淫欲の鳥籠

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- 本販売日:
- 2021/03/04
- ISBN:
- 978-4-8296-8442-9

あなたの愛で壊してください。
「君は僕に買われた。ずっと犯したいと思っていたよ」父の意向により投資家で著名な陶芸家の玖墨に売られた香名。「逆らわない契約だ」端整な面立ちで優しく囁かれ、彼への嫌悪感はいつしか消え去り……。巧みな愛撫で官能を引き出され、熱杭を最奥に受ければ快感に震える。身も心も溺れるけれど、忌まわしい過去が二人を阻む。出口のない淫らな鳥籠で見つけた真実愛。

玖墨匡貴(くすみまさき)
不動産投資家で、陶芸家としても著名。端麗な容姿で、実年齢より若く見える。香名の婚約者候補の一人で、彼女を陶芸のモデルにすることに。

結城香名(ゆうきかな)
20歳の大学三年生。父に逆らうことなく生きており、鳥籠の鳥のように自由がない。玖墨とアトリエで生活を共にすることになるが……。
これは私の呪いです。あなたが、ずっと私を忘れないように。
最初、迷い猫が庭で鳴いているのかと思った。
六月の終わり、その日は朝から蒸し暑かった。午後から降り始めた雨は、まるで温かなミストのように、庭を歩く香名の肌を、しっとりと優しく濡らしていく。
迷路のように入り組んだ庭では、そろそろ開花の時期を終えようとしているライラックや忍冬が、最後の命の火を放つかのように咲き誇っていた。柞灰釉、白萩釉などで着色された美しい花壇石は、父が母のために高名な陶芸家に作らせたものだ。その花壇では、鮮やかなピンク色の皐月が咲き乱れ、可憐な花弁を雨に濡れ光らせている。
生まれたての子猫のような、あえかな甘い声は、そぼ降る雨に交じり、この広い庭のどこかから聞こえてくるようだった。
「……お母様?」
不安に駆られ、香名は思わず声を上げた。
香名が物心ついた頃から病に伏していた母には、喘息やアレルギーなど多岐にわたる疾患がある。以前にも、庭に猫が迷い込んできたことがあったが、その時は父が激怒し、母についていた使用人全てが解雇されるほどの騒ぎになった。
以来この屋敷は外界とは完全に遮断され、猫どころか、娘の香名ですら、母が暮らす別棟の一角に立ち入ることが許されない。
今日、六歳になったばかりの香名が禁忌を破って母の領域に入り込んでしまったのは、半年前に母と交わした約束を覚えていたからだ。
(今日ね、温室にブーゲンビリアの樹が届いたの。お母様の一番好きな花よ。きっと来年の香名の誕生日頃には花が咲くわ。これからは毎年、香名のお誕生日にお母様と一緒に見ましょうね)
その日以来急速に具合が悪くなった母とは、この数ヶ月まともに面会することも叶わなくなった。香名はこの日、意図的に使用人の目を盗んで、母の庭園に忍び込んだのである。
「お母様……、そこにいるの?」
その時、サファイア色の羽を持つ蝶が、香名の目の前を優雅にひらめいた。ステンドグラスにも似た繊細な文様に惹かれるように、香名は蝶の後を追って歩き出した。
霧雨の中、まるで精霊の化身のように美しい蝶は、ひらひらと気まぐれに花で羽を休めながら、やがて甘い香りを放つ温室の中に消えていく。
鉄材とガラスで作られた温室は、今から二年前、父が母のために半年の期間をかけて作らせたものだ。母の名前──茉莉が、茉莉花や番茉莉、瑠璃茉莉など、温室の花を連想させるから──ただそれだけの理由で作られた温室には、世界中から集められた美しい植物が収められている。
その温室も含め、いわば四季折々で表情を変えるこの広大な庭園そのものが、父の、母に対する過剰な愛情そのものだった。その頃、すでに老齢にさしかかろうとしていた父にとって、三十歳以上年が離れた母の存在は、まさに人生に陰りが見え始めた頃に得た、唯一無二の宝物だったのだろう。
もちろんそんな風に思えるようになったのは、後年、香名が母が嫁いだのと同じ年──十六歳になった時である。今の、蝶に誘われるようにして温室に足を踏み入れた六歳の香名には、祖父のような父と少女のような母が夫婦だということに、どこか気味悪い──後ろ暗いものを漠然と感じることしかできなかった。
