百戦錬磨の大人男子は初心な彼女を全力で愛したい

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- 本販売日:
- 2021/10/04
- 電子書籍販売日:
- 2021/10/04
- ISBN:
- 978-4-8296-8462-7
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わからせてやる。どれだけ俺が、お前を好きか
「教えて欲しいんだろ? 男の悦ばせ方を」そう言いながら菜江を抱く、ホストクラブオーナーのトウヤ。言葉と裏腹に愛撫は優しく、身体の奥まで熱く拓かれ、快感で頭が真っ白に――。初めてなのに甘く感じてしまうのは、彼を好きになったから? 両親を喪い兄も失踪、借金のカタに引き取られた身だけれど、惹かれる気持ちは止められなくて。ディープでエロスな年の差恋愛!

楠透谷(くすのきとうこく)
元ホストで、現在はいくつもの店舗を経営するオーナー。かつての源氏名はトウヤ。借金の回収のため、菜江を預かることにするが……。

琴ノ緒菜絵(ことのおなえ)
真面目でしっかりものの二十歳。兄とふたり暮らしをしながら借金の返済をする看護学生だったが、ある日突然兄が失踪してしまい……!?
今も忘れない。
『菜江は、養子には出しません。俺が、責任を持って面倒を見ます』
そう言って、兄が頭を下げてくれた日のことを。
伯父と伯母は大反対したけれど、兄は頑として譲らなかった。
妹の大学までの学費はなんとかして捻出する。こうなったのは自分の責任だから、手助けもいらない、と。
あのとき──。
(わたし、どうして言えなかったのかな)
夢なんて叶えなくていい、高校にも大学にも行かずにわたしも一緒に働く、って。
亡くなった両親の期待に応えたかったから? 兄が背中を押してくれたから? それとも、わたし自身、どうしても叶えたい夢だったから?
即答できないわたしは、きっと、遅かれ早かれ壁にぶつかっていただろう。
もし、なんの困難もなく、命の現場に立っていたとしたら。
「琴ノ緒菜江ってのは、お嬢ちゃんの名前で間違いねえな?」
ずいと迫った黒いサングラスの表面に、わたしの顔が小さく映り込む。推定三センチほどの大きさ。でも、わかる。焦点があやふやで、表情が凍りついていること。
何故、こんなことになったのだった?
ああ、そうだ。
兄が逃げたから。彼らに返済するはずの借金を、放り出して。
「は、はい」
「そんなに緊張しなさんなって。取って食おうってわけでなし」
あははと、ふたりの男は愉快そうに笑い合う。
横隔膜に響く笑い声も恐ろしくて、わたしは震えながら頭を下げた。
「兄が……ち、千晃がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
今月の借金返済日は、昨日。
今日になっても、わたしは彼らに渡す現金を用意できていない。
擦り切れた畳すれすれに顔を伏せたら、い草とはちがう使い込んだ木の匂いがした。
五年前、中古で購入したちゃぶ台の匂いだ。食事も、勉強も、ぜんぶここでした。
「謝られてもなあ」
すぐ右に、スキンヘッドの男がしゃがみ込む。
「謝罪ひとつで事が済むなら、俺らとあんたらの縁はとっくに切れてんだよ」
真横から覗く、いやらしい瞳。何を言いたいのかわからない、にやついた口。こんなふうに小馬鹿にしたような態度で迫られるのは、初めてじゃない。
あれは、わたしが中学生のとき。
父と母が揃って交通事故で亡くなって、半年くらいあとのこと。
高利貸しである彼らを自宅に引き入れて、ごめん、と兄は詫びた。
『知り合いに騙されて、家と父さん母さんの遺産、全部すっちゃったんだ。さらに借金八十万、これから返していかなきゃならない。本当にごめん、菜江』
瞬間、気を失うかと思った。
兄は優しいけれど、優しいばかりで、考えが甘くて、すぐに騙される。
