戻る

罪深く、君に溺れる 社長と秘書の再会愛 1

第一話

 重厚なウォールナット材のドアを開けると、正面には総ガラス張りの壁面が映す、ダイナミックな夜景が目に飛び込んでくる。中央に大きなソファ二台が対面で配された贅沢な空間は、横手奥の執務室へと続く。都心一等地のランドマーク最上階からの眺め、シンプルながら上質を極めた社長室のしつらいは、長く日本の経済界を牽引してきた名門企業の威風を象徴していた。
 続き間の社長秘書室とこの部屋を行ったり来たりしていた堀口美葉(ほりぐちみよ)は、気づかわしげに時計を見て足を止めた。抜けるように白い肌、撫子の花を思わせる上品でしとやかな顔立ち。シンプルな黒いスーツを纏った身体はほっそりと華奢ながら美しい曲線を描いている。 
 大学卒業後、美葉が総合商社の栖川(すがわ)商事に入社して四年になる。この度社長が急遽交代することになり、社長秘書を務める美葉はアメリカから帰国し着任する新社長の到着を落ち着かない気分で待ち受けていた。
 彼とは初対面ではない。面と向かうのは七年ぶり──。
 胸の底に深く埋めたはずの苦い記憶が蘇り、美葉はそれを断ち切ろうと大きく一つ深呼吸した。今は秘書としての役割に集中する時だと自分に言い聞かせる。
(飛行機は定刻通りに着いたと……)
 何も連絡は入っていないが、道路が混んでいなければもうとっくに到着しているはずだ。
手元のスマートフォンで交通情報を確認した美葉は、はるか眼下にまたたく砂粒のような街明かりに視線を落とした途端、心の中で呻き声を漏らした。もう四年もここで勤務しているのに、いまだに美葉はこの眺めに慣れることができずにいる。この落ち着かない感覚の原因は高所恐怖症というだけではない。
 美葉は少しためらってから執務室のドアをノックした。
「社長。お夕食はいかがなさいますか?」
 返事がないので「失礼します」と声をかけて部屋に入ってみたが、中央にあるどっしりとしたデスクにその人の姿はない。
「……社長?」
 不安にかられて美葉が近寄ろうとした時、デスクの向こう側から「よいしょ」という声とともに白髪交じりの年配の男性がよろめきながら立ち上がった。両腕には重そうな書類の束を抱えている。
「ああ……どうかしたか? 社長って言うから、誰のことかと思ったよ」
 美葉に笑いかけるその男性は今日まで長きにわたり栖川商事の社長を務めてきた人物だ。病気治療のためアメリカ支社長を務める長男に社長の座を譲り、自身は会長職に退くことを決め、先日執り行われた取締役会で承認を得た。
「栖川会長」
 美葉は咳払いして言い直した。
「驚かさないでください。また倒れていらっしゃるのかと」
「はは、大丈夫だよ。あの時は本当に心配をかけたね」
 栖川会長は笑いながら答えたが、その声に以前のような張りはない。書類の束をデスクに置くと、彼は少し息苦しそうに咳込みながら椅子に腰を下ろした。
「たしかに僕は病気だが、何も今日明日死ぬわけじゃない」
 自身に言い聞かせるようなそんな言葉を聞くと余計に美葉は不安と悲しみで胸が詰まるような思いになったが、努めて明るい声で言った。
「でもデスクの片付けは私に指示して、少しでもお身体を休めてください。入院治療前の大事な時期ですから」
 それでも会長はまた手を動かし始める。
「僕はもう社長秘書の言うことを聞かなくていい身分なんだ」
「もう……子供みたいな理屈を」 
 すると栖川会長はふと手を止め、温かな目で美葉に微笑みかけた。
「一緒に仕事できるのも今日までだね。今まで本当にありがとう」
「社長……」
 新社長の到着を待つ事実上の退任日。こちらは名残惜しさを 必死に堪えているのに、そんな不意討ちをされるとみっともないところを見せてしまいそうだ。美葉は震える息をぐっとのみ込んだ。お別れの挨拶はしたくない。
「私は社長の復帰を信じていますから、まだまだお世話になるつもりです」
 ついまた〝社長〟と呼んでしまったが構わず喋り続ける。
「それで、お夕食はどうなさいますか?」
 美葉は先ほどの質問を繰り返した。
「新社長のご到着が遅れておりますし、打ち合わせのあとお食事されるようでしたらお店を予約しておきますが 」
「そうだな……お願いするよ」
 栖川会長は苦笑して答えた。
「家に誘っても、あいつは来たくないだろうな。六年ぶりの本帰国であってもね」
 栖川家の事情を知る美葉はただ控え目に微笑んだ。
「生まれ育った実家だというのに寂しいことだよ。だが、すべて僕のせいだ。貴範(たかのり)が他人行儀なのは」
「そんなことは……」
 何かフォローしなければと口を開きかけた美葉はちくりと胸を刺すかすかな痛みに言葉を止めた。その名を見る度、耳にする度、抜けない棘のように美葉の心のどこかにあの頃の痛みが存在し続けていることを知る。
 美葉のそんな心中を知らない栖川会長はすぐに元の調子に戻った。
「美葉ちゃんみたいな娘が欲しかったなぁ。いつも傍にいて構ってくれて、心配してくれるようなね」
「会長……何度も申し上げていますが、会社でその呼び方は」
「まあまあ、仕事中はちゃんと堀口さんと呼んでたじゃないか」
 会長がいつになく陽気で口数が多いのは、思いがけない大病で予定より早く職を去ることになった無念や寂しさ、重い責任から解かれる安堵など、万感迫る胸の内ゆえだろう。美葉は苦笑し聞き役になる。
「男は駄目だ。弟の方は美葉ちゃんも知っての通り甘ったれで世話が焼けるし、兄の方は仕事はできるが、まるで機械か氷のように感情がない。父親の一大事でも仕事を優先するんだから。美葉ちゃんも呆れただろ?」
 その時美葉の背後のドアが開き、低くなめらかな声が響いた。
「機械のような息子で申し訳ないですね」
 ああ、この声──。
 振り向かなくてもわかる。威厳ある低音ながら肌をそっと撫でられるような色香を内包する声。彼の視線を受け止めながら最後にこの声を聞いた遠い記憶が胸を刺し、美葉は一瞬だけ瞑目して息を止めた。
「おお貴範、長旅ご苦労だったな」
「いいえ。首都高が混んでいて遅くなってしまいました。申し訳ありません」
 会長と新社長が会話している間に脇に寄り、俯き加減に待機する。そうしながら美葉は跳ね上がったまま落ち着きを取り戻してくれない鼓動を必死に鎮めようとしていた。
 栖川会長がにこやかな笑顔を美葉に向ける。
「こちら、秘書の堀口美葉さんだ。貴範も家で会ったことがあるだろう?」
〝家で会ったことが〟
 その言葉への彼の反応が怖くて、美葉は先んじるように急いで目を伏せたままお辞儀をした。
「秘書を務めさせていただく堀口です。よろしくお願いいたします」
「栖川貴範です。これからお世話になります」
 美葉の挨拶に当たり障りのない言葉が淀みなく返される。
 七年ぶりの会話の呆気なさに今更ながら虚しさを抱きつつ、ここでようやく美葉は顔を上げ、今日から上司となる新社長に視線を向けた。
 広い肩幅に、細身ながら堂々とした長身の体躯。凛として整った知的な顔立ちは涼やかでいて強固な意志と統率力を感じさせる。栖川貴範──名実ともに日本経済界の頂点に立つ栖川商事の若き総帥。彼の姿をこうして目の前にするのは七年ぶりだ。この日が来ると知った時からずっと心の準備をしてきたはずなのに、彼を見た瞬間、目の前が揺れたような衝撃を覚えた。
〝公館なくとも栖川あり〟
 かつてそんな言葉を生むほど、栖川商事は日本政府の外交よりもいち早く海外の辺境地域にまで進出し、あらゆる分野で世界にその存在感を示しながら貿易と経済の発展を牽引してきた。
