新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円
新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円

ずっと、ずっと好きだった ―再会愛―

本を購入

本価格:650(税抜)

カートに追加しました
電子書籍を購入

電子書籍価格:650円(税抜)

獲得ポイント:7pt
電子書籍を閲覧するにはビューアアプリ「book-in-the-box」(SHARP)をインストールしてください。
書籍紹介

恋をしたのは一度だけ

「仕事が欲しいならヤラせろよ」取引先の御曹司に押し倒された春。冷たい視線で見下ろす暁は、実は十年ぶりに会う初恋の人。思い出すのは駆け落ちの約束を守れなかった苦い記憶。けれど愛おしそうに春の名を呼ぶ声、優しいキスと愛撫に喜びが込み上げる。肉棒に穿たれれば全身が熱く蕩けて……。「今度こそ俺のものにしたい」止まっていた想いが動き出す甘く切ない恋物語!

ジャンル:
現代
キャラ属性:
クール
シチュエーション:
玉の輿・身分差 | 幼馴染・初恋の人
登場人物紹介

高幡暁(たかはたあきら)

"春の中学時代の同級生で、お互いが置かれている環境が嫌で駆け落ちしようとした過去がある。 婚外子のため当時は母子家庭だったが、今は父親の会社を継ぐ立場にある。"

伊藤春(いとうはる)

北海道の小さな家具製作会社の営業担当。中学時代、暁と交わした駆け落ちの約束を守れなかった過去がある。仕事で東京に出た際、十年ぶりに暁と再会するが……。

立ち読み

 頭のてっぺんまで、布団の中に潜り込んでいる。
 携帯電話を握り締め、歯を食いしばって。
 音もバイブも切っている携帯電話が、真っ暗な布団の中でまたチカチカと点滅した。
 震える手で二つ折りの電話を開き、来たばかりのメールを読む。
『改札の前にいたんだけど、駅員がチラチラこっち見てきて声かけられそうだったから、外出た。バス乗り場の横んとこ』
 もういいから、早く家に帰って。
 そう叫びたかったけれど、隣の布団では妹が眠っている。春は下唇を噛んでこらえた。
 もうメールが来ませんようにと、必死で祈る。
 しかし無情にも、携帯電話は何度も点滅した。
『雪降ってきた』
『すごい寒い。厚着してきた方がいい』
『場所わかる?』
 もう嫌だ、もう見たくない。それなのに、着信した瞬間、見ずにはいられなかった。

 やがて電話は光らなくなった。
 どれくらい時間が経ったのか、暗闇の中ではよくわからない。それでもずいぶん経った気がして、もう諦めて帰ってくれただろうかと思い始めた頃、短いメールが来た。
『春』
 暁。
『春、夜明けだ』
 暁、真っ暗だ。
 こらえきれなくなった涙が、目尻からこぼれ落ちて、シーツを濡らしていく。
 暁を越え、曙になる瞬間を、一緒に見たかった。
 真っ暗な布団の中、彼が一人で見ている空を思って祈った。
 どうか暁の目に映っているものが、彼の心の暗闇を晴らすくらい、綺麗な朝焼けでありますように。

 

 

 

