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パリの恋人

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書籍紹介

ブルジョワエリートと極甘二人暮らし

菓子職人の修業でパリにやってきた杏奈。到着早々、職も住む場所も失い、フランス人・ロベールの家で居候させてもらうことに。彼は杏奈の世話を焼きたがり、過剰に甘やかしてきて!? 「ずっとそばにいて、僕だけのものになって」夜はベッドで抱き締められ、すきあらば情熱的なキス。刻み込まれる快感に身も心も蕩けて……。ブルジョワなエリートと幸せ&極上溺愛生活!

ジャンル:
現代
キャラ属性:
社長・セレブ
シチュエーション:
甘々・溺愛 | 玉の輿・身分差 | 船上・旅もの | オフィス・職場
登場人物紹介

ロベール・ペルノー

パリの高級アパルトマンに暮らすフランス人男性。カフェバーで酔いつぶれていた杏奈を居候させる。休日は無精髭にボサボサ頭の彼だが、仕事の時はスーツをビシッと着こなすハンサムな男に!

大山杏奈(おおやまあんな)

パティシエ―ルの修業で渡仏。お菓子を作るのも食べるのも大好き。何事にも一生懸命な努力家。パリにやって来て早々、働き口をなくしてしまい、ロベールの家に。彼の過剰なスキンシップに戸惑いつつも……!?

立ち読み

 あ──んと大きく口を開け、がぶりと一気に囓りつくと、ごく薄く何層にも重なったパイ生地がしゃくっザクっとえもいわれぬ音を立てた。
 さくりざくりと噛み締めれば、舌先に感じる優しい甘みと心地よい酸味。大好物の林檎のパイを口いっぱいに頬張った彼女は、一月の寒空をものともせずにご機嫌だった。
「……ううぅ、なんて見事なパイ生地それに絶妙な詰め物。この歯ざわり、そしてこの美しい焼き色! さすがはパリ一のショソン・オ・ポム……!」
 感動のあまり思わず声に出してしまったが、どうせ周囲の誰にも日本語なんか理解できっこないから問題ない。
 ここはパリ。花の都も季節は冬、新しい年を迎えて二日目のこの日は、真昼でも気温が十度に届かぬ肌寒い日だった。夜になればイルミネーションが輝く街路樹も、昼間は冬枯れした枝ばかりが目について寒々しい。
 だが、マレ地区の一角にある広場でベンチに座り、目を輝かせながら舌鼓を打っている彼女は、真冬の寒ささえ忘れているようだった。頭のてっぺんでルーズにまとめたおだんごヘアのほつれ毛が、時折結構な勢いで寒風に舞うのも構わず、自分の拳骨ほどもある大ぶりなパイを旺盛に食べ尽くす。
 やがてはふぅと満足の息を吐き、ふと時間を確かめた彼女は直後にぎょっとして勢いよく立ち上がった。
「やばい、あと十分もないじゃん!」
 あんまり美味しくて時間の感覚狂ってた、と自分に言い訳しつつ、胸元から膝の上まで散ったパイのかけらを手で払う。ハンカチタオルで指先と口元をさっと拭い、足の間に挟んでいたスーツケースのハンドルを引き上げて、慌ただしく広場の出口へ向かったが。
 通りに出た直後、ドンと誰かにぶつかってよろけた。
「ぅわ! あっ、ごめんなさい!」
 慌てて謝罪の言葉を叫びつつ相手を見やると、もじゃもじゃ髪に無精髭、薄っぺらいよれよれのコートの下に色落ちしたジーンズという、お世辞にも身なりがいいとは言えない男性だった。
 ややややばい、まさかスリ!? と思わず上着の上から財布を押さえるが。
「Ce n'est rien」
 声を荒らげるでもなく、相手は落ち着いた様子でそう返してきて。ちょっぴりだらしない身なりとは不釣り合いなほど洗練されたフレグランスが、一瞬ふわりと鼻先をくすぐる。
 ほっとして頬を緩めつつぺこんと頭を下げ、再びスーツケースを引っ張って歩き出した。


