田先輩、二次会のあと、どこ行っちゃったんですかぁ?」
 美紀の指がまたキーを打ち間違えた。カーソルを戻す美紀の耳に、何か答える篠田の声が聞こえてくる。
「キャー! 絶対、約束ですよぉ?」
 何がキャーだ。何が約束だ。
 なかなか出てこない変換にキーを連打していたが、正面から聞こえてくる奇声に我慢できなくなった美紀は財布を持って立ち上がった。
「コーヒー買ってくるね」
 梨香子に一言告げ、自販機のある休憩室まで鼻息荒くやってきたところで美紀は急に勢いを失った。本当は別にコーヒーが飲みたいわけではない。さっきお気に入りのカフェで季節の新フレーバーを飲んできたばかりだ。
 不意に自己嫌悪に陥り、誰もいない休憩室で顔を覆った。いったい何に苛々しているのだろう。自分さえ知らん顔していれば、あんな出来事は消えていくのに。篠田の方は美紀など完全無視で、蒸し返す気もなさそうだし、好都合なのに。
 しかし天の邪鬼なもので、美紀はそんな篠田の態度が妙に気に食わなかった。さっき一瞬だけ目をやった時、管理部の女子に返答する篠田が微笑んでいたからだ。
(私には愛想の欠片もなかったのに……)
 その時、コツ、と背後で靴音がしたので美紀は慌てて顔を引き締め振り返った。しかし、入ってきた人物を見て声なき悲鳴を上げる。
「おはようございます、亀岡先輩」
 入口に立つ男は篠田だった。まるで土曜の朝の再現のようだ。裸だった自分を思い出し、美紀の顔が熱を持つ。
「……おはよう、篠田君」
 篠田は形だけの挨拶以外美紀と言葉を交わす気はないらしく、美紀の挨拶に無反応で休憩室に入ってきた。長身の彼が近付くにつれ、広いはずの休憩室がどんどん狭くなるように感じられる。
「買わないんですか?」
 財布を握り締め自販機の前で突っ立っている美紀に、篠田がメタルフレームの眼鏡の奥から無表情に尋ねた。
「か……買うけど」
「どうぞ、お先に」
 引っ込みがつかなくなった美紀は仕方なく自販機にお金を入れたが、背後の篠田が気になって選ぶどころではない。早く、早く……。背中が異様に緊張する。
 ところが一刻も早く逃げ出したくて適当なボタンを押したのに、自販機は騒々しい音を立てながらお釣りをすべて十円玉で吐き出し始めた。
「二日酔いは大丈夫でしたか?」
 ようやく音が止まり、屈んでお釣りを取り出したところで、まるでタイミングを見計らったように背後から声をかけられた。中腰のまま飛び上がった美紀は無様なことに十円玉を床にぶちまけてしまった。
「ご、ごめんなさい」
 転がる十円玉を追いかける美紀の前に、不意に篠田が屈み込む。
(え……?)
 驚いて固まる美紀の身体に、篠田の長い腕が伸びてくる。その一瞬をスローモーションのように長く感じながら、視界を覆う彼の青いシャツを見上げた時、美紀の中に潜んでいたものがざわめいた。シャツを脱いだその肩に組み敷かれた感覚が。きっちりと締められたそのネクタイを解きながら自分を見下ろす視線の記憶が。
「……どうぞ」
 手のひらに落とされた硬貨の冷たい感触で、美紀ははっと我に返った。
「あ……ありがとう」
 美紀の恥ずかしい脳内映像を見抜いたのだろうか。硬貨を拾ってくれた指は彼の元には戻っていかず、ゆっくりと下ろされ美紀の脚にひたりと当てられた。そのまますうっと長い指と静かな視線が太腿をなぞる。
 思わず鋭く息を吸った美紀に、指を止めた篠田が冷めた声で告げた。
「見えてますよ」
 彼の指が止まったのは、太腿にまだ赤く残る痕。
 どうして短いスカートを穿いてきたのだろう? 自分を責めながら声も出せずにスカートを引っ張り下ろした。
 美紀の動揺をよそに、背後ではコーヒーを買う自販機の音が響いている。屈辱に耐えていると、廊下から先ほどの管理部女子の甲高い声が聞こえてきた。
「篠田先輩に食事オッケー貰っちゃった」
「篠田先輩ってフリーなの?」
「たぶん! 由香がんばるー」
 会話が遠ざかると、我慢ができずに口を開いた。
「あんな約束していいの? 彼女いるくせに」
 食事どころかベッドまで共にしてしまった自分が言えた義理ではないけども。自分で突っ込むしかない。
 しかし篠田は美紀をちらりと見ただけで問いには答えず、無言で缶を開けた。
「……いいんですか?」
 コーヒーを飲む彼の喉に美紀がつい目を奪われていると、だしぬけに聞き返された。
「あれ以上新年会のことを詮索されると、困るのは亀岡先輩では?」
「…………」
「大丈夫ですよ。俺は何も喋るつもりはありませんから」
 スコン、と音を立てて空き缶がゴミ箱に吸い込まれる。
「女王様は王子に未練たらたら、とかね」
 沸点に達した怒りで思わず振り返ったが、既に篠田は出て行ったあとだった。
 大部屋に戻りかけたが、またあの席で正面に篠田を見ると思うと足が動かない。美紀はよろよろと休憩室の長椅子に腰かけた。
「触らなくてもいいじゃない……」
 言葉で指摘すればいいじゃない。いや、一切放っておいて欲しいのに。
 触れられた部分に残る焼けつくような感触を消したくて、手で何度もこすった。
“女王様は王子に未練たらたら、とかね”
 美紀が今でも怜樹を思い続けていることを、どうして篠田は知っているのだろう? あの日は確かに酔ってはいたが、記憶はしっかり全部ある。絶対に言っていない。親友の梨香子にすら、怜樹への未練を打ち明けていないのに。
 心の奥底に大切に隠していた壊れ物のような秘密をあんな男に見透かされ辱められたことが美紀は悔しくて仕方なかった。何か恨みでも持たれているのだろうか?
「……許せない」
 あんなに冷ややかな顔で、愛もなくこんなに痕をつけて、こんな風に侮辱するあの男が。そんな男にふらふらと身体を預けてしまったあの夜の自分が。しかし何より許し難いのは、あの夜を繰り返し思い出してしまう自分だった。
 一人で静かに怜樹への思いを抱えていたかったのに……。
 この土日に必死で目を背けてきた痛みと混乱が、今になって心の均衡を壊し始める。美紀はため息を漏らして長椅子の背もたれに突っ伏した。

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