 やや緑がかった灰褐色の板の中央に、川が流れている。
 緩く蛇行した、青い川だ。
「いい色ですよね。木も、レジンも」
 うっとりした顔で言ったのは、大手デベロッパー、THコーポレーションの企画部モデルルーム課に勤めている、インテリアコーディネーターの田島だ。
「ありがとうございます」
 家具工房、伊藤木工で働いている伊藤春は、微笑んで頭を下げた。
 去年の秋ぐらいからメールや電話では何度もやり取りしてきたが、田島と直接顔を合わせて話すのは、一月半ばの今日が初めてだった。二十五歳の自分より、二つ三つ年上だろうか。育休から復帰して半年になると聞いたが、いい意味で小さい子供がいる母親にはとても見えなかった。東京の大きな会社で働いているような人は、みんなこんなに垢抜けているものなのかと羨ましくなる。
 来週オープンするモデルルームのリビングに、二人はいた。春の兄が作った特注サイズのテーブルが、リビングの中央に、確かな存在感を持って置かれている。田島が選んだというインテリアは、どれも凝っていた。他社のモデルルームでよく見るような既製品とは違うものを使い、目の肥えた客に向けて差別化したいようだ。
「リバーテーブルっていうんですか。似たものを見たことはあったんです、たしか海外の作家さんのもので。でもそのときはそれほど素敵だとは思わなかったんですよね。仰々しいというか、主張が強すぎるように思えてしまって。伊藤木工さんのテーブルを初めて見たときは衝撃でした。どっしりしているのに大げさではなく、けっして地味ではないのに生活に溶け込むような……こんなテーブルが自分の家にあって、子供が成長していく間ずっと我が家の生活に寄り添っていてくれたら、どんなに素敵だろうと思いました。まあちょっと、お値段的に私には手が出ないんですけど」
「すみません」
 つい謝ってしまい、フフッと田島と二人で笑い合った。
「仕方ないですよ。貴重ですものね、神代木」
 土の中に数千年もの間埋もれていた木を、神代木という。無酸素状態で腐らずにいた木は、気が遠くなるほど長い時間を経て、灰色がかった渋みのある色に変色する。
 塗りでは出せないその微妙な色合いは、多くの人を魅了してきた。ただ神代木は、取ろうとして取れるものではなく、道路建設やダム工事などのとき偶然出てくるようなもので、市場に出回る数がとても少ない。また原本で手に入れてもヒビが多く、部材として取れるところと考えると、さらに減ってしまう。小物ならともかく、テーブルなど大きな家具には向かない部材なのだ。
 春の兄、伊藤夏男は、その神代木で大型のテーブルを作る、珍しい職人だ。
 いま春の目の前にあるテーブルに使われている神代楢は、もともと中央に大きなひび割れがある板だった。兄はそこを補修するのではなく、潔くバキッと割ってしまい、間を広げて自分で色づけした樹脂の川を流した。そうすることで、一目見たら忘れられないようなインパクトが生まれる上に、神代木でもテーブルの幅を広くすることができるのだ。
『RIVER』というシリーズ名で展開しているこのテーブルは、兄妹二人で経営している北海道の小さな家具工房、伊藤木工の看板商品だ。品質は間違いなくいい。と、春は思っている。兄の腕は確かだ。
 ただ、兄が好んで使う神代木はもちろんのこと、川に使うエポキシ樹脂もまた高額なものだから、価格はどうしても一般的なダイニングテーブルのサイズで五十万を超えてしまう。兄が独立して、まだ二年。無名の工房の家具に躊躇なくそんな金額を出せる客はけっして多くなく、伊藤木工の内情は火の車だった。
 余裕のなさを顔には出さないよう気を付けて会話しているが、春は必死だった。
 通常、テーブルをいくつか買ってくれたくらいの相手のためにわざわざ交通費をかけて北海道から東京まで出向いたりはしない。この日は午前中にもう一件、商談があった。そっちが本命だったのだが、一癖ある家具を集めたセレクトショップの定番商品として展示してもらう話は、条件面で折り合わず流れてしまった。こうなったら、ついでに挨拶を、くらいのつもりで予定を入れていたこちらで、なんとか一台でも多くテーブルを買ってもらいたい。
