忠犬ハチ子の恋

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- 本販売日:
- 2019/11/05
- 電子書籍販売日:
- 2019/11/05
- ISBN:
- 978-4-8296-8392-7
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あなただけに尽くしたい。
社長の紫逢から秘書に任命された楪。天才IT社長と呼ばれる彼の力になりたいと尽くす毎日。過労で倒れた紫逢の部屋を訪ねたら、泊まっていけと誘われて!? 胸の先端を撫でられれば甘い痺れが広がる。巧みな愛撫で何度も絶頂を迎えるのに最後までシてくれない。不安になって涙ながらに想いを告げると「ずっと抱きたかった」とキスされて……。健気でまっすぐな運命の恋!

三木紫逢(みきしおう)
天才と名高いIT会社の社長。精力的でコミュ力も高いのに、どこか孤独を感じさせる。楪を秘書見習いとして側に置く。

鉢名楪(はちなゆずりは)
紫逢の秘書見習い。子供の頃に視力を失ったが、数年前に手術で快復。光を取り戻した世界に希望を抱いている。
十一月も半ばを過ぎ、吹く風は冬の香りを感じさせる。
京王線千歳烏山駅から徒歩六分、築二十年の三階建てマンションの二階角部屋が、今日から楪の帰る場所だ。
「だいじょうぶだよ、お母さん。そんなに心配しないで。うん、……そうする。はい、あっ、お父さんにもよろしくね」
通話を終えて、スマホの画面を前にため息をひとつ。
「ユズちゃん、お母さんなんだって?」
理知的なショートボブの女性が、キッチンから顔を覗かせる。
「大ちゃんと南緒先生に、よろしくって」
鉢名楪は、ヘアクリップで留めていた髪を下ろし、姿見の前に立つ。引っ越し業者が帰って、少しだけ部屋が広くなったように感じる。それでも、内見したときに比べれば家具が配置されたことで室内はスペースが限られていた。
肩口にかかる色素の薄い髪、下がり気味の眉尻と、黒目がちな大きな瞳。二十四歳にしては童顔な上に、身長一五四センチと小柄なせいか、楪はときどき高校生に間違えられる。
「叔母さん、心配してるんだろ。ユズがひとり暮らしするなんて、俺だって夢にも思わなかったからな」
ベランダで大きな箱を潰していた大貴が、ビニール紐で縛った段ボールを持って部屋に戻ってきた。
「うん。心配かけてるよね。ほんとうは、お父さんについて一緒にアメリカに行くべきだったのかもって思うんだけど……」
楪の父は、大手企業の海外交渉を担当する弁護士だ。この十年、楪を心配して長期の海外出張は単身で赴任することが多かったけれど、アメリカでの新規事業のため先週母を連れて海を渡った。
「ユズは、これから自立した大人の女性になるんだろ?」
ぽん、と左肩を叩かれて、楪はうつむきがちになっていた顔を上げる。
「う、うん、がんばる!」
「そんなに急いで大人にならなくたってだいじょうぶよ。ユズちゃん、困ったらいつでも電話してね。うちもすぐ近くなんだから」
引っ越しを手伝ってくれた鏑木大貴・南緒夫妻は、楪の大切な人たちだ。もともとふたりは、別々に楪の十年間を支えてくれていた。
大貴は母方の従兄で、昔から兄妹のように育った間柄だ。お互いにひとりっ子だったこともあり、七歳上の大貴が楪にとっては兄代わりの存在だった。
そして、南緒は長年楪の担当医だった人である。そのふたりが出会って結婚したのは、二年前の手術がきっかけだ。
「南緒先生も、あんまり無理しないでね。わたしにできることがあったら、いつでも声をかけてほしい」
スレンダーな体型のせいか、そういう体質なのか、南緒は妊娠二十二週目だと見た目ではわからない。姉さん女房の、三十七歳での初産を誰よりも待ち望んでいる大貴は、グラスに麦茶を運んできてくれた南緒から、ぱっとトレイを受け取る。
「お料理の腕は、どうやってもユズちゃんには敵わないからなあ」
ふふっと笑う南緒が、長方形の箱をこちらに差し出した。
「え、これ……?」
受け取っていいものかと、少し戸惑う楪に南緒が微笑みかけてくる。
「ユズちゃん、初めてのひとり暮らしおめでとう」
「俺も一緒に選んだんだからな」
そっと手を伸ばすと、手のひらに置かれた箱は思ったよりも軽い。包装の上からでは何が入っているのかわからず、楪は「開けてもいい?」とふたりに尋ねた。