 世襲制を守る栖川一族の本家嫡男である貴範は、その巨大帝國の頂点に立つことを運命づけられた生粋のサラブレッドだ。七年ぶりに見る彼は美葉が初めて彼と出会った当時よりさらに圧倒的なオーラを放っていた。
「疲れているだろう。まあ座りなさい」
 栖川会長が打ち合わせ用のソファを貴範に勧める。
「アメリカ支社は問題なく引き継げたのか? 慌ただしかっただろう。急なことで悪かったな」
「いいえ。新しい支社長はもともと僕の補佐を務めてくれていた人物なのでスムーズでしたよ」
 貴範はソファに腰を下ろしたが寛ぐ様子はなく、すでにノートパソコンとファイルを開き打ち合わせを始める態勢だ。栖川会長から引継ぎ資料を受け取った貴範はそれを幾枚かめくり内容をたしかめると、一瞬だけ美葉に視線を寄越して短く尋ねた。
「この資料のデータは?」
「私が管理しています」
「あとでいいので僕に送ってください」
「はい」
「堀口さんとの業務打ち合わせは毎朝のブリーフィングの中で行っていきます」
「承知いたしました」
 一切の間を置かないテニスのラリーのようなやり取りに、彼はこれまで仕えてきた栖川会長とは違うタイプの指揮官であることを感じ、美葉は思わず背筋を伸ばして答えていた。
 栖川会長もソファに腰を落ち着けたが、まずは小言から入った。
「それにしても、かなり待ったんだぞ。遅れるなら連絡の一本ぐらい寄越したらどうだ」
「入れましたよ。会長のスマートフォンに直接」
「ええ? あ、本当だ。気づいてなかった」
 その会話を聞く美葉の胸がちくりと痛む。秘書に連絡を入れる選択肢も当然あるのに、彼はそれを選ばなかったということだ。
 しかし、この部屋に到着し引継ぎをするまでは着任前とするなら自然なこととも言える。 些細なことを気にしてしまう自分が嫌で、美葉は笑顔を作り栖川会長に尋ねた。
「お飲み物をご用意しましょうか?」
「そうだね。何がいい?」
 会長が貴範に尋ねると、すでに資料を読み込み始めていた彼が顔を上げた。
「コーヒーをお願いできますか」
 言葉遣いは丁寧だが、美葉に向ける彼の視線はどこか冷ややかだ。
「はい」
 頷いてすぐ貴範から視線を逸らした美葉に、栖川会長が自分のオーダーを伝えてくる。
「僕はいつものあれね」
「かしこまりました。いつものですね」
 緊張しつつも、会長につられるようにして美葉の口元に自然と笑みがこぼれる。巨大企業のトップという肩書に似合わず、栖川会長が一日の最後に好むのは昆布茶というのが可愛らしい。
「堀口さんが淹れてくれると特別美味しいんだ」
「昆布茶は誰が淹れても同じ味です」
 会長の適当な冗談に美葉もいつものように返す。しかし気のせいか横顔に貴範の鋭い視線が注がれているように感じ、美葉は微笑を引っ込めた。
「他に御用はありますか?」
「いいえ。何かあれば呼びますので」
 栖川会長ではなく貴範が答える。頬を叩かれたような気分になり、美葉は頭を下げて退室した。
 パントリーに向かいながらどっと息を吐く。わずか数分の対面だったのに身体中が凝っている。
「お砂糖とミルクはどうするのか聞き忘れた……」
 かつての彼はどうだったか、彼と接したわずかな記憶の中に手がかりを探しかけた美葉は、その苦しさに顔を歪めて断念した。
 飲み物の好みなど、いずれわかる些細なことだ。それよりも美葉に溜息をつかせるのは、彼に信頼される日はきっと来ないだろうという不安だった。
 アメリカ支社長時代、彼は日本のみならず世界の経済誌に度々登場するほど辣腕で知られ、栖川グループの歴史の中でも稀有な経営者になることが確実視されてきた。世界経済の中心であり実力主義のアメリカでは、訓練を受けたプロフェッショナルな秘書が彼についていたことだろう。
 それに対し、今回の社長交代は急なことだったため新体制を組む時間がなく、栖川会長の独断で社長秘書は美葉が引き続き務めることに決められた。業務移行で起きるであろう細かな引継ぎの漏れに対処しやすいからだ。だとしても、もし余裕ある交代劇だったなら貴範は自分を選ばなかっただろうという自覚が美葉にはある。秘書としてのスキル云々という理由以前の、他の理由で。
 海外生活が長かった彼には日本茶がいいかしらと、余計なことをあれこれ考えて茶葉を 準備した自分が昔と変わらず幼稚に思え、コーヒーを淹れながら美葉は寂しく笑った。
 飲み物を出し終えたあとは呼ばれることもなく、美葉はしばらく仕事に専念できた。しかしすぐ先の部屋に彼がいると思うと落ち着かない。
 プライベートの貴範とわずかに接したことがあるだけの美葉にとって、仕事場での彼を見るのはこれが初めてだ。美葉が飲み物を準備するためにパントリーにいたのはわずか五分ほどだったが、執務室に戻った時にはすでに会長と貴範は打ち合わせを始めていた。普段はおっとりしている栖川会長までもがピリッと締まって見えるほど執務室の空気は緊張感に満ちていた。
 会長は〝他人行儀〟と嘆くが、社長を務めるには貴範はまだ若すぎるという声や世襲制について前時代的との世間の厳しい声もある中、親子の馴れ合いなど一切介在させない貴範の姿勢にはやはり敬意を払うべきだろう。
 大企業の一つの時代が終わり、新しい指揮官のもと新しい時代が始まる瞬間を迎えているのだ。自分はそれについていけるだろうか? 様々に思いを巡らせながら、こうした交代劇の間も次々と届くビジネスメールを整理し続ける。
「栖川です。入ります」
 仕事に没頭していると、突然貴範の声が響いて社長室と繋がるドアが開いた。驚いたはずみで美葉は椅子から飛び上がり、膝に置いたままにしていたスマートフォンを床に落としてしまった。
「お、…お疲れ様です」
 慌ててお辞儀をして取り繕ったが、貴範にはスマートフォンをいじってさぼっていたように見えただろう。
「いえ……私が拾います」
 こちらに一歩踏み出した貴範を制し、決まりの悪い思いで小さくなりながら床の上のスマートフォンを拾う。拾ったあとで、もしかして貴範の今の動きは別の目的があっただけで、自分は勘違いなことを言ったのではないかと恥ずかしくなってきた。
 タイトなスカートの裾がめくれないよう気にしつつ美葉がもじもじと立ち上がると、それを待っていたように貴範が口を開いた。
「打ち合わせが終わりました。会長は今、自宅に電話中です」
 自分の家族同士の通話なのにわざわざ席を外した彼の行動は、栖川家の中での彼の立ち位置と家庭事情を映している。
 電話の相手である現在の栖川会長夫人は貴範の実の母親ではない。もとは栖川会長の愛人で、貴範の母親から妻の座を奪う形で夫人となった。席を外したのは父親が夫人と気兼ねなく会話できるようにという気遣いだけでなく、貴範にとって進んで聞きたい会話でもないという本音もあるのだろう。
 突然貴範と二人きりになり焦った美葉は、飲み物のカップを片付けるという名目で社長室に逃げ出したかったが、電話中との言葉に足を止めざるを得なくなった。社長秘書室に沈黙が落ちる中、何か業務連絡などこの場を凌ぐ用件はないか、必死に考える。
 沈黙を破ったのは彼だった。
「店を予約してくださっていると聞きましたが、何時ですか?」
「あ……、神楽坂(かぐらざか)のお店を八時で予約しています」
 美葉が手の中のスマートフォンに視線を落とし時刻をたしかめたのと、貴範がちらっと腕時計を見たのは同時だった。そろそろ向かってもいい頃だが、会長はまだ電話中。運転手に待っていてもらうことになるかもしれないが、もう社用車をロータリーに回すよう連絡を入れた方がいいだろうか?
