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久住さんは愛する手段を選ばない 策士な社長の独占欲

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書籍紹介

どうしてもきみじゃなきゃ駄目なんだ

通勤時に会う美貌の男性が気になっていた萌々香。偶然入居が決まったシェアハウスに彼、直己の姿が!? 眠れない時は膝枕してくれたり、萌々香との距離を徐々に確実に縮めてくる直己。「ゆっくり俺のものにするつもりだから」熱っぽく囁かれて、心臓は爆発寸前! 激しいキスと愛撫で快感に酔いしれて。どんどん彼のペースで夢中にさせられている気がするけど……!?

ジャンル:
現代
キャラ属性:
社長・セレブ
シチュエーション:
玉の輿・身分差 | 甘々・溺愛 | お風呂・温泉
登場人物紹介

久住直己(くずみなおき)

カウントレス9の代表取締役社長。シェアハウス事業に乗り出すためにテストケースを企画し、自身も参加。黒髪の美青年。なぜか、萌々香に急接近してきて……。

小町萌々香(こまちももか)

会社勤めをしていたが、ネイリストに転向。電車でたまに見かける男性が気になっていた。シェアハウスに期間限定で住むことが決まった。メンバーの中に思わぬ男性を見つけ!?

立ち読み

 会社を定時で上がり、十九時からスクールに通って、帰路につくのはたいてい二十一時半だ。
 始発駅でもある京王線新宿駅で、小町萌々香はたいてい電車を二本見送る。
 会社帰りの人々であふれるホームは、地下にあるせいか人いきれのせいか、いつもなんとなくべたつくような湿り気を肌に感じた。
 ──ラウンドを均一に見せるには、実際に均一の形を作るのではなく、それぞれの爪の横幅に合わせてバランスよく角度をつけるのが大事……
 電車を待つ間、今日の講義で書き込みをしたテキストを読む。萌々香は、今年の春に新卒で就職し、同時に美容系専門学校でネイリストの夜間コースを受講していた。
 ジェルネイルに憧れを抱いたのは、中学生のころ。
 クラスメイトで学級委員だった田代さんの家に遊びにいったとき、彼女の大学生になる姉がネイルポリッシュとはあきらかに違う印象的な爪をしていたのを見たのがきっかけだ。田代さんに聞いたところ、それはUVライトで硬化するジェルネイルだと教えてくれた。
 ぷっくりと膨らんだ感じの表面と、爪の根元に透明なネイルストーンを並べたデザイン、シャーベットカラーの愛らしい指先を今でも鮮明に覚えている。
 もちろん、当時中学生だった萌々香がネイルサロンに行くことはできなかったけれど、その日以来、ネットの記事や動画でジェルネイルのデザインを見るのが趣味になった。
 高校二年の春、進路希望を決める段階になって萌々香は初めて両親に「ネイリストになりたい」と思いをぶつけた。自分にとっては、とても自然なことだったけれど両親はあまり良い顔をしなかった。
 それというのも萌々香は父が五十、母が四十を過ぎて生まれたひとり娘で、高校二年のときにはすでに父は七十近くなっていた。世代が違うからわかってもらえなかったのではない。父母は萌々香の将来を心配して、なるべく安定した職業に就くことを願っていた。
 それを肌で感じた萌々香は、専門学校への進学を諦めた。ネイリストになることを諦めたのではない。両親に心配をかけてまで、今すぐに進路を絞る必要はないと考えたのだ。
 実家のある八王子から通える私立大学を第一志望に、ネイルはもうしばらく趣味の範囲におさめておくことにした。
 ──きっと、両親のことだけが理由じゃなかった。
 自分のことだから、自分がいちばんわかっている。
 高校のクラスメイトでも、派手で目立つ女子はこっそりネイルアートを楽しんでいたが、萌々香はそういう格好が似合うほうではない。
 控えめに言って、地味で素朴な顔立ちだ。
 小学校低学年から印象の変わらない童顔に、目尻の下がった黒目がちな目。頬が少し赤かったこともあり、小さいころは両親から「我が家のりんごちゃん」「りんごほっぺちゃん」と呼ばれていた。
 そんな、少々鈍臭い印象の自分がおしゃれで大人なイメージのネイリストになりたいだなんて、誰かに言ったら笑われるのではないかと思う気持ちがあった。
