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かりそめ婚のはずが、年上旦那様の溺愛が止まりません

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書籍紹介

君が可愛すぎるのがいけない

祖父の遺言で年の離れた老舗呉服店の社長・羽瀬と結婚した藍。
ずっと惹かれていた人との新婚生活は心が弾む。
夜になると落ち着いたクールな雰囲気は一変、何度も求めてくる。
「こんな姿を僕以外の誰にも見せてはだめだ」
貪るような口づけ。
たぎった剛直で突き上げられれば、彼も私を好きなのだと思い知らされているようで。
大人の執着愛で蕩ける、幸せすぎる年の差婚!

ジャンル:
現代
キャラ属性:
社長・セレブ
シチュエーション:
年の差 | 新婚 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

羽瀬由貴(はせよしき)

呉服専門店の代表取締役社長。長身で陰のある美形。年の離れた藍を大切に思っている。40歳代。

住吉藍(すみよしあい)

祖父は手描きの友禅職人。祖父亡き後、18歳の時に羽瀬と結婚。彼に出会ってから、ずっと惹かれ続けている。

立ち読み

 藍が六歳で初めて連れてこられた時から、吾朗の家は美しい色彩が溢れていた。
 濃く鮮やかな唐紅、夜明けの空を映す東雲色、萌え出た草木の若葉色。
 小さな丸皿に落とし込まれたいくつもの色は、白生地の上で美しい文様に変わっていく。優雅に広がる扇面松、雪と紅梅を組み合わせた雪待ち梅。匂い立つような白蘭と水仙。
 手描き友禅職人の祖父は、幼い藍にはまるで魔法使いのようだった。何もない無の世界を、気づけば春の桜の園に、秋の流水に流れる紅葉に変えている。
「お祖父ちゃん、藍も大きくなったら、お祖父ちゃんみたいな魔法使いになれる?」
「ははっ、魔法使いとは恐れ入ったな」
 目をきらきらと輝かせる孫を見下ろし、祖父──住吉吾朗は楽しそうに笑った。
「でも無理だ。この仕事は女がするもんじゃねぇ。目は悪くなるし、背中もこんな風に丸まっちまう。可愛い藍が嫁に行けなくなったら、俺は死んでも死にきれねぇからな」
「藍ちゃん。師匠は昔堅気の江戸っ子だから、女が友禅師をやることに反対なんだよ」
「師匠の夢は、藍の花嫁衣装を染めることなんだから、絶対叶えてやらねぇとな」
 吾朗の工房に通いで来る、弟子二人が口々に言った。二十代半ばで男前の虎島貢、その弟分で、中学を卒業したばかりの高橋匠真。
 吾朗が仕事以外何もできない人だったから、中学に上がるまでの間、藍の身の回りの世話は全てこの二人がやってくれた。コンビニの唐揚げが詰まった遠足の弁当も、染めたての生地と一緒に洗われた体操服も、全ては幸福な思い出だ。
 六歳まで施設で育ち、それ以前の記憶が曖昧な藍には、家族の思い出が殆どない。魔法使いの祖父と、本人曰く無駄にイケメンの虎島、乱暴だけど優しい匠真は、そんな藍にすれば、生まれて初めてできた家族だった。さすがに独身の虎島を「お父さん」とは呼べなかったが、匠真のことは「お兄ちゃん」と呼んでいたから、藍の同級生はずっと二人が本当の兄弟だと信じていたくらいだ。
 春夏秋冬、毎日飽きることなく吾朗の仕事を見て育った藍は、やがて染料の残りを使い、見よう見まねで絵を描くようになった。
 柘榴、芭蕉、酸漿に早蕨。まだ見たことのない四季折々の植物を、資料を基に絵にするのは楽しかった。絵の腕前はみるみる上達し、様々な絵画コンクールで入賞するようになると、吾朗も渋々藍が工房の仕事を手伝うのを許してくれるようになった。──が、それは「遊びで絵をやるのはいいが、仕事にするのは絶対だめだ」という頑固な条件付きの許可だった。
 その日も藍は庭に出て、昨夜吾朗が描いていた絵柄を思い出しては、筆を走らせていた。
 十六歳の夏休み。吾朗の家に引き取られて、十年の歳月が過ぎていた。