 些細なことだがこうした対応は各々異なり、運転手を待たせるのは申し訳ないという重役もいれば、自分が待つのが我慢ならないという重役もいる。貴範はどちらなのか、美葉は勇気を出して尋ねた。
「車をロータリーに回すよう連絡を入れましょうか?」
 すると貴範は迷うことなく答えた。
「会長が電話を終えてからで」
「はい」
 却下された形だが、運転手を尊重する返答に美葉は少しほっとして頷いた。
 しかし、次に彼から投げかけられた質問に美葉の表情は陰った。
「会長の病状はお聞きになっていますか?」
「……はい」
 会長が大病に冒されていることが判明したのは、執務室で倒れ救急車で運ばれたことがきっかけだった 。発見したのは美葉だ。あの時の衝撃と恐怖を思い出し、美葉は言葉を詰まらせてしまった。いつも穏やかな笑顔を絶やさない会長が土気色の顔で床に倒れていたあの光景はこの先もずっと忘れられないだろう。
「昨年の人間ドックでは何も 異常はなかったのですが……」
 説明しかけた美葉はその病名を口にすることに耐えられず、唇を噛んだ。
 病院に運ばれ処置を受けると会長はすぐに意識が戻り呼吸も安定したが、検査の結果、肺に悪性腫瘍が見つかった。かなり進行しており、おそらく手遅れだというそのステージを聞いた夜、美葉はアパートに帰って一人で泣いた。少し前から会長が度々咳込むことに気づいていたが、風邪気味だという本人の説明に納得してあまり気に留めていなかったことが悔やまれてならなかった。
 早くに父親を亡くした美葉にとって、温かく穏やかな人柄の栖川会長は父親を象徴する存在だった。貴範を前にしている今も後悔や不安がこみ上げてくる。しかし貴範は会長の実の息子だ。部外者である美葉のひとりよがりな感傷など彼の前で軽々しく見せるものではない。美葉は目をしばたたいて俯いた。
 そんな美葉の涙に気づいたのかそうでないのか、しばし沈黙した貴範が口にしたのはまったく別の、そして二人にとって禁句ともいえる話題だった。
「弟の友基(ともき)とは今も?」
「……えっ?」
 突然の話題に美葉は思わず聞き返してしまった。
「あ……、あれは──」
「堀口さんが入社されたのは弟の推薦だそうですね」
「……はい」
 過去の誤解を訂正しようと美葉が何か言葉を口にする前に、美葉にとって都合の悪い事情を示される。これに関しては紛れもない事実で、美葉は認めるしかなかった。
 俯いている美葉の耳に、彼が呆れたような冷笑を漏らすのが聞こえた。
「父は君を気に入っているようだが……」
 どうして、ここで顔を上げてしまったのだろう。  
「相変わらず上手いな」
 七年ぶりの彼の視線。美葉に向けられたのは、あの時と同じ軽蔑に満ちた皮肉だった。
 この再会に彼の温かな言葉を期待していたわけではない。むしろ美葉とは比べようもなくスケールの大きい激動の世界に生きる彼が軽蔑の対象であれ美葉のことを覚えていてくれているなら、そのことに感謝すべきなのだろう。
 そう考えようとしても、胸を一突きされたように美葉の鼓動は動きを止めた。
 無知だったあの頃の幼く無様な恋。美葉にとって唯一の恋の記憶。

 美葉が生まれ育ったのは東京から遠く離れた山あいの小さな田舎町だ。農業や畜産業を主とするその町には商業施設はおろか、ビルと呼べるような建物がほとんどない。美葉は高校を卒業して町を出るまでファストフード店に一度も行ったことがなかったほど、世の流れとは無縁の町だ。
 父親は庭師で、個人で造園業を営んでいた。収入は少なく家計は決して豊かではなかったが、ささやかながら温かな家庭だった。
 ところが美葉が小学一年の時、一家を悲劇が襲った。父親が作業中の事故で亡くなったのだ。
 美葉は六歳、弟はまだ二歳になったばかり。しがない個人の自営だったため補償などはなく貯蓄もない状況で、病弱な母親は子供二人を女手一つで育てなければならなくなった。一時は生活保護を受けるほど困窮する中、美葉は衣服はもちろん文房具まで切り詰め、幼い時から母親の代わりに家事をこなし弟の面倒を見て家庭を支えてきた。
 大学進学などは到底望めない経済状態だったが、学歴がないせいで職に就けず困窮した経験から、母親は借金をしてでも子供を大学に行かせたいと願った。
 とはいえ地元に大学はない。学業成績が優秀だった美葉は教師の勧めもあって東京の大学を志した。残念ながら学費の安い国立大は叶わず私立大に進学することになったが、奨学金を取得し、時間の許す限りアルバイトをして、学費も生活費も一切実家に頼らず自力で工面した。
 東京の家賃の高さは田舎とは比べ物にならない。わずかなお金で借りることができるのは 駅から遠くセキュリティなどまるでない老朽化した小さなアパートだ。お洒落をする時間も金銭の余裕もなく、卒業したあとは奨学金の返済も待っている。それでも美葉は懸命にアルバイトをしながら学業に励んだ。
 美葉が進学した大学は難関というだけでなく富裕層の子息が多いことでも知られている。苦学生のうえ地方から出てきたばかりの美葉は気後れすることが多かったが、そんな美葉に分け隔てなく話しかけてきたのが貴範の弟、栖川友基だった。
 富裕層が多い学内でも超がつく一流企業の御曹司である友基は有名人で、いつも取り巻きに囲まれ、華やかなルックスと派手な振る舞いで目立っていた。
 彼と同じゼミになり声をかけられるまで、美葉は彼を別世界の住人として視界に入れていなかった。嫌悪していたわけでも卑屈になっていたわけでもなく、あまりにも文化が違いすぎるからだ。
 美葉はといえば、数点の地味な服しかない着たきり雀で、美容室に行くお金もなく格安店でカットしてもらうのがやっとという生活だ。裕福で綺麗に着飾っている同級生たちには馴染めそうになかった。
 しかし、友基はそんな美葉に屈託なく話しかけてくる。友基と親しくなるにつれ、美葉は彼が深い劣等感を抱えていることを知っていった。
『美葉ちゃんは根性あってかっこいいよなぁ。ちゃんと頭で大学に入って自分で学費払っててさ』
 友基は美葉の地味で垢抜けない服装を見下げるどころか、眩しく思っているようだった。
『俺、金を使うしか能がないんだ』
 友基の母親は元はホステスで栖川会長の愛人だったが、友基を身ごもったことで関係が表面化したのだという。当時の妻だった貴範の母親は離婚を選び、友基の母親が栖川夫人の座に収まった。
 そんな経緯があって友基は自分が好ましからざる存在だという意識を拭えず、それがかえって派手な振る舞いや放蕩に繋がっているようだった。周囲の人間は自分自身ではなく、栖川家の金やステイタスに群がっているだけ。その実、本来は私生児として生まれるはずだった自分は栖川を名乗っているだけのまがいものだと。
 金やステイタスに興味がない美葉に、友基はよくそんな本音を打ち明けてくる。弟がいるせいで面倒見がいい美葉は彼を放っておけず、いつも聞き役になっていた。
 ある日、誰かの家に集まってゼミの課題をやろうという話になった時、ゼミ仲間の一人が友基の家がいいと言い出した。
『友基の家、すげーデカいんだぞ』