 最初田島からメールが来て、モデルルーム用に特注サイズを三台注文してくれたときは、納品すればそれで終わる話だと思っていた。しかし、こういった高価格帯のマンションを購入するようなお客さんは、インテリアに対するこだわりも強く、気に入れば価格はそれほど気にせずに家具を購入すると聞いて、春はだいぶ前のめりになった。
「それでですね、新居にモデルルームと同じテーブルをとお客様が希望された場合、どの程度対応が可能か伺いたいんですが」
「何台でも対応できます。納品は物件の引き渡し時に合わせますし、サイズも個別に調整可能です」
「よかった、ではお客様にはそうご案内しますね。それから、弊社内での評判もとてもよくて、ぜひ他の物件のモデルルームにもテーブルを置かせていただきたいという話が出ていまして……」
「はい、喜んで!」
 張り切りすぎて食い気味に、居酒屋みたいな返事をしてしまった。
「では、台数やサイズが決まりましたら、すぐお伝えしますね」
 田島がフフッと笑って、テーブルの中央を指でなぞった。
「……不思議な色ですよね、この青。冷たそうなのに温かみがあるというか。見ているとなんだかホッとします」
「美瑛川という川の青なんです」
「実在の川をイメージした色だったんですか。ステキです」
 美瑛川は、道央を流れる長い川だ。兄が自分で調色した青は、冬の朝の美瑛川上流の色だった。水の青さで有名なのは白金温泉近くにある『青い池』の方だが、そこから車で五分ほど上流へ行ったところから見ると、川も青い。美瑛川は春たちが住む旭川市まで続いている。青いのは上流の方だけだ。
『RIVER』の澄み切った深い青を見ていると、春は遠い日の初恋を思い出す。そのたび胸がギュッとなるが、少しだけだ。鋭い痛みを覚えることは、もうない。十年の時を経て、思い出の角はすっかり丸くなった。
 中学生の頃、短い恋をした。同級生の彼は、『RIVER』と同じ名前を持つ、若くして亡くなったアメリカ人俳優に少し似ていた。今頃どうしているのだろうとたまに考えるが、怖いくらい冷たく澄んで思春期の塊みたいだった彼の青年になった姿を、春はうまく想像することができなかった。
 だいたい商談がまとまったところで時計を見ると、もう午後三時を過ぎていた。帰りの飛行機は、羽田から二時間後に飛ぶ。そろそろ空港へ向かった方がいいだろう。
「伊藤さん、今日はどちらにお泊まりなんですか?」
「あ、五時の便で北海道に戻るんです」
 朝イチの便で東京に来たから、日帰りになる。せっかく東京に来たのにと思わないではないけれど、そんなにのんびりはしていられないし、なにより宿泊代金がもったいない。
 しかし田島は、春の言葉を聞いて気の毒そうな顔をした。
「あの、戻れないと思います」
「え?」
「大雪で北海道行きの便がほとんど欠航になっているって、ついさっきニュースで」
「たぶん大丈夫です」
 春はスマホを操作して、航空会社の公式サイトを検索した。
「旭川空港は雪にすごく強いですから、ほとんど欠航しないんですよ。今朝もかなり降ってましたけど定刻通り飛びましたし、新千歳行きが全滅した日でも、平気で通常運行して──えっ!?」
 春は目を疑った。一年に一本も欠航しないと言われる旭川便に、まさかの欠航マークが付いていたからだ。
「ど、どうしようっ……」
 春は取引先の社員の前だというのに、オロオロしてしまった。仕事で付き合いがあるのはほとんどが北海道の企業だし、道内なら車で移動してしまうから、飛行機に乗る機会はめったにない。この手のトラブルは初めてだった。
「近くに、うちの系列のビジネスホテルがあります。格安でお取りできますが、よかったら手配しましょうか?」
「お願いしますっ」
 春はすぐさま田島の提案に飛びついた。
「了解です。少々お待ちください」
 田島はすぐさまホテルに電話をかけてくれた。空の便が乱れているため、急な予約が相次ぎ満室に近い状態だったようだが、なんとか一室確保できたらしい。
「助かりました、本当にありがとうございます」
 頭を下げる春に、田島は笑顔で首を横に振った。
「伊藤さん、これで今晩時間ができましたよね。よかったらぜひ、夕食をご馳走させてください。せっかくですもの、もっとお話ししたいです」

