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恋の雨 オトナな社長と溺れる夜

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書籍紹介

君を思う存分、甘やかしたい

実家に居場所がない咲は、雨の日に出会った莉人の家で居候することに。優しく包み込むような彼の人柄に心惹かれてゆく。でも咲には親に決められた許婚がいて――。「君を抱きたい」淫らな口づけに、もっと彼が欲しくなる。熱杭を受け入れれば、ひとつになれた悦びで全身がわななく。彼のことは思い出に……切ない気持ちで家を出た咲。すると意外な場所で莉人と再会し!?

ジャンル:
現代
キャラ属性:
紳士・おじさま
シチュエーション:
年の差 | 政略結婚 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

一ノ瀬莉人(いちのせりひと)

咲が雨宿りしていたカフェのオーナー。四十路。困っていた咲を家に置いてくれた。穏やかで包み込むような雰囲気の、オトナな男性。

花野井咲(はなのいえみ)

祖母は英国人。青い目をしている。不倫を疑われ、勤めていた会社を退職。行くところもなく困っていると莉人が現れ……。

立ち読み

 ああ──先に泣かれてしまった。
 じんじんと熱を持つ左頬に雨が落ちた瞬間、花野井咲はそう思った。
 家路を急ぐ人の数だけ色とりどりの傘が咲き始め、周囲の空気がしっとりする。次第に強くなっていく雨脚の中、周囲に比べて咲だけ足取りが重いのは、壊れたパンプスのせいでも、それで転んだせいでもなかった。
(……困った)
 何もかもが面倒で億劫だ。
 だが、気づけば涙雨だと思っていた雨は本降りになり、濡れた服がまとわりついてくる。今まで考えることすら放棄してきたが、さすがにこの状況で体調を崩すのは良くない。
 咲は目の前に見えてきたカフェの軒先、それも迷惑をかけないよう隅のほうで雨宿りをすることにした。着替えだけ入ったボストンバッグを濡らさないようカフェ側に置いて座り込み、自分の身体を抱きしめるようにして蹲る。
 そこで初めて足が痛みを訴えてきた。
(……そういえば、寮を出てからずっと歩きっぱなしだ)
 身体も冷えて震えている。自分の痛みや寒さにも気づかないほど、咲はただあてもなくふらふらと歩いていたらしい。自嘲的な笑みが浮かび、抱えた膝に顔を埋める。
 もう一歩も動けなかった。
 傘をさしているせいか、目の前を通り過ぎる人たちの目に咲は入らない。それが心地いいのに、どこか寂しいのはどうしてだろう。家に帰る人たちの流れるような足音と雨音を聞きながら、咲は世界に取り残されていくような感覚に陥る。そこは誰もいない、自分だけの閉じられた世界。意識が下へ下へと落ちていくと──カチ、という金属音に、ほんの少し意識を引き止められた気がした。
 続いて何かをこするような音、シュボッという音がして、咲はほんの少し顔を上げる。
 なんの音だろう。
 不思議に思う咲の鼻先を、バニラの香りがかすめた。
 その瞬間、かつての記憶が頭をよぎる。
『──恋かー。恋ねー。そうだなあ。明日この世界が終わるとわかっていたとして、そのとき相手と一緒にいたいと思えたのなら、それは恋かもしれないね』
 それは、たまに甘い香りをまとっていた養護教諭が質問に答えてくれた際の言葉だった。
 今もまだ咲の胸に残っている言葉とともに、そのときの匂いも蘇る。
 目の前を行き交う人々が届けた香りが、記憶の中のそれと一致した。気づいたら、胸に広がった甘い気持ちに促されるようにして隣を見上げていた。
「せんせい……?」
 だが、そこにいたのは記憶の中にいた人物ではなく見知らぬ男性だった。
