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恋よりも甘く、愛よりも深く

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書籍紹介

やっと見つけた大切なひと

美術館で働く百々は、有名な美術鑑定士の遥臣から絵画修復の研修を受けることに。厳しい指導に挫けそうになり、過去に辛辣な一言を告げた人物と彼が重なる。けれど一緒に過ごすうち、どうしようもなく心惹かれ――。「ずいぶんと俺は待った。だからたっぷり愛したい」抑えていた想いをぶつけるようなキスと愛撫で、快感に震えて。再会から始まる、夢追う二人の蜜愛物語!

ジャンル:
現代
キャラ属性:
インテリ
シチュエーション:
オフィス・職場 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

碓氷遥臣(うすいはるおみ)

骨董店、ギャラリーのオーナー。美術商、修復、鑑定なども行い、多忙。美術界の裏事情にも精通している。過去、臨時講師をした時に百々に出会っていて……?

花山百々(はなやまもも)

芸術大学卒業。現在は区立美術館で修復師として勤務している。学生時代に外部の講師に言われたひとことが心に引っ掛かっており……。

立ち読み

 

 1


「花山さんだっけ? 君はこの絵をどう解釈している?」
「え?」
「修復の仕方、すごく上手だよ。教えたことを忠実にやっていると思うけど……」
 臨時講師は前髪が長くなんとなく地味な印象。染めているのか茶色の、肩にかかる髪を一つにまとめている。