「それは桃?」
 背後からいきなり声をかけられ、びっくりして振り返るとその人が立っていた。
 その時、ミンミンゼミがうるさく鳴いていたことまで、藍はよく覚えている。
「でも桃にしては随分と小さいね。スモモかな?」
 優しい声音の、背の高い男の人だった。鉄紺のスーツに利休鼠のネクタイ。ポケットには差し色のポケットチーフがのぞき、手首にはスーツに合わせた時計がきらめいている。
「……、い、いえ、違います。柘榴です」
「柘榴?」
 藍はその人を見つめながら、ぎこちなく頷いた。
 年は、虎島と同じくらいだろうか。目元は涼しげで、気品のある顔立ちは、京人形のように繊細で冷んやりとしている。もしかして役者さんかな──と、ふと思った。吾朗にはひいきにしてくれる歌舞伎役者がいて、たまに工房に挨拶に来ることもあったからだ。
 けれど、それまで見たどんな人気役者より、その人の雰囲気や佇まいは美しく見えた。
「もしかして、想像で描いてるの?」
 不思議そうな目で周囲を見回し、再びその目を藍に戻してから男は微笑んだ。
「この庭には、桃も柘榴もないようだよ」
 不意に現実に引き戻された藍は、はっと頬を赤らめた。今、二人が立つ庭は、染料缶やバケツで足の踏み場もない。柘榴どころか何年も手入れしていない庭木や草がボウボウに生い茂っている。
 藍が描いていたのは、枝に実った柘榴の実だが、桃色とも見紛う淡い紅色で色づけをしていたので、一見して桃の実に見えるのも仕方なかった。
「いえ、あの……これは春の柄なので」
「春の柄?」
「えと……着物の文様のことです。柘榴は縁起物なんです。鬼子母神の由来になっているように実の中に種をたくさん持っていて、中国では子孫繁栄の印だといわれているんですよ。それで、おめでたい時に着る着物の柄によく使われているんです」
「……ん?」
 口元に微笑を浮かべたまま、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で瞬きをする男の人が不意におかしくなって、藍は思わず笑っていた。
 その人も緊張が解けたように笑い、優しい目で藍を見下ろした。
「もしかして、吾朗さんのお孫さん?」
「そうです。祖父に何かご用ですか?」
「うん。ちょっと仕事の依頼にね。──そうか、吾朗さんのお孫さんか。道理で絵が上手なわけだ。名前は?」
「藍です。藍染めの藍」
 不思議な動悸を覚えながら、藍は微笑む男の人を見上げた。吾朗の仕事を手伝っていると、大人の男の人と多く出会うが、こんな風に、どこかふわふわした落ち着かない気分になったのは初めてだ。
「じゃあ藍ちゃん、邪魔をして悪かった。吾朗さんと少しお話ししたいんだ。僕はハセといいます」
「はせ……?」
「鳥の羽に、瀬戸内の瀬。父が、以前吾朗さんのお世話になっていてね。名前を言えば分かってもらえると思うんだが」
 初見の客の依頼は絶対に受けない吾朗だが、意外なことに「羽瀬」の名前を言っただけで、何かを思い出したように白い眉を上げ「二階に上げてやれ」と藍に命じた。漢字をわざわざ告げるまでもなかった。
 しかし、それから三十分も過ぎた頃、いきなり二階から吾朗の怒鳴り声が聞こえてきた。
「いいか、二度と俺の前に顔を出すな、二度とうちの敷居をまたぐんじゃねぇぞ!」
 作業をしていた虎島と匠真がびっくりして二階に上がろうとしていたところへ、「匠真、客が帰るから塩を撒いとけ!」とさらに激しい声がした。
 何が起きたのか分からない藍は棒立ちになっていたが、そこに、涼しげな目をした羽瀬が階段を降りてきた。
 塩を掴んだ匠真に睨まれても、羽瀬は動じることなく二階を見上げて一礼した。
「吾朗さん、また来ます」
「うるせぇ!」
「今日のところは失礼します。話を聞いてくださってありがとうございました」
「二度とくんな! てめぇの親父にもよく言っとけ!」
 二階に向かって頭を下げると、羽瀬は傍らに立っている藍に優しく微笑みかけた。
「お邪魔したね」