猫がじゃれ合うような鳴き声は、ブーゲンビリアの樹が枝を広げている一角から聞こえてくるようだった。半年前に母が言ったように、天井を覆わんばかりに広がった枝一面を、まるで桜のような鮮やかさで、濃い紫色の花がびっしりと埋め尽くしている。
その目の覚めるような美しさに思わず足を止めた時、いきなりその光景が飛び込んできた。
緩やかなカーブを描く大理石のベンチの上で、まず最初に認識できたのが、雪のように白い足を投げ出している母の姿だった。
その上に白いシャツと、チャコール色のパンツを身に着けた男が覆い被さっている。シャツは胸元まではだけ、うつむいた男の揺れる髪に、雨の雫が滴っていた。
「先生……、先生……」
切なげな、苦しげな母の声に、忘我の極みにいた香名は弾かれたように我に返った。
その刹那、母の上に重なっているのは医師で、急変した母を介抱しているのではないかとも思ったが、そうではないこともまた、本能的な部分で理解していた。
母の白い指が男の頬と頭をかき抱き、二人はもの狂おしく唇を合わせた。
その手は男の背に回り、清楚な母とは思えないほどの荒々しさで肩や腕を這い回る。気づけば男のシャツは肩から引き下ろされていた。
逞しい三角筋と上腕二頭筋が現れ、それがミストだか汗だかに濡れ光っている。
「はぁ、……はぁ」
母の喘ぐ声と、男の吐く荒い息が、静まり返った温室の中に響いている。
男が乱れた髪を片手で払って半身を起こした。その下にあって、今まで男の身体で隠されていた母は、白いブラウスの前をはだけ、下着すら着けていなかった。
白すぎる肌で色づく薔薇の蕾にも似た乳首が、雨に濡れた花弁のように艶めいている。
男の褐色の手がその乳房を掴み、壊れるほどに押し揉んだ。まるで罪人のように割り拡げられた母の足の間で、それを罰するかのように打擲し続ける腰の動きが激しくなる。
一言も発しない男の唇が動き、何かを囁いたようにも思えたが、それは香名には聞こえなかった。
「先生……っ、あ……、くすみ先生、お願い、……ああ、お願い」
切羽詰まった声を上げた母の、きつく閉じられた瞼から、ひとしずくの光が滑り落ちた。
「……私を、壊して」
目にも鮮やかな芝生が、眼前一面に広がっている。
都内郊外にある、S大学構内の弓道場。板敷きの射場から円形の的が並ぶ的場までの距離は二十八メートル。その間に広がっているのが矢道と呼ばれる中庭だ。
そこは美しい人工芝が敷き詰められ、一年中鮮やかな新緑色に輝いている。
今、射場には六人の競技者が並び、順番に、『打ち起こし』と呼ばれる動作に入っていた。構えた弓が床に対して垂直になるように意識しながら、両肩、胸の中筋の位置を考えてゆっくりと持ち上げる動作である。
ここから矢を放つ瞬間までの数秒が──意識の全てを目の前の的に向けるこの時間が、結城香名は何より好きだった。
放たれた四本目の矢は、風を切って矢道を抜け、過たず的の中央に突き刺さる。
この瞬間、S大弓道部の勝利を確信した観客席から盛大な歓声が上がった。
「さすがは結城先輩、かっこいい!」
「全部当てるなんてすごすぎ。結城先輩、試合では一度も外したことないって本当?」
「まさに見た目通りパーフェクト。あー、残念。なんで今日で引退しちゃうんだろ」
普段は厳粛な雰囲気に包まれている弓道場だが、近隣大学が集まっての練習試合とあって、公式戦とは違う和やかな雰囲気に包まれている。
香名が奥に下がって汗を拭った時、矢道の右側に設けられた観客席の後輩たちが、今日が引退試合の香名をねぎらってか、立ち上がって拍手を送ってくれた。手を振ってそれに応じようとした香名は、しかしその左の一角を占める集団を見て眉をひそめる。
──忘れてた……、今日は内覧会だったんだわ。
不快な気持ちを振り切るように控え室に戻ると、そこにいた後輩たちがわっと押し寄せてきた。
「全て命中、お見事でした! これで引退するなんてもったいなさすぎですよ」
「せめて、夏の都大会までご一緒できないですか」
普段は香名を遠巻きに見ているだけの後輩たちが、やけに熱心に話しかけてくる。