 花山百々は、大学時代の夢を見ていた。
 中学、高校と美術部だった。もちろん画家になるとか、そういう壮大な夢を持っているわけじゃない。
 ただ絵を描くのが好きで、パレットの上で色を混ぜると、どのような色にも変わっていくのを見るのも好きだった。
 何度も色を重ねて色合いを深めていくのも楽しくて。
 楽しいことの延長線で美大に進む道を選んだ。そのために努力が必要だったけど、その努力も楽しかった。絵のことをもっと詳しく知りたいし、絵にかかわる仕事に就きたいと思っていた。
 夢は学芸員として、ちょっと有名な美術館に勤務。それができなかったら絵画修復かもしれない。学芸員は募集も少なく狭き門だから無理だと考えると、技術を磨いて修復師になるのが一番現実的だと考えていた。
 だから絵画に関しては真面目に取り組んでいたし、技法などもしっかりと学んだ。
 なのに、絵画修復の授業中、修復専門だという男性の臨時講師が百々に告げた言葉は、予想に反して残酷なものだった。
「どこかおかしいですか?」
 百々はムッとして臨時講師を見た。眼鏡の奥にある瞳の色が薄茶の綺麗な色なので、髪色は地毛かもしれない。
 よく見たら鼻筋が高く顔立ちが整っていて、イケメン。おまけに身長も高い。まるでモデルのような容姿だった。百々は正視できなくて目を逸らす。
 彼は眼鏡を綺麗な指で押し上げ、百々が修復した部分を指先でゆっくりと触れ、次に絵の全体を見るため一歩下がった。
「どういうつもりで直してる?」
「どういうつもり、ですか?」
 百々の中では忠実に直しているつもりだ。何度も今修復している絵の修復前の写真を見ているし、剥離部分を修復し、絵具が薄れている部分を補彩しているだけだ。
「……この絵はもっとなんというか、厳しい絵だった気がする。まるで頑固者が描いたような、そんな人物が題材に選んだのもうなずける、沈んだ鈍色の山の風景だった。稚拙な部分はあるが、好事家に受けるような雰囲気があったのに……なんで同じ色を使って、ここまで柔らかくなる?」
 臨時講師の言う通り、山肌がごつごつしているような、山の厳しさを感じる絵だった。そして百々の目に映る修復した絵は、同じような印象しかない。
「違う絵になっているとまではいかないけど……君は、修復に向かないな」
「え……?」
 厳しい言葉に息が詰まった。教えられた通り真面目に取り組んでいたし、さっきは上手いと言われたというのに。
「あの……」
 頭の中でいろいろ整理できなくて、百々は上手く言葉を発せないでいた。すると臨時講師はじっと百々を見つめ、形の良い唇を開く。
「君の下の名前は?」
「百々です……花山百々」
 百々が名を言うと、彼はもう一度絵に視線を向け、軽く目を眇める。しばらくそのまま修復途中の絵に見入った。
 それから考え込むようにこめかみに触れ、薄茶色の目が絵の細部を捉えるように動く。その様子に、百々ははっとして息を詰めた。
 彼の瞳に絵が映っているのが見えたから。綺麗で、美しくて、ドキドキしながらも目が離せなかった。
 今この瞬間を、この人の目に絵が映っている様子を描きたい。
 なぜかそう思った。
 でも、そんな思いを掻き消すように、彼は百々に視線を移してから、思ってもみなかったことを言った。
「花山百々さん、君はアーティスト向き。せっかく美大に入って学んでいるわけだし、画家を目指してみたら?」
 彼は眼鏡を押し上げ、もう一度百々の修復した絵を見たあと、また別の生徒のもとへと行ってしまった。
 どうしてそんなことを言うのか詳しく聞きたくて、百々は立ち上がりかけた。だが、聞いてどうするんだろう、と椅子に座り直し、再び修復中の絵を見る。
 何がいけないんだろう。目の前の絵をじっと見つめ、下唇を噛む。
 この時の言葉がずっと記憶から消えなくて、百々の胸の中にしこりとして残った。
 就職活動は厳しく、修復師の仕事先はなかなか見つからなかったけれど、大学の先生のコネで何とか修復師としてのキャリアをスタートさせた。
 大学を卒業して一年経ち、社会人生活二年目。
 最近は少しずつだが、大学時代に落としていた自信を取り戻しつつあり、修復師として活躍するべく頑張っている。
 今は古書と絵画はクリーニングを中心にやっていて、手ごたえを感じているところ。補彩の仕事はやらせてもらってないけれど、もう少ししたらそのうちに、と思っている。
 なのに、まだ思い出すなんて、百々は立ち止まったままのように思えた。
 これは夢に違いない、と声を出してみる。
「頑張ってやってる時に、ちょっと酷くない!?」
 そう言った自分の声で目覚めて、やっぱり夢だった、とホッとした。身を起こし、寝起きで絡まる猫っ毛を両手で撫でつける。
 夢にしてはリアルすぎて、当時の感情が蘇ってくるようだった。同時にムッときて、唇を尖らせる。
「もう、なんか……目の色しか思い出せないけど、あの先生のおかげで私は呪縛から逃れられないって言うか!」
 はぁ、とため息を吐いてベッドから起き上がる。
 時計を見ると午前七時半。
「ヤバイ!」
 八時半から仕事だというのに、一時間の寝坊。いつも早めに職場に着くようにしているので、自分の中ではかなり遅い時間だった。
 仕事場であるS区立美術館は百々のアパートから自転車で早くて二十五分。勤務開始は八時半。
 今から用意して仕事にはギリギリで間に合うかもしれないが、もたつけば遅刻してしまう。
「やーもー! あんな夢見るから!」
 百々は慌ててパジャマを脱いだ。そのまま洗顔をし、鏡の前に置いてある化粧水を適当につける。
「もういいや、昨日と同じ服だけど、しょうがない」
 白衣を持って帰ってきて洗濯しないままだったことに、あー、と声を出してうなだれた。
 アパートの駐輪場にある自転車に乗り、一気にスピードを出すためにとにかくこいだ。
 下唇を噛み、立ちこぎをしながら、何度も臨時講師の言葉を思い出す。夢で見た彼の言葉には続きがあるのだ。
 どうしても納得できなくて、百々は彼に問い詰めに行ったのだ。なんであんなことを言ったのか、と。
 すると臨時講師は、形の良い眉を寄せて眼鏡を押し上げ、いかにも面倒そうな感じで答えた。
『修復師になりたいのなら、とりあえず絵画はやめておくこと。古書の修復をやるといい、あとはセメント彫刻とかかな。どちらにせよ、さっき勧めた職業を突き詰めないなら、仕事は自分の特性を考えるべきだ』
 思い出せば思い出すほど、ムカムカしてしまう。最近は絵画クリーニングの腕も上がり、しっかり任せられるね、と言われるようになったのに。
 古書の修復はもともと細かい作業が得意だから何とかやっている。でも、本音としては絵画もクリーニングよりも、そろそろ補彩などをやっていきたい。
 やる気があるのに、また振り出しに戻った気分になる、学生時代の夢。
 百々は頭を振って気を取り直し、自転車を走らせた。