 藍は急いで彼を追いかけ、玄関で頭を下げた。こんなに優しそうな人が、一体何を言って吾朗を怒らせたのだろう。吾朗は確かに気短だが、ここまで声を荒らげることは珍しい。
 吾朗を訪ねてきた男が何者で、その日二階で何が話し合われていたのかは、後日匠真や虎島の口から藍の耳にも入ってきた。
「師匠を訪ねてきたあのキザ男な、『墨河』って大きな呉服屋のおえらいさんらしい」
 墨河の名前なら藍でも知っている。都内に複数の店を持つ、日本で一番大きな呉服店だ。
「あんの野郎、うちの師匠に墨河との専属契約を持ちかけてきやがったんだ。師匠には挿し友禅だけやらせて、後は全部他の職人にやらせるんだとさ。ふざけんなってんだ」
 それで吾朗が怒ったのも納得できた。ひとつの手描き友禅が完成するまでには、デザイン、下絵、防染のための糊置、挿し友禅と呼ばれる彩色など、約十五からなる複雑な工程があるが、若い頃から各地で修業を積んできた吾朗は、それらを全部一人でやっている。
 友禅には、分業が基本の京友禅と、一人の職人が殆どの工程をこなす江戸友禅という棲み分けがあるものの、吾朗はそれら二つを取り入れた独創的な友禅を作ることで知られていた。当然、ひとつの着物にかける時間は莫大で、大量生産など望みようもない。
 つまるところ羽瀬は、染匠──いわば着物制作のプロデューサーとして、墨河が手がける分業作業の一角に、吾朗をスカウトしに来たのだろう。
「しかしあの野郎、どんだけ面の皮が厚いんだ。師匠にあんだけ怒鳴られても、しれっとした顔で邪魔したね、だとよ。ったく胸くそ悪いったらありゃしねぇ」
 などと匠真は息巻いていたし、藍ももう二度と羽瀬は来ないだろうと思っていたが、その予想は見事に外れた。
 以来、月に一度、羽瀬は工房を訪ねてくるようになったのである。
「こんにちは。羽瀬です」
 羽根のように軽くて優しい、語尾に甘い余韻を残す声。羽瀬の声が玄関から聞こえただけで、藍はいつも筆を落とし、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
「師匠はてめぇの顔なんて見たくねぇんだとよ。さっさと帰れ!」
 来れば、虎島か匠真に門前払いをされるのに、羽瀬は必ず四季折々の手土産を持参し、玄関前で一時間余り待ってから帰っていく。そんな状態が半年も続いた頃、ようやく吾朗も根負けしたのか、羽瀬を工房に上げるようになった。
 ただし、「仕事が終わるまでそこで待ってろ」と冷たく言い放ち、何時間も待たせた挙げ句手ぶらで帰らせることもしばしばで、藍はそんな吾朗の仕打ちに腹を立てたが、羽瀬がそれで機嫌を悪くするということは一度もなかった。
「普段退屈な事務仕事ばかりだから、ここにいる時間はちょっとした息抜きなんだ」
 そんな風に言ってくれる羽瀬と藍は、彼が吾朗を待つ間、自然と話をするようになった。
 最初はちょっとした雑談程度──それが少しずつ長くなり、学校や工房のことを話している内に、気づけば羽瀬は、藍にとって一番話がしやすい人になっていた。
 藍が十六で羽瀬が三十六。二十も年上の羽瀬が聞き上手だったせいもあるが、友達にも吾朗にも話さないようなことまで、いつしか藍は、夢中になって羽瀬に話していた。
 昔見た一番綺麗な色のこと、着物の文様や、日本の伝統色の話。羽瀬はいつも楽しそうに相づちを打ち、遮ることなく最後まで聞いてくれる。
 そして藍の話が尽きた時は、旅先で見た美しい景色や町並みの話を、優しい語り口で話してくれるのだった。コバルト色の海に浮かぶサムイ島、ピンクの睡蓮が咲き乱れるタレー・ブア・デーン。藍は、彼がその目で見た全ての場所に行きたいと思った。
「羽瀬さんって、いつもそんなに海外に行かれているんですか?」
「去年まで僕は商社に勤めていてね。仕事で海外のあちこちを回ったよ」
 湯飲みを持ち上げる羽瀬の手の甲には、同級生の男子には見られない太い筋が浮いている。その手に藍が見とれていることにも気づかずに、羽瀬は優しい──けれどどこか遠くを見るような涼しい目になって微笑んだ。