「まだ二年生なのに、どうしてこんなに早く辞められるんですか?」
「大学辞めるって噂がありますけど、嘘ですよね?」
香名が困惑しながら後ずさると、背後から「はいはい、これまで」と明るい声がした。
「そんなに一度に質問されても答えられないでしょ。積もる話は今夜の飲み会でね」
弓道部の友人で、香名にとっては幼稚園からの幼馴染み、稲垣東子である。
東子に促され、香名は多少の申し訳なさを感じながら人の輪を離れた。
「東子、私、飲み会には行けないのに」
「お父さんが許さないから? 知ってるけど、最後くらい思い切って参加してみたら?」
姉御肌気質の東子は、個人投資家である父が雇っている秘書の娘だ。香名にとっては唯一心が許せる相談相手だが、皮肉なことに、父に最も信頼されている監視役でもある。そもそも香名を監視するために、東子は父の援助を受けてこの大学に進学したのだ。
「なんなら帰りは私が送ってあげるし。それならお父さんもだめとは言わないでしょ」
「そうかもしれないけど、今日は多分無理だと思う。お客さんたちも来ているし」
手に嵌めた弓懸を外しながら言うと、東子は「ああ」と得心したように眉を上げ、今し方後にした射場に視線を向けた。
「あのギャラリーか。もしかしてこの後、あの人たちとどこかに行くの?」
香名は東子を見ないまま、諦めの気持ちを滲ませて頷いた。
ギャラリーとは、観客席の一角を占めていた場違いな集団のことである。今日の試合前から学長らによって最前席を確保され、かなり遅れて入場した一団のことだ。
ため息をついた東子が、少し気の毒そうな目になって香名を見た。
「人事みたいに言って悪いけど、大変だね。お金持ちの箱入り娘も」
「お金というより、うちは父が過保護だから」
「そこが不思議。そんな人が、どうして大切な娘を早々にお嫁に行かそうとするかな」
答えは喉元まで出ていたが、香名は黙って結んでいた髪を解いた。
香名は、生まれた時から父が作った籠の鳥だ。七歳で母を亡くしてからというもの、父の監視は病的なまでに過剰になり、学校の友人すら自由に作ることもできなくなった。どういった手法を使っているのか、携帯電話の中身も常にチェックされているようで、香名と少しでも親交を持った相手のもとには、必ず警告めいたメッセージが送りつけられる。それが嫌で、いつしか香名は東子以外の他人を自分に近づけないようになった。
今、父は、もうすぐ二十歳になる香名の花婿を熱心に探している最中だ。
香名が内心『内覧会』と呼んで嫌悪しているその儀式は、十八歳の中頃から始まった。
父によって人形のように飾り立てられ、パーティだの展覧会だの様々な場所に連れ回される。そして、頃合いのいいところで、父の選んだ複数の男性と引き合わされるのだ。
相手は三十代後半から五十代にかけての資産家ばかり。香名はその場で、彼らに存分に観察され、値踏みされる。──果たして投資する価値があるか、どうか。
その時の吐き気がするような気味悪さと、時折感じる性的な眼差しは、香名から男性に対する夢や憧れを根こそぎ奪い去っていくようだった。
「でも、いくらなんでも大学にまで見合い相手を連れてくるなんてやりすぎじゃない? まぁ、今日は香名の引退試合だから、お父さんも見ておきたかったのかもしれないけど」
東子が不審そうに言うように、今日の『内覧会』は確かに少し異質だった。いつも大人のようなメイクをさせられ、年に合わない高価な衣装を着せられるのに、今日の香名はノーメイクな上に、弓道着という簡素なスタイルだ。
それなのに今日の相手の中には、父が本命視している男が交じっているのである。
汗で濡れた髪を指で梳いた香名は、壁一面に嵌め込んである鏡の前に立った。
そこに映るのは、白い筒袖と黒袴に身を包み、まっすぐな髪を肩に垂らした自分の姿だ。
身長百六十八センチのスレンダーな体型に長い手足。雪のように白い肌と、球体関節人形を思わせる繊細な小顔。
その華奢な顔の中で、誰もが印象的だと言ってくれる大きな瞳は、何かに怯えたように自信なさげで、いかにも不安そうな、弱々しい光を湛えている。
