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初恋こじらせ夫婦がじれ甘ラブ活はじめます!

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書籍紹介

今夜、着物を脱がせるのが待ち遠しい

婚約者に逃げられ、その弟、詠介と結婚した老舗旅館の若女将、果穂。
周囲から好奇の目で見られないために、新婚幸せアピールをすることに!
体面だけかと思っていたら
「ずっと触りたかった」蕩けるようなキスと丹念な愛撫。
熱楔で最奥を抉られて絶頂を覚える。
「果穂は俺のものだ」
きつく抱き締められれば、まるで本当に愛されているみたい!?
美しき若旦那と甘ラブ!

ジャンル:
現代 | ファンタジー
キャラ属性:
インテリ
シチュエーション:
幼馴染・初恋の人 | 新婚 | 甘々・溺愛 | オフィス・職場
登場人物紹介

志築詠介(しづきえいすけ)

老舗料亭の次男。海外のホテルでホテルマンとして働いていたが、兄が行方知れずになってしまい帰国。兄の代わりに果穂と結婚することになった。

藤倉果穂(ふじくらかほ)

高級旅館を経営するグループ会社のお嬢様。旅館「ふじくら」の若女将をしている。詠介の兄と結婚が決まっていたが、結納の日に逃げられてしまい!?

立ち読み

「このたびのこと、何とお詫びしたらいいか……本当に申し訳ございませんっ……!」
 悲痛な声で涙交じりに言われ、藤倉果穂は困惑していた。目の前で土下座する年配の男女は、老舗料亭「志乃屋」の当主である志築夫妻だ。
 志乃屋は広大な日本庭園を有することでも知られており、果穂たちが通されたこの離れからは美しい枯山水庭が一望できる。九月上旬、残念ながら紅葉にはまだ早い時期だが、あと二ヶ月もすれば借景の山々も見事な彩りを見せるだろう。
 庭師だった曾祖父が作庭したというこの庭園には、果穂も愛着を持っている。
 でも今は、玉砂利の上で当主夫妻が土下座しているのだ。ゆっくり庭を眺められるような状況ではなかった。
「昨日までは智之も至って普通で……結納の準備も滞りなく進めておりましたし」
「ゆうべも変わったことは何もなかったんです。いつもどおり夕食後に部屋に戻っていって……でも今朝から、どこにも姿が見えなくて。か、書き置きが」
 震える声で状況を説明する志築夫妻は、玉砂利に額を擦りつけんばかりの勢いで頭を下げていて、気の毒なほどだ。
 早く顔を上げて畳に座ってほしいが、果穂の両親はさっきから黙りこくったまま、何も言わない。気難しい父はむっつりと腕を組んで何か考えているし、のんびりした気性の母も、さすがにこの状況には言葉を失っているようだ。
 ──結納当日に逃げるなんて。智之さん、ずいぶん思いきったことするよね……。
 果穂は小さくため息をつく。
 本来ならば今日、果穂は志築家の長男である智之と結納を交わすはずだった。
 二歳年上の智之とは高校の先輩後輩で、彼は二十九歳、果穂は二十七歳。年齢的にもちょうどよく、果穂の仕事が落ち着いたタイミングでもあるということで、来年の春に結婚することが決まっていた。
 志乃屋を傘下に入れたい藤倉家と、資金調達に悩んでいた志築家とのあいだで利害が一致し、家同士が決めた縁談ではあった。それでも果穂も智之も互いに納得して、今日この日を迎えた……と思っていたのだ。
 でも豪奢な振袖を着て両親とともに出向いた志乃屋で聞かされたのは、「智之が他の女性と逃げた」という信じられない事実だった。
 ──家を捨てて駆け落ち……映画やドラマみたい。なかなかやるな、智之さん。
 果穂はつい呑気なことを考える。いや、そんなにのんびりしている場合ではないのだが。婚約者に逃げられた女としては、ここはもう少し取り乱すべきところだろう。
 でも正直なところ、果穂はただただ感心していた。
 高校時代から妹のようにかわいがってくれた智之とは、友人としての付き合いも長い。よく言えば温和、悪く言えば優柔不断で気弱な彼の性格は、果穂もよく分かっている。