 

 春が一晩世話になることになったビジネスホテルは、モデルルームの最寄駅から二駅ほど離れたところにあった。
 開業してまだ一年経っていないらしく、建物内はどこもかしこもとても綺麗だ。価格から想像したよりずっと広い部屋には、ダブルサイズのベッドが置かれている。カプセルホテル並みの金額でこんな部屋に泊まれるのは、社員割引価格で泊まれるよう取り計らってくれた田島のおかげだ。素直にありがたかった。
 ルームキーを開けて部屋に入るなり、春はベッドの上にダイブした。適度にスプリングが利いていて気持ちがいい。
「はああぁぁ……」
 天井を見上げて大きく息を吐く。
 疲れた。朝から長距離移動して、二件も初めて会う人と仕事の話をしたのだ。疲れるに決まってる。
 THコーポレーションとの商談はいい感じに進みそうだが、午前中のインテリアショップとの商談を思い出すとため息が出てしまう。条件面で全然折り合えなかった。弱小家具工房と足元を見られたと感じ、つい腹を立ててしまったが、いまになって考えると、なぜこんな値付けになっているのか自分がもっと説得力のあることを言えていれば結果は違ったのかもしれない。
 営業なんて向いてない、とつくづく思う。
 春が兄の工房を手伝うようになったのは一年ほど前からだ。いま春は、営業、事務から工房内の掃除まで、家具を作る以外すべてのことを担当している。
 やりたくてやっているのではない。絶望的なまでに、兄に家具を作る以外の能力がなかったからだ。
 春の三つ上の兄、夏男は地元である旭川市内の工業高校で木工を学んだあと近所の家具工房に就職し、そこで修行を積んで、二年前に独立した。
 春は商業高校を卒業してからずっと、地元の中小企業で経理事務をしていた。兄は就職と同時に実家から出ていたから、ちょくちょく会ってはいたが、仕事がうまくいっているのかとか、そういうことは春はよく知らなかったし、さほど興味もなかった。兄が独立してからも、奥さんが看護師なら、たとえ兄があまり稼げなくても食べていけなくなることはないだろうと思っていた。
 兄と共通の知り合いから、注文しているダイニングセットがなかなか届かないと春に苦情が入ったのは、一年前のことだった。
 文句を言ってやろうと兄の工房へ出向いた春は、愕然とした。注文を受けたくせに、在庫の家具がいくつか売れないと、特注のダイニングセットに使いたい材料が仕入れられないと言うのだ。慌てて見た、ノートに手書きされた帳簿はひどいもので、兄が思いつきで高価な材料を仕入れ、どんぶり勘定でやってきたことがよくわかった。確定申告すらされていないなんてと、春は頭を抱えた。
 ちゃんと経営できないなら廃業してどこかの工房に雇ってもらえと兄にキレそうになったというかキレたが、すでに受けてしまっている注文はどうにかするべきだし、在庫は売らなくてはいけない。
 春は金策と、販路の開拓に走った。そんなこと一度もしたことがなかったのにだ。正しい方法なんて知らないから、手当たり次第に銀行や市内の家具屋、ハウスメーカーを駆け回った。そんなめちゃくちゃなやり方でも、いくつか注文を取りつけられたのは、家具自体はいいものだったからだ。
 在庫を売ったお金で材料を調達し、知り合いのダイニングセットを作成して納品。手書きだった帳簿を会計ソフトで記帳し直して確定申告するところまで一気に済ませた頃には、もう春は勤め先を辞めて兄を全面的にバックアップする流れになっていた。
 それから一年、あっという間だった。いろいろと手探りだったが、兄妹二人でやっている小さな工房だとお客さんは皆わかっていて、大きな家具メーカーのような洗練された対応を求められることはまずないため、なんとかやってこれた。
 今日の商談を振り返る。本命だったセレクトショップとの取引が物別れに終わったのは痛かったが、THコーポレーションとの話がほぼ決まったのはよかった。もちろんショップほど台数は売れないだろうけれど、実際に部屋に置かれた感じを見てから購入してもらえるのはすごくいい。個性の強いテーブルだけに、「家に置いてみたら、イメージと違った」と返品を求められたことがこの一年の間に二回あった。
 やっぱりパンフレットを作り直すべきだなと春は思った。いまみたいな家具の全体像と細部のアップだけのものではなく、さっきのモデルルームみたいに部屋に置いた写真を見てもらえたら、もっと兄の家具のよさをわかってもらえるんじゃないだろうか。ホームページも、ちゃんと作り直したい。いまみたいに工房の簡単な紹介しか載っていないようなものではなく、商品を詳細に紹介して自分たちで通販で売ることができたら、一台あたりの利益はショップに卸したときよりずっと多くなる。
 こんな高額で大きな家具を、実物を直接見ないで買うお客さんはそうそういないと思い込んでいたけれど、少なくたっているかもしれないし、ホームページを見て家具屋に足を運んでみようと思う人だっているだろう。
 頑張ろう、と改めて思った。たとえ向いていない仕事でも、やれることはいろいろある。