 自分の家柄に群がる友人しかいないと嘆く友基だが、人がいい彼はこういう時いつも二つ返事で承諾する。
 そうして訪れた友基の家は、美葉には驚くことばかりだった。普通の一軒家とはまるで違うのだ。
 ガレージは専用の鉄筋コンクリートの建屋があり、マンションの駐車場のように何台もの車がずらりと並んでいる。どれも高級車ばかりだ。玄関だけでも美葉のアパートより広い。恭しく出迎えてくれた女性を友基の母親だと思い美葉が丁寧に挨拶したら、友基に『お手伝いさんだよ』と説明された。庭園も一つではなく、各部屋からそれぞれ趣向の異なる景色が 望めるように設計されていた。
『兼六園(けんろくえん)の部屋にしようぜ』
 仲間たちが兼六園と呼ぶ部屋は石灯籠と池のある日本庭園に面した大きな部屋だった。明治時代の洋館のようなインテリアで、レトロな趣のあるソファが何台も並んでいる。
 ゼミの課題などどこへやら、ソファにひっくり返ってはしゃぐゼミ仲間たちは兼六園のような趣ある風情とはおよそかけ離れた騒ぎを繰り広げている。
 苦労して育ったせいか、美葉はこうした大学生らしいバカ騒ぎが本当は苦手だった。いつも角が立たないようにそっと距離を置いて騒ぎが収まるのを待つのだが、この時の美葉は一人窓辺で景色に見とれていた。
 夕闇に沈む庭園は実に美しかった。百日紅や紅葉の木が植わり、苔むした岩で囲まれた池の水面は石灯籠の明かりを受けて揺れる光を放っている。
(鹿威しもある……)
 庭師だった父  は幼い美葉をあちらこちらの庭園に連れていっては樹木や庭のしつらいについて教えてくれたものだった。父の隣で夢中になって鹿威しを眺めたことを 思い出し、美葉はかすかに微笑んだ。美しい庭に遠い日の父の笑顔が重なり、じんわりと滲んでいく。
『友基』
 不意に聞き慣れない声が響き、美葉は部屋の入口を振り返った。低くなめらかな声で、それだけで注意を引きつける力がある。ソファでひっくり返っていたゼミ仲間も一瞬でしんと静まり、起き上がって座り直す。
 入口に立っていたのは背の高い男性だった。
 年齢は若いが友基よりかなり上、二十代後半だろうか。ブルーのシャツ姿で、今から出かけるのか、ネクタイを締めながらこの部屋の前を通りがかった様子だ。ビジネスマンらしく整えられた髪は漆黒で、髪を染めているうえもともと色素の薄い友基とはまったく似ていない。きりりと眉目の整った秀麗な顔立ちもさることながら、彼の佇まいはそれだけで周囲の目を引きつける圧倒的な力があった。
『何だ、帰ってたのかよ』
 友基が寝転んだまま少し反抗的な態度で返事すると、男性も素っ気なく答えた。
『着替えに寄った。また会社に戻る』
 男性は部屋にいる面々に小さく会釈したが、窓辺に立つ美葉を見て少し驚いたような表情を浮かべた。
『遅くならないように帰りの時間は気をつけてあげろよ』
 比較的女子が少ない経済学部ということもあり、ゼミに女子は美葉一人だけだ。大勢の男子の中に一人女子がいるのを見て彼は驚いた顔をしたのだろう。
『お……お邪魔してます』
 それまでその男性に視線を奪われていた美葉は我に返り、もじもじと俯いた。自分がはしたないことをしているように思えたからだ。おまけにもう夜だというのに図々しく上がり込んでこんなに騒いでいたら 非常識だと思われて当然だ。
『この間みたいなことはするなよ』
 男性はそう釘を刺すと、おそらく礼儀上仕方なく言っただけだろうが『ごゆっくり』と言い残して玄関の方に立ち去った。
 彼の姿が完全に消えると、一時おとなしくしていた面々がどっと沸いた。
『今の兄ちゃん? 栖川商事の次期社長様だよな!』
『俺、柄にもなくいい子にしてた』
『かっこいいなー! 帝王って感じだ』
 騒ぐ仲間たちとは対照的に、友基は不貞腐れたような口調で吐き捨てた。
『かっこいいか? おっさんじゃん。二十八歳だぞ』
『友基、自分が社長になれないから拗ねてんだろ』
『ちげーよ』
『この間みたいなことって言ってたけど、友基何かやらかしたの?』
『あー……附属の奴らと酒飲んでたら見つかって、死ぬほど怒られた』
 附属というのは初等部など附属校から入学した学友たちのことを指している。友基の場合は母親がこの大学にこだわったため、栖川商事の特権で幼稚舎からエスカレーター式に大学に進んだ。
 それに対し、兄は公立校から入試で国立の最難関大学に進み、一切栖川商事のコネを使わなかった。価値観の差に過ぎないと美葉は思うが、友基にはそれがコンプレックスの種になっているようだ。
 囃し立てる仲間に友基が応戦するのを聞きながら、美葉は男性が消えた入口をまだ見つめていた。彼の知的な雰囲気に魅了されて口もきけなかったのだ。
 それまで友基から聞かされてきた〝兄〟との 対面。兄を鬱陶しく感じている友基の発言とは真逆に、幼い頃に父親を亡くし遊びも知らず家庭の支柱として踏ん張ってきた美葉には年の離れた貴範の大人な雰囲気がとても眩しかった。
 しかし、貴範と顔を合わせる機会はそれきりなさそうだった。ゼミの講義が終わったあとに皆で友基の家に行くことは何度かあったが、平日の昼間や夕方では彼が不在なのも当然だ。
 彼のことを想うと胸が高鳴ったが、会えたところで縁のある相手ではない。家柄も社会的な地位も何もかもが違う、美葉にとってはテレビの中の芸能人よりも遠い存在だ。そもそも貴範に心惹かれていることは、彼に劣等感を抱く友基に決まりが悪いので絶対に知られたくない。
(いつか恋ができたら、あんな人がいいな……)
 まだ恋を知らない美葉はそんな淡い夢想だけで満足していた。現実問題、服を買う余裕なく着たきり雀で学業とアルバイトに追われる生活に恋愛など入る隙間はなかった。
 ところが、 思いがけないアクシデントで貴範と再度顔を合わせることとなる。ただし、前回以上に決まりの悪い状況だった。
 それはゼミ仲間が計画した忘年会で起きた。大学生になった解放感のせいか、友基を含めた数人が羽目を外して酒に手を出して飲み過ぎてしまった。
 ただ、 その場に美葉がいたわけではない。当初、美葉は欠席するつもりでいた。アルバイト先で繁忙期に支給される特別手当が美葉には貴重だったからだ。
 しかしゼミ仲間は残念がり、その中でも猛烈に粘ったのが友基だった。
『遅れてもいいから来てよ』
 アルバイトや家計が厳しいこともあってゼミ仲間の集まりを欠席しがちな美葉だったが、こんな自分を気にかけてくれる仲間の気持ちを無下にしたくなくて参加を決めた。
 ところが美葉がアルバイトを終えて店に行ってみると、友基はすでに酔っ払っていた。困ったことに彼は車で来ていて、美葉を送っていくと言い出したのだ。
『美葉ちゃん家、駅から遠いじゃん。危ないって』
『危ないのは友基くんでしょ!』
『大丈夫大丈夫ー。この通り、酔ってないよー』
 美葉は必死に友基を止めたが、何しろ酔っているので理屈が通じる状態ではない。しまいには運転席に乗り込んだまま寝てしまった。冷え込む師走の夜、このまま放置したら危険だ。ちょうどその時、友基のスマートフォンに電話をかけてきたのが貴範だった。