 智之は今まで何もかも親の言いなりで、自己主張などめったにしなかった。自分は商売に向かないと言いながらも長男という理由だけで志乃屋で働き、経営難の店を見放すこともできず、親の決めた縁談もあっさり受け入れた。
 その彼が、決められた結婚を蹴って他の女性と出奔するなんて──そんな行動力があったなんて。いや、そこまでするような相手と出会ったのだ。そう思えば、友人としては怒りよりも感慨深さが先に立った。
 いい年なのに親に土下座させていることはどうかと思うし、もう少しうまく立ち回れなかったのかと言ってやりたい気持ちはある。せめて自分には事前に一言あってもよかったと、文句を言いたい気持ちも。こっそり知らせておいてくれたら、わざわざ早起きして振袖を着る必要もなかったのに。
 それでもきっと、これでよかったのだろう。
 この縁談が予定どおり進めば、智之とその女性との仲を引き裂くことになっていたはずだ。もし、自分の存在が二人の恋路を邪魔することになっていたら。それは想像しただけで胸が痛む。だから彼が本当に好きな相手を選べてよかったと、人のいい果穂は心から思っていたのだ。
 もっとも、この結婚を機に進むはずだった業務提携がどうなるのか、それだけは気がかりだが──。
「つまり、智之くんはうちの娘と結婚するつもりはないと」
「……申し訳ございません」
「当然、藤倉グループと志乃屋の業務提携は白紙になるということですね」
 果穂が懸念していたことを、父が淡々と口にする。智之の両親が、土下座したままビクリと肩を揺らした。
 果穂の父は、全国各地で高級旅館を経営する藤倉グループの社長だ。藤倉からの支援は、経営に行き詰まっている志乃屋にとって、喉から手が出るほど渇望していたものだろう。
 でも父は、冷ややかな表情でそのまま席を立った。
「今後のことについては、会長とも相談の上、改めてご連絡いたします」
 藤倉グループの実権を握る会長は、果穂の祖母だ。この海辺の街にある小さな旅館を、全国に知られるような高級旅館チェーンに育て上げた傑物。
 業務提携前提の孫娘の結婚がなくなった。何事も計画どおり進めたがる祖母がこの破談を知ったとき、どれほど怒り狂うか。それを思うと、果穂は気が重い。
 両親とともに車に乗り込みながら、果穂は沈んだ表情で志乃屋を振り返る。
 父に「見送りは不要」と突っぱねられ、智之の両親は肩を落としていた。藤倉グループからの支援が白紙になり、跡取り息子は出奔して行方が分からない。こんな状況で、今後志乃屋の経営はどうなるのだろう。
 お嬢様育ちでのんびりした性格の果穂だが、仕事には全力を尽くしているし、家業にも誇りを持っている。同じ街の老舗である志乃屋に対しても、ずっと敬意と親しみを感じてきたのだ。智之個人の幸せは喜ばしいが、志乃屋のこれからを思うと複雑な気持ちになる。
「業務提携のお話もあったのに……会長、お怒りになるでしょうね」
「果穂が気にすることではない。あとはこちらで全部やっておくから」
「そうよ、あなたは何も心配しなくていいわ。ひとまず今日はゆっくり休みなさい」
 藤倉家の家族仲はとてもいい。兄が二人おり、念願の女の子で末っ子でもあった果穂は、家族みんなに愛されて大切に育てられた。
 娘を労るような父の口調と母の涙声に、果穂はかえって申し訳ない気持ちになる。自分はこの破談に、まったく傷付いてもいなければ悲しんでもいないのだから。
 ──絶対に、「彼」と結ばれることはない。そう諦めて、この縁談を受けたのに。
 果穂は車のシートにぐったりと身を沈める。平然としていたつもりだが、それなりに緊張も動揺もしていたらしい。口をきくのも億劫なほどの疲れを感じながら、そのまま目を閉じる。
 本当はどこかで、婚約者の出奔にホッとしている自分がいる。その理由には、もちろん心当たりがあった。
 こうして何かあるたび、果穂は嫌というほど思い知らされるのだ。
 志築詠介──婚約者の弟を、初恋の人を、いまだに忘れられずにいるのだと。