            1


 目指す店は、広場から歩いて五分もかからない場所だった。石造りの古い建物で、大きなウィンドウには黒い鉄の窓枠。そっと中を覗き込むと、現代的というより前衛的な店内は斬新でお洒落な雰囲気で、さすがパリだわ……とただただ感心する。
 奥のガラスケースの中には、輝くばかりに美しい色とりどりのケーキがずらりと陳列されていた。中でも一番目立つ場所にディスプレイされているのが、業界の専門誌から女性向けファッション誌まで様々なメディアに何度も掲載されている、この店の看板商品。
 そう、ここは新進気鋭の菓子職人が腕を振るう、パリでも指折りの人気を誇る菓子店なのである。
 一昨年のバレンタインに某有名百貨店で紹介されたのをきっかけに、日本のスイーツ好きの間でも一気に知名度が上がった。パリで最もファッショナブルなエリアと言われるマレ地区に構えた店は、マニアの巡礼先の一つとして数えられるようになったが、どんな好条件で誘われてもフランス国外への出店には頑として応じないらしい。そんなことをつらつらと思い出しつつ、うっとりとした眼差しでウィンドウ越しに店内を眺めて呟く。
「明日から私、このお店で働くのかぁ……」
 この店で菓子職人として修業するために、二十代最後の年にワーキングホリデーを利用してパリにやって来たのだった。東京で働いていた店のシェフが、かつて修業時代にこの店のシェフと一緒に働いていた縁で、弟子である彼女を送り込んでくれたのである。しかも、お給料もちゃんと出て住むところまで用意してくれるという破格の条件で。
 こんな素敵な店で働ける幸運に胸を高鳴らせながら、よし! と気合いを入れ直して店の入り口に突撃する。
「Bonjour, Madame. ムッシュ・ウノの紹介で日本から来た、大山杏奈といいます。シェフにお目にかかりたいのですが」
 大学時代に第二外国語で履修して以来のフランス語だが、幸いなことにちゃんと通じたらしい。にこりと笑みを浮かべて対応してくれた店員に懐から取り出した手紙を渡すと、彼女は「Un instant」と奥へ引っ込んだ。ガラスケースの中のプチガトーを見ている間に戻ってきて、「外から裏に回ってくれる?」と案内してくれる。
 一旦店の外に出て、通りに面した別の扉を開けてもらうと、建物の奥へ抜けたところにちんまりした中庭があった。いかにもフランスっぽい、オスマン様式と言われる造りで、そんなことにも「私、今パリにいるんだ」と感動してしまう。
 スーツケースと共に待つこと数分、中庭に面したドアからコックコート姿の男性が出てきた。杏奈も雑誌で見たことがある、間違いなくシェフご本人だ。
「ええと、きみ、ケンゴ・ウノの弟子だって?」
「はい! あの、先ほどの手紙が預かってきた紹介状で」
「ああ、見たよ。話も聞いてる。けど、なんてこった、こりゃ一体どういうことだ?」
 どういうわけか、シェフは難しい顔をしてしきりに首をひねっている。一体何事なのかと突如不安に駆られた杏奈に、相手は何やら言いにくそうに「実は……」と口を開いた。
「ケンゴの弟子と名乗ってやって来たのは、きみで二人目なんだ。つい一昨日、大晦日に別の日本人が来て、昨日から工房で働いてる。今日はもう上がってもらってここにはいないが」
 フランス語を聞き取って翻訳するのに時間がかかったせいで、杏奈の反応は三テンポくらい遅れていた。けれどそれでも。
「──ええぇぇぇ!?」
 思わず叫んだ。これが叫ばずにいられようか。
「来るのは年明けって聞いてたから、やけに早いなとは思ったんだ。でも、一日も早く仕事ができるようになりたくてって言われて……。きみに住んでもらうはずだった部屋も、もう彼女が使ってる」
「そんな……!」
 つまりだ。どこかの誰かが、杏奈のために用意されていたはずのポジションを横からかっ攫い、堂々と修業先に入り込んで居座っていると、そういうことらしい。
 愕然としている杏奈の様子にばつが悪そうにしながらも、シェフは無情に言った。
「きみには本当に申し訳ないんだけど、人違いだったからって今すぐクビにして追い出すわけにもいかない。とりあえず明日本人に訊いてみるから、今日のところはひとまず出直してもらっていいかな」
 フランス語の聞き取りに多少難があるせいではなく、今のこの状況が全く理解できない。混乱しきって思考停止状態の杏奈に無言で凝視されたシェフは、なんとも気まずげにふいと視線を逸らした。面倒事はごめんだ、という心情がありありと察せられ、杏奈はその場にへたり込みそうになるのを必死にこらえる。
「名前も確認しなかった、こっちのミスだ。状況を整理してからまた連絡するよ。……悪いんだけど、今日はまだ仕事が残ってるからこれで」
 そう言い残してシェフが背を向けるのを見つめ、呆然とその場に立ち尽くした。
 住み込みで部屋が用意されている、という話だったから、今夜の宿さえ取っていない。どうしよう、今夜どこで眠ればいいんだろう。というか、それより。
 また連絡するって、いつ? 明日? 明後日? いつ来るかもわからない連絡を待って、あてもなくホテルに滞在し続けるようなお金はない。どうしよう。どうすればいいの?
「……これはちょっと、こたえるなー……」
 足元の地面に向かってぼそりと呟き、深い溜息をつく。
 とにかくここにはいられない、と杏奈はとぼとぼ通りに戻った。さっきはあんなに軽かった足取りが、今は鉛の靴でも履いているかのように重い。機械的に足を動かして店から離れるが、行くあてもなければ頼れる相手もいない。見知らぬ大都会の真ん中で、一体何をどうすればいいのか。
 日本を発つ時には心配事など何一つなく、期待で胸がいっぱいだった。何もかもが順調にいくはずだったのに、今や全てが狂ってしまい、約束されていた全てを失った。夢と希望に満ち溢れていたついさっきまでの自分との、この果てしない落差。元気と根性には自信があったけど、パリのど真ん中にひとりぼっちでこの状況はちょっときつい……。
 あてどもなく無気力に彷徨い歩く杏奈を、道行く人々はなんの興味もなさそうに避けて通り過ぎていった。
 ──ただ一人を除いては。