 夕食の待ち合わせまで二時間以上あったので油断してウトウトしてしまい、時間ギリギリに慌ててホテルのロビーへ降りると、田島がもう来ていた。
「すみません、お待たせしましたっ」
「いえ、私の方が、ほんとにその、すみません……」
 東京に不慣れな春を気遣って待ち合わせ場所をホテルにしてくれた田島が、なにやら申し訳なさげな顔をしている。
「どうかなさいました?」
「せっかく上京していらしたんだし、こちらの美味しいものを召し上がっていただこうと思いまして、とっておきのお店を予約したのですが……あの、私何も考えていなくて、お寿司にしてしまって」
「わ、嬉しいです」
 寿司は大好物だ。
「え、いいんですか」
 田島が目を丸くした。むしろなぜダメだと思ったのか聞きたい。
「北海道の方にお寿司なんて失礼だったかもって、急に心配になってしまったのですが、大丈夫そうでよかったです」
 ホテルを出て五分ほど歩き、ビルの地下へと向かう階段を下りた。廊下の突き当たりにある江戸前寿司屋の店構えが目に入る。いかにも高そうで、春は怯んだ。
「有名店とかではないのですが、とっても美味しいんですよ」
 田島が言った。
 気楽についてきてしまったが、東京の高級店なんていったいいくらするのか、春には見当も付かない。それに考えてみたら、接待する側なのは、立場的に自分の方なのではないだろうか。こういうことに気付かないところが、自分は営業に向いていないと考える所以だ。
「私すっごくお腹が空いてますから、五人前くらいは食べてやりますよ。会社のお金ですからね。伊藤さんも付き合ってくださいね」
 春の心中を察してくれたのか、田島はおどけた表情で言った。
「いいんですか」
「うちの課の接待費、今期は余り気味なんです。一緒にこの店の魚を食い尽くす勢いでいきましょう」
 田島が寿司屋の引き戸を開けた。中は狭く、客席はカウンターだけだった。
「いらっしゃい!」
 愛想のよさそうな初老の店主がこちらを見て言った。
「予約した田島です」
「三名様ね。そちらどうぞ」
 一番奥の席に案内されて腰を下ろした。
 いま、三名と言ったか。
 春が店主の言葉に疑問を持ったことに気付いたらしく、田島が微笑む。
「私の直属の上司が、伊藤さんと食事に行くと報告しましたら、ぜひご挨拶させていただきたいと言いまして。少し遅れるようですから、先に始めちゃいましょう。お飲み物は何がいいですか」
 田島の上司ということは、モデルルーム課の課長さんか。偉い人が来ると思うと、背筋が伸びた。年が近い同性ということで、田島には少々フランクな接し方をしてしまっていたけれど、大きな会社の課長さんともなるときっとそれなりの年齢なのだろうし、もっとちゃんとした感じにした方がいいだろう。
 春も田島もそれなりにアルコールを嗜むということで、店主にお勧めを聞いて日本酒を頼んだ。
 日本酒が出てくるのとほぼ同時に、カラカラと引き戸を開く音がした。
 何気なくそちらに目をやった春の、時間が止まる。
「課長」と、田島が笑顔で手を上げた。
 肩書きから想像するよりずいぶん若い、スーツ姿の男性が、田島に応えるように片手を上げ、笑顔で歩み寄ってくる。
「遅れた、すまない」
 春はカウンターの下で肘を突っ張らせた。
 ハッとするほど綺麗な顔立ちも、意志の強そうな目も、吊り気味な眉も、知っている。
 だけど目の前にいるのは、春の知らない男性だった。
「ショールーム課の高幡です」
 知っている声で、知らない人が、知らない名前を言う。
 十年前、春はたった一度だけ恋をした。
 園上暁。それが、春の恋した人の名だ。
「いつもお世話になっております、使わせていただいたテーブル、本当に素晴らしかったです」
 差し出された名刺には『ショールーム課 課長 高幡暁』と書かれている。
 暁だ。
 姓は違うが間違いない。
 この人が? 本当に?
 春は動物に人語で挨拶されたかのような強烈な違和感を覚えた。
 名前のせいではない。暁が笑っていたからだ。
