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この愛、共存不可能につき 極道と女刑事 2

第二話


 ────マジで姐さん、ムチャクチャ俺の好みなんで。絶対組長になってもらいますよ。
 脳内でぐるぐる回る、仁の捨てゼリフ。
(いや、わけわかんないから! だいたい、好みだから組長になれとか、おかしくない!?)
 後部座席から落ちた体勢のまま、琥珀は茫然と開け放たれたドアの外を見る。仁はとっくにいなくなっていたが、捨てゼリフが、いや、最後の投げキッスが強烈すぎて身体が動かない。
 しかし目の前に仁の名刺が落ちているのを見つけ、慌ててスーツの内ポケットにしまいこんだ。瀬尾にでも見つかったら大騒ぎになりそうだ。
 にわかに今自分がやるべき仕事を思いだす。
 ヤクザとわけのわからないやり取りをしている場合ではない。被疑者は任意同行に応じたのだろうか。
 気を取り直して車から出ようとする。そのとき……。
「長嶺!」
 瀬尾の声とともに、ブロック塀の向こうから男がひとり飛び出してきた。
 身長は高いが細身の男。顔はまあまあいいほうだろう。瞬時に目についたのは目の下の泣き黒子。仁を連想させるそれは、琥珀の感情を苛立たせた。
 被疑者は水商売の男だと言っていた。任意同行を求められて逃げ出したというところだろう。刑事に同行を求められて、単純に逮捕だと思ってしまう者もいるのだ。
「確保!」
 響く瀬尾の声。言われるまでもない。琥珀は慌てて腕を振りまわす男の片腕を取り、腋下をかかえこんで背負い投げた。
 一本背負い投げが決まり、男が動かなくなる。その状態で顔を上げると、追いかけてきた瀬尾が目を丸くして見ていた。
「……長嶺、もしかしてと思ってはいたんだが、黒帯とか?」
「四段です」
「なるほどな……それで、女三四郎か」
「子どものころからやってたので。警察学校ではお手本役でしたよ」
「だろうな」
 瀬尾が被疑者を立たせる。男が上目遣いに睨みつけてくるが、睨み返して組んだ指をしならせると慌てて顔をそらした。


 検察側と打ち合わせ済みだったこともあり、被疑者は取り調べ後すぐに送致された。
 ほぼ起訴は間違いないとのこと。ここ数日、琥珀が作り続けていた報告書や書類も大いに役に立っているようで、もしや瀬尾は迅速に事を進めるためにも琥珀にデスクワークを強いたのではないだろうかと思ってしまうほどだった。
 あとの処理や報告などで仕事のあがりも遅くなってしまった。瀬尾が今日の活躍の褒美に一杯奢ると言ってくれたのだが、ふたりで飲みに行くのはどうも樹里の顔がチラついてしまい「今日は母の用事があって」と断った。
「親睦を深めたいので、今度、志野さんも誘って一緒に飲みに行きましょう。なんならうちの母の店なんかどうですか。サービスしますよ」
 と、ごまかした。
 相勤だし、瀬尾は気にしないのかもしれないが樹里は気にするだろう。せっかく仲よくなれそうな同性がいるのに、おかしな誤解はされたくない。
 母の用事があると言ったのもあながち嘘ではない。今夜は母に聞きたいことがある。かなり深刻な話になるので琥珀にも覚悟が必要なのだ。
「お母さん、お疲れ~」
 店の閉店時間を過ぎ、後片づけを終えた鞠子がリビングに入ってきたのは日付が変わる三十分前だった。
 パジャマ姿でソファに座っていた琥珀が、おいでおいでと手を振りながらテーブルの上を指さす。そこには缶のカクテルや海外のビール、琥珀お手製のおつまみなどが並んでいる。
「わあ、カプレーゼにサーモンのマリネ、これなに? グラタン?」
「ラザニア」
「琥珀ちゃんのラザニア大好きっ。嬉しい~」
 娘が作ったから褒めているのではなく、単純に自分の好物ばかりだから喜んでいる。
 小料理屋で和風のメニューを振る舞っている鞠子ではあるが、実は本人、洋風のメニューやジャンクフードが大好きだ。
 お酒も日本酒よりカクテルや海外のビール派。そう考えると自分の好みとはまったく違う料理で店に立っていることになるが、本人いわく、作るのと食べるのは違う、らしい。
「そういえば五十里さんが来てたんだけど、琥珀ちゃん犯人捕まえたんだって?」
 キャッキャとはしゃぎながら琥珀の隣に座ってくる。缶カクテルの口を開け軽快に流しこんだ。
「技あり一本、だったって聞いたよ。すごいねぇ」