 諸々の理由により、高校卒業後は第一志望の大学に入学し、週二回のアルバイトでお金を貯め、卒業すると貿易会社の経理部に勤務した。
 父七十四歳、母六十三歳、萌々香二十二歳。
 大学時代に貯めたアルバイト代で、ネイリストの資格をとるために専門学校の夜間コースに通うと言った萌々香に、両親はもう反対しなかった。それどころか、資格をとるのは良いことだと応援してくれた。不景気が続き、女性でも手に職を持つことが推奨される時代だと、両親もわかっていたのだろう。
 大学生活四年間で学んだのは、専攻科目だけではない。
 自分に似合うメイクや洋服、フェミニンな服装にフィットするネイルデザインや、体型に合うヒールの高さ。中学高校では制服で均一化されていた分、世界が鮮やかに変わるのを感じた。幼いころはりんごちゃんと呼ばれた頬も、いつしか母譲りの色白できめ細かい肌に変わっている。目立つスタイリッシュな女性にはなれないかもしれないけれど、萌々香は萌々香なりにブラッシュアップを重ね、社会人になった。
 ──とはいえ、今日の服装でこのネイルは少し派手すぎるかな。
 十月にしては暖かい一日を終えて、京王線のホームでテキストを持つ手をじっと見つめる。
 オフホワイトのニットとベージュのミディスカート、その上に薄手のコクーンコートとベーシックカラーでまとめたシンプルないでたちに、ボルドーやネイビーブルー、ターコイズカラーを用いた秋色のネイルは少々強すぎる。スクールでは、学生同士で互いの爪を用いて実習を行うため、ときとして帰り道で華やかすぎるネイルが気になる日もある。
 今日は、強めの色を用いた上にゴールドのフィルムを転写し、金箔風のデザインが施されているのでなおさらだ。
 週に二回、火曜と金曜にスクールへ通っている。金曜は週末の間に自宅でオフをすればいいのだが、火曜は遅い帰宅のあとにオフとケアまで終えて眠らなければいけない。職場でのネイルは自由だが、それはあくまで薄いピンクやベージュに限った話だ。一年目の新人が、あまりに華美なネイルで出勤するのが好ましくないことくらい、萌々香だってわかっている。だから、火曜日は帰宅したらすぐにオフをするのだ。
 ──好きで勉強してることだけど、ときどきはやっぱり疲れたなって思う。
 あくびが出そうになり、テキストで口元を隠した。
 先発の準特急が発車し、ホームの混雑がわずかに緩和される。帰宅のための電車を待つ人々は、列ごと無言で一歩横へ移動する。テキストから顔を上げ、知らない人の中に見慣れた顔を見つけた。
 ──あ、今日もいる。
 決まった時間の電車に乗っていると、そのうち同じ車両に乗る人の顔を覚えるようになる。朝の満員電車ではよくあることだが、帰りの電車では毎日必ず乗り合わせる相手というのは少ない。
 火曜と金曜に同じ電車に乗って調布駅で降りていく男性がいると気づいたのは、二カ月前だった。仕事の終わる時間が、この時間なのだろうか。
 その人は、萌々香と同じように先発電車を見送り、次の電車に乗る。すらりと長身で、美しい顔立ちの男性だ。
 年齢は、萌々香より少し上に見える。二十五歳か、あるいはもっと若いかもしれない。
 くっきりとした二重まぶたに猫のような印象の目、薄く色香を感じさせる涙袋と形良い唇。細身の体軀で横顔と喉のラインが芸術的に美しい。
 あまりに印象的な男性だったからこそ、同じ電車に乗っていることを覚えたのかもしれない。彼のほかにも、毎週乗り合わせている人はいておかしくない。
 毛先を少しあそばせたシンプルかつ抜け感のある黒髪を今日も見かけて、萌々香はテキストに目を落とす。あまりジロジロ見ては失礼だ。
 それから数分。
 ホームに発車案内のアナウンスが流れ、二台目の先発列車が動き出す。
 ふと目を上げると、彼も偶然こちらを見ていた。
「っ……」
 無意識にその人の姿を探してしまうクセを見咎められたような気がして、萌々香は慌ててうつむく。
 ──すみません、すみません! 決してヘンな目で見ていたわけじゃなくて、見知った顔がいるとつい見てしまうだけなんです。だって、すごくキレイな男の人で、どうしても目がいってしまうというか……!
 もう一度、おそるおそるテキストから目を上げると、彼の後頭部が見えた。
 火曜日の夜、どこからともなく地下のホームに涼しい風が吹く。やわらかそうな黒髪が、風にそよりと揺れていた。