 あれ、と男はその東洋人女性に目を止め、ふっと歩みを緩めた。
 さっき広場の出口でぶつかったあの子だ。だが、あの時とはどうも様子が違う。あんなに表情豊かで血色のいい顔をしていたのに、今は妙に青白く、生気がないというか……。
 気にはなったが所詮は他人、気にしたところでどうにもならない。そう考えてその場を立ち去ろうとしたのだが、なんとなく目を離しがたい。見れば見るほど、なんだか雰囲気が危なっかしいのだ。
 同じ方向へ歩き出したのは、単に自宅がそちらの方角だから。彼女のことが気がかりなのは事実だが、追いかけ回してまでどうこうするつもりは毛頭ない。そのうちどこかで道は分かれるだろうし……。
 何やら複雑な心境で眺めている男の存在などまるで気づかぬまま、彼女は黙々と通りを先に進んでいた。だが、一体どこまで行くつもりなのか。目的地はちゃんとあるのか? あのまま進んで北マレを抜けた先は、夜間の女性の一人歩きはちょっとお勧めできないエリアだ。スーツケースを抱えた観光客など、あっという間にスリやかっぱらいのカモにされかねない。
 ふと、彼女が立ち止まって顔を上げた。何本もの道が放射状に広がる、大きな六叉路。不安げな、今にも泣き出しそうな瞳で、途方に暮れたように立ちすくんでいる。ここがどこなのかもわからない、そんな顔だ。
 思わず声をかけようとして、だが男は躊躇した。そんな真似をして一体どうするのかと。観光客なんかほっとけばいい、身綺麗だからホテルに泊まる金くらい持ってるだろう。
 黙って見ていると、心細そうに辺りを見渡していた彼女ははぁと大きく息を吐き、角のカフェへふらふら入っていった。上品とは言えないが真っ当な商売をしている店で、男もよく使う馴染みの店である──実を言えばこの日も、午前中にブランチしに来ていたが。
 後ろ姿を横目で追うと、彼女は店のギャルソンに声をかけ、奥のカウンターへと歩み寄っていた。どさりとスツールに腰かける仕草は、いかにも疲れ切っている。だが、とりあえずこれで、危険地帯に突っ込む彼女を引き止める必要はなくなったようだ。
 ちょうど家の近くまで来た。帰ろう、と男は交差点を左に折れ、自宅アパルトマンのある通りへと進んでいった。