「もちろん」
箱の中には、ウエリントンタイプの軽量メガネが入っている。
「わあ、かわいい……!」
「まだ、人混みとか電車に乗るときは目をカバーしたくなるって言っていたから、これなら普段使うのにいいかなと思って」
「ありがとう、南緒先生、大ちゃん!」
レンズ部分が丸く大きめで、フレームは細い。早速かけて鏡の前に立つと、大貴と南緒が左右から覗き込んでくる。
「ユズは顔が小さいから、メガネが大きく見えるな」
「似合うよ、ユズちゃん」
「わたし、大切に使うね。ずっとずっと、大事にする」
楪の視力は、メガネが必要な数値ではない。それでも、人混みや埃の多い場所へ出かけるときには、伊達メガネが必須なのだ。
「ブルーライトカットレンズだから、パソコン作業のときに使うのもおすすめよ」
南緒の言葉に、ふたりがどれほど自分を大切にしてくれているのかが感じられる。
「ほんとうに、ありがとう。見えるようになって良かった。こうして南緒先生の顔もちゃんと見られる」
十年前、楪は夏休みに家族で海外旅行に出かけた。帰国してしばらくすると、目の奥に痒みとも痛みとも判別しがたい異常を感じるようになった。最初に行った病院では、眼精疲労だと言われ、病院を変えても的外れな診断ばかり。一向に回復しないどころか、視力が極端に落ちてきて、両親は研究機関でもある大学病院へ娘を連れていった。
日本では症例の少ない、ウイルス性の感染症。すでに症状はかなり進行していて、楪は冬を待たずに左目の視力を、そして年を越す前に右目の視力を失ったのだ。
「陽菜さんの顔も、見てみたかったな……」
ぽつりとつぶやいた楪を前に、大貴と南緒がすばやく目配せをする。それに気づいて、慌てて明るい声を出した。
「あっ、そうだ。お茶、お茶飲もう。南緒先生が準備してくれたの。大ちゃんも、喉渇いたでしょう?」
「ああ。いただくよ。ほら、南緒さんも」
先ほどのトレイから麦茶のグラスを南緒と楪に渡し、大貴が冗談めかして「ユズの初めてのひとり暮らしに乾杯!」と言う。
飲み干した麦茶は、遠い夏の味がした。
これからここで。
楪は、暮らしていく。
──光をくれた人の分まで、たくさん幸せな世界を見て、いっぱい長生きするから……
「そういえば、来週から仕事も始まるんだっけ?」
南緒に聞かれて、少し緊張気味に頷く。
職場は、大貴が友人と共同経営する会社だ。一〇〇パーセント縁故入社である。
「最初は俺のアシスタントをしてもらう予定だから、心配しなくていいさ。人事担当で副社長の俺が採用したんだからな」
実はまだ社長に会ったことがない。それが少しだけ気がかりで。
「……ほんとに? ユズちゃんかわいいから、おかしな男に絡まれないように、大貴しっかり面倒見てあげてよ?」
「もちろん、任せといてよ」
始まったばかりの新生活に、不安がないと言えば嘘になる。けれど、それと同じくらい希望を胸に抱いているのだ。
長い長い時間を、父と母の与えてくれる優しい世界で過ごしてきた。普通なら二十四歳ともなれば、社会に出ていて当然の年齢である。
「まわりより少しゆっくりペースかもしれないけど、がんばっていくよ。そうじゃないと、お母さんが心配してアメリカから迎えにきそうだから」
冗談まじりの言葉に、大貴が笑い声をあげた。
「叔母さん、心配性だからな」
「ユズちゃんがかわいいからよ」
「でも、かわいい子には旅をさせよとも言うしさ」
「……実際、旅というか海外へ行ったのはご両親のほうだけどね」
「たしかに」
大貴と南緒の会話を聞いていると、夫婦っていいなあと思うことがある。息がピッタリ合っていて、お互いに相手を大事にしているのが伝わってくる。
──いつか、わたしも誰かとこんなふうに笑い合いたいな。そうなれたらいいな。
メガネをはずして、ケースにしまう。
新居は、築年数こそそれなりに経っているもののフルリフォームされていて、まだどこか新しいにおいがする。
──ここから、始めるんだ。
楪は自分に誓うように言い聞かせて、部屋の中をぐるりと見回した。
♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪
満員電車に乗ったのは、生まれて初めてだった。想像以上に人の密度が高く、一度上げた足を戻す場所がなくなる。京王新宿駅に着いたときには、息も絶え絶えになっていた。
──早めに出てきてよかった……!