 御宿ふじくらは海が見える高台の一軒宿で、このあたりでは一番の老舗旅館だ。
 眼前には抜群の透明度を誇る青い海、背後には紅葉の名所として知られる山々。全十室の客室はすべて露天風呂付きの離れになっており、豊かな自然と良質な温泉がゆっくり楽しめると評判の宿である。
 今そのロビーでは、果穂がチェックアウトする客のために茶を点てていた。
 手早く会計を済ませて出発するビジネス客も時々いるが、ほとんどは時間にゆとりのある観光客なので、畳敷きのロビーで海を眺めながらのんびりチェックアウトの手続きをする。
 若女将の果穂にとっても、宿泊客に最後の一服を振る舞うこのひとときは、滞在中の満足度や今後に向けた改善点を知るための大切な時間だ。
「いつ来てもいいわねぇ、ふじくらさん。お料理も毎日最高でしたよ」
「おそれいります。花菱様に何度もお褒めいただいたと、お食事担当のスタッフたちも大変喜んでおりました」
 しゃんと背筋を伸ばして茶筅を使う果穂をニコニコと見つめているのは、十年以上通ってくれている常連客の女性だ。六十歳を過ぎてもなお若々しい花菱は、東京の化粧品メーカーの会長だと聞いている。息抜きしたくなると一人でふらりとやってきて、何日か滞在していくのだ。
 御宿ふじくらはきめ細やかなサービスを売りにする高級旅館で、宿泊費はそれなりに高額になる。今回花菱は一週間滞在したので、支払金額は数十万円にものぼった。いつものことながら、彼女は顔色ひとつ変えずに、明細も確認することなくそれを支払ったが。
 花菱に限らず、この旅館の客はみんなそれなりに資産も社会的地位もある人物ばかりだ。決して景気がいいとは言えないご時世にもかかわらず、年に何度も滞在してくれる常連客も少なくない。本当にありがたいことだと、果穂はいつもしみじみ思う。
「あなたが若女将になって、どのくらい経ったかしら」
「そろそろ一年でしょうか。まだまだ毎日勉強ばかりですが」
「かわいい仲居見習いだった女の子が、もうすっかり若女将らしくなったわね。ふじくらさんも安泰でしょう」
「花菱様のようにあたたかく見守ってくださる皆様のおかげです。長年ご愛顧いただき、本当にありがとうございます」
 抹茶と干菓子を品よく味わう花菱に、深々と頭を下げる。
 果穂は高校生のころから仲居見習いとして下働きを始め、大学卒業後に仲居として働くことを許された。女将である母から「あなたもそろそろ若女将として修業しましょうか」と言われたのは、昨年秋のことだ。
 仲居のころは動きやすいように上下に分かれている二部式着物の制服を着ていたが、若女将になってからは毎日悩みながら着物を選んでいる。老舗旅館の若女将としての品格を損なわないよう、かつ必要以上に華美にならないよう季節も考慮して……と、着物を選ぶのは今でもなかなか神経を使う。
 今日は紅梅色の加賀小紋に、落ち着いた色合いの塩瀬の染め帯を合わせた。
 果穂の黒目がちで清楚な顔立ちも、きちんとまとめた長く美しい黒髪も、しっとりとした和服姿によく合っている。若女将としての振る舞いにもだいぶ慣れ、最近では少しずつ自分の仕事に自信が持てるようになってきたところだ。
「次は紅葉のころに伺うわ。こちらの朴葉焼きが忘れられなくてね」
「ありがとうございます。もうすぐ契約農家さんの新米も出ますし、晩秋の味覚をご用意してお待ちしております」
 雑談をしているうちに頼んでいた車が到着したので、荷物を運ぶ。客室担当の仲居とともに門前で見送りをした。
「これで全室チェックアウトです。お疲れさまでした」
「お疲れさまでしたー。ああ緊張した! 一週間も滞在されると、何をお話ししたらいいか全然分からないですよー……」
 花菱の客室担当は仲居歴三年の椿が務めた。車がゆるやかな坂道を下って竹林の向こうに見えなくなった途端、彼女はぐんにゃりと身体の力を抜く。若い仲居にとって、一見気難しそうな花菱の相手はとてもプレッシャーだったらしい。
「でも花菱様、椿ちゃんの接客をすごく褒めてくださってたよ。若いのに知識もあるし、しっかりしてる仲居さんだってずいぶん感心されてたわ」
「えー、本当ですか?」
「もちろん。私も椿ちゃんが褒められてとってもうれしかった。お料理も一生懸命勉強してたものね、本当にお疲れさま」
「やだ、そんなに褒められたら照れちゃいますよー」
 天真爛漫な椿は恥じらいながらもうれしそうにニコニコしている。その素直な様子に、果穂も笑みが零れた。