 それから二時間後。
 ふらりと入った交差点脇のカフェのカウンターで、杏奈は盛大に酔っ払っていた。

「ムッシュー、これ、もう一本」
 空になった瓶を掴んで口にしたフランス語はたどたどしく、発音もイマイチどころかイマサンくらい。そのくせ、要求だけはやけにきっぱりしている。もっと飲ませろ、と。
「お嬢さん、そろそろやめておいたほうが。たかが林檎酒で、べろんべろんですよ」
「じゃあ次はワインにする!」
「……シードルにしましょう」
 飲んでいるのはアルコールの弱い甘口のシードルだというのに、ぐでぐでに酔っ払って時折カウンターに突っ伏している。その様子を目にした周囲の客があからさまに眉をひそめるほど、いっそ見事なへべれけぶりだ。
 帰宅したものの妙に気になって落ち着かず、結局様子を見に来てしまった男は、顔馴染みのギャルソンに「なんだか大変なことになってるね」と若干呆れた声をかけた。
「おやロベール。昼もお会いしたのに、嬉しい再会ですね」
 親しげな軽口に、ロベールと呼ばれた男は「まあね」と曖昧に返しつつ、同じカウンターの端の席に腰かける。
「それより、一体どうしたんだあれ?」
「困った酔っ払いです。まさか、シードルなんかであんなにへべれけになるなんて」
「シードルであれって……子供か?」
「一応大人だと思いますよ。ちゃんとおっぱいついてますし」
 男二人がそうしてぼそぼそと噂しているのもまるで気づかず、口当たりのいいシードルをくぴくぴ飲んでは料理を食い散らかしていた杏奈だが。
 チラチラ横目で観察しながら安ワインのグラスを傾けるロベールの目の前で、ふっと静かになったかと思うと突然──ぼろぼろ泣き出したのである。
 ロベールも、カウンターの中にいたベテランギャルソンも、それを見るなりぎょっとして狼狽する。
「え、ちょ、お嬢さん!? ちょっと待って落ち着いてください何事ですか!」
『うああぁぁぁぁぐやぢいぃぃなんで私どうぢだらいいのおおおぉぉぉ』
「おいおい何語喋ってるんだあんた、せめて英語にしてくれって!」
 泣き上戸なのか、大声を上げてわんわん泣き出す。面食らったのは男たちだ。店中の視線がカウンターに集中し、何やら誤解したらしき紳士やご婦人が非難がましい視線を向けてくる。違う、自分たちは何もしてない、とギャルソンが弁解するように両手を挙げた。まさにお手上げ状態。
「勘弁してくださいよ……! ちょっとロベール、暇ならどうにかして彼女を落ち着かせてください」
「なんでそこでこっちに振るんだよ!?」
 言い返したロベールも、かなり動揺していた。大丈夫なのかと心配していた相手が、突然盛大に泣き出したのだ。カウンターの中で困り果てていたギャルソンは、ちょっと明日の仕込みを……なんて言いつつそそくさと逃げ出す。
 押しつけられたことに舌打ちしてから、仕方なく、全く不本意だが本当に仕方なく、彼女の隣に移動して声をかける。
「Bonsoir, mademoiselle. あー、フランス語か英語喋れる?」
「ぃえす、あい、きゃーん……うぅぅ、フランス語だって勉強ぢだのにいぃぃ!」
「……英語のほうが良さそうだね。で、こんなところでいきなりどうしたの? みんなびっくりしてるよ、ちょっと落ち着いて」
「ううぅぅ……ごめんなざいでも、でもわだぢ、ぐやぢぐで、もうどうぢだら……!」
「わかったから落ち着いて、ほら一口飲んで。ああ、酒じゃなくて水にしなって!」
「いいがらほっどいで飲まぜでえぇぇぇ」
 どうやら彼女はヤケ酒の真っ最中だったらしい。シードルなら水と大して変わらないか、と飲ませてやりつつ、「聞いてあげるから話してみなよ。どうしたの?」と優しげな声音で問いかける。