始業時間には、あと五十分以上ある。
駅のトイレで髪を整え、汗ふきシートで首や胸元を拭ったあと、鏡の前でメガネをはずした。
角膜移植を受けた楪は、目に衝撃を受けることを極端に恐れている。手術から二年近く過ぎて、もう角膜は定着していると南緒からは言われていたが、それでも誰かがくれた大切な目なのだ。自分の不注意で駄目にすることだけは避けなくてはいけない。
気を取り直して駅を出て、スマホの地図アプリを頼りに都庁方面へ向かう。
目指すビルの外観を前もってネットの写真で確認してきたにもかかわらず、そこかしこに大きなビルがひしめき、どれもこれも同じに見えてしまう。
──場所はこのあたりのはずなんだけど……
目的地の近くまで来ると、地図アプリのナビは一方的に「ナビを終了します」と言ってただの地図に戻った。
一階のエントランス部分が広いガラス張りになっていて、回転扉のついたビル──
「あった!」
横断歩道の向こう側に目的のビルを見つけ、楪はほっと胸をなでおろす。時刻は八時四十分。九時始業だから、まだ余裕がある。あせらない、あせらない、と小さく声に出して、信号が青に変わるのを待った。
仕事が終わったあとで母と新宿に買い物に来たことがある。なるべく無難なブラウスやスカートを、着回しできるように選んだ。今日着ているのは、その中でもいちばん気に入ったシンプルなフリルのついたブラウスだ。
ビルのそばまで行くと、回転扉の脇には警備員が立っている。その少し横に、見慣れた大貴の姿を見つけて、楪は駆け出す。
「大ちゃん、おはよう」
「ああ、おはよう。思ったより早かったな」
「でも、もう八時四十五分だよ」
「電車も混んでいただろうし、駅からここまでひとりで来るのも、初めてなら迷うかもしれないだろ?」
よくがんばったな、と言って大貴が楪の頭を軽く撫でる。
「もう、いつまでも子ども扱いするんだから」
それを嫌だと思っているわけではない。大貴は当初、楪の最寄り駅まで迎えに来ることも提案してくれた。それを断って、自分で会社まで行くと言った楪を尊重してくれたのも、大貴の優しさだと知っている。
「それじゃ、行くか」
「はい、鏑木副社長!」
「……ユズに言われると、なんだかむず痒いな」
会社の名前は『ノーメロンノーレモン』という、名前だけを聞いても何をしているかさっぱりわからないものだ。
──メロンがなければレモンもない? なんだか意味が通らないような……
ビルの十三階フロア全部が、ノーメロンノーレモンのオフィスになっている。エレベーターをおりると、インターフォンのついた扉があり、大貴はそこで社員証を認証キーにかざそうとした。
「おはよう、鏑木」
そこに、エレベーターとは別の方向から声が聞こえてくる。
張りのある、少し低めの甘い声だ。
「ああ、おはよう。紫逢……、って、おまえまた階段で来たのか」
大貴と一緒にそちらに目を向けると、すらりと背の高い男性が立っている。十一月だというのにひたいにうっすらと汗を浮かべ、階段で来たというのが事実だと頷ける様相だ。
「健康のためだ。毎日毎日パソコンの前に座り込んでいるなんて、不健康だろう?」
「だったら、まずは自炊をしろ、自炊を」
「オレが指でも切ったら、プログラムが組めなくなる。そうなった場合、鏑木はオレの損失をどうやって埋めるつもりだ」
紫逢と呼ばれた男性は、シャツとジャケットは着ているものの、ネクタイを締めていない。年齢は大貴と同じくらいに見えるが、もしかしたらもう少し若い可能性もある。
黒い髪はテレビで見る芸能人のように雰囲気のあるパーマがかかり、精悍な輪郭と意思の強そうな目が印象的だ。少し唇が厚めなところも、妙に色気がある。
──だけど、どこかで見たことがあるような……? ううん、気のせいだ。こんな印象の強い人、会ったら忘れられないはずだもの。
「あ、ユズ、紹介するよ。俺の中高の同級生で、社長の三木紫逢だ」
「はじめまして、鉢名楪です。これからどうぞよろしくお願いします」
仲の良い同僚かと思いきや、彼が社長だったとは。
楪は、慌ててぴょこんと頭を下げた。
「……ハチナユズリハ? どこまでが名字だ。ハチナユズ、リハ?」
「いえ、鉢名が名字で楪が名前です」
「珍しい名前だな」
そう言って、紫逢がさっさと認証キーを解除し、オフィスに足を踏み入れる。
「おはようございます、社長」