けれど、わたしのことは手放さないでいてくれたから。養子を望む伯父に、きっぱり断ってくれたから、きっとうまくやっていけると信じていた。
「……無理は、承知の上です。でも、本当に現金は小銭しか手もとにないんです。お願いします。どうか明後日まで、返済を待っていただけませんか」
兄が忽然と姿を消したのは、先週。わたしの誕生日だった。
一緒にケーキを食べる予定だったのに、兄は勤務先から戻らなかった。
心配になって勤め先であるホストクラブに問い合わせると、仕事を終えて店を出たところまではいつも通りだった、という。
最初は、何かあったのだと思った。事故に遭って救急搬送されたとか、事件に巻き込まれて身動きがとれなくなっているとか。
しかしお店のスタッフさんは続けて、苛立った口調で言った。
逃げたくもなるだろうよ、と。なにしろ兄はその日、指名客の売り掛け金……つまり「ツケ」を回収できず、借金を背負うことになったらしいのだ。
その額、五百万円──。
「返済期限は昨日だ。今日まで待ってやったってのに、このうえ、さらに待てと?」
つやのあるスキンヘッドの男が、苛立ったように顔をひきつらせる。
「俺らが期待してんのは、そんな返答じゃねえんだよ」
「も、申し訳ありません! でも明後日になれば、バイト代が入るんです。今月、返済する予定になっていた五万円、そこからお渡しできますから」
縋るようにしてお願いしたが、サングラスの男に一笑された。
「五万だと? 返済額は十万って約束だ。半年前にあんたの兄貴がホストクラブに転職したとき、返済額を倍にしてほしいって言いにきたじゃねえか」
「……じゅ、十万円……?」
そんな話、聞いていない。
でも、数か月前に転職してから、兄はやけに忙しくしていた。その割に生活が楽にならないなとは思っていたのだ。まさか、返済額を倍にしていたなんて。
わたしのバイト代は、ひと月にせいぜい五万とすこし。
貯金をかき集めたって、十万円なんてとても払えない。
(そんな)
愕然とするわたしの前に、サングラスの男は一枚の紙を差し出す。
そこにはまごうことなき兄の直筆で『毎月十万円、耳を揃えてお返しします。返せない場合、妹に連帯責任を負わせます』と記されていた。
「うそ……」
「これを書いたとき、あんたの兄貴は自信満々でな。本当に妹にまで累が及ぶ日が来るとは、思わなかったんだろうな。ま、安心しろよ。あんたも、兄貴に似て綺麗な顔立ちをしてる。しかも二十歳で素人となりゃ、夜職でそこそこ稼げる。完済まであっという間だ、あっという間」
「夜職って、なんですか」
「ん? 風俗だよ、風俗。キャバクラでホステスやるより、確実に儲かるぜ」
つまり彼らは、体を売れと言っているのだ。冗談じゃない。
「む……無理です!」
好きでもない人と、なんて想像すらしたくなかった。
そもそもわたしは小学生の頃から勉強ばかりしてきて、初恋も未経験。
「無理でも、あんたはやるしかねえんだよ」
男の手が、わたしの二の腕を掴む。強引に、立ち上がらせる。
「や……っ」
その手を振り払ったら、肘が背後のカラーボックスにぶつかってしまった。
ばさばさっと畳に落ちたのは『基礎看護技術』──看護学校のテキスト。
卒業まであと一年。もっともっと勉強して、国家試験を受けて、無事に合格した暁には、夢だった看護師になれると信じていた。
生前、わたしの両親は、ふたりそろって医師だった。
父は外科医、母は小児科医。忙しく、自宅にはあまりいなかったけれど、患者さんのために己を捧げる強い背中を尊敬していた。
いつか菜江も同じ病院で働こう、と言ってくれたのは父。
期待しているわ、とは母の言葉。
その期待に応えることが、わたしにできる唯一の親孝行だと思っていた。
「あんまり抵抗しねえほうがいいぞ。その綺麗な顔に傷をつけたくなかったらな」
伸びてきた腕が、ふたたびわたしを捕らえようとする。
「嫌!」
無我夢中で体を捻り、駆け出した。