 営業の実技テストだったら間違いなく百点を取れそうな、完璧な営業スマイルだった。
「伊藤さん?」
 春の様子がおかしいことに気付いたらしく、田島が心配げな視線をよこしてくる。
「……伊藤木工の、伊藤です」
 ぎこちないながらも、なんとか暁と名刺を交換したが、声は少し震えてしまった。
 一方暁は、まるで動揺を見せない。
「今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
 完璧な営業スマイルを崩さない暁はやっぱり、自分が知る彼とは思われなかった。
 暁は、いつも怒っていた。
 自分を取り巻くすべてのもの、そして自分に。
 暁は、カウンターの一番奥にいる春との間に田島を挟む形で座った。
 熱々のおしぼりで手を拭きながら店主と会話している暁の横顔を盗み見る。首のラインや肩の辺りに、少年のしなやかさはもうない。当たり前だが、完全に大人の男性だった。よく来る店なのか、振る舞いは自然で、洗練されている。
 大きな会社で働いたことなどないからよくわからないが、自分と同じ二十五歳で課長というのは、けっこうすごいことな気がする。カウンターに置かれた左手に指輪はないが、若くして出世している上にこの容姿だ、さぞモテることだろう。
 たぶんとても美味しいであろう日本酒やつまみは、ほとんど味がしなかった。
「──北海道の人に寿司を出すのが失礼って感覚がよくわからないんだが」
 暁が首を傾げた。
「だって北海道ですよ? いつでも美味しいお寿司食べ放題じゃないですか」
 田島はずいぶんと北海道に夢を持っているようだが、たとえ漁港のそばに住んでいたとしても、たぶん食べ放題ではない。
「北海道と言っても広いですからね。私が住んでいる旭川に、海はないんです」
「海なし県でしたか! 嬉しい、伊藤さん、お仲間ですね。私、埼玉なんです」
 田島はパアッと表情を輝かせて言った。そんなに嬉しそうにされると、旭川は県でないとは言いづらい。
「そういえば、課長も北海道の出身じゃありませんでしたっけ?」
 お猪口を口に運びかけていた春の手が止まる。
「生まれたのは東京だよ」
「あれ、そうでしたか」
 東京で生まれて、すぐに母親の故郷である旭川に移住し、中学卒業と同時にまた東京に戻ったはずだ。それからずっと東京なのかどうかは、春は知らない。
 まったく味のしない液体を喉に流し込みながら、横目で暁の様子を窺う。
 暁は部下である田島とも、春とも、気さくに話し、よく笑っている。
 よくもまあ、笑えるものだ。もしかしたら、自分ではそうは思わないが十年の間に著しく顔貌が変わっているために、いまここにいる女が伊藤春だと気付いていないのかもしれない。そんなことを考えかけて、ないな、とすぐに思い直す。百歩譲って顔では気付かなかったとしても、暁は名刺に書かれた「伊藤春」の名前を見ている。
 つまり、いまの彼にとって春は、突然会っても動揺せずにいられる程度の人間だということなのだろう。
 春にとっては、忘れられない恋であっても。
 出てくるものは、いつのまにか、つまみから握りに変わっていた。
 コハダや赤貝など、北海道ではなかなか食べられないネタの合間に、春の好きなホタテやイクラが出てくる。もともとそういう順番でくるものなのか、暁が気を回したのかは、春にはわからない。
 初めてのちゃんとした寿司屋で若干オロオロしている春とは違い、暁の振る舞いはスマートだった。田舎の中学生だった彼が、大都会で堂々と生きている姿を見るのは、不思議な気分だった。誇らしく思ったり、眩しく見えたりはしない。春はただ、彼に十年前の面影がほんの少しでも残っていないか探していた。しかしわずかな欠片さえも見つけることはできなかった。
「……伊藤さん? どうなさいました?」
 自分でも気付かないうちに俯いていたらしく、田島が心配そうに声をかけてきた。
「ちょっと酔っちゃったみたいです。すみません、お水いただけますか」
 店主に声をかけてから、空気を変えたくて、カウンターを撫でた。