   ☆ ☆ ☆

 結局百々が職場に着いたのは、始業時間五分前というところだった。いつもより遅いが遅刻ではない。
 着ていたブラウスを脱ぎ、バッグの中からTシャツを取り出して着替える。その上から白衣を着て、慌てて作業場へと向かった。
「おはようございます!」
 息を切らせて挨拶をすると、修復師の二人が顔を上げて微笑み、今日の仕事の準備をしていた。
「おはよう、今日は遅かったね」
 最初にそう言ったのは、先輩修復師の影山真緒で、油彩の修復がとても上手い。けれど、本人は文書修復の方が好きで、現在百々がやっている仕事の師匠的存在だった。
「珍しいわね。いつもは始業時間の一時間前にはここにいるのに」
 最近結婚したもう一人の先輩修復師の松原大志は、銅像などの修復が好きで、時々オブジェを自分で作ったりしている。彼もまた絵画を主にやっており、イタリアに留学経験を持つ優秀な人だ。
「……今日はとにかく夢見が悪くて……すみません、遅くなって、準備とかも任せてしまって……」
 いつもは二人の仕事がしやすいように、予め剥離止めを行うための接着剤などを準備したり、刷毛をきちんと整えたりしている。
 今日はやれなかった、とシュンとしてしまう。
「いいのよ。いつも百々ちゃんが整えてくれてるから。たまには自分でしないとね!」
 真緒はそう言ってくれるものの、百々が入ってから彼女は大好きな古書の修復をほとんどしていない。それは百々が絵画はクリーニングしかしないからだ。
「『日本の油彩絵画展』に向けてラストスパートかけないとなぁ……今回所持者から借りてるやつ、特に有名どころは、まぁまぁ傷んでるから……保全作業とはいえ、骨が折れる」
 はぁ、と肩を落とした大志が昨日から手がけている絵画を見る。
 絵具の剥離が進んでいるものや、クリーニングが必要なものも数点あり、二人は保全作業に没頭していた。中にはほんの少し補彩した方がいいものもあるらしい。
「じゃあ、私、充填剤、作りますね。クリーニングも手伝います」
「ああ、悪いけど、ジェッソもお願いしていい? いつもごめんね」
「わかりました」
 返事をしたあと、真緒が百々に声をかける。
「そっちは大丈夫? 『古書の世界に触れる展』は半年先だし大規模じゃないけど、仕入れてきた古書、割と大変そうだったけど?」
 百々が働くS区立美術館は個展や展覧会が多い方だと言える。また、油彩、水彩、版画、日本画、古書など多岐にわたって展示をしている。その展示内容は半年に一回変更。入館者も多く、美術に携わる人や美大生、クリエイター、一般の人など、多くの人々に人気がある。
 百々にとって、素晴らしい経験をさせてくれる美術館だ。
「大丈夫です。大変ですけど、なんかすごく楽しくて。あと少しで終わります」
「え? もう?」
 目を丸くしたのは真緒だけでなく、大志もだった。
「一番大変そうなアレ、もう終わるの? じゃあ、準備ほぼできたも同然?」
「や、そんなことないですけど……やっと最近になって、これが私の仕事だと思えてきたら、やりがいを感じちゃって。でもそのうち、クリーニングだけじゃなくて、補彩もできるようになりたいです」
 百々は頭を掻き、顔を伏せた。ちょっと照れてしまったから。なんだか、すごく青いことを言ったような気がして恥ずかしかった。
 そっと顔を上げると、真緒と大志がにこにこして百々を見ていた。
「そうだな。頑張っているし。そういう前向きなの、なんか、俺も嬉しい」
 大志の言葉にそうね、と真緒も満足気にうなずき百々を見る。