 そこでようやく、彼女はふっと顔を上げて相手を──ロベールの顔を見た。酔ってとろんとした目が一瞬訝しげにすがめられ、ふっと黙り込んだのだが。
 とにかく誰かにぶちまけたかったのだろう、問われるままに話し出す。自分が何故、遙か遠い極東の島国からはるばるパリまでやって来たのか。一体なんのために、たった一人でここまで来たのかを。
「──で、何やらむにゃむにゃ言ってたようですが、なんですって?」
 面倒くさい酔っ払いを常連客に押しつけ、素知らぬ顔で遠巻きにしていたギャルソンが、静かになった途端すすすっと近寄ってくる。そうして、カウンターに頬をくっつけて目を閉じている彼女をしげしげ見下ろして問いかけた。
「中国女? 韓国女?」
「日本人で、名前はアンナ。どうやら菓子職人らしいよ。ワーキングホリデーで、パリに修業しに来たんだってさ」
「ほう? なるほど。最近流行の店というと、どこも厨房に日本人の料理人がいますからねぇ」
 そう、パリには日本人の料理人が大勢いる。フランス人の有名シェフの店で修業した後、独立して自分の名前で店を構え、かの有名なミシュラン・ガイドで星を取った店さえある。レストランだけではない、日本人パティシエがオープンしたパティスリーだっていくつもある。
 この嬢ちゃん、そうは見えないがその類なのか。そう口にして物珍しげにじろじろ見ているギャルソンに、ロベールはひょいと肩をすくめて苦笑してみせた。
「ところがだ。マレのパティスリーで住み込みで働けるはずだったのに、誰かに割り込まれてポジションを奪られたらしい」
「おやおや。それは可哀想に」
「あくまで本人の言い分で、ほんとのところはどうかわからないけどね」
 うっすら冷めた目で話半分に聞いていたらしいロベールに、しかしギャルソンは片手で顎鬚を撫でつつ杏奈を見下ろす。
「まあ確かに、全部が全部ほんとかどうかはわかりませんが。このお嬢さんが菓子職人だっていうのは、多分本当でしょうね。ほら、見てくださいこの手」
「手? ……なんだ、やけに傷だらけだな」
 頭を横にしてカウンターに突っ伏している杏奈の、顔のすぐ脇に置かれた手。見るからに華奢な小さい手の甲や手首の至る所に、大小いくつもの変色した傷痕があった。
「これ全部、火傷の痕ですよ。料理人の手と同じ。焼けた鉄鍋か、甲側だからオーブンでしょうね。素人なんかじゃない、それなりにちゃんとやってる職人の手です」
 熱したオーブンに料理を出し入れする際に、よく手の甲が上部に触れて火傷するのだという。なるほど、一種の職業病かとロベールもしげしげ眺めてみる。
「菓子職人ねえ……」
「まあこのお嬢さんじゃ、ババ・オ・ラムやクレープ・シュゼットなんか作らせたら、その場で酔っ払いそうですけどね」
 くく、とギャルソンが愉快そうに笑う。ババはラム酒を、クレープ・シュゼットはオレンジリキュールを、これでもかというくらいたっぷり使うデザートだ。大の大人でも、酒に弱い人間は避けたほうがいいメニューである。
「まあ、パティシエが働く場所なんて、タイミング次第でいくらでもありますよ。なんたってここはパリ、美食の都ですからね」
「なんならここの厨房で使ってやったら?」
 やけに親身な口ぶりに、ロベールが軽い調子で提案してみるが、ギャルソンは小さく首を振った。
「うちのシェフは、こんな小さいお嬢さんなんか絶対厨房に入れないでしょうねぇ。オーナーからでも命じられたならともかく」
「だよなぁ。でも、どうすんだこれ? この季節じゃ、その辺の通りに捨てとくわけにもいかないだろ」
 言うだけ言ってすっきりしたのか、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている杏奈の姿に、何気なく呟いたロベールだったが。