「おはようございます」
大貴と共に、紫逢のあとを入っていくと、社員たちが一斉に立ち上がって挨拶をした。
「ちょっとマイペースだけど、悪いやつじゃないから。怖がらなくていい」
「そ、そうなんだ……」
小声で話していると、前を歩いていた紫逢がくるりと振り返る。
「ハチナユズリハ、ちょうどいい。今日から出社だったな」
ちょいちょいと手招きされて、楪は紫逢に駆け寄った。近くで見ると、背の高さにますます圧倒される。ゆうに一八〇センチはありそうだ。
「みんな、彼女が今日から我が社の新しいメンバーとなったハチナユズリハだ。鏑木の親戚だが、手加減は不要だ。それと、業務は俺の秘書見習いとする。以上」
「えっ!?」
大きな声を出したのは、楪ではなく大貴である。
「ちょっと待ってください、社長。ユズ……鉢名さんは私の下でしばらく業務を勉強しながら慣らしていくことになっていたかと思いますが」
楪もそう聞いていた。正直なところ、甘やかされている自覚はあったけれど、急激な変化は緊張につながる。大貴の提案はありがたかった。
「話はあとだ。ハチナユズリハ、荷物を持って社長室に来い」
「は、はいっ」
楪は、飼い主のあとを追いかける小型犬のように、小走りで紫逢のあとを追った。
残された大貴が、頭を抱えたのは言うまでもない。
無駄を一切排除した──というのが、社長室の印象だった。
社員たちが働くフロアとの間は、ガラスの壁で仕切られている。窓を背にしたデスクには、タブレットとデスクトップパソコン、液晶が二台。デスクの奥のガラスには、『No melon, No lemon』と社名のロゴが飾られている。
ささやかな応接セットはあるが、あまり使っている痕跡は見えない。
「それで、ハチナユズリハは何が得意だ」
座面と背もたれがメッシュになった黒い椅子に座ると、紫逢はくるりと椅子をまわした。
「プログラミングが少し……」
「へえ。プログラミングか、それは実用的だな」
通信教育でプログラミングの単位は取っていたが、仕事で活用しているプロを相手に口にできるような代物ではない。
「うちは、それほど大きな会社ではない。ここ数年で社員は増えたが、それでも百五十名程度だ。皆、一芸に秀でた即戦力を買って雇用している。そういう人材しか採用してこなかったというのが正しい」
「はい……」
「その上で、もう一度尋ねる。ハチナユズリハは、何が得意だ?」
つまり、彼らと同等と胸を張っていえる特技があるか、と紫逢は問うているのだ。
──でも、ここで逃げたら大ちゃんの面目も丸つぶれだ。
楪は、大きく息を吸って背筋を伸ばした。
「点字が読めます」
隠すつもりもないけれど、いちいち誰彼構わず「実は二年前まで目が見えませんでした」と言って歩く必要もない。そのことは、社会に出ると決めたときによく考えた。だから、履歴書にも余計なことは書いていない。
「点字か。たしかに誰も持ち合わせていない技能だな。パソコン点訳をやったことは?」
「少しだけですが、あります」
点字なんかできたところでなんの役に立つ──と言われることを覚悟していた楪は、紫逢の返事に内心驚いた。点訳という単語がスムーズに出てくるのも、予想外のことだ。
「社長は、点字にお詳しいんですか?」
「……身近に詳しい人間がいたというだけだ。だが、場合によっては今後、点訳を頼むこともあるかもしれない」
「はい、わかりました」
今の楪を見て、八年間も光のない生活をしていたとは誰も思わないだろう。
「人と違うことができるのは個性だ。たとえ、すぐに業務に結びつくものではなくても、それができる人間がいるということに意味がある。経験があろうとなかろうと、できることはやってもらうし、できないことはできるようになってもらう」
「は、はいっ」
三木紫逢は、不思議な男だ。
華やかな外見と、甘く低い声。無駄を嫌う性格が窺える部屋で仕事をしながら、役に立つかわからない技能を評価する。
──でも、これでわたしも社会人の仲間入りなんだ。
彼は、じっとこちらを見つめていた。幅広の二重まぶたの下、少し灰茶色がかった不思議な色の目がまっすぐに楪を射貫く。
その瞳に、うまく言い表せない感情を覚え、楪は沈黙に戸惑った。
まるで懐かしむように、あるいは眩しさに目を細めるように、それでいて寂しげな目をして紫逢は楪を見ている。