「そのうち留学も考えちゃうんじゃない? 絵画修復師として活躍する日も近いかもね」
 向いていないと言われた、絵画の修復。真緒の言う通り、活躍する日が来るのだろうか。
「そうだといいんですけど」
 顔では笑って、褒められた恥ずかしさを誤魔化すようなふりをしているけれど、心の片隅では不安な気持ちがある。
「やってもらったらいいんじゃない? 花山さんを紹介した学校の先生、相模君もきちんと絵画修復できるって言ってたし」
 百々が後ろを振り向くと、S区立美術館の館長が立っていた。糸井真奈美という、この女性館長は学芸員として長く活躍しており、六年前から館長となった人だ。
「花山さん、クリーニングの技術は申し分ないし、そろそろ補彩もやっていくといいと思うの。いつまでも古書修復と二人のお手伝いじゃ、成長しないものね」
 糸井の言葉は百々にとって願ったりかなったりなのだが、そこはやっぱりちょっとした不安がある。本格的な絵画修復に身が引き締まる思いだ。
「あの……いいんですか?」
「もちろん。だって、本当はやりたいんじゃない? まずは、小さなキャンバスの作品からやってみたらどうかな、と思っててね。えっと、ほら……青木正男の花シリーズを仕入れてきたのに、まだ洗浄も何も終わってないでしょう?」
 青木正男の花シリーズというのは、晩年、死期を意識した彼が花をモチーフとして描いた一連の作品群のことだ。それは色とりどりの花だったり、夏の風景と溶け込むひまわりだったりする。
 その中でも小さなキャンバスに大きなダリアを一輪描いた一枚を手に入れたらしいが、保存状態が良くなかったため、経年の汚れや絵具の剥離があり、修復が必要だった。
 かなり小さな絵で、SM号サイズだ。絵の正式名称は、花ナンバー15という。
「本当に、いいんですか?」
「ええ。古書の修復はまだそこまで急がないし、それに松原君や影山さんという経験が豊富なスタッフがいるから、きちんと見てもらいながら進めればいいと思うの。青木正男の花シリーズは根強い人気がある作品だし、その持ち味や他の作品を見て雰囲気やタッチを崩さずにきちんと修復してほしい」
 補彩ができないわけじゃないのだ。チャンスがあるならやってみたい。
「頑張ります!」
 百々は笑顔でそう答えた。修復師としてまた一歩前進できるのだ。
「じゃあ、お願いね。きちんと二人に見てもらってね」
「はい!」
 青木正男の絵は、とても柔らかくどこか女性的でありながらも、芯の強さのある美しい絵だ。花シリーズは百々も好きな絵で、ひそかに展示されるのを心待ちにしていた。
 周囲の色合いはたいして華やかな色ではない。その色の中で浮き上がるような赤い花びらが、見る者の目を引きつける。
「よかったね、百々ちゃん」
 ポンと背中を軽く叩き、微笑む真緒に満面の笑みを向ける。
「はい! さっそく、取りかかっていいですか? あ! でも、充填剤とジェッソを用意してから」
 先ほど用意すると言ったので、百々が後ろを振り返ろうとすると、横から大志がいいよ、と声をかけた。
「初めての本番修復なんだから、きっと時間もかかると思う。頼んだのは俺らがやるから、百々ちゃんは青木正男の絵を取っておいで。一緒に修復していこう」
「ありがとうございます、松原さん」
 真緒と大志に頭を下げ、絵画が保管されている保管庫へと向かう。
 学生時代は向いていないと言われたけれど、きちんと方向性を確認しながら先輩と一緒にやるのだから、と百々は不安を胸の底に押し込めた。