「藍ちゃんも、いつか世界中を旅してみるといい。絵をやるなら、きっといい勉強になるはずだ」
 その旅は、羽瀬さんと一緒だったらどんなにか楽しいだろうと藍は思った。
 もちろん現実にはあり得ないことは分かっている。どれだけ親しくなっても羽瀬は友達ではないし、恋人でもないからだ。吾朗との商談がどうなっているのかは知らないが、仕事が終われば、二度と会うことのない人である。
「やぁ、今日は向日葵かい? 綺麗な色に仕上がっているね」
 その日も羽瀬は、作業場にいた藍の隣に腰を下ろし、屈託なく声をかけてくれた。秋の初め、羽瀬が工房に来るようになって一年が過ぎ、藍は十七歳になっていた。
 その年の夏、ついに一回限りの約束で吾朗は羽瀬のオーダーを受けることになり、その頃の羽瀬は、ごく普通に作業場に入って、吾朗や虎島らと雑談をする間柄になっていた。
「すごい、羽瀬さん、よく分かりましたね」
 藍は驚いて目を見張った。丁度向日葵色と呼ばれる、やや赤みがかった黄色を作っているところだった。とはいえ小皿で混ぜ合わせた色はまだ濁りを帯びた黄土色で、それを見ただけで、ぴたりと羽瀬が言い当てたことに驚いたのだ。
 しかし藍がそう言うと、羽瀬は切れ長の目元にからかうような笑いをにじませた。
「だってそこに向日葵が描いてあるからね」
「あっ」
 試験布の切れ端にこっそりと描いていた向日葵を慌てて隠す前に、隣で黙々と筆を動かしていた吾朗の不機嫌そうな声がした。
「藍、お前、ここじゃ絵は描かねぇって約束だろう」
「ちょっとだよ。色を確かめたくて、ちょっと描いてただけだから」
 藍は急いで言い訳した。この工房で藍が手伝えるのは、下絵前の白生地の仮仕立てや、糊置と呼ばれる下絵の防染作業、後は染料の溶解と、作った色が仕上がりのイメージに合うかどうかを見る色合わせの工程だけに限られている。
 藍が生地に絵を描くのを、未だ吾朗は頑ななまでに許そうとしないのだ。
「もったいないですよ。こんなに絵が上手なのに」
 羽瀬が、たまりかねたように口を挟んだ。吾朗が、藍が絵を描くことを嫌うのはいつものことだが、羽瀬がそれに異を唱えてくれたのは初めてだった。
「今は女性が職人になっても、少しもおかしくない時代ですよ。せっかく才能があるんだ。本格的に手描き友禅を勉強させて、跡継ぎにしたらどうですか」
「おい、余計なことを言うと、今度こそ本当に叩き出すぞ」
 すごみを帯びた三白眼で羽瀬を睨むと、吾朗は再び布に筆を走らせ始めた。
「おめぇみたいな金持ちには分からねぇだろうがよ。そんなに簡単な仕事じゃねぇのよ。才能があったって食っていけるわけでもねぇ」
 吾朗の隣で、筆を洗っていた虎島がそうだとばかりに頷いている。
「こんな因果な……なんの得にもならねぇ仕事を藍にやらせてたまるかい。俺はな、藍だけはいい大学に行かせて、いいとこに嫁に出すって決めてんだ」
 羽瀬は何か物言いたげな目で藍を見たが、言葉をのむように微笑んだ。
「じゃ、いっそのこと呉服屋に嫁に行かせるのはどうですか」
「呉服屋だァ? まさか自分のことを言ってんじゃねぇだろうな」
「そうしたいところですが、さすがに僕は年を取りすぎているので」
 羽瀬は笑って、藍が握り締めていた試験布をそっと取り上げてから、卓上に広げた。
 そこには大輪の向日葵が鮮やかな黄色一色で描かれている。
「絵も上手いし審美眼もある。なにより藍ちゃんの年で、着物の文様や色を全部そらで覚えているのはすごいですよ。きっと、いい呉服屋の女将になるんじゃないかな」
 黄色い花弁を指で辿る羽瀬の隣で、藍は奇妙に緊張したまま、うつむいていた。
 頭の中には、「さすがに僕は年を取りすぎているので」と軽い口調で言った羽瀬の言葉がこだまのように響いている。
 もちろん羽瀬のような年の人と自分が結婚するなんて──結婚する以前に恋愛関係になるなんて、想像してもいなかった。でも、年を取りすぎていることだけが理由なら? 私があと十も二十も年上だったら? 羽瀬さんがその分だけ若かったら?