 艷やかな黒髪をそのままに、黒いスーツに身を包む眼鏡をかけた彼は、ゆったりとした仕草で紫煙をくゆらせている。あまりにも絵になるその姿に、思わず息を呑んだ。
 煙草を吸う彼から、なぜか目が離せない。
 形のいい唇から吐き出された紫煙が周囲に溶けていくのを眺めていると、彼の視線がゆっくりと咲に向けられる。
「あいにく、先生と呼ばれる仕事はしたことがないんだ、ごめんね」
 人違いだと伝える男の低い声に、咲はようやく自分を取り戻した。慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げる。
「すみません、人違いでした……!」
「いえいえ」
 大丈夫だと伝えるような声に安堵しつつ顔を上げると、彼は口元を緩ませていた。
 そしてどこか楽しげな様子で正面を向き、煙草を口に咥える。その流れるような仕草の美しさに、時間を忘れて見とれた。かすかに顎を上げ、美しい横顔のシルエットから吐き出された紫煙がゆっくりと立ち上っていく中、彼の形のいい唇が動く。
「そんなに似てる?」
 そう言って、彼は携帯灰皿に煙草の吸い殻を入れて咲を見た。
「さっきからずっと俺のこと見てるから、その先生って人に似てるのかなと思って」
 言われて初めて自分の行動を理解した咲は、ようやく我に返った。みるみる顔を赤くさせ、ぼんやりしている場合ではないと自分を叱咤する。
「重ね重ねすみません、失礼しました!」
「大丈夫。見られるのは慣れてるから」
 さらっと咲の心を気遣うような発言に、さっきまであった焦りが嘘のように落ち着いた。彼の低く、穏やかな声と雰囲気がそうさせるのだろうか。冷えて硬くなっていた心が、ほんの少しやわらかくなる。
 気づくと、口が勝手に動いていた。
「……煙草の香りが」
「うん?」
「先生の香りに、とてもよく似ていて……、それでつい」
「そう」
「それと」
「ん?」
「先生よりも、あなたのほうがずっとずっとかっこいいです」
 呆けたように言うと、彼は一瞬きょとんとしてから顔を綻ばせる。眼鏡越しに目尻を下げるその表情があまりにも魅力的で、咲の心臓は素直にも大きく高鳴った。
「ありがとう」
 その返答だけで、彼が外見への賛辞を言われ慣れていると瞬時に理解した。時間が止まるほど惹き込まれる外見をしているのだから、それも当然だろう。
(私とは大違い)
 彼のように特別目を引く外見ではないのだが、咲もまた外見に特徴がある。それに気づかれるたび、なぜかいたたまれなくなり、うまく反応できない自分がずっと嫌だった。今の彼みたいにすんなりと自分を受け入れて、否定せずに生きられたらどんなによかっただろう。彼の顔を見ながら、そんなことをぼんやり思う。すると。
「あれ、キミ……」
 何かに気づいた様子で声をかけられ、そこでようやく咲は彼にじっと見つめられていることに気づいた。咲は咄嗟に視線を逸らす。それも、思いきり。
 無意識のうちにやった行動が、これまでの自分の人生のように思えて胸が痛んだ。
(……私のばか)
 最初に彼を見ていたのは自分だというのに、見られているとわかったら身勝手にも彼の視線から逃げてしまった。失礼な態度をとったことをすぐに謝ろうと彼のほうへ向き直った咲だったが、突然目の前が真っ暗になる。
 それは、咲にほんの少しのぬくもりとバニラの香りを伝えてきた。
「それ羽織って待ってて」
 言われて顔を出すと、それはスーツのジャケットだった。
 借りる理由はないと返そうとするも、彼は作動しない自動ドアをこじ開けてカフェの中に入っていく。いつの間に閉店していたのか、窓はロールカーテンが降りていた。そこから「オーナー!? ちょ、どうしたんですか急に!」という驚きの声が届いて、彼がオーナーなのだと理解する。
 咲はぼんやりと手にしたジャケットを見下ろして、彼の好意に甘えていいものか悩む。