「ロベール。そんなに気になるなら、連れて帰って一晩泊めてやったらどうです? 最近女連れで来ないってことは、別れたんでしょう?」
 何やら妙にニヤニヤしながら、ギャルソンが小声で囁きかける。するとロベールは途端に渋面を浮かべ、そっぽを向きながら吐き捨てた。
「振られたんだよ。悪かったな」
「おや、またですか。でも、だったらほら、ちょうどいいじゃないですか。ちょっと一晩持って帰ってみるのもありですよ。……こんな状態でそこらへ放り出したりしたら、一体どんなことになるか。心配でしょう?」
「だからってそこまでしてやる義理なんかない。なんでそんな面倒なこと」
 この状態で放り出すわけにはいかない、という意見には全面的に賛成するが。とロベールは呆れた眼差しで、眠りこける杏奈を見下ろす。
「なぁに。今夜一晩だけ、ソファに毛布でも貸してやれば十分でしょう」
「そんなに言うなら、お前が連れて帰ってやれば?」
「馬鹿なこと言わないでください。うちはラブラブなんですよ、誰かと違って」
 いっそあどけない寝顔を眺め、ロベールは無言で思案した。
 日本人が手癖が悪くて盗みを働くってのは聞いたことがないから、そういう危険はほぼないだろう。酔いが醒めたらちゃんと経緯を話して、穏便に出て行ってもらえばいい。なんなら、次の居場所探しを手伝ってやってもいい。そこまでしてやればきっと、自分も何ら良心の呵責を感じることなく、彼女を忘れ去ることができるだろう。
「……しょうがないなぁ。アンナ、ほら起きて。立てる?」
 肩を掴んで少々強めに揺さぶると、杏奈は目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、鬱陶しげにその手を払おうとした。「ねむいからもうほっといて……」とむにゃむにゃ呟きながら。
「ここで寝たら営業妨害だよ。──勘定してくれ、二人分」
「毎度どうも。これは厄介払いの迷惑料です」
 エスプレッソの小さなカップを差し出しつつにやりとしたギャルソンを、ロベールは呆れ顔で軽く睨んだ。こいつ、最初から押しつける気だったな。
「迷惑料にしちゃ安すぎる。しばらくは恩に着てもらうよ。ほらアンナ、立って」
 時間をかけてちびちび飲むべきエスプレッソをたった二口で飲み干し、寝ぼけてふにゃふにゃしている杏奈の腕を引っ張って立たせる。
 馬鹿でかいスーツケースの面倒も見ながらどうにかアパルトマンにたどり着き、エレベーターで最上階まで上がるまでの僅かな時間で、くったりとロベールにもたれていた杏奈は安らかな寝息を立て始めた。慌ててぺちぺち頬を叩き、「起きて! 目を覚まして!」と声をかけつつどうにか歩かせる。
 見知らぬ男の部屋に連れ込まれようとしているというのに、酔いが回っている杏奈には危機感のかけらもなかった。とにかく眠い。早くベッドに倒れ込みたい。何も考えず、何もかも忘れて、今はただ泥のように眠りたいもう寝かせてお願い……。
 杏奈を引きずりながらどうにか自宅のドアを開け、リビングのソファにとりあえず投げ出したロベールがほんの数秒目を離した隙に、杏奈はソファの端にうずくまるようにして眠り込んでいた。肩を掴んで揺さぶってみるが、完全に意識がない。
 今度こそ起きそうにないな、と見下ろして頭を掻き、ほんの一瞬考えてから。
「起きないものは、しょうがないよね」
 杏奈の体に両腕を回し、よいしょと肩に担ぎ上げたロベールは、そのまま自分の寝室へと運んでいった。

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