 代わりに電話に出た美葉が迎えに来てくれるよう頼むと、貴範は驚くほどの早さで駆けつけた。怒鳴ったりせず礼儀正しかったが、騒ぎを起こした学生たちへの静かな怒りが伝わってくる。
 彼は乗ってきたタクシーを帰し、眠りこけている友基を後部座席に移すと、美葉に助手席に乗るよう言った。
『送っていきます。申し訳ないですが、先に弟を置いてからでいいですか?』
 父親に買ってもらったという友基の車は若者向きのスポーツタイプで、乗せてもらう時はいつもその派手な車と地味な自分がちぐはぐで美葉は落ち着かないのだが、同じ車でも貴範が運転すると不思議とその派手さが洗練されて見える。騒ぎの一員である決まりの悪さに身を縮めつつも、美葉は貴範のスマートなハンドルさばきに見とれてしまった。
 栖川家に着くと貴範は友基を抱えて家の中に運び込み、すぐに車に戻ってきた。貴範は友基よりかなり長身だが、眠りこけて動かない人間を運ぶのはきつい作業のはずだ。父を亡くして以来、家庭に大人の男性がいなかった美葉には余計に貴範が頼もしく見えた。
 美葉のアパートに車を走らせながら、貴範が口を開いた。
『飲酒の状況をお聞きしたい。大学に申告して、弟はそれなりの処罰を受けるべきかと思いますので。父は反対するでしょうが』
『あの……私は飲んでいないんです。遅れて行ったので、友基くんたちが飲んでいるところは見ていなくて……』
 言い訳をする気はないが、この状況では信じてもらえないだろう。でも家柄のせいで周囲にけしかけられることが多い友基を慮り、美葉は必死に言葉を並べた。
『お店に行った時には酔っ払っていて……。でも友基くんは優しくて人がいいから、周囲に言われてつい……だと思うんです』
 その時、恥ずかしいことに美葉のお腹が盛大に鳴った。これまで空腹時にお腹が鳴る 体質だと自覚したことなどなかったのに、なぜ今に限ってここまで派手な音を立てたのか。早く帰るためアルバイトで休憩も取らず働いて来たのに、この騒動で何も食べられずに終わったせいだ。
 しかし、そんな 経緯など彼の知ったことではない。恥ずかしさのあまり美葉は消えてしまいたくなったが、数秒の間のあと、貴範が小さく噴き出した。
『……失礼』
『す……すみません……。何も食べていなかったので……』
 美葉が蚊の鳴くような声で言い訳すると、貴範は『ご家族と一緒にお住まいですか?』と尋ねてきた。
『いいえ、一人暮らしです』
 何のため に聞かれたのかわからず美葉が答えると、思いがけない言葉が返ってきた。
『食事に寄っていいですか? 弟の所業のお詫びにもなりませんが』
 帰宅しても温かな食事が待っているわけではない一人暮らしの状況を慮ってくれたのだろう。驚いた美葉は何度も辞退しようとしたが、彼自身も食事がまだだからと言われ、結局はご馳走になった。
 連れていってくれたのは品の良い小さな和食の店だった。玉砂利を敷いた細い通路の先にあり、街の喧騒が嘘のように静かな店内はすっきりと白木で統一されていた。
 先付から始まる料理の数々は目にも美味しく、添えられた小さな一品にまで最高の素材が使われていた。 困窮家庭で育った美葉にとって、こんなに高級でお洒落な食事は初めてだった。
 しかし、芸術品のように美しく盛られた料理を彼の前で食べるという状況に美葉は極度に緊張してしまい、会話する余裕がまったくなかった。郷里の家族のこと、大学の勉強のこと。たどたどしい美葉の話に、彼はそれが貴重な話であるかのように優しく熱心に耳を傾けてくれた。とはいえ、しどろもどろな自分の受け答えをあとから思い返しては落ち込んだものだ。
 最初に駆け付けた時の貴範は弟を含めた全員への怒りを必死に抑えているようだったので、美葉は当然自分も貴範から叱責を受けるものと思っていた。しかし食事では大学での友基の様子を尋ねただけで、飲酒について貴範は美葉を責めたりしなかった。酒どころか昼から何も口にせずお腹がなるほど空腹だったというだけで美葉の無実を信じてくれたのだろう。食事を終えてアパートに送り届けるまで彼は美葉を大切な客人のように扱い、とても優しく紳士的だった。
 貴範はアパートの部屋の前まで付き添い、美葉が無事に部屋に入るまで見届けてから帰っていった。
 部屋に入ったあとも、美葉はふわふわとした夢見心地のまましばらく呆然としていた。
 あんな上流中の上流社会にいる彼はきっとこの雨漏りのするぼろアパートを見てびっくりしたはずだ。仕事中に駆けつけたのか彼はスーツ姿で、ネクタイもシャツも何もかも、それを纏う彼自身も、まるで雑誌から抜け出てきたように美麗だった。かたや美葉は郷里にいた時から着ている野暮ったいセーターにジーンズ姿だ。
 天と地以上に彼と自分がかけ離れていることは美葉にもわかっていたが、そんなことをまったく感じさせない貴範の優しい態度に、美葉は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
(どうしよう……)
 コートを脱ぐことも暖房を入れることも忘れ、小さな部屋に座り込んだまま美葉は鎮まってくれない胸を押さえた。食事の最後のデザートで抹茶味のわらび餅が出てきた時、緊張も忘れて思わず大喜びしてしまったが、そんな美葉を見守る彼の優しい目が忘れられない。
 十歳も年上で、雲の上の人。好きになっても手の届かない人。それなのに身の程知らずにも恋心は走り出そうとする。
『何かあったら電話してください』
 彼から渡された名刺を眺める。その場で彼は電話番号を書き込んでくれた。友基が問題を起こさない限り電話することはないだろう。
(これは、お守り)
 恋ではなく 憧れとして、心の中に大切に閉じ込めておこうと美葉は自分に言い聞かせた。
 しかし年が明けた一月にゼミ仲間と栖川家に行った際、嬉しいことに貴範に再びアパートまで送り届けてもらえた。美葉がちょうど帰ろうとしていた時に貴範が会社から帰宅し、夜だから送っていくと声をかけてくれたのだ。友基は『何で兄貴が』と膨れたが、年末の飲酒騒動で立腹した貴範がしばらく運転を禁じ、友基から車のキーを没収したという経緯のせいらしい。
 貴範の友基への態度は厳しいが、それは愛情ゆえだ。美容と贅沢に夢中で息子に無関心な若い母親、仕事ばかりで息子を顧みることができない罪滅ぼしに金ばかりを与えて甘やかす父親。機能不全に陥っている家庭で育った弟を貴範は父親に代わり気にかけている。状況は大きく違うが、常に困窮し不安の尽きない家で育った美葉には、うわべだけではない貴範の兄としての愛情と責任感が身に染みるほど感じられた。
 折しもバレンタインを前にして街のショーウインドウは煌びやかに装飾されていた。それまでバレンタインなど無縁で恋をしたことすらない美葉だったが、貴範にお礼を兼ねて贈り物をしたくなってしまった。
 (何度も送ってもらったし、ご飯もご馳走になったし……。だから、ほんの気軽なお礼)
 そう言い訳しながら美葉は大学やアルバイトの帰りに暇を見つけてはチョコレートを見て歩いた。