台所わきの玄関から外に出て、助けを呼ぶつもりだった。古いアパートだけれど、住人はほかにもいる。誰か、かくまってくれる人がいるかもしれない。
しかし「おっと」と、サングラスの男に行く手を阻まれる。
「行くなら借金二百万、耳を揃えて返してからにしな」
わたしはゆるゆると、逃げの態勢をやめた。だって。
「二百万……? 借入金は、八十万円だったはずです」
「利息を含めて、あんたの兄貴の借金は現在二百万になってるんだよ」
「そんな、ありえませんっ。だって、もう何年も、返済し続けてきたのに」
「わかってて借りたんだろ。うちが闇金だって。いや、うちくらいしか貸付けてやれなかった、んだったか」
そんな馬鹿な。
あんなに返済したのに、借金額が倍以上になってしまっているなんて。
(ああでも、それで、なのかもしれない)
兄がホストクラブに転職したのも、月々の返済額を倍にしたのも。
利息で膨れ上がる返済額を見て、これ以上増えないよう、ペースを上げて完済するつもりだったのだろう。
「一括で二百万、返せるのかよ? え?」
「……っ」
「できねえなら、その身で稼ぐしかねえだろうが。それともなんだ? 兄貴をここに引っ張ってきて、腎臓でも売らせるか?」
とんでもない。
これ以上、兄に迷惑はかけられない。
というのも、兄が最初に借金を作ったのは、わたしのためだった。
わたしは医師になりたかった。医学部は六年制で、学費も高額だ。卒業後もすぐに稼げるわけじゃないし、日々の生活や両親の遺した家の維持費も必要だった。
それで兄は、父と母の遺産だけでは心許ないと考えたのだろう。
知り合いにそそのかされ、慣れない商売に手を出し、失敗した。
借金を作ったのは兄でも、返済する義務がわたしにないとは思わない。
(でも、知らない男性に体を売るなんて……考えただけで、ぞっとする)
そのときだった。
がちゃりと、玄関のドアノブを捻る音がする。
もしかして──兄。期待してそちらに視線をやったわたしは、低い桟を煩わしそうにくぐる三揃いのスーツ姿の男を見た。
「二百万と言ったか」
かすかに掠れた低い声が、室内に響く。
(誰……?)
年齢は、三十代後半から四十代半ばといったところ。
赤茶けた風合いの癖っ毛に、強い意志の表れのような凜々しい眉、そして垂れ目がちで色気たっぷりの目尻。無意識のうちに、息を呑む。
こんなにセクシーな荒々しさを持つ人、今まで見たことがない。
「その女から手を引け」
男は言った。低く、轟く声で。
サングラスの男が、眉をひそめて振り返る。
「なんだ? てめえ」
「ただで、とは言わない。いくらか色をつけてやる。……北野」
呼ばれてやってきたのは、刈り上げ頭の男だった。
先に押し入っていたやくざ者ふたりが、小さく見えるほど体格がいい。
眼光鋭く室内を見回した彼は、茶封筒をちゃぶ台に投げる。ばさっと音を立てて、中から見たこともない量の一万円札がこぼれ出る。
「す、すげえ!」
借金取りの男たちは、目を輝かせて飛びついた。
「借金額は二百万だったな? 余剰分は、おまえたちの手間賃にすればいい。引き換えに、借用書と千晃の妹は置いていけ。いいな?」
「へ、へえっ。もちろんです! おい、枚数数えろっ」
サングラスの男が叫ぶと、スキンヘッドの男が万札を焦った様子で数え始める。
茫然としていたわたしは、ややあってハッとして、スーツの男に視線を移した。
(この人、兄の名前を知っていた。しかも、わたしが妹だとわかっている。もしかして、伯父が寄越した人……? でも、伯父は兄がいなくなったことを知らないはず)
疑問符ばかりが増えていく中、借金取りは札束を数え終えたらしい。借用書を置くと、あっさり部屋から去っていった。
あとに残されたのは、土足で踏み荒らされた部屋。それから刈り上げ頭の男性と、わたし、そして色気たっぷりのスーツ姿の男性。