 慣れない和服での仕事や独特の勤務体系に馴染めず、早々に辞めていく仲居も少なくない。少しでも気持ちよく働いてもらえるようにと、果穂は褒め言葉を惜しまないようにしている。
「長い連勤になっちゃってごめんね、もう上がっていいからゆっくり休んで」
「はーい、じゃあ明日から三日間お休みをいただきます。若女将も元気出してくださいね!」
「え?」
「婚約のひとつやふたつ駄目になったところで、男なんていくらだっているんですから。そうだ、明日警察官との合コンあるんですけど、一緒にどうですか? 若女将はきちんとしてるし癒やし系だし、気が合いそう」
「……耳が早いのね、相変わらず」
 果穂はあっけにとられて彼女の顔を見つめる。
 ほんの数日前の婚約者の出奔が、もうふじくらの仲居にまで知られているなんて。志乃屋の従業員あたりから話が漏れたのだろうか。小さな街で、噂が広まるのは本当にあっというまだ。
 椿には悪気などなく、慕っている若女将を純粋に励まそうとしてくれているのだろう。「料亭の若旦那よりやっぱり公務員ですよ」と言い募られ、力強く手を握られる。果穂は苦笑した。
「誘ってくれてありがとう、でも今回は遠慮するね。椿ちゃんは楽しんできて」
「じゃあ参加したくなったらいつでも連絡くださいね。お疲れさまでした!」
 元気にロビー棟へと戻っていく椿を横目で見送りつつ、果穂は小さくため息をついた。
 ──智之さんと私のこと、あちこちで噂になってるんだろうな……老舗旅館の若女将が婚約者に逃げられたなんて、噂のネタとしては最高に面白いもんね……。
 結納の日からわずか数日、それほど親しくない知人や出入りの業者にまで「大変だったね」と言われ、果穂は辟易していた。
 心配しているような顔で、そのくせまったく隠せていない好奇心。人の不幸を喜んでいる……とまでは言わないが、この状況を面白がっている声音。
 決して感情的にならないよう、「そうですね、当初の予定と変わりまして」と穏やかな笑みを浮かべているが、さすがに何度も同じことが続いて少し疲れてしまった。いっそ自分もどこかへ逃げ出したいくらいの気持ちだ──当然、そんなことで仕事を休むわけにもいかないけれど。
 果穂は鬱々としながらも手元のスマホを操作し、館内システムを起動した。客室の状態をチェックアウト完了に変えると、すぐに清掃担当のスタッフから「了解しました、室内清掃入ります!」とメッセージが届く。
 この館内システムを導入したことで、スタッフ間の連携がとてもスムーズになった。広大な敷地のどこにいても、館内の状況やトラブルを全スタッフで随時共有できる。
 もちろん褒められた内容を共有するのも忘れない。宿泊客からかけられた褒め言葉は、どんなに小さなことでも励みになる。客室担当の接客が褒められたことや朝食が好評だったことも、果穂はしっかり入力しておいた。
 ふじくらは地元の山海の幸を活かした料理も評判だ。何にでもこだわる板長は、ついに昨年から豆腐や味噌を作るための豆栽培まで始めてしまった。「汲み上げ豆腐、大絶賛でした」のコメントを見たら、寡黙な板長もきっとニヤリとするだろう。
「さて、もうひと頑張りしないとね……」
 ひとまず午前中の勤務が終わるまでに、客室に生ける花の準備をしておきたかった。
 結婚記念日の夫婦には華やかな色合いの花を使って、壮年男性の一人客には葉物多めで落ち着いた雰囲気に。各部屋ごとの宿泊客に合わせた花材の組み合わせを考えながら、果穂も門をくぐってロビー棟へと向かう。
 ちょうど、そのときだった。
「果穂?」
 涼しげな声で名前を呼ばれ、ピタリと足を止める。懐かしい、もう何年も聞いていない……でも絶対に聞き間違えたりしない、恋しい声だ。
 果穂はおそるおそる振り返った。御宿ふじくらの歴史を感じるどっしりとした数寄屋門の向こうに、スーツ姿の男性がいる。
「……詠介?」
 どこか信じられないような気持ちで、彼の名を口にした。
 何年ぶりの帰国だろうか。当分日本には帰らないと言っていたのに。そしてその言葉どおり、日本を飛び出したまま全然帰国しなかったのに。
 ──夢でも見てるんだろうか。本当に……本物の詠介?
 不躾だとは思いながらも、ついその美しい男性を見つめてしまう。
 学生時代から人目を引いた端整な顔立ちは、年月を経てより凜々しく精悍さを増していた。近付きがたいような美形なのにやわらかい印象を与えるのは、生まれつき少し明るめだという髪や瞳の色のせいだろうか。そのサラサラとした髪が秋の潮風に揺れて、ほんのり爽やかな香りが届く。