 あまり迷惑をかけたくなかったが、ジャケットを持っている手前、ここから立ち去るわけにもいかない。咲は素直に彼のジャケットを羽織ることにした。
「わ」
 すっぽりと身体が包まれるとともに、甘い香りがふわりと舞う。
 煙草の香りに混ざって他の匂いもする。その落ち着く匂いに自然と口元が緩んだ。さっきまであった、暗闇の中をひとりで歩いているような感覚はもうない。冷えた身体を包み込む大きなジャケットが、咲の心をあたためてくれた。
 もうこれだけでいい。
 正面に向き直り、咲がぼんやりとまばらになっていく人の流れを眺めていたら、視界を遮るように人が前に立った。
「お待たせ」
 ジャケットを貸してくれた彼は、そう言って煙草を吸っていたしなやかな指先を動かした。それは美しい弧を描き、自身の頬をとんとんと軽く叩く。
「ここ、大丈夫?」
 言われて自分のことだと理解した咲は、咄嗟に自分の左頬を押さえた。じんじんとした痛みと熱が手のひらに伝わり、血の気が引く。
「腫れてます!?」
「まあ……、それなりに?」
 困ったように苦笑を浮かべた彼が、固く絞られたハンドタオルを差し出してくれた。
「え?」
「どうぞ。少しでも冷やしたほうがいい」
「すみません、ありがとうございます」
 彼から受け取ったハンドタオルを広げて左頬に当てると、熱を持ったそこがひんやり冷えていく。
「……気持ちいい」
 うっかり心の声が漏れ出た咲に、男はほっとしたような表情をする。すると、彼は黙ってボストンバッグを挟んで咲の隣に立った。少し距離をあけて「気にしないで」という空気を作る。気づいたときにはジャケットを返すタイミングを逃してしまい、咲は彼が作った状況に甘えることにした。
 流れるのは、雨音に混じってときおり通り過ぎる人の足音。
 彼がただそこにいるだけだというのに、この安心感はなんなのだろう。とても居心地がいい。不思議な空気感の中、咲は自然と口を開いていた。
「さっきは、すみませんでした」
「……なんのことかな」
「顔を、逸らしました」
「ああ」
 納得したような声をあげ、男は続けた。
「気にしないよ。よくされる」
 それは、どういうことだろう。
 問いかけようと思い横を見ると、正面を向いていた彼がちらりと視線を咲に向ける。
「イケメンに見られるのが、恥ずかしいんでしょ?」
 さらりと繰り出された理由に咲が思わず目を瞠り、その反応を見た彼が一瞬「あれ」という表情をした。
「……もしかして、違う理由だった?」
 咲が素直に頷くと、彼は恥ずかしそうに口元を手で覆った。
「あー、はは。………………はっず」
 耳の先を真っ赤にした彼を見て、咲は思わず笑ってしまった。肩を震わせ、くすくすと声を抑えるようにひとしきり笑ってから、はっとして彼を見る。
「ご、ごめんなさい! 私……ッ」
「大丈夫。無反応だと痛い人になるところだったから、むしろ笑ってくれて感謝してる」
 そつのない対応だけでなく、彼の気を許すような笑顔を見ていたらどういうわけか泣きたくなった。だが、ここで泣くのは違うと思い、涙を堪えて笑みを浮かべる。
「私も、実はよく人に見られるんです」
「そうなの?」
「暗いからわかりにくいと思いますけど」
 言いながら、咲は無意識にボストンバッグを跨いで彼に近づいていた。そして見えやすいよう、ほんの少しかかとを上げる。
「目の色が、青いんです」
 彼の目がまたじっと見つめる。
 かすかに揺らめく瞳の奥にある感情は何かわからないが、咲はどこかすっきりとした気持ちでかかとを下げた。
「おばあちゃんがイギリス人で」
 この目の色は隔世遺伝だった。
 綺麗にすとんと落ちたまっすぐな黒髪に色白の肌。小さい顔。日本人形のような見た目をしているせいか昔から人目につきやすく、そこに碧い目が加わると物珍しく見られることが多かった。
 しかし、周囲が思っていたほどおもしろみがないのがわかるや否や、興味本位で近づいてきた人々は離れていき、咲は飽いて捨てられた人形のように仲間はずれになった。