「あの、ありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいか……。その、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」
わたしが歩み寄ると、頭ふたつ上から焦げ茶の瞳がこちらを見下ろした。
「千晃から俺の話は聞いていないか」
「……兄から、ですか? いえ、すみません」
兄の知り合いらしい。名前を知らないなんて、失礼だったかもしれない。
恐縮するわたしの前で、男は右手をひらりと動かす。そこに刈り上げ頭の大男が、すかさずといったふうに小さな紙を渡した。
差し出されたのは、名刺だった。一行目には『クラブ ヴァンサンク オーナー兼取締役社長』と記されている。
ヴァンサンク、は兄の勤め先のホストクラブだ。
「オーナー……」
さあっと血の気が引く。ひれ伏すように、頭を下げる。
「兄がご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした! お詫びに行かなければと思っていたのですが、兄がいなくなってから、さっきの人たちにずっとつきまとわれていて、自由に動けなくて……っ」
「詫びなくていい。千晃が逃亡して、一番困ってるのはおまえさんだろう。二十八にもなって、まったく何をやってるんだろうな、あいつは」
初めて受けた同情的な言葉に、思わず目頭が熱くなる。
よかった、いい人だ。さっきの高利貸しの男たちとは全然ちがう。わたしはホッと胸を撫で下ろしたけれど、
「それに、俺は慈善事業でここにやってきたわけじゃない」
そう付け足されて、動きを止めた。
「どういう意味ですか……?」
「千晃には五百万の貸しがある。顧客が踏み倒した売り掛け金だ。知ってるか?」
「は、はい」
先週、お店のスタッフさんから電話で聞いた例の新しい借金のことだろう。
「さっきの二百万と合わせて、合計七百万だな。今後、利子をつけておまえさんから回収させてもらう」
七百万──跳ね上がった金額に血の気が引く。二百万でも気が遠くなるのに、七百万だなんて……どうやって返済したらいいの。
利子は? また、あっという間に倍以上の金額になってしまうのでは?
青ざめていると、わたしは刈り上げ男に俵担ぎにされて心臓が止まるかと思った。
「やっ、な、何をするんですかっ」
「うちの系列にピンサロがある」
オーナーは顔色を変えずに言った。
「住み込みで働くといい。心配するな。うちは優良店だ。口と手を使って射精させるだけで、素股も本番もない」
露骨な説明に、カッと頬が熱くなる。
何が優良なの。結局は性風俗だ。これでは返済先が変わっただけで、状況は数十分前とほとんど変わらない。
放して、と叫びたかった。
借金を踏み倒すつもりはない。でも、仕事は風俗だけじゃないはずだ。今もファミレスでアルバイトをしているし、看護師になれたら、返済もスムーズにいくはず。
でも、言えなかった。
アパートの家賃は、今まで兄が支払ってくれていた。いくら奨学金が下りているとはいえ、学費以外にもお金はかかる。食費しかり、光熱費しかり。
わたしが単身アルバイトをしながら学校に通い、借金を返済するのは無理だ。
(どう足掻いても……終わっているんだわ。夢に続く道は、ここで)
脱力したまま、黒塗りの外車の後部座席へと投げ込まれる。受け身の体勢を取る気力もなかった。肺が潰れて、う、と声にならない声が押し出される。
「おい」
と、そこにオーナーの声が飛んでくる。
「丁寧に扱え」
「すんません。大事な商品でしたね」
「そうじゃない。俺は、同じ人間として扱えと言っているんだ」
庇われたのかもしれない。
意外には思ったけれど、わたしはそれ以上、深く考えなかった。目の前の出来事を追及しはじめたら、絶望が深くなるだけだとわかっていたから。
うつ伏せていた体を、シートの上でのろりと表に返す。
動き出した車の中、ぼんやりと、手の中の名刺を見る。
『クラブ ヴァンサンク オーナー兼取締役社長 楠透谷』
くすのき、とうや? それとも、とうこく?