 果穂は呆然としたままで、その場から一歩も動けなかった。
 でももちろん、初恋の相手との再会に動揺しているのは果穂だけだ。詠介はおおらかな笑みを浮かべたまま、平然とこちらに歩み寄ってきた。
「久しぶりだな。会えてよかった」
「詠介、どうして……?」
 彼の顔と、足元のスーツケースを見比べる。聞きたいことはいろいろあるのに、頭の中が真っ白でうまく言葉が紡げない。
 詠介がこちらの様子を見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「休暇を取ったんだ。兄貴と果穂が……その、破談になったって聞いて」
 彼の言葉に、果穂は何と言っていいか分からず曖昧に頷く。
 詠介とは高校の同級生で、男同士のようなさっぱりした関係だった。いつも互いに遠慮のない物言いをするのに、今日はさすがに気を遣われているのを感じる。昔から変わらないままの美しい所作で「ごめん」と頭を下げられて、果穂は慌てた。
「詠介が謝ることじゃないよ」
「謝るに決まってるだろ、こんなこと。結納当日に逃げ出すなんてありえない」
「結婚式当日じゃなかったから、まあセーフだよね」
「完全にアウトだ。もっと怒っていいのに、お人よし」
 こちらは明るい口調を心がけているのに、彼はいっそう表情を曇らせる。智之の実弟である詠介は、自分のことのように責任を感じているらしい。
 呆れたように言いながらも、その眼差しには果穂への気遣いが溢れている。言いたいことはポンポン言うが、やさしい男なのだ。
「いつまで日本にいる予定?」
 詠介のスーツケースはコンパクトなサイズだ。おそらくほんの数日の休暇なのだろう。果穂がそう思ったとおり、彼は少し考えて「あさってまでかな」と答えた。
「電話で母親に泣かれて、さすがに知らん顔できないしな……ちょっとこれから実家に戻って、両親と話してくるよ」
「そう……」
 あの結納の日以来、志乃屋はずっと休業している。
 智之がいなくなって、志乃屋の打撃は大きいはずだ。跡取り不在になってしまったことも、藤倉グループからの支援がなくなったことも。
 智之に似て、やさしいがどこか頼りない印象の当主夫妻の顔を思い出す。おそらく彼らだけでは現状を打破できず、しっかり者の次男と今後の相談をしたくて、彼を日本に呼び戻したのだろう。
 少し疲れた表情の詠介に、果穂の胸も痛む。
「ごめんね。志乃屋のこと、心配だよね」
 案の定、藤倉グループ会長である祖母は、智之が出奔したと聞いて激怒した。
 双方の発展と友好のためにと自分が決めた縁談をぶち壊されて、祖母はたいそう腹を立てている。一旦白紙ということになった志乃屋への支援だが、このまま立ち消えになる可能性が高いはずだ。そのことはすでに志築家にも伝わっているだろう。
「詠介のご両親とうちとのあいだでどういう話になってるのか、私は聞かされていないんだけど……でもたぶん祖母は辛辣な言い方をしたと思う。本当にごめん」
「それこそ果穂が謝ることじゃない。悪いのはうちの馬鹿兄貴だ。藤倉の会長がお怒りになるのも当然だよ」
 詠介は重いため息をついた。
 彼は今、グアムのホテルで働いている。長男である兄に実家を任せ、海外で着実にキャリアを積んでいた詠介。遠く離れた日本でこんなトラブルが起こるなんて……それも生真面目な兄が引き金を引くなんて、全然考えていなかったはずだ。
 ふと詠介が腕時計を見る。その仕草に、果穂もようやく現実に戻った。
「悪い、仕事中だったな」
「うん。詠介もご両親待ってるんでしょ?」
「日中は忙しいんだけど、夜は時間あるんだ。果穂は? よかったら、今日か明日の夜にでも二人でゆっくり飲めないか?」
「……いい、けど」
 思いがけない誘いに動揺して、目が泳ぐ。
 ──二人で、ゆっくり。そんなこと、初めて言われた。
 たぶん、今後の志乃屋のことを相談したいとか、そういう話だ。それは分かっていても、いまだに想いを引きずっている初恋の相手からの誘いに、ついドキドキしてしまう。
「じゃあ、あとで連絡する。楽しみにしてるから」
 果穂の胸の内など知るはずもなく、彼は爽やかな笑みを見せて去っていく。
 久しぶりの再会は、いくつもの言葉を交わしたあとでもなお現実味がない。果穂はまだ少しぼんやりしたまま、背の高い後ろ姿を見送った。

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