 そんなことを考えただけで、何故だか胸がほのかに熱くなる。その火照りは夜になっても翌日になっても、一週間経っても消えず、ようやく藍は、自分が二十歳も年上の人に恋をしていることに気がついた。
 初恋──。しかしそれを自覚したところで、それまで恋愛に興味も関心もなかった藍には、何をしていいか分からない。しかも相手は間違いなく、藍をそういう目で見ていない。
 悶々と悩んでいる間に一ヶ月が過ぎ、いつものように羽瀬が工房を訪れた土曜日、今にも雨が降り出しそうな日暮れ時のことだった。
「あれ、これ羽瀬さんの忘れ物じゃねぇか?」
 匠真が座敷で拾い上げたのは、格子模様の入った藍色のハンカチだった。丁度、その羽瀬の湯飲みを下げようとしていた藍は、ドキッとして手を止める。
「なんか高そうなハンカチだし、今出てったばっかだから、返してきましょうか」
「ほっとけほっとけ、たかがハンカチだ。来月また来た時に返しゃいいだろ」
 ぶっきらぼうに吾朗がそう答えた時には、藍は盆を置いて立ち上がっていた。
「おっ、お兄ちゃん、それ、私が返してきてもいい?」
 藍のただならぬ剣幕に、匠真だけでなく、虎島も吾朗も驚いたように瞬きをしている。
「か、買い物する用事があるからついでに行ってくるだけ。貸して、お兄ちゃん」
 頬を赤らめて、匠真の手からハンカチを奪い取った藍は、サンダルをつっかけて外に飛び出した。今日、どこか精彩のなかった羽瀬が気がかりだったのもあるが、恋を自覚した以上、少しでも行動しなければと思い立ったのだ。
 よく考えれば、羽瀬が独身かどうかも藍は知らない。羽瀬は月に一度しか現れないし、吾朗との仕事が終われば、二度と会えないかもしれないのだ。
 羽瀬の姿はすぐに見つかった。工房から少し離れた国道沿い、彼は立ち止まってスマートフォンに視線を落としている。ほっとした藍が、駆け寄って「羽瀬さん──」と声を上げようとした時だった。
「そんなことは言われなくても分かってる。そうだ、悪いのは何もかも僕だよ」
 耳に飛び込んできた険しい声に、藍は驚いて足を止めた。
 羽瀬は藍に背を向けたまま、耳に当てたスマートフォンに向かって声を荒らげている。
「君は、僕が辛くなかったとでも思っているのか。あの時傷つかなかったとでも? いや、いいよ。もう考えたくない。あの頃のことは二度と思い出したくないんだ」
 その時、国道をトラックが轟音を立てて通り過ぎて、羽瀬と藍を暗い影で覆い尽くした。
 はっと気づいた時には、羽瀬はもう数メートル先を歩いている。
 通話を切った端末をポケットに滑らせている背中は、なんともいえず哀しげで、藍は胸がいっぱいになった。
 追いかけたくても足は動かず、言葉をかけたくても声が出ない。羽瀬がそれを望んでいないことが、何を言われなくても分かったからだ。
 羽瀬の先には黒塗りのセダンが停まっていて、運転席から男が飛び出してくる。
「お急ぎください。もう会議は始まっております」
 車に乗り込む際に見えた羽瀬の横顔は、氷のように冷たく見えた。
 車が走り去り、薄暗くなった空にやがて小雨が降り出し始める。自分が濡れていることも気づかずに、藍はその場に立ち尽くしていた。
 彼の憤りも悲しみも、理由は推測することすらできなかったが。ひとつだけはっきり分かったことがある。
 羽瀬には、藍の想像の及ばない人生があり、そこに藍が立ち入ることは決してできないということだ。彼は大人で、その目に映る世界は藍が見ているものと全く違う──。
 その日以来、羽瀬が工房を訪ねてくることはなくなった。
「羽瀬さん、墨河を辞めたんだってさ」
「こないだ墨河の社長が死んだろ。どうやら羽瀬さん、その社長の息子だったらしい。名前が違うから妾腹か隠し子だろうが、そりゃあ、あの若さで専務をやってるわけだ」