   ☆ ☆ ☆

 百々はダリアの絵を手順通りに、先輩二人に相談、見てもらいながら補修作業に入った。
 絵の表面には埃やカビが付着している部分があり、まずそれらを落としてから充填補正、補彩をしていく。
 何度、目にしても、青木正男の絵は綺麗だった。男性が描いたというのに柔らかい色合いであり、女性性を感じさせる。
 百々は順調にクリーニングを行ってから、神経を集中させて慎重に補彩をした。真緒と大志に相談し、まず一番損傷のある部分から取りかかっていく。
 そこで、大志からちょっと待って、と声がかかった。
「これは……ちょっと雰囲気が違ってるよ? 何がどうしてこうなった?」
「え?」
 なにかおかしいだろうか、と百々は不安になった。
 ちゃんと青木正男の絵画を写真に収めた本を何度も見て、作業をやっている。しかも相談しながら進めているというのに。
「どこか、おかしいですか?」
「剥離止めも綺麗にできてるし、色合いも大丈夫なんだけど……なんだか、雰囲気がより女性的になったというか」
 大志は絵をじっと見る。真緒も大志の声に修復の手を止め、ダリアに見入った。
「松原君、これは……タッチが優しくなってるの。花が持つ柔らかさが出ていて、いいと思うけど、青木正男の絵はもっと美しさの中にちょっと頑固さがあるって感じよね?」
 真緒が言うと大志もうなずき、肩を落とした。
「ちょっと修復ストップ。一度館長に見てもらおう。ここまで変わるなんて、ある意味すごいことだ。元のダリアの絵を見ても、何をどう直していいかわからないし」
 二人の言葉に百々の心臓は嫌な音を立てる。真面目に取り組んでいたはずが、プロの大志から見てどうしたらいいかわからないくらい、違った絵になってしまったということだ。
 一度館長に見てもらおうと言われ、百々は力なくうなずくしかなかった。
 連絡を受けた館長の糸井がにこにこしながら修復作業場にやってきて、ダリアの絵を見るとパチパチと目を瞬かせた。
「あら……まぁ……誰が描いたの? 青木正男のダリア、よく模写ができてるわね……ん? でも……?」
 これは模写ではなく、ただの修復。でも、長年学芸員をやってきたベテランの目にはそう映るのだろう。
 百々は項垂れ、下唇を噛む。
 自分の中ではきちんと修復していたはずで、まだ途中で全然終わっていないのに、作品の雰囲気を模写だと思わせるほど、壊してしまった。
「もしかして、これは青木正男の、ダリアなの?」
 真緒と大志が気まずそうにうなずき、糸井が百々に目を向ける。
「……ああ、こういうこと、だったのねぇ……うん、わかった」
 こういうこと、という言葉に引っかかる。百々が修復に向いていないと言われたことを、知っているかのような糸井に、言葉が出なかった。喉が詰まりながら、どうにか声を絞り出す。
「すみませんでした、私……」
 こんなことしか言えない。きっと、あの臨時講師の言う通りになってしまっているのだ。自分では全く気づかない。でもプロの修復師が首を傾げるような作品にしてしまった。素晴らしい作品を台無しにした。
「うん……いいわ……そうね……」
 唇をキュッと引き締めた糸井は、次ににこりと笑った。
「すごく上手よ、花山さん。技術は確かだと、相模先生が言っただけある。でも、絵は、ちょっと修業が必要みたいね。……よかったら、ちょっとこの絵を持って私について来て」
 うつむいていた顔を上げると、糸井はただ笑った。
「そんな顔をしないで。何とかなるから、ね?」
 大志が館長、と声を出して百々を見る。
「でも、雰囲気もそんなに壊していません。そのままでも……あとは俺が引き継ぎますから」
「松原君、修復師としてイタリアで弟子入りの経験があるあなたがそんなこと言っちゃだめよ」
 大志は百々をフォローしてくれようとした。でも、今はそれが逆に痛い。いったいどうしたらいいんだろう、と百々は泣きたい気分になる。