ただその目は、弓を引く時だけは、凜とした、意思の強そうな輝きを放っているらしい。
らしいというのは、香名自身がそんな自分の姿を見たことがないからだ。
弓を引く時のことはともかく、自分が、今鏡に映る見かけ通りの、意思のない人形であることは自覚している。
生前の母を知る誰もが口を揃えて言うように、香名は、十三年前に亡くなった母親とよく似ている。しかも年を追うごとに母の面影は鮮やかに滲み出て、時々自分は、このまま母と同じ容姿になり、同じ運命を辿っていくのではないかと思ってしまうこともある。
そんな娘に向けられる父の愛情が、愛と呼ぶにはあまりに歪なものであることを、香名は幼い頃からよく知っていた。
その時扉が開いて、弓道部の顧問が慌てたように飛び込んできた。
「みんな、出て出て、今からここに大切なお客様が来るから!」
訝しがる部員らを追いやりながら、足早に駆け寄ってきた顧問が囁くように言った。
「結城さんは残って。お父さんたちが、学長と一緒にこちらに来られるそうなんだ」
香名は動顛しながらも、急いで髪を一つに結び、袴の紐を締め直した。
信じられない。今はまだ部活の時間で、今日はその部活に参加できる最後の一日だったのだ。それを、こんな形で踏みにじられてしまうなんて。
鏡に映る自分の顔が、憤りとは違う緊張で強張っている。
その理由は二つある。一つは、これからがおそらく『内覧会』の本番であること。
もう一つは、父とともにここに来るであろう一団の中に、顔も見たくない男が交じっているからである。
「お姉ちゃん!」
最初に部屋に飛び込んできたのは、父でも婿候補でもなく、予想外の人物だった。
「蒼、どうしたの?」
犬のように飛びついてきた十三歳の弟を、香名は戸惑いながら抱き留めた。
結城蒼。今年中学に上がったばかりの弟は、やはり母親譲りの人形のような顔に、人なつっこい笑顔を浮かべて、香名を見上げた。
「大学の見学がてら、お父様に連れてきてもらったんだ。お姉ちゃんかっこよかった。僕も弓道をやりたいよ!」
「蒼はだめだ。今は学問の方を大切しないとね」
そこに、掠れ気味の穏やかな声が割って入った。その声の主──父、結城義郎の姿を認め、香名は顔から笑いを消した。
短く刈った白髪と白い顎髭。身長百七十五センチの肉厚な身体を支え続けた膝は、昨年手術をするほど悪くなり、今は黒檀の杖で自身の歩行を補助している。
その杖と白髪が、父の実年齢を彷彿とさせるが、それを除けば、グレーの高級スーツに身を包む男は、とても七十歳という年齢には見えなかった。
「でも、お姉ちゃんは中学の時には……」
「お姉様だ。それに蒼と香名は違う。男と女は、そもそも生きる目的が違うからね」
不服そうな蒼の頭を撫でると、父は背後に立つS大学の学長に視線を向けた。
「蒼を頼むよ。いずれこの大学でお世話になる。しっかり見学させてやってくれ」
毎年父から多額の寄付を受けているためか、恭しく頭を下げる学長は喜色満面だ。
幼児の頃から英才教育を施されている蒼には、すでに大学受験を視野にいれた家庭教師がついている。ただ本人はあまり勉強が得意ではないらしく、中学生になった今でも、子供の頃好きだった海外アニメのキャラクターバッジを胸につけているほどに子供っぽい。なのに、朝から晩まで勉強漬けにされている姿は、見ていて胸が痛くなるほどだ。
そんな蒼が生まれたのは、父が五十七歳の時である。年を取ってからできた子は可愛いと口癖のように言う父だが、今、蒼を送り出す眼差しには一切の感情がこもっていない。
というより香名は、この人の駱駝か鯱のような不気味な目が、本当の意味で笑っているところを今まで一度も見たことがない。
その蒼と入れ替わるようにして、弓道部の顧問に案内された五人の婿候補が次々と控え室に入ってきた。
とはいえ、父の本命は先頭の男一人で、残る四人はその射幸心を煽る当て馬にすぎない。
「香名、皆さんの前で弓を引いてみるんだ」
さきほどとは打って変わった冷淡な口調で父が言った。
「え……、今からですか」
「東郷さんが、ぜひとも近くで見たいと言っておられる」
本命の男の名を上げると、父は微かな笑いを薄い唇に浮かべた。