・‥…━…‥・‥…━…‥・

 あれから一年と八カ月。
 萌々香は、信じられない光景を前に目を瞠る。
「久住直己です。直己は、己の欲望に真っ直ぐと書きます」
 無上の爽やかな笑顔で、その人は名乗った。
「自分から欠点を明かすような男は信用しないほうがいい。たとえばこいつのように、常に笑顔のくせに目が笑っていない男はなおさらだ」
「妹尾さん、初対面の女性の前で俺を貶めるのはやめてくださいね」
「ほら見ろ。わかるだろう? 初対面の女性の前で貶められたくないというのは、これからきみを騙す可能性があるということだ。この顔と声と代表取締役社長という肩書があれば、たいていの女性をたぶらかすのはたやすい。このくらい、小学生にだってわかる。なんなら犬にも猫にもわかる話だ。きみはこれから、この男と一年間一緒に暮らしてご両親に心配されないと言えるのか? 何事もなく、きれいな心と体のままでシェアハウスをあとにできる自信があるか?」
 答えに詰まって、萌々香は口を二度三度と開閉した。けれど言葉は出ない。
 妹尾の言うような状況にはならないと思うのだが、それ以前にツッコみどころが多すぎる。どこから返事をしたらいいのかわからなかった。
「小町さんを困らせないでよ、妹尾さん」
 直己がそう言って、小さく肩をすくめる。
「困らせているのは俺か? そもそも小町だなんてたいそうな名前に困っていてもおかしくない」
 ポンポンと続く会話のキャッチボールに、萌々香は圧倒されていた。
「あ、あのっ、今日からどうぞよろしくお願いしますっ!」
 かろうじて挨拶を口にし、オジギソウよろしく頭を下げる。
 ──だいじょうぶかな、わたし。これから、ここで暮らしていけるかな……

 5SLDKの豪華な一軒家で、物語は始まる。
 この先に何があるのか、当然ながら萌々香はまったく知らなかった。
 神さまだって、きっと知らない。
 それはある意味当たり前で、ごく普通で、そのくせまったくありふれてなどいない、特別な一年間の幕開けだ。







 ネイリストには、国家資格がない。
 たとえばネイルサロンを開業する場合でも、なんら資格を有せずに店をオープンできるし、お客さまに施術を行うことができる。ちなみに国家資格はないが、民間の資格はいくつか存在している。
 小町萌々香は大手ネイルサロングループである『splendeur』が運営する専門学校で、夜間コースに二年間通ってネイリストを含むいくつかのビューティー関連の資格をとってから、晴れてネイリストとして勤務する道を選んだ。
 資格取得には、萌々香の迷いとコンプレックスがかすかに関係している。
 まず、自分はあまり華やかなタイプではない──言葉を濁さずに言うと童顔で地味な顔立ちのため、東京生まれ東京育ちと言うと周囲から「えっ、ほんとに?」と必ず言われてしまう容貌も影響している。年配の方からは好印象を抱かれることが多いが、同年代から見ると少々田舎臭いのだろう。
 同時に、押しに弱く自分の意見を強く打ち出すことができないのも関係しているし、一歩を踏み出すまで長考する性格も大きな一因だった。
 準備を整えるまで、憧れのネイリストとして働くのは無理。
 そういう気持ちがあったからこそ、複数の資格を取得してからやっと門戸を開く勇気が湧いた。
 萌々香は何かを決断するのに時間がかかる。
 そもそもネイリストになりたいと強く思ったのは高校生のころ。十六歳から二十四歳まで、一度は両親のゆるやかな反対もあったにしろ、生涯の職業としてネイリストを考えつづけた。
 万全を期して『splendeur』の採用試験に合格し、この春に勤めていた会社を辞めた。社会人三年目を迎える前に転職の機会を得たのである。
 大学一年になって、アルバイトで貯めたお金で初めてネイルサロンに行った。あのときの、言葉にできない高揚感を今でも忘れられない。初めて担当してくれたネイリストが、とてもステキな女性だったことも憧れの一端になったと思う。
『ネイル、初めてなんですね。今日は、小町さんにとって最高の思い出になるよう、一緒にデザインから選んでいきましょう』
 そう言ってくれたネイリストのようになりたい。
 誰かの特別な日に、誰かの日常に、そっと寄り添える仕事だ。
 長く煮詰めた気持ちは、そう簡単にくじけない。熟考の末、長期的な努力を継続する。これは萌々香の長所だった。
 資格をとって入社しても、最初は掃除や雑務がメインでお客さまに接する業務ができるわけではない。同期で入社した十九歳の子は勤務開始から二週間で出勤しなくなった。
「別に珍しいことじゃないから。ネイリストは見た目ほど派手な仕事じゃない。理想と現実の差にがっかりして辞める子は少なくないの」
 店長にそう言われて、萌々香は「なるほど」と心の中でつぶやいた。
 そういう人もいるのだろう。自分は、別に派手な仕事に就きたかったわけではない。萌々香としてはそんな気持ちだったのだが、店長は微笑んでぽんと肩に手を置いてきた。
「小町さんは、表情豊かなほうじゃないけど感情が顔によく出るね」
「え、そうですか?」
「うん。今、自分には無関係だなって思ったでしょう?」
 目尻の上がった、一切の手抜きを許さないメイク。仕事の面では厳しいところもあるが、店長を指名で予約してくる客は多い。何より、自分の下で働いているネイリストたちに閉店後も実技指導をしてくれる、仕事熱心な上司である。
 新人の萌々香は、サロンが営業終了する二十時以降に店長に練習を見てもらうことが多かった。多いというのは語弊があって、週五日勤務のうち四日は二十二時まで練習のために店に残る。一カ月で言えばおよそ十五日以上、その後片付けをして帰宅するころには日付をまたぐのも珍しくない。
 東京都八王子市の実家から、配属された有楽町店までは徒歩を含むドアトゥドアで片道一時間四〇分から四五分。
 働き始めて二カ月が過ぎたとき、萌々香はひとり暮らしを考えるようになった。
 六月、雨のせいか疲労が抜けにくくなり、睡眠時間が足りず風邪が治らない日々を送る中で、仕事を続けるためにもまずは職場に近い場所を生活拠点とする必要性を強く感じたのだ。
 だが、有楽町近辺に理想の部屋を借りるのはあまりにハードルが高い。単純に家賃だけで萌々香の一カ月分のお給料がほぼなくなってしまう。築年数が古い物件や、駅から離れた物件も見てみたけれど、今度は防犯の面で不安が残る。
 両親を心配させるのも気が乗らず、かといってせっかくネイリストとして勤務を始めたからにはこの仕事を続けていきたい。
 萌々香は、休憩時間に不動産屋を巡って頭を悩ませる日々が続いていた。