「目の前に飛び出してきたし、タイミングがよかったんだよ。なんて言いつつ、やっぱり上手くいくと嬉しいね」
「だよね~」
 鞠子が楽しげに笑い、ラザニアに手を伸ばす。取り皿を片手にスプーンを挿しこむと、デミグラスソースの芳醇な香りが湯気と一緒に漂ってきた。
「……自分を守る手立てのひとつになれば、くらいの気持ちで始めさせた柔道だったのに。こんなふうに役に立つとは思わなかったよね」
 しみじみと言いながらラザニアを皿に取る。鞠子が戻ってくるだろう時間を見計らって焼いたこともあって、チーズが薄い膜を作りながら伸びた。
「道場に通っているときも柔道は楽しかったし、それが仕事に生かせて嬉しいよ。ありがとうね、お母さん」
「琥珀ぅ……」
 泣きそうになった鞠子だったが、ラザニアへの食欲のほうが強かったようだ。すぐにモクモクと食べはじめた。
 自分を守る手立てのひとつになれば。鞠子が琥珀に柔道の道場へ行かせたのは、本当にそんな気持ちひとつだったのではないかと思う。
 保育園のころ、母子家庭を理由に年上の子たちからいじめられた。琥珀に父親がいないという話を、母親たちがいやらしい憶測込みで揶揄するのをその子どもたちが聞いていたのだ。
 母親が馬鹿にしているのだから自分たちもしていい。楽しそうに笑っていたし、きっと楽しいことに違いない。
 親が発端になった子どもの単純思考。鞠子はそれを許さなかった。
『子は親の鏡だよ! このバカタレが!』
 子どもたちではなく母親たちを譴責し、母子ともども謝らせたのだ。
 普段はおっとりした鞠子だが、芯はしっかりした女性だ。その後はいじめられることもなく、譴責された母親たちは“人たらし”オーラにやられ【こはく】の常連になった。
 それでも鞠子の心配は治まらなかったのだろう。知人の道場へ連れていかれ、柔道の稽古を見せられたのだ。
 イザというときに守ってくれる男親はいない。琥珀は女の子だし、鞠子が守り続けるのも限界がある。なにかあったときに自分を守る手立てのひとつになってくれれば。
 母親の小さな願い。自分の境遇に負けず精神的にも強くなってほしい。本能的にそれを悟った琥珀は、母の期待以上に腕を上げ成長したのである。
「美味し~~。琥珀ちゃんのラザニア大好き~」
 幸せそうな顔でフォークを口に運ぶ。そんな鞠子を見ながらビールを流しこみ、琥珀は意を決して口を開いた。
「お母さん、聞きたいことがあるんだけど」
「なあに? 改まっちゃって。出生の秘密とか?」
 勢いづいたはずの言葉が止まる。──何気なく言ったにしても、察しがよすぎやしないか。
 躊躇する琥珀を意に介さず、鞠子は缶カクテルをかたむけながらラザニアに夢中だ。にこにこする顔を見ていると、自分がこれから聞こうとしていることは残酷なことではないかと胸が痛む。
 だが、このままにしておくわけにはいかない。はっきりさせなくては。琥珀は居住まいを正し、鞠子に膝を寄せた。
「お母さん、わたしの父親って……ヤクザの、組長だったの?」
 鞠子の動きが止まる。ラザニアを口に入れようとしていた顔のまま琥珀を見た。
 深く聞いたことのない父親の話なんてしたら、泣いてしまうだろうか。しかし鞠子は芯の強い女性だ。そんなこと気にしなくていいと怒り出すかもしれない。
 反応の予想がつかなくてドキドキする。すると、琥珀を見ていた目がきゅるんっと丸くなった。
「やだあ、どうして知ってるの、琥珀ちゃん」
「どうして、って……」
「もーぉ、誰がしゃべったのかなぁ? 知っている人には『琥珀ちゃんが知りたがらない限り墓まで持っていく』って約束させたのに」
 泣く気配はない。怒る気配もない。それどころか困った様子もない。鞠子は笑いながらラザニアを食べ続ける。
「そのぶんだと名前も知ってるのかな。光之輔さんっていうんだけど」
「仙道組の……」
「そうそう、仙道光之輔さん。いい名前でしょう?」
「あの……さ、その、お父さんが殺人事件を追ってるときに知り合ったって、言ってたよね……」
「そうよー、ふらっとお店に入ってきたのが光之輔さんだったの。もぉぉぉぉ、むっちゃくっちゃカッコよくてねぇぇぇ、ひとめ惚れだったわぁ」
 謎のはしゃぎっぷりを見せる母を、スンッと冷めた目で見つめる。
 この浮かれようたるや。いや、惚気だろうか。母がこんなにも“恋する乙女状態”になるのは初めてだ。