 見ているだけでわくわくして、でも迷惑ではないだろうかと不安になって、それでもやっぱり渡したくて──。
 美葉にとって初めての胸躍る時間だった。
『あの……お礼です』
 勇気を出して電話して近くまで来てもらったが、緊張と恥ずかしさで他に何も言えなかった。貴範は少し驚いていたが『ありがとう』と優しく笑って受け取ってくれた。
 美葉はそれだけでよかったのだ。憧れの人に贈り物をした、ささやかな思い出になるはずだった。
 しかし、そのあとに起きた出来事で美葉の憧れに似た淡い恋は無残に散った。チョコレートを渡したりしなければ、傷も誤解ももっと浅く 済んだのかもしれない。
 それはバレンタインの直後、二月の末に美葉が体調を崩したことをきっかけにして起きた。
 身体のだるさと悪寒を感じつつもアルバイトを休めず無理してシフトをこなしていた美葉は、ついに発熱して寝込んでしまった。これまでなら風邪をひいた程度でダウンすることなどなかったが、上京してからずっと働きづめだったため無理がたたったのだろう。さらに悪いことに、美葉の部屋のエアコンが故障して暖房が一切きかなくなった。大家に連絡したが、修理はいつになるかわからないという。
 そんな時にたまたま二年の選択科目のことで電話してきた友基が、美葉の朦朧としたかすれ声としゃべり方を聞いて異変に気づき、駆けつけてくれた。
 部屋の寒さに驚いた友基は美葉に栖川家に来るよう強く勧めた。
『部屋数が多いのは知ってるだろ? ほとんど使ってないし、俺の友達だってしょっちゅう泊まってるよ。俺ん家ならいつでも病院に連れていけるし。こんな寒いところで一人で寝込んでたら大変なことになるかもしれない』
 断ろうとしたが、田舎から出てきたばかりの美葉には他に頼る相手がいなかった。たしかに栖川家は旅館のように広い。寒さと熱で朦朧としていたこともあり、風邪の峠が超えるまでと友基の提案に甘えることにした。
 栖川家の両親に挨拶する機会などなかったが、友基によると両親は家に誰が来ようと関知していないのでお手伝いさんにさえ言っておけばいいのだという。風邪をうつしてはいけないし、衰弱していた美葉は友基が案内してくれた客間に這うようにして辿り着くと、昏々と眠り続けた。 
 うつらうつらとしている時、一度だけ貴範の声を聞いたことがある。
『そこの部屋に誰かいるのか?』
『うん、堀口美葉ちゃん』
 貴範の声に友基の声が答える。
(だめ、今こんな姿だから言わないで……)
 美葉は朦朧としながら心の中で呟いた。
『俺、今からコンビニ行くけど部屋開けるなよ』
 友基は熱が高い美葉のためにスポーツドリンクを買いに行ってくれるところだった。
『彼女寝てるから』
『え?』
『あれ買いに行くんだよ、あれ。使い切ったからさ。ほら──』
 ここで深い眠りに落ちた美葉の耳に会話の続きは聞こえなかった。
 数日後、暖かな部屋で寝かせてもらったおかげで熱は下がり、美葉はまた寒いアパートに戻った。友基はエアコンが直るまで居ろと言ったが、申し訳なく思う気持ちを拭いきれなかった。
 すっかり体調が戻ると、美葉は乏しい財布から菓子折を買って栖川家を訪れた。友基以外誰とも顔を合わせていないとはいえ、お礼をしなければと思ったのだ 。
 出てきたのはお手伝いさんではなく貴範で、思いがけない対面に美葉は笑顔になった。しかし、胸の高鳴りはすぐに不安に変わった。美葉を見る貴範の視線が凍り付くほど冷ややかだったのだ。
 彼は開口一番にこう言った。
『弟から聞きました。僕が口を挟むことではない。ただ──』
 いくら意識が朦朧としていたとはいえ家族にきちんと挨拶をしなかったのはやはり非礼だったと、美葉は言葉を失い青ざめた。
 しかし貴範が口にした言葉はそれとは別の何かを指しているようだった。
『君が何をしようと勝手だが、ああいうことは君の部屋でやってくれ』
〝ああいうこと〟って──。
 貴範の声音からも視線からも軽蔑と嫌悪の感情が刺さるように伝わってくる。彼の言葉の意味は理解できなかったが、今すぐ彼の目の前から消えなければならないことだけはわかった。美葉は何も言えずに踵を返すことしかできなかった。
 渡せなかった菓子折を持ったまま、涙を流す余裕もなく駅まで続く道を歩く。
〝弟から聞きました〟
 貴範の言葉を思い出した美葉は涙を堪えて友基に電話した。ただならぬ空気を感じたのだろう、友基は慌てて飛んできた。
 ところが美葉が栖川家訪問の一幕を説明すると、友基は笑い出した。
『どうして笑うの!』
 友基の前だから泣きたいのを必死に堪えているのに。泣いたりしたら貴範に惹かれていることがばれてしまうから、涙を堪えるために怒ってみせているのに。
『いや……まさか兄貴が信じてると思わなかったよ』
『信じるって……何を言ったの?』
『だって美葉ちゃん、よれよれだから誰にも見られたくないって言ってたじゃん? だから兄貴に美葉ちゃんが寝てるから部屋を開けるなって言ったんだよ』
『それだけじゃないでしょ? それであんな風に怒らないよ』
 美葉が詰め寄ると、友基は決まり悪そうに頬を掻いた。
『まあな……。ちょうどポカリ買いに行くところだったから、冗談で言ったんだよ。アレ買いに行くって』
『アレって何』
『あん時は面白い冗談だと思ったんだけどな……。今の美葉ちゃん見てると怒られそうな気がしてきた』
『だから何』
『アレだよ。大きな声では言えないやつ』
 ここで友基は美葉に顔を寄せ、小さな声で『コンドーム』と耳打ちした。
『な……』
 あまりのことに、美葉はしばらく何も言えなかった。
『いやー兄貴、あの時すんごい顔して何も言わなかったけど信じたんだな』
 友基は普段絞られている貴範に仕返しをした気分らしく、呑気に笑っている。
『あいつカタブツで冗談通じないの、わかっただろ? 真に受ける方がおかしいよ』
『真に受けるでしょ!』
『だって風邪って言ったら、頭の硬い兄貴のことだから病院に連れていくとか大騒ぎしそうだし。なかなかの名案だと思ったんだけど』
 あの時たしか友基は『使い切った』とまで言っていた。しかも友基には実際にそのような相手がいるようだ。貴範からすれば、美葉は友基のセフレの一人に見えただろう。
『ひどいよ……。言っていい冗談と許されない冗談があるよ』
 とうとう美葉は泣き出してしまった。人前で泣くのは初めてだ。情けなかったが、お金がなくてひもじい思いをするより悲しかった。
 美葉の涙を見た友基はさすがに慌て、小さくなって平謝りした。
『ごめん……。美葉ちゃん、ごめん……』
 美葉はもともとあまり怒る性分ではなく、誰かを責めるのは苦手だ。しょげかえる友基を見ていると自分が責めすぎた気がしてきた。美葉を心配してせっせと看病してくれた友基の気持ちに嘘はなかった。
 それに、もし美葉が貴範に恋をしていなければ、ここまで感情的になって泣いたりしていなかっただろう。美葉にはその後ろめたさがあった。そもそも友基の言葉に甘えて栖川家に滞在した美葉自身にも原因はある。
『兄貴に弁解する……』