──なんだろう。社長は、何かを見定めているのかな。
目をそらすのもどうかと思い、楪も彼を見つめる。一見、カジュアルに過ぎる服装も、彼の雰囲気にはよく似合っていた。頬のラインが美しく、いわゆる整った顔立ちと言って間違いない。
それなのに。
紫逢は、きれいな顔立ちをしていながら、どこか陰を感じさせる。寂寥とも寂寞とも言いがたい、表面には見えない何か──
彼がパンと両手を打ち鳴らし、突然沈黙はかき消された。
「それじゃ、次はオレの今週のスケジュールの調整をしてもらう。ハチナユズリハ用のノートパソコンとタブレットが準備してあるはずだが、」
デスクの上を見回し、特にそれらしきものがないと気づいたのか、紫逢はスマホを取り出してどこかに発信する。
それもそのはず、楪は大貴の下で働く予定だったのだから、社長室に荷物が運ばれているはずがない。
「ああ、オレだ。新人のデスクは準備できているか? わかった。じゃあ、悪いんだがこっちに運んでくれ。こっちはこっちだ、社長室だよ」
その言葉に、思わず目が飛び出そうなほど驚く。社長室は、社長が使うからこその社長室ではないのか。
「いつ? 今頼む。そう、今。すぐ」
挨拶もなしに通話を終えると、紫逢が椅子から立ち上がった。
「プログラマとして即戦力になるとは思えないし、かといってオレの秘書見習いなら開発フロアに座らせておくのも意味がない。ここにデスクを入れてもらう」
「はい、よろしくお願いします」
五分と経たず音を立ててデスクが運ばれてくる。先頭の担い手は大貴だった。
「社長、どのあたりに置けばいいんですか?」
「右の壁際、違う、もっと手前だ」
細かく場所を指定する紫逢に、大貴がやれやれと肩をすくめつつも言われるとおりに設置が終わる。
「ユズ、だいじょうぶか?」
「うん、心配しないで。社長っておもしろい人だね」
「……いや、おまえがそう思うならそれはそれでいいんだけどな」
ノートパソコンとタブレット、それに社員証が貸与され、楪はなんだかそれだけで社会人になれたような気がしていた。
「鏑木、ハチナユズリハに仕事用のスマホを一台、それとターミナルソフトとグループウエアの設定資料をタブレットに転送、名刺の発注、肩書きは『社長秘書兼ユニバーサルデザインプロダクトチームサブチーフ』だ」
「待て待て待て、そんなチームはない。それにいきなりサブチーフってなんだ!?」
ほかの社員が出ていったあとだからか、皆の前では敬語で話していた大貴が、砕けた話し方に変わる。
「聞けばハチナユズリハは点字の読み書きができる。だったら、そういう人材がいることを対外的にアピールしていかなければもったいないだろ」
「それはそうかもしれないが……。いや、だからってサブチーフって!?」
「安心しろよ。チーフは鏑木だ。あとは、たしか浮田が大学時代に手話サークルにいたと言っていたから、アイツも入れよう。ほかには友野と千曲だな。友野は以前老人介護施設で働いていたし、千曲はヘルパー三級を持っているはずだ」
社員の名前と情報を諳んじる紫逢を見て、楪は今日いちばんの驚きを覚えた。
──社長になる人って、やっぱりすごい。社員のことを全部覚えていて、その人に合った仕事を割り振ることもできるんだ。
「社長ってすごいんですね……」
感嘆の声をもらした楪に、紫逢がふっと目を細める。
「ここはオレの会社だ。オレが社員を把握していなくてどうする」
その瞬間。
なぜか、胸が妙にざわつくのを感じた。
──そうだ。社長はカッコイイから、つい緊張しちゃうんだ。それに、わたしはあまり男性と……というか、人と接することのない生活をしていたんだもの。こんなふうに笑いかけられたら、緊張するのも当然だよ。
いまいち説得力のない理由で、自分を納得させる。目が合うだけでドキドキしていては、一緒に仕事をする上で支障が出るからだ。
紫逢は、いわゆるワンマン社長と呼ばれるタイプなのかもしれない。そんなことを考える楪の隣で、大貴ががっくりと肩を落とす。
「じゃあ、今名前の上がった全員、名刺作り直しってことで……」
「よろしくな、副社長兼ユニバーサルデザインプロダクトチームチーフ兼総務部長兼人事部長」
落ちた肩に追い打ちをかけるように、紫逢が大貴の背中を叩いた。

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