 それにしても、糸井の言葉にはところどころ理解不能な部分があった。「すごく上手よ」とか「技術は確かだと、相模先生が言っただけある」とはどういうことだろう? 百々はただ絵をダメにしただけなのに。
「花山さん、絵を持って玄関で待ってて。私、車を回してくるから」
「……え?」
「大丈夫、何とかなるわよ」
 にこりと笑った綺麗な唇。
 とても何とかなるようには思えず、百々は涙を流しそうになってしまった。
「そんな顔をしないで。何とかなる。そういう魔法をかけてくれる人を知っているから」
 ポンポンと肩を叩かれ、ほら、と言われる。
「絵を持って、玄関で待ってて。影山さん、松原君、あとをよろしくね」
 糸井が修復作業場から出ていくのを見て、百々はますます不安になった。絵をダメにしておきながら、いったいどこに行くというのだろう。
「百々ちゃん、館長がああ言っているんだから、絵を包んで持っていきましょ?」
 ね? と言われ、百々はうなずき、青木正男の絵を丁寧に布に包んだ。
 その間も涙を堪え、糸井の言う通りこの絵が元通りに直せるのならなんでもする、と心の中で決意する。
「松原さん、影山さん、すみませんでした」
 二人に頭を下げると、何言ってんだよ、と大志が首を振る。
「俺らの責任でもあるんだ。館長もそれはわかっている。まだ修復途中だし……とにかく、何とかなるって言うんだからなるよ。行っておいで、百々ちゃん」
 温かい言葉は嬉しい。でも、今はそれがかえって落ち込む要素になっている。
「行ってきます」
 もう一度二人に頭を下げ、百々は修復作業場を出て玄関へと向かう。
 すでに車を回していた糸井がドアを開けてくれて、車に乗り込む。百々の様子を見かねた糸井は小さく息を吐いて、今度は頭を優しく撫でた。
「本当に大丈夫だから……そんな顔をしない。でも、この絵は、修復部分をさらに修復しながらの作業になるわね」
「はい」
 うつむきながらもしっかり返事をし、百々はうなずいた。
「だから、この絵を直す作業を、今から行く場所で手伝ってらっしゃい。直し終わるまで、出勤扱いにしておくから」
 百々が顔を上げると、糸井は微笑んだ。
「それは……?」
「ま、修業みたいなものね。松原君も影山さんも素晴らしい技術を持っているけど、花山さんに教えるにはちょっとした部分が力量不足かもしれない。だから、今から行く場所で出勤みたいにして、しっかり学んできてほしいの」
 百々に対してそんな特別扱いを、と思った。まだ二年目の駆け出し修復師なのに、破格すぎる。
「それは、ダメだと思います。それに、そんなことを私だけ特別にさせていただくことは……」
「いいのよ。今回の件は私も悪いんだし。あなたの先生、相模君から口を酸っぱく言われていたのに、なんとなく絵画の修復やらせちゃったからね。絵画を直すには向かないかも、って」
 絵画を直すには向かない。
 准教授の相模もそんな風に思っていたのかと知って、ショックを受ける。その上、糸井も知っていたのだ。
「ま、とりあえず、泣きそうな顔をしない。今の話は忘れて、行きましょう」
 百々は下唇を噛む。崩壊しそうだった涙腺が、とうとう堰を切ってしまう。
 ポロリとこぼれ出た涙を手で拭い、洟を啜る。
「どこに、行くんでしょうか?」
 傷ついた目で糸井を見るが、どういうわけか彼女はずっと余裕の表情で微笑んでいた。
「だから言ったでしょう? 魔法をかけてくれる場所よ」
 さっきから魔法、魔法と言っているけれど、百々にはさっぱりわからなかった。
 でも、本当にこの絵が、きちんと直るのなら魔法でも何でもいい、直してほしい。
 心からそう思うのだった。

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