「今日改めて気がついたが、その弓道着は、お前を普段の何倍も美しく見せている。弓を引く姿を、皆さんに存分にお見せして差し上げなさい」
弓道では、弓を引く時、甲矢と乙矢と呼ばれる二本をワンセットで使う。
甲矢を引く時には必ず乙矢を左手に持ち、『射法八節』と呼ばれる八つの基本動作を経てまず甲矢を、再び基本動作を繰り返してから乙矢を射るのだ。
静まり返った弓道場。その二本ともに的中させた直後、背後から力強い拍手が鳴った。
「お見事! 遠目から見てもなかなかだったが、近くで見るといっそう素晴らしい!」
弓立てに弓を置いた香名は、強張った微笑を顔に貼りつけたままで立ち上がった。
手を叩いているのは東郷尚人。数多に引き合わされた婿候補の大本命で、元総理大臣を祖父に持つ政治家一家の御曹司である。
東郷と会うのはこれで三回目になるが、多くのタレントと浮き名を流してきた三十六歳のモテ男は、これまでさほど香名に興味を持っている風には見えなかった。
なのに今、やけに熱心に手を叩いているのに戸惑いつつ、香名は丁寧に一礼する。
「今日は思い切って、お父上のお誘いに乗ってよかったよ。実は、俺も中学からずっと剣道をやっていてね。だからこの厳粛な空気を、とても懐かしく感じるんだ」
ゴルフ焼けした顔をほころばせ、興奮気味に東郷は続けた。
「日本古来の武道をたしなむ女性には精神の強さと美しさがある。まだ若すぎると思っていたが、君は案外政治家の妻に向いているのかもしれないね」
今は母親が会長を務める企業の社長職に就いている東郷だが、いずれ法務大臣である父の地盤をついで政治家になるのは既定路線と言われている。
そんな東郷の女癖の悪さは有名で、隠し子までいるという報道もあった。
「いやぁ、本当に見応えがあった。弓を引く姿がなんとも凜々しく、素晴らしかったよ」
「元々モデルのように体型が美しい人だと思っていたが、それがいっそう引き立つね」
その東郷の両隣で、それぞれ口を開いたのは、警察庁官僚の山下と、大手広告代理店に勤務する小出である。ともに有名政治家を系譜に持つ政治家一族の末裔で、東郷を含んだこの三人は、同じ大学の先輩後輩の間柄だ。
香名の前面に立っていた二人の視線が、終始腰の辺りに向けられていたことを察していた香名は、薄気味悪さをのみ込んで微笑んだ。
気味が悪いといえば、明らかに東郷の当て馬として父に招かれた四十一歳の銀行員鮫島という男も同様である。
父が個人資産の大半を預けている銀行のバンカーで、この半年あまり、ちょくちょく家に出入りするようになった男だが、今も冷たげな相貌を無機質な縁無し眼鏡で覆い、面白い見世物でも見物するような目で、父の傍らに立っている。
そしてもう一人、どこか冷めた目で、その鮫島の隣に立っているのが、同じく当て馬として父が招いた三十九歳の玖墨匡貴だった。
「東郷君、古来から弓は、下筋で引けと言われていてね」
父が、不意に口を開いた。父独特の、喉に引っかかったような掠れ声だ。
「弓を持つ弓手も弦を引く妻手も、上腕二頭筋から力を抜き、上腕三頭筋に力を込める。腕を伸ばしている時も曲げている時も、常に下筋にだけ力を入れるということだよ」
「へぇ、そうなんですか」
「拮抗筋といって片方を収縮させて片方を弛緩させる。背中と胸も同じで、背中に力を入れて胸から力を抜く。それが弓を引く時の筋肉の使い方だ」
そこで父は、空洞のような目を香名に向けた。
「香名、『会』の状態で、実際の拮抗筋を、東郷さんに触っていただくんだ」
あまりに信じがたい言葉に、香名は驚いて息を引いた。それまで、どこか興味なさげに父の話を聞いていた東郷も、びっくりしたように眉を上げる。
「え、いや、さすがにそれは……まだうら若いお嬢さんに」
「なに、まだほんの子供です。気にされることもない。香名、弓を持ちなさい」
会とは、射法八節の六節目の段階で、弓を引く最終段階、矢を放つ直前の状態を指す。
まさか本気で言っているのだろうかと迷っていると、父が杖をついて歩み出てきた。
「早くしなさい」
肩を震わせた香名は、反射的に弓に手をかけていた。弓懸に包まれた指が震え、心臓が重い音を立てている。──絶対にいや。なのにその言葉は喉で閊えたように出てこない。