「背は高いし男前だし。身体つきもがっしりしてて。なにより強かったのよ~。デート中に一度襲撃されたことがあるんだけど、なんていうの、よくいうでしょ“ちぎっては投げ、ちぎっては投げ”って。まさにそれでね。人の腕がちぎれるとこなんて初めて見たわぁ」
「ほんとーにちぎってんの!? ストップ、スト──────ップッ!!」
 なんというハードなデートだ。“ちぎっては投げ”の本来の意味から激しく離れている。琥珀は慌てて鞠子の話を止める。
 コホンと咳ばらいをしつつ、話題を変えた。
「お母さん、改めて聞くよ。……お父さんとは、お父さんが殺人事件の捜査をしているときに会った、って言ってたよね」
「そうよ?」
「いや、そんな不思議なことを聞かれたって顔されても……」
 不思議そうな顔をしたいのはこっちだ。殺人事件の捜査なんて言うから、てっきり父親は刑事だったのだと思いこんでいた。
 おまけに昔からの常連には五十里や藁井がいる。警察関係者が身近にいることで、父親もそうなのだと信じて疑わなかった。
「本当のことだもの。あのころの光之輔さんはまだ若頭だったんだけど、若頭補佐っていう人が殺されたらしくてね。その犯人を追ってたの。とても信頼を置いていた人で、犯人を見つけたら沈めて深海魚の餌にしてやるって」
 沈めて深海魚の餌……。かなりダークな内容なのだが、鞠子は如才なく話している。物騒なぶん少しは戸惑ってもいいようなものだが……。
(お母さん……嬉しいのかもしれない)
 父親の話を深く話したこともないし、聞いたこともない。母はいつも笑顔で琥珀に接してくれていたし、お店には老若男女いろんな常連がいて琥珀をかわいがってくれた。
 父親がいなくてさみしいと思ったことがない。それだから聞こうとも思わなかった。
 それはおそらく、琥珀が寂しいと思わないよう、鞠子が愛情を注いてくれていたおかげでもあるのだが。
 父親のことを聞かないから、鞠子が話すこともない。しかし、母は父の話をしたかったのではないだろうか。
 今の母はとても嬉しそうだ。とてもかわいい笑顔で父のことを話している。これだけで、どれだけ父が好きだったのかわかってしまうほど。
「頼りがいはあるし、すっごく優しかったのよ~。琥珀ちゃんの気風がよくて強いとこ、光之輔さん譲りだと思う。……わっ、マリネ美味しい~~。お醤油かけていい?」
「お好きにどうぞ」
「わーい。琥珀ちゃんも食べなよ。じゃないとママが全部食べちゃうぞ」
「食べていいよ」
「太る~~、でも食べる~~」
 嬉しそうにサーモンのマリネを皿に取る鞠子を眺めつつ、琥珀は積年の疑問が解決したのを感じる。
 琥珀は自分でも納得するほど度胸があるほうだと思う。怖いもの知らずと言われたこともある。鞠子もしっかり者ではあるが度胸があるとはまた違う。
 怖いほど肝が据わった性格は自然と備わったものなのか、それとも遺伝なのか。ずっとそれを疑問に思っていた。
(遺伝かあ!!)
 間違いない。父親である仙道組組長、仙道光之輔に似たようだ。
「あのさ、お母さんは、あの……お、お父さん、を、好きだったんだよね……」
 お父さん。この言葉をこんなにも言いづらく感じたのは初めてだ。
「もちろんよ~。一世一代の大恋愛だったもん」
「お父さん……は?」
「なに当たり前のこと聞いてるの。『鞠ちゃんが俺の最後の女だ』って言ってくれてたんだから」
「じゃあ、どうして結婚しなかったの?」
 一世一代の大恋愛に胸を張っていた鞠子の背が、少し丸くなる。サーモンを口に入れ、咀嚼するあいだに表情が曇った。
「琥珀がお腹に入って、結婚しようって言ってくれたけど……。できないって言ったの」
「……どうして?」
「私に、ヤクザの奥さんは務まらない。それも若頭の奥さんだなんて、絶対に無理。光之輔さんと一緒にいられると思えば頑張れるけど、私が頑張れば頑張るほど、光之輔さんは気を使うでしょう。いずれは組長になってもっと大きな責任を背負う人なのに、私がお荷物になりたくなかった」
 先ほどまでの浮かれた調子ではない。琥珀も真剣に耳をかたむけた。
「怖かった、っていうのもあるかもしれない。いくら愛していても、極道の妻になる勇気がなかった。意気地なしだね。……だからといって、光之輔さんが足を洗うなんて絶対にできないし。だから、結婚はしなかった。……でも、その結果、琥珀ちゃんを父親がいない子にしちゃったんだよね」