「素敵なカウンターですよね。ヒノキですか」
「わかります?」
 店主が嬉しそうに目を細める。相当気に入っているのがわかる。幸せな木だ。節のない、綺麗な板だった。ヒノキは無節の板が取りづらい。この幅と長さだと、百万近くするだろう。
「家具工房の方だと、やっぱり見ればわかっちゃうんですね、木の種類」
 田島が感心した様子で言った。
「お寿司屋さんだと、イチョウもよく使われますね」
 旭川市内の寿司屋に頼まれてカウンターを作ったときは、イチョウを使った。
「神代木は?」
 田島が軽く身を乗り出した。ずいぶん神代木を気に入っているようだ。
「お寿司屋さんでは見たことないかな。杢目にクセがない、素直な白っぽい木が人気みたいです。お寿司の邪魔をしないから」
「確かに。素敵ですけど、主張が強いですものね。長い長い時を地中で過ごして、やっと地上に出てきたんですもの。神代木だって、きっとリビングやダイニングのテーブルになった方が自分を生かせて幸せです」
「……そうかな」
 暁がぼそっと呟いた。
 わずかにふてくされたような表情が浮かんでいて、春はハッとした。
「神代木は、べつに地上になんて出たくなかったかもしれない。泥の中で眠り続けて、そのまま石炭になった方が幸せだったんじゃないのかな」
「……課長?」
「失礼、余計なことを言いました」
 暁の顔は、すぐにまた営業用の笑顔に戻ってしまった。やっと十年前の片鱗を見られた気がしていた春は、それを残念に思う。
 とそのとき、誰かのスマホが震えている音がした。
 暁が真顔になって、ポケットからスマホを取り出す。
「ちょっと失礼します」
 仕事の連絡でも入ったのか、スマホを手にサッと席を立った。
 春は電話にでるため店から出ていく暁の背中を目で追った。引き戸が閉まり、残念なような、少々ホッとしたような気分で視線を戻すと、田島と目が合った。
「あ……」
 暁を見ていたことに気付かれてしまったようだ。後ろめたくはないが、気恥ずかしい。
「ずいぶんお若い課長さんで、びっくりしました」
 ごまかすように言うと、田島がうんうん頷いた。よく言われるのだろう。
「うちで一番若い課長です」
「やっぱり」
「高幡は特別なんです。もちろん、とても優秀な人ではあるんですけど」
「特別?」
「創業者の孫なんですよ、弊社の」
「えっ!?」
 思いのほか大きな声が出てしまった。
 そんな話は聞いたことがなかった。旭川にいたとき、暁の家は母子家庭だった。小中学校は公立だったし、家はごく普通のアパートで、言い方はなんだが、そんなたいそうな家庭のような暮らしぶりではなかったように思う。
「いまの社長が父親ですし、たぶんあと十年もしたら、役員になっているんじゃないかと思い──」
 暁が戻ってきたのを見て、田島が慌てて口をつぐむ。急に澄ました顔になるのが、少しだけおかしかった。

おすすめの関連本・電子書籍
電子書籍の閲覧方法をお選びいただけます
ブラウザビューアで読む

ブラウザ上ですぐに電子書籍をお読みいただけます。ビューアアプリのインストールは必要ありません。

  • 【通信環境】オンライン
  • 【アプリ】必要なし

※ページ遷移するごとに通信が発生します。ご利用の端末のご契約内容をご確認ください。 通信状況がよくない環境では、閲覧が困難な場合があります。予めご了承ください。

ビューアアプリ「book-in-the-box」で読む

アプリに電子書籍をダウンロードすれば、いつでもどこでもお読みいただけます。

  • 【通信環境】オフライン OK
  • 【アプリ】必要

※ビューアアプリ「book-in-the-box」はMacOS非対応です。 MacOSをお使いの方は、アプリでの閲覧はできません。 ※閲覧については推奨環境をご確認ください。

「book-in-the-box」ダウンロードサイト
一覧 電子書籍ランキング 一覧

ジャンル・シチュエーション検索

 

ジャンル

キャラ属性

シチュエーション