 六月も半ばを過ぎ、職場から徒歩で行ける不動産屋はすべて見終え、あとはどう折り合いをつけるべきかと考えていたときのことである。
 萌々香のお昼休憩は、基本十四時から十五時。その日の予約状況によって多少変動することはあるが、およそその時間に昼食に出ることになっている。
 ──やっぱり、ちょっと古いけど月七万のアパートかな。
 築四十九年、リフォームはしていると言っていたが、写真で見る限り玄関ドアの鍵は昔ながらのもののようだった。防犯面においてはかなり不安が残る。オートロックは無理でも、せめてディンプルキーのドアが望ましい。
 けれど、背に腹は代えられない。
 予算内で選べる物件は限られているのだから、そこから選ぶか片道一時間四〇分に耐えるかだ。
 ふう、と短いため息をついて昼食から戻り、サロンのある通りへと角を曲がる。
 Splendeur有楽町店は、駅から五分ほど歩いた場所にある。splendeurとは、フランス語で『輝き』を意味するそうだ。その名のとおり、サロンは白を基調としたガラス張りの光あふれる空間がデザインされている。
 白木枠にガラス張りのエントランスは、萌々香が毎日出勤すると最初に掃除する場所だ。
「えー、何それ、シェアハウス?」
「らしいよ。無料ってやばくない?」
 女性のふたり組が、手にした紙を覗き込んで歩いていくのとすれ違った。
 ──なんだろう。なんだか、いつもと違う。
 歩道を歩いていると、見慣れた道だというのに違和感を覚える。いつもより人通りが多いのだ。
「こんにちは、カウントレス9です」
「カンナイです。シェアハウス事業始めます。第一期テストケースの住民を募集しています」
 サロンの手前で、白いサンバイザーと白いポロシャツを着用した何かのスタッフふたりがチラシを配っている。片方は男性で、片方は女性。ポロシャツの背中には、ビリヤードの九番ボールを模したロゴマークが入っていた。
 ──あ、カウントレス9ってカンナイのことだ。
 ネット広告やTVCMなど、多岐にわたってその企業──カウントレス9、通称カンナイの名前は知れ渡っている。人材マッチングアプリのカンナイといえば、子どもから大人まで国内のどこかで目にしたことがあるほどの有名な会社だ。
「よろしくお願いします。カウントレス9で、シェアハウス始めます。第一期テストケースの住民は、一年間家賃無料で都心の一軒家に住めます」
 道行く人が、興味津々の表情でチラシを受け取って歩いていく。管轄の警察署で許可さえ取っていれば街頭でのチラシ配りは可能だ。
 ──でも、サロンの目の前でチラシ配りは……店長が嫌がりそう。
 非日常のゆったりした時間を過ごしてもらい、特別なネイルで気持ちよくお店をあとにしてもらう。
 それが、店長の理想とする有楽町店のコンセプトである。チラシ配りの騒々しさは、来店されるお客さまにとって喧騒になりうる。
 そんなことを考えながら、萌々香はなるべくチラシ配りのスタッフから距離をとってサロンへ戻ろうとした。
 すると、
「家賃無料のテストケースです。よろしくお願いします」
 目の前に、白い腕がすっと伸びてきて、一枚のチラシを差し出される。
「あ、あの……」
 結構です、と断るつもりだった。
 ほんとうは、シェアハウスに興味がある。一年間家賃無料という声も聞こえてきていた。今の萌々香にとって、それがどれほど魅力的かなんて考えるまでもない。