「要は、親の七光りがなくなったから会社を追い出されたんだろ? かっこつけてたわりにはだっせぇな」
 羽瀬の突然の退社には色々な憶測が飛び交っていたようだが、少なくとも藍との縁は完全に切れた。彼のハンカチは仕事のついでに墨河に届けられ、初恋の記憶は、春になれば解けていく雪のように、少しずつ藍の中から薄れていった。
 というより、羽瀬から一切の連絡がなくなったことは、言葉より雄弁に藍が失恋したことを意味していた。だから、無理にでも羽瀬のことを忘れようとしていたのだ。
 けれどその翌年、藍が十八歳になった夏の盛り、人生の変転は突然にやってきた。吾朗が仕事中に倒れ、救急搬送されたのだ。
 翌日、呼び出された藍と吾朗に言い渡されたのは余命宣告だった。
 末期の肺癌──藍は頭の中が真っ白になったが、どこか予期するものがあったのか、吾朗は顔色ひとつ変えずにあっけらかんとしていた。
「なにをやっても無駄なら、家に帰って仕事をするさ。そんな辛気くせぇ顔をすんな。俺がお前より早く死ぬのは自然の摂理ってもんだろうが」
 帰宅した吾朗は、実際余命宣告を受けているとは思えないほど元気だったが、精力的に仕事に挑む傍ら、徐々に終わりに向けた準備も進めていたようだった。
「藍ちゃん、俺たち、よその工房に移ることになったんだ。師匠が、これからは仕事を縮小していくって……俺たちもすごく残念なんだけど」
 虎島と匠真が、揃って工房を去って行ったのは秋の初めのことである。吾朗は彼らに病名を打ち明けず、藍もまたそんな吾朗に従って、普段と変わらない態度で接していたから、二人は最後まで吾朗が楽隠居するものだと信じきっていた。
 そうしてすっかり冷え込みの厳しくなった師走の夜、吾朗は再び倒れて病院に運ばれた。救急車の中で、吾朗はまだ毅然としており「明日はめでてぇ正月だ。虎や匠の字には絶対に知らせんじゃねぇぞ」と、すごみを帯びた目で藍に命じるくらいの気力があった。
 医師に告げられた余命は半年、まだ二ヶ月の猶予がある。どこかでまだ大丈夫だと楽観していた藍だったが、治療どころか身体を酷使して仕事を続けていた吾朗の病状は、医師の予想を遙かに超えて進行していた。
 入院の翌日には自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器につながれた吾朗は、もはや意識もなく眠り続けるだけの人になった。ICUに入って三日目の朝、医師から親しい人を呼んでくださいと告げられた藍は、まだ現実が受け入れられないままに、吾朗の願いを聞き遂げる形で、自分一人で祖父を看取ることに決めた。
 その日の夕方、吾朗と最期の別れを交わすために医師が睡眠剤の投与を停めた時──それは同時に死への秒読みが始まる残酷な儀式なのだが──藍の背後でいきなりバタバタと足音がして、思わぬ人が現れた。
「藍ちゃん、大丈夫か」
 羽瀬だった。彼が工房に姿を見せなくなってから、およそ一年ぶりになる。
 その時まで、藍は半ば夢の中にいるような心持ちだったのだが、ぼんやりと立つ藍の肩を両手で抱くと、羽瀬は沈痛な面持ちで頭を垂れた。
「遅くなって悪かった。知らなかったとはいえ、ずっと一人で心細い思いをさせたね」
 羽瀬の顔も言葉も、薄いもやがかかったように、藍には明瞭に聞き取れなかった。
 なんで羽瀬さんがここにいて、どうして今謝っているんだろう。そんな人ごとのような感情しか湧いてこない。
「突然申し訳ない。僕は住吉さんの知人で、彼女の面倒を見ているものです」
 藍をそっと押しやると、羽瀬は困惑している看護師や医師に向き直った。すると看護師の一人が、あっと小さな声を上げる。
「もしかして、羽瀬さん? 羽瀬由貴さんですか?」
 羽瀬が頷くと、看護師は心底ほっとしたような顔になった。