父の視線に促されるように的前に向かうと、歩み寄ってきた東郷がこくっと唾をのみ下すのが分かった。
「……本当に、いいのかい」
「それでしたら、ぜひ僕にもお嬢さんを触らせていただけないですか」
その時、場違いに明るい声が、この異様な空気を一変させた。
「なにしろ、こんな機会は二度とないでしょうからね」
屈託のない笑顔で前に出てきたのは、それまで一言も口を開かなかった玖墨だった。
「ああ、失礼。僕は常々お嬢さんをモデルに焼き物を作りたいと結城氏に申し入れていましてね。二年越しの願いなんです。しかし一度としていいお返事をいただけていない」
唖然とする周囲を見回し、玖墨は快活に微笑んでそう続けた。
玖墨匡貴。銀座に巨大な複合ビルを所有する若き不動産投資家であり、新進の陶芸家でもある。尤も本人は陶芸を趣味の延長だと公言しており、あくまで公の場で名乗る身分は、自身の不動産と資金を管理する会社『SEEKER』の社長だ。
百八十二センチの長身に端整な容姿。艶のある髪や白磁器のように綺麗な肌、そして贅肉のない引き締まった体格は、玖墨を実年齢よりはるかに若く見せている。
「それは当たり前ですよ、玖墨さん」
そこでようやく我に返ったのか、呆気に取られていた東郷が皮肉げに口を開いた。
「あなたを有名にした作品……そのモデルになった女性とあなたが関係を持っていたのは、よく知られた話じゃないですか。どこの親がそんな男に娘を差し出したりするでしょう」
「確かに普通の親は。しかし結城氏はかなりの変わり者ですからね」
含みのある言葉は、未成年の娘を見世物のように扱う父への皮肉を含んでいるような気もしたが、そんなひやっとした空気さえ玖墨は魅力的な笑顔でのみ込んで見せた。
「そういった次第ですから、僕はもう勝手に香名さんをモデルにして、白磁器の一つでも作ってしまおうと思っているんです。筋肉の付き方を確かめられるのなら、ぜひ」
「絶対嫌です」
引き絞った弓が条件反射で放たれるように、香名は言葉を放っていた。
この男に触られるくらいなら、東郷の方が何倍もましだ。
「随分とはっきり言いますね」
苦笑した玖墨の、笑いを帯びた目が香名を高みから見下ろしている。
上質な光沢を放つグレーのスーツに、アンティーク加工の施されたイタリア製の靴。切れ長の涼し気な目に、厚みを帯びた男らしい唇。
その美しい造形を含め、時計、カフスボタン、ネクタイピン──身に着けたあらゆる装飾品の選択も完璧だ。彼の審美眼についてだけは、今でも香名は敬服と憧憬を感じている。
しかしそれを差し引いても、香名は目の前の男が嫌いだった。
その取り澄ました顔を、いっそのこと叩いてやりたいと思うほどに。
「身体を触られるのはもちろんですけど、モデルもそうです。考えたこともありません」
視線だけを下げて玖墨を見ないままに、香名は冷笑を浮かべて続けた。
「どうぞ他をお探し下さい。玖墨さんならいくらでもお相手がいるんじゃないですか」
なんでこの男が、なんら悪びれることなく、この場に立っているのだろう。
一体どれだけ面の皮が厚ければ、父と私の前に平然と顔が出せるのだろう。
「なんだか奇妙なやりとりですね」
不意に別方向から声がした。それまで一言も口をきかなかった鮫島──父御用達銀行のバンカーである。
その場にいる全員の注目を浴びた鮫島は、少し戸惑ったように、「いや、失敬」と眼鏡のつるを指で押し上げると、冷たげな相貌に苦笑を浮かべた。
「お嬢様は、普段は人形のように大人しいのに、何故か玖墨社長が相手だとひどく感情的になられるなと思いまして。──まさかと思いますが、これは恋の裏返しですか」
「あり得ません、十九歳も年上の人ですよ?」
香名は即座に切り返した。それは十六歳年上の東郷に対しても失言だったし、実際東郷が嫌な顔をしたのが分かったが、構わなかった。
香名は、六歳の時、母を抱いていた男をありったけの嫌悪を込めて見つめた。
「本当に嫌いなだけです」

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