 小学生のときは、学芸会でする劇の配役決めで、目が碧いからという理由で先生が咲を『お姫様』役に抜擢した。それを快く思う者はなく、だからといって先生が決めた配役を変更することもできず、咲は『ずるい』と陰口を言われながら学芸会を終えた。
 中学生のときは、放課後ひとりで日誌を書いていたら、クラスの男子が告白をしてきたことがあった。それをたまたま友だちが聞いていたらしい。
『どうして先に好きになった私じゃなくて咲ちゃんなの……? 目が綺麗な咲ちゃんは、たくさんの人に好きになってもらえるかもしれないけど、私には彼だけなのに……!』
 その友だちとは結局、疎遠になったままだ。
 高校は全寮制という同じ環境下で過ごしていたこともあって、人との関わりで苦労のない初めての時間だったかもしれない。エスカレーター式であがった大学も、気心知れた友人たちに囲まれて過ごしたおかげか、楽しいキャンパスライフを送ることができた。
 だが、心機一転して社会人になった咲を待っていたのは、厳しい現実だった。
 ふいに、今日言われた一言が浮かぶ。
『あのね、私が花野井さんの分まで怒られてあげてるんだから、頼まれた仕事ぐらいきっちりやってよね。みんなが言わないから私が言ってあげてるんだよ? ほんっと期待はずれなんだから、その目しておいて仕事できないなんて』
 仕事ができないのは自分のせいだからがんばろうと思うのだが、そこに目の色は関係ないと悲しくなった。しかし、そのたびに今は亡き祖母を思い出す。
『私はね、日本の言葉が大好きなの。咲ちゃんの名前を、花笑みって言葉からとったってお父さんから聞いたとき、とても嬉しかった。これから先、嫌なことがたくさんあるかもしれないけれど、涙の雨のあとは、咲いた花のように笑顔を忘れないで。ほら、笑う門には福来るっていうでしょ』
 記憶の中の祖母の声が蘇り、咲の口元が自然と綻んだ。
「桜が大好きな人でした。イギリスにも似たようなものはあるんですが、日本の桜が見たいがために通訳になって来日したそうです。それで祖父と出会って結婚して、日本文化に触れるたび、日本が好きになったと言っていました。運命の赤い糸に憧れる私に『運命の赤い糸なんてね、手繰り寄せて自分で縒り合わせて恋にしていくのよ』って言ったりして、かなり気概のある人でした。私はおばあちゃんが大好きだからこの目もお揃いで好きなんですけど……、少しだけ生きにくくて」
 苦笑を浮かべる咲に、黙っていた彼が静かに口を開く。
「自分と違うってだけで、奇異の目を向けてくるやつはどこにでもいる」
 優しく「気にするな」と伝えてくれる彼の言葉に実感が伴っている気がした。
 もしかしたら、彼も似たような境遇なのだろうか。
 そう思うと、また心が軽くなった。
「ああ。だから、顔を見られたくなかったのか」
「……はい。この目のせいで、あまりいい思いをしたことがなくて。だから大人になって、少しだけ髪を明るくして、ふわっとしたパーマをかけてみたんですけど……」
 苦笑を浮かべ、咲はまた正面を向く。
「それが逆に目を引いてしまったようで、変に悪目立ちしていたみたいです」
 咲は仕事をしていただけだったのだが、目のことを気づかれてからというもの、異性に話しかけられることが増えた。そのせいかどうかはわからないが、周囲の女性から密かに反感を買っていたらしい。気づいたときには、仕事以外避けられていた。
 しかも。
「今日なんて、先輩の奥さんにいきなり頬を叩かれました」
「どうしてまた」
「さあ。激昂して話どころではなかったのでわかりません。ただ私を浮気相手だと誤解していました」
 ぽつり、ぽつりと、咲はゆったりしてきた雨のように数時間前のことを話し出す。
『この泥棒猫!』