「私が患者さんに頼まれて電報を打ったんです。もう来られないかと思ってました」
 藍はぼんやりとその会話を聞いていた。つまり羽瀬を呼んだのは吾朗なのだ。でも何故だろう。羽瀬とはもうすっかり疎遠になって、この一年は連絡さえなかったのに──
「住吉さん、そろそろお祖父様が目を覚まされますよ」
 現実が、いきなり思考の中に割り込んできて、藍は頭が真っ白のままで固まった。
 その背を、羽瀬がそっと抱いて促してくれる。
「行こう、藍ちゃん」
 医師らが見守るベッドの上では、吾朗がうつろな目で瞬きを繰り返していた。
「どこだ、……どこだ」
 呂律の回らない呟きが、乾いた唇から風のように漏れている。
 一瞬、激しい感情に突き上げられた藍は、何度も唾をのんでくずおれそうな自分を励ました。泣いている場合じゃない。これが、祖父との今生の別れになるのだ。
「……お祖父ちゃん、藍だよ。お祖父ちゃん、今までありがとう。ありがとうね」
 その声が耳に入ったのか、吾朗の濁った目にようやく生気のようなものが宿る。それでもどこかぼんやりしたままの目は、しかし、何故か隣の羽瀬に移った途端、烈火のような光を宿した。
「あんた、約束したのに今まで一体何をしていたんだ!」
 羽瀬はびっくりしたように固まっている。そんな羽瀬の手を、吾朗は病人とは思えないほどの力で掴むと、熱に浮かされた人のように繰り返した。
「約束したな? 俺とあんたは約束した。あんたが藍を嫁にもらってくれるんだ。そうだろう?」
 藍は、驚きで声も出なかった。もちろん羽瀬と吾朗がそんな約束をしているはずがない。そもそもこの一年、羽瀬とはずっと音信不通だったのだ。
「お祖父ちゃん、羽瀬さんが困っているよ」
 藍はたまりかねて口を挟んだが、吾朗は鬼気迫る表情で、戸惑う羽瀬を引き寄せた。
「約束したよな。俺がいなくなったら藍をもらってくれるんだよな? 藍は俺以外家族がいないんだ。頼んだぞ、俺はあんたを見込んでいたんだ。藍はあんたに任せたからな」
 藍は吾朗の誤解を解こうとしたが、そうする前に羽瀬がそっと手をかざした。
 最初驚いていた彼の横顔は、すっかり落ち着きを取り戻している。
「吾朗さん、大丈夫ですよ。藍ちゃんのことは、僕が責任を持って引き受けます」
「本当だな。嘘じゃねぇな。嘘だったら承知しねぇぞ」
 もしかして祖父は、羽瀬がいつだったか、藍を呉服屋の嫁にやったらどうかと言った時のことを思い出しているのではないだろうか。羽瀬が冗談交じりに、「そうしたいところですが、さすがに僕は年を取りすぎているので」と、言った日のことを。
 きっと数日間意識がなかったことで、夢と現実が頭の中で混同しているに違いない。
 病に倒れてからというもの、ずっと藍の将来を心配し続けていた吾朗の心情が、不意に切なく込み上げてきて、藍はまつげを震わせた。この人がいなくなったら、この世でたった一人になってしまうという現実が胸を苦しく締めつける。
「お祖父ちゃん……死なないで」
 一度も漏らしたことのない弱音が口をついた時、堪えきれずに零れた涙が頬を濡らした。
「死なないで、あ、藍を一人にしないで」
 堰を切ったように溢れた嗚咽で言葉が何も出なくなる。そんな藍の肩をそっと抱くと、羽瀬は吾朗の耳元に唇を寄せた。
「安心してください。僕が必ず彼女を幸せにします。だから何も心配しないで、ゆっくり休んでください」
「うん……うん……ありがとな……ありがとな……羽瀬さん……」
 吾朗のしわがれた瞼からうっすらと涙がにじみ出し、乾いてひびわれた唇が、刹那、安心したように微笑んだ。
 それが、藍と吾朗の永遠の別れとなった。

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