 すっかり萎れてしまった友基に、美葉は涙を拭って首を横に振った。
『いいよ。何も言わないで』
 訂正したところで美葉の恋が成就することはない。もう蒸し返さずに、貴範には美葉の存在ごと忘れてほしかった。
『ゼミも終わりだし、友基くんの家に遊びに行くこともないから、お兄さんに会うこともないし』
 すると友基は捨てられた子犬のような顔になった。
『そんなこと言わないでくれよ、ゼミが終わっても友達でいてよ。泣かせておいて言えた義理じゃないけど……』
 そこで友基は何かを思い出したらしく、ぱっと明るい表情になった。
『そうだ、兄貴この春からあの家を出るんだ。だから 今までみたいに遊びに来てよ』
 貴範がいなくなる。もう顔を合わせることは二度とない。それでいいはずなのに、恋心というものは未練がましく、美葉は喜ぶどころかショックを受けてしまった。
 さらにここで友基がとどめを刺した。
『兄貴、もうすぐ婚約するんだよ。だから結婚準備で新居に移るんだ』
 友基はそう言ってスマートフォンを美葉に見せた。
『ほら、これが相手』
 画面には煌びやかなパーティー会場に立つタキシード姿の貴範と、ゴージャスなドレスを纏った美しい女性が映っていた。栖川家に遊びに行った際、何度か見かけたことのある女性だ。二人は腕を組み微笑んでいる。まるで映画のスターのようだった。彼はこんな世界の住人なのだ。
『橘(たちばな)グループの娘で、兄貴の幼馴染。すげー美人だけどさ、俺のこと見下げ果てた目で見るんだよ。愛人の子だと思ってバカにしてるんだろうな』
 名家の幼馴染と婚約──。友基が喋るのを聞きながら、美葉はただ画面を見つめていた。

(そう……最初から望みのない恋だった)
 誰もいないロータリーに佇んでいた美葉は回想を閉じた。貴範と栖川会長を乗せた車のテールランプはもう見えない。
 栖川会長をこうして見送るのはこれが最後だ。その寂しさに混じり、過去の自分への 羞恥と後悔、これから先への不安が美葉の胸で渦を巻く。
 貴範に指摘された通り、美葉が栖川商事に入社したのは友基の口利きだった。
 当初、美葉は郷里の秋田に帰って病弱な母親を助けながら就職先を探すつもりだったので、栖川商事への就職などまったく考えていなかった。就職先の人気ランキングでは毎年トップを飾る企業だ。そんな狭き門の企業を受けても 内定が取れるとは思えなかったし、華やかな世界は大学だけでもう十分だ。 そんな折、郷里にいる弟が驚いたことに地方の国立大学の医学部に合格した。弟が医者になりたがっていることは前から聞いてはいたがまさか合格するとは思っていなかったので、本人はもちろん美葉も母も大喜びした。
 ところが、ここで問題となるのが美葉の時と同じく学費と生活費だ。医学部ともなればアルバイトをする暇などない。
『いいよ……。記念にして、辞退するよ』
 弟はそう言ったが、美葉は自分が東京に残って給与の高い仕事を探して学費を仕送りするからと言って弟の背中を押した。
 その話を聞いた友基が『だったら美葉ちゃん栖川においでよ』と言ってくれたのだ。
 栖川商事の給与は高水準で知られている。弟には学費の仕送りをすると約束したものの、美葉には自身の奨学金の返済もある。本当に工面できるのか不安に思っていた美葉にとって、栖川商事の給与は魅力的だった。聞けば貴範はアメリカに赴任中で、社長交代のタイミングまで帰ってくる予定はないという。そのことも美葉にはありがたかった。弟のため、背に腹は代えられない。
 もともと家で何度か美葉と会っていた栖川会長は喜び、そのせいなのか美葉が配属されたのは秘書室だった。さらに半年後、適正を認められた美葉は社長付の個人秘書に抜擢された。あまりの厚遇に罪悪感を抱いたが、栖川商事社長秘書の名に恥じぬよう懸命に努力してきた。幸いアメリカ支社長の貴範とは顔を合わせることもなく、この四年はとても平和で充実していた。
 それなのに、まさか貴範に仕えることになるとは。
 思い出したくもない過去をこうして自らに鞭打つようにして振り返ってしまうのは、二度と彼に惹かれてはならないという戒めの意識だろうか。
 あのバレンタインの幼稚な贈り物が蘇り、美葉は顔を歪めた。誰にも話したことはないが、もし話せば呆れられるだろう。実はあの時、美葉が貴範に贈ったのは手作りのチョコレートだった。
 言い訳にもならないが、美葉が育ったのは陸の孤島のような地域で満足に店がないため、バレンタインといえばスーパーで手に入る安価なチョコレートで手作りするのが主流だった。貴範に贈るチョコレートを探してバレンタイン向けの特設売り場も見て歩いたが、宝石のように美しい有名店のものは小さな箱でも驚くほど高い。夜なべして頑張って作ったチョコレートは高級品には遠く及ばないが、美葉なりに出来栄えに満足していた。
 だが、出来栄えがどうだったとか、そういうことではないのだ。
 今思えばなんと無知で無様だったのだろう。友達に配ったり交際相手に贈ったりするならともかく、あの遠い関係性でいきなり手作りチョコレートを贈るなど、お礼ですと言いながら〝好きです〟と告白しているようなものだ。しかもあんなに大人で、一流品に囲まれている殿上人に、子供っぽい手作り包装の──。 
「ばか……」
 再び始まった回想をシャットダウンし、過去の自分に美葉は小さく呟いた。
 ロータリーを吹き抜ける風は梅雨入りした初夏の生暖かい湿気とともに地面の匂いを運んでくる。アスファルトに混じるかすかな土のにおいに美葉は遠い郷里を想った。細身の黒いスーツにハーフアップの髪、きちんとして見える薄いメイク。会社の顔に泥を塗らないよう身だしなみを整えていても、美葉の本質は地味で垢抜けない、貴範と出会った当時のままだ。
 バレンタインの直後に起きたあの出来事で、貴範は美葉を金持ちにすり寄るあさましい女だと思っただろう。弟と関係を持ちながら、あわよくば兄に乗り換えてやろうと食指を伸ばす女。頬を染めて手作りチョコレートを差し出し、若さと野暮ったさで油断させて大人の男を狙う女。そんな女に弟がたぶらかされているとなると、貴範にしてみれば塩でも撒きたい気分だったはずだ。
 貴範はさきほど執務室で栖川会長が〝美葉ちゃん〟と呼ぶのを聞いていただろうし、会長の病状の話題で美葉が涙ぐんだのも演技だと思ったかもしれない。だから『相変わらず上手いな』という台詞になったのだ。
 でも、それでいい。叶わぬ恋なら、たとえ過去であっても無様な恋心を知られるより汚い女だと思われている方がいい。どれだけ軽蔑されても、それは本当の自分ではないから。だから誤解を解きたいとは思わない。上司と部下として再会してしまったならなおさらだ。
『父は君を気に入っているようだが……』
 社長秘書室で交わした短い会話は、電話を終えた栖川会長が社長室から出てきたことで終わった。しかし、ドアが開き会長が入ってくる間際に貴範が口にした最後の言葉を美葉はとらえていた。
『僕は、そうはいかない』
 胸に走る痛みに美葉は目を閉じた。
 彼の言葉に傷つくのは、彼を忘れられていないから? 