 打ち合わせがてら先輩と昼食を摂って会社に戻ってきたところ、エントランスで待ち構えていた彼の妻にいきなり頬を叩かれた。勢いよく叩かれたせいか視界が揺れ、足元がふらついた咲は、そのまま尻もちをついた。
『そのお綺麗な目でうちの旦那を誘って! あんたもあんたよ!』
 ランチから戻る時間帯だったせいかそれなりに人どおりのあるエントランスで、彼女は髪を振り乱し、夫である先輩の裏切りを喚く。その響き渡る声に誰もが足を止め、そこは『激昂した妻と、それをなだめる夫、その先には叩かれた不倫相手』という修羅場と化していた。話をしようにもできず、ただ泣き喚く妻を先輩は落ち着かせようとし、不倫を疑われた咲は先輩から『何やってる、さっさとあっちに行け!』と怒鳴られる始末。
 ふらつく咲を助ける者はなく、別室に隔離されたあとやってきた上長は話すら聞いてくれなかった。会社のエントランスでの騒ぎだ、大事になるとは思っていた。もしかしたら先輩の妻もそれを狙っていたのかもしれない。
 咲に事情を訊くこともなく、回りくどい言い方で、上長は依願退職を勧めてきた。
 目の前が、真っ暗になった。
 入社して数ヶ月だったが、咲は咲なりにがんばっていた。仕事にやりがいを感じ、それを通して信頼を得ていたと思っていた。だが、誰ひとりとして咲の話に耳を傾けてはくれなかった。
 何があったのか聞いてくれないと嘆くのは子どものすることだとわかっていたが、それ以上に今までの自分を否定された気持ちのほうが強く、本当のことを言う気力すら出なかった。咲は依願退職を受け入れ、ひとり退職願を書いて提出し、会社の寮に戻って少ない荷物をまとめた。──それが数時間前の出来事だった。
「不倫なんてしてません」
 すべてを話し終えたあと、口から出たのは絶望で言えずにいた真実。
「私は……ッ、不倫なんてしてません……ッ」
 絞り出した声が震える。
 視界が歪む。
「まだ……恋もしたことがないのに、不倫なんてできるわけないじゃないですか……ッ」
 眦から溢れ出るあたたかい涙は冷えた頬を滑り、彼のジャケットに落ちた。
 誰も耳を傾けようとしなかった事実を口にして初めて、感情が息を吹き返す。
 悔しい。言葉にできない悔しさで涙が止まらない。それでも咲は、前を見据える。立ち止まってばかりではいられないと、心が逆に熱くなった。今日が雨でよかった。目の前を通り過ぎていく人々は傘をさし、咲の涙に足を止めない。
 ただひとり、体温が届く距離にいる名も知らぬ男だけが、黙ってそこにいる。
 いつもなら重く感じる沈黙が、ときに人を甘やかすこともできるのだと初めて知った。
「寮を出てからはあてもなく歩いていたんですけど……、いやー、悪いことって重なるんですね。靴が壊れて、そのまま転んで、痛いなーって思ったら雨まで降ってきて、ほんと踏んだり蹴ったりで」
 目元の涙を手の甲で拭いながら顔を上げた咲は、隣にいる彼に向き直る。
「でも、最後の最後でいいことがありました」
 すっぽりと自分を包み込むジャケットとぬくもり、黙ってそばにいる彼がいてくれなかったら、きっと自暴自棄のまま捨て猫のようにあてもなくさまよっていただろう。彼にしてみれば、見ず知らずの人の身の上話など聞かされていい迷惑かもしれないが、咲はこの時間があったからこそ顔を上げることができた。
「優しくしてくれて、ありがとうございます」
 頬を冷やしていたハンドタオルは、咲の心同様もうすっかりあたたかい。手渡された優しさを返すような気持ちで、咲はそれを差し出した。
「あなたに出会えてよかったです。明日も、きっといいことがあると思えました」
 黙ってハンドタオルを受け取ってくれた彼が、じっと見つめてくる。その視線と妙な間に気を取られていると、形のいい唇が動いた。
「今夜は、他に行くアテでもあるの?」

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