 月七万円の家賃だって、生活費を切り詰めなければ厳しい状況だ。それが0円になったら、どんなにラクなことだろう。
 ──ううん。タダより高いものはないってお父さんが言ってた。
「どうぞ、よろしければあとでご覧になってください」
 明るい女性の声に断りの言葉を口にできなくなり、萌々香は「あ、はい」と結局チラシを受け取ることになった。
 逃げるように急ぎ足でサロンへ戻ると、手にしたチラシを折りたたんでバッグにしまう。
 店内には、いつものモーツァルトが静かに流れていた。梅雨の合間、やけに陽射しの強い日だろうと、エントランスから一歩サロンに足を踏み入れれば、非日常が必然的に感じられる。エアコンの冷風だけではなく、この空間は肌をすうっと冷たくする。それは緊張感とリラクゼーションの織り交ぜられた不思議な感覚だ。
「おかえりなさい、小町さん」
「今もどりました。店長、外が騒がしくありませんでしたか?」
 施術中のお客さまの邪魔にならないよう、ふたりは小さな声で会話をする。
「外?」
 何も気づかなかったというふうに、店長がかすかに首を傾げた。
 サロンは、入ってすぐにパーティションがあり、歩道から中を覗けないようになっている。そのおかげで、喧騒も店内には聞こえていなかったのだろうか。
「今、カンナイのシェアハウスか何かのチラシ配りをしていて……」
「チラシ配り? 困るわね。これからご来店されるお客さまの邪魔にならないかしら」
 言うが早いか、店長は白木枠のドアを開けて外を確認する。そしてくるりと振り返ると、萌々香を心配そうな目で見つめてきた。
 ──え? その表情はどういう意味?
 困惑して店長を見つめ返すと、
「誰もいないわよ」
 信じられない言葉が聞こえてくる。
「えっ!?」
 驚きと同時に、萌々香は店長に次いでドアから外に顔を出した。
 そこには、いつもの有楽町の午後の風景が広がっている。見慣れた向かいのビル、まばらに歩くビジネスマン、湿り気を帯びた六月の風が頬を撫で、まるで狐につままれるように先ほど見た白いサンバイザーのスタッフたちは姿を消していた。
 ──いつもより人通りが多かったのに、その人たちもいない……?
「小町さん、疲れているんじゃない? 今日は早めに上がっていいわよ」
「あの、でも」
「最近根を詰めていたものね。午後は予約も少ないから、十八時上がりで。わかった?」
 腑に落ちないまま、それでもうなずくよりほかはない。
 ──だけど、ほんとうにいたはずなのに。チラシだって、ここにある。
 バッグの中を確認すると、間違いなく受け取ったチラシが折りたたまれて存在していた。
 いったい何が起こったのだろう。
「そうそう、それと小町さんがんばっているから、来週からオフ作業を任せるわ。爪の形を整えるところまでやってもらうけれど、仕上げる前に一度ほかのスタッフにチェックしてもらうこと。いいわね?」
「! はい、がんばります」
 白昼夢のような出来事よりも、お客さまの施術に関われるようになったことが嬉しくて、萌々香は先ほどの不思議な現象をすっかり忘れていた。
「ひとり立ちまで、そう遠くないわよ。しっかりやっていきましょう」
「よろしくお願いします」
 頭を下げた萌々香の横を、店長が通り過ぎていく。
 彼女の通ったあとには、ネロリの大人っぽい香りが残された。

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