「違う……」
 この痛みは恋じゃない。もうとっくに忘れたの。
〝兄貴、もうすぐ婚約するんだよ〟
 誰も知らない恋。たった一度の淡い恋。
 あの時にちゃんと忘れたの──。

 

 栖川貴範新社長のもと、美葉にとって一秒も気を抜けない緊張の日々が始まった。
 代表取締役が交代する際の法的手続きが遅れるとすべてに甚大な影響が出るため、書類は不備がないよう何重ものチェックを要請する。就任の挨拶状の発送先は国内のみならず海外の取引先にも及ぶので、その数は膨大だ。 そうした様々な手配や事務作業だけでなく、経営者交代に伴う臨時株主総会やビジネス誌のインタビューなどのマスコミ対応もある。それら分刻みのスケジュールを貴範が滞りなくこなせるよう予めそれぞれに則した資料を準備し、アクシデントに対応しながら臨機応変に時間管理しなければならない。
 株主総会など対外的に重要な行事は秘書室だけでなく経営企画部や監査役室など様々な部門が連携し執り行う。それでも最も負担が重いのはすべての案件に携わる社長秘書だ。栖川会長のもと社長付秘書に昇格した時はすでに軌道に乗った業務に馴染むだけでよかったが、経営者交代という栖川商事にとって数十年に一度の地殻変動では変則的なことばかりだ。
 ただ、貴範を迎える前は彼と一対一で顔を突き合わせて仕事をすることに慄いていた美葉だったが、大きな行事が続く間は常に他部門の担当者が出入りしている状態で、貴範と二人きりになることは意外と少なかった。美葉は毎日朝から晩まで走り回りくたくたになりながらも、そういう意味では胸を撫で下ろしていた。
 株主総会での評価は非常に高く、栖川商事の新社長就任を好意的に受け止めた 市場はすぐに反応し株価が高騰した。これほどまでに世間の注目と期待と責任を一身に背負う立場の重圧はどれほど苛烈なものだろう。
 注目度の高さはそのまま貴範のスケジュールにも直結し、就任から一か月が経過しても経済各紙やメディアの取材が引きも切らず続いている。栖川会長が社長だった時はある程度余裕を持つことを優先してスケジュールを組んでいたが、貴範ははるかに年齢が若いとはいえ過密すぎるような気がして、美葉は密かに気を揉んでいた。
 今、美葉がスケジュール表を前に悩んでいるのは取材予定を入れるか否かだ。
(入れるとしたら、この日時しかないけど、でも……)
 スケジュールは美葉が仮で入れたものを社長が確認し、問題があれば変更を加えるという手順で決定する。しかし貴範はちゃんと見ているのか疑いたくなるほど一切修正を指示しない。美葉がそこに予定を入れたら最後、彼はそのままこなしてしまうのだ。余裕でこなしているのかそうでないのか、あまりに貴範がタフなので美葉には加減がわからない。
(でも……やっぱり直接尋ねてみないと)
 何度も執務室に行きたくないという本音から、二つ用件をまとめて重い腰を上げる。
 就任後の繁忙が続いているとはいえ、大きな行事を終えた今は来客以外の人の出入りは通常通りとなり、美葉にとっては気づまりな──つまりこの社長室エリアで貴範と二人で仕事をしなければならない状況に直面している。とはいえそれが本来あるべき状態なのだから文句は言えない。
 執務室のドアの前に立った美葉は右手を上げたところで停止した。ノックする前に何をどういう順序で言うか、頭の中で何度かシミュレーションする。曲がりなりにも栖川会長のもとで四年も秘書を務めてきたのに、こんな状態ではまるで新人だ。
「堀口です。今よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「失礼いたします」
 執務室に入る時はいつも足が震えるほど緊張する。対する貴範は軽く視線をこちらに向けて「何ですか?」と問う風に反応してくれるものの、パソコンを打つ手は止めない。笑顔の一つもなく、栖川会長が言う通りまさに氷だ。
 しかし彼のルックスはいつ見ても雑誌から抜け出てきたように優雅だ。シャツもネクタイも靴もすべて専属のスタイリストでもいるのかと思うほどスマートにコーディネートされている。そのどれもが一流品なのにブランド品であることを感じさせずに着こなしてしまう彼には、育った環境だけでなく天賦の品というものがあるのだなと納得させられる。
「スケジュールのご確認をお願いします」
 美葉がぎこちない動作でタブレットを差し出すと、貴範は画面に素早く目を走らせてからスマートフォンを取り出し何か確認した。こちらから彼の手にあるスマートフォンの画面は見えないが、プライベートの予定とぶつからないかを見ているのだと察した美葉は視線を逸らした。
〝兄貴、もうすぐ婚約するんだよ〟
 あれから七年。美葉は詮索好きではないし、貴範の名前を目にすることすら避けてきたのでたしかめてはいないが、もうとっくに結婚したはずだ。栖川会長の秘書を務めていた時期なら嫌でも耳に入っただろうが、この四年間にそんな話は聞いていない。おそらく七年前のあの直後に結婚したのだろう。
 現に、美葉が今抱えている郵便物の中には貴範気付で栖川姓の女性宛の封書がある。七年前に封印してなかったことにした恋だったが、今になってその結末を仕事の中で見せつけられる形だ。
 プライベートのスケジュールを確認する貴範から美葉が目を逸らしたのは、氷のような彼が表情を緩めるのを──愛する女性に向ける彼のやわらかな感情を目にしたくなかったからだ。
 そんな美葉の思惟を貴範の素っ気ない声が破った。
「これで結構です」
「えっ……」
 慌てて貴範に視線を戻すと、彼は何をよそ見しているんだとでも言いたげに怪訝そうな顔でタブレットをこちらに突き出している。
「でも特に十八日など、ハードではないですか?」
 美葉は貴範に気圧されるようにしてタブレットを受け取ったが、懸念を口にした。
 ヨーロッパ出張から早朝に帰国して帰社、会議、ビジネスランチ、会議、取材対応。いくら彼が強靭でもこれには物言いがつくと思ったのだ。
「こなすしかないだろう」
 貴範は少し呆れたような口調でそう返すと、パソコンに視線を戻した。
「君が必要な取材だと判断してこの日に入れたのなら」
 再び始まった静かな打鍵の音にそんな言葉が重なる。
 取材依頼はすべて受けているわけではなく、過去の経緯やこの先の事業計画に有利な影響が期待できる案件に絞っている。判断が難しいものは貴範に指示を仰ぐが、社長の業務軽減のため秘書が担う部分も大きい。また、それらのスケジューリングは秘書の責務であり、それが社長の業務のリズムを形作る。貴範のこの発言は、秘書のスケジューリングは単に"空いたところに入れる"作業ではないと釘を刺しているのだ。
「……はい」
 駄目出しより冷ややかな反応に美葉は唇を噛んだ。栖川会長の時は秘書として務まっていると思ってきたが、父娘のような馴れ合いの中で甘やかされていたことを今になって思い知る。栖川会長と違い、貴範は海外の厳しいステージで修行を積んできたビジネスエリートだ。彼の就任からこれまでほぼミスなく務め上げてきたことに美葉は満足していたが、自分の仕事の浅さを指摘された気分だった。
 ぐっと歯を食いしばって切り替え、次の案件に移る。
「あと、親展の郵便物はいかがいたしましょうか。栖川会長の時はすべて私が開封して中身を確認しておりましたが」
「見せてください」
 美葉の手にある封筒の束を見て貴範がパソコンを打つ手を止める。
 大半は開封しても差し支えなさそうなものだったが、中に数点、女性の宛名のものがあった。
〝栖川麗佳(れいか)〟
 わざわざ貴範の気付にしているのなら相当親しい間柄であることは確実だが、彼に姉や妹などいない。となると彼の妻しかない。
「会長と同じく親展でも開封していただいて結構ですが……」
 封筒の束を無造作に繰りながら貴範は返答しかけたが、その手が止まる。 
「この宛名の郵便物のみ開封せず僕に回してください」
 彼の手が止まったのはやはり〝栖川麗佳〟だった。
「それ以外は開封して確認、必要があれば僕へ」
 パソコンを打つキーの音とともに簡潔すぎる指示が並べられる。残りの郵便物がデスクの端に戻されたのは持ち帰ってくれという意味だろう。
「承知いたしました」
 美葉は無表情に答え、タブレットとともにそれらを抱えて退室した。ガラス張りの応接ゾーンを抜け、社長秘書室まで出たところで美葉は体中の酸素が抜けるほど大量の息を吐き出した。
「はあ……」
 いつもこうだ。用件は済んだ形だが、彼との応答では最初にシミュレーションしていた主張す べきこと、謝罪すべきことの何をも言えていない。たった数分のやり取りでどうして毎回こうも消耗するのだろう。
 すると廊下側の入口でくすくす笑う声が聞こえた。