裏には系列店の名前だろう。二号店、三号店のほかに『春』『蓬莱曲』という店名が記されているのが見えて、ああ、と思った。
「とうこくさん? 明治時代の評論家、北村透谷がお名前の由来ですか」
ぽつりと言うと、助手席の男……楠さんが「へえ」と意外そうに応えた。
「わかるのか」
「『蓬莱曲』は透谷が書いた劇詩ですよね。『春』の作者は島崎藤村ですが、作中の青木という男のモデルが透谷とか。ヴァンサンクというのも、フランス語で二十五……透谷が亡くなった年齢だったと思います」
思わずといったふうに、楠さんが振り返る。運転席と助手席の間からわたしを興味深そうに見て「文学部か」と尋ねた。
「いえ、看護学部です」
「透谷について、やけに詳しいじゃないか。さほど有名な作品を遺したわけでなし」
「……父と母を亡くして以来、娯楽というとお金のかからない図書館くらいしかなかったので。夏はクーラー、冬は暖房も利いてますし」
本当は当時、早くアルバイトをしたかった。
でも、高校生になってからでないと雇ってもらえなかったから、中学時代は暇さえあれば読書をしていた。スマートフォンも、テレビもなかったし。
物語に没頭していれば、現実を忘れていられたし。
「たしか『恋愛は人生の秘密を解く鍵である』というようなことを言った人ですよね。……ああ、それでホストクラブなんですね。透谷が神聖視していた恋愛に、金銭をからめるという風刺ですか?」
ほとんど、独り言に近い呟きだった。
けれどそれを受けて「いや」と返答がある。
「皮肉ってはいない。疑似的だからこそ、きれいなのが色恋だからな」
彼の言葉は冷めている。だいいち、答えになってないし意味がわからない。でも、なんだか、清らかな正論にも聞こえた。
(もう、どうだっていいけれど……)
しばらくの間、走行音に混じって乱暴な風音だけが車内に響いていた。
目に映る角張った景色は、進めば進むほど夜に沈んで明るさを失っていく。深く深く、潜るほどわたしの肺を押しつぶして……嗚咽させようとする。
どれだけ、そうして涙をこらえていただろう。
「気が変わった」と、楠さんは唐突に、運転席の男に言った。
「ピンサロ行きは一旦中止だ。彼女は俺が預かる」
刈り上げ男が、ぎょろっとした目を見開いて驚くのが、バックミラー越しに見えた。
「預かるんですか? トウヤさんのご自宅で、千晃の妹をですか」
「ああ。だが誤解するなよ。別に、囲ってやるつもりはない。一旦、手もとで適性を見極めるだけだ。俺の名前と店名の繋がりを見抜いたのは、彼女が初めてだ。うまく育てて、銀座の高級ラウンジでホステスをやらせるほうが伸びるかもしれない」
「ですが、もし処女なら高く売れますよ」
顔半分、振り返るようにして言われて、わたしはぶるぶるとかぶりを振った。
確かにわたしは処女だ。けれど、肯定したらいけない。処女と知れたら……その瞬間、性風俗へ行かされることが決まってしまう。
息を呑んで成り行きを見守っていると、
「これだけの上玉が処女なわけないだろ。ま、ぱっと見、尻軽ではなさそうだが」
楠さんは窓枠に肘をついて、ククッと笑う。
「それに、従業員として雇うなら、すこしでも稼ごうという気概のあるやつのほうがいい。本人がやってやろうと思える業界のほうが、儲かるもんだ」
それから「おい」と声を掛けたのは、わたしに、だ。
「おまえさん、名前は」
「え……な、菜江です。琴ノ緒菜江……」
「なえ、か。わかった。菜江、酒は飲めるか」
飲めるかどうかなんて、わからない。先週の誕生日……二十歳になった日、兄とケーキを食べながら飲む予定だったのだけれど、兄は帰ってこなかったから。
でも、飲めないと言ったら──。
やはり性風俗へ行け、という話になる?
「飲めます!」
「ならば菜江、今夜からしばらく俺の部屋に住め。俺がじきじきに、おまえさんの適性を見定めてやる。ピンサロ向きか、ラウンジ向きか、な」
「本当……ですか」
「ああ、期待している」
期待……。
その言葉に、母の顔がよぎる。期待しているわ。同時に、対向車のヘッドライトが視界を白く飛ばす。
わたしの深い部分で、何かが、コトリと動いた。

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