「わたしはそんなの気にしたことないよ。お母さんがいたし、お店の常連さんもみんなよくしてくれたし。それに、怖いのは当たり前だと思う。意気地なしなんかじゃない」
「琥珀ちゃん……」
「多分だけど……、今までわたしに父親のことをあまり話さなかったのも、生きているのに父親に会わせなかったのも、極道の子どもだって意識させないためだったんでしょう?事情を知らない人に知れたら、わたしが陰口を言われるとかいじめられるとか、考えたんだよね。ありがとう、そんなに考えてくれて。……お母さんは、会いたかったよね。……ごめんね」
 極道の世界の深いところを知らない一般人が、その世界に入るか入らないかを考えたとき、怖くならないはずがない。惚れた腫れたでなんとかなる世界ではないだろう。
 鞠子が琥珀を普通に育てたいと考えたなら、よけいに決心はつかなかったに違いないのだ。また父親も、そんな鞠子の気持ちをわかってくれた。
 仙道光之輔に子どもはいなかったという。「鞠ちゃんが俺の最後の女だ」と言ったのは心からの言葉で、父もまた、母だけを愛し続けていたのだ。
「琥珀ちゃんは悪くないよ。なんも悪くない」
 鞠子が琥珀の頭をポンポンっと叩く。
「会わせてあげることはできなかったけど、琥珀ちゃんの成長は報告していたの。認知もしていなかったけど、養育費なんかはちゃんとしてくれていたし、琥珀ちゃんが小さいころ店が地上げ屋に狙われたときにはどこからか聞きつけて守ってくれたのよ」
「へーえ」
 思わず意外な声が出てしまった。ほったらかしではなく、父は父で鞠子と琥珀の様子に気持ちを割いていたらしい。
「それでもね、琥珀ちゃんが警察学校に入って警察官になったころから、一切連絡は絶ったの。せっかく琥珀ちゃんが夢を叶えたのに、もしも、……なにかあったらいけないからって、光之輔さんが……」
 鞠子が言いよどんだ気持ちが痛いほどわかる。身内に前科がついた者や反社関係者がいれば、警察職には就けない。万が一にでも琥珀の出生が知れて問題になったらいけないと、父は案じてくれたのだ。
 琥珀は父親から認知はされていない。事情を知っている者以外、琥珀が仙道組の組長の娘だとは知らない。
 法律上の身内ではないことを考えればセーフではある。しかし隠し子だったという部分を、場合によってはグレーとされる可能性もあるだろう。
 話に気を取られて飲むのを忘れていたビールをじっと見つめる。連絡を絶ったのは琥珀が警察官になったころ。それなら、鞠子はあの事実を知らないのではないだろうか。
「あのさ、お母さん。仙道組の組長って……先月……」
 言わなくてもいいのではないか……。
 連絡を絶ったなら、今でも彼独自の世界で元気に生きていると、そう思っていたほうが幸せなのではないだろうか。
 迷うあまり言葉が完全に止まってしまった。これでは不自然だ。なにか言わなくては。焦りを感じたとき、頭にふわっと鞠子の手がのった。
「大丈夫。知ってるから」
 反射的に顔が上がる。さみしげに微笑む母が目に入ってズキッと胸が痛んだ。
「光之輔さんのほうにも、事情を知っている人はいたから……。お位牌を届けてくれたの。光之輔さん、琥珀が優秀な警察官で有名だって知って『さすがは俺の娘だよな』って喜んでたんですって。『娘さんがこの先も立派な警察官としてやっていくのが、父親としての仙道光之輔が望んでいることだと思います』って言ってくれた」
 缶を持つ手に力が入る。潰してしまいそうな手前でなんとか耐えて、母を見つめた。
「琥珀ちゃん、頑張ってね。琥珀ちゃんが活躍したのを聞くと、ママすごく嬉しいから。パパもきっと、喜んでくれてるよ。『さすがは俺の娘だよな』……って」
 最後の最後で言葉を詰まらせ、鞠子は琥珀から顔をそらしてラザニアを容器から直接食べはじめた。
「ほんと美味しいっ。全部食べちゃうね!」
 こみ上げた嗚咽をごまかすような明るい声。琥珀まで鼻の奥に刺激が走る。しかし鞠子が我慢をしているのに琥珀が泣くわけにはいかない。
「いいよ! 全部食べて! 胃薬用意しておく!」
 威勢よく言って残ったビールをあおり飲む。
 ──ぬるくなったビールは少し苦くて、もの悲しい気持ちと一緒に、胸につかえた……。

 

 父親が極道だった。
 母親とは大恋愛で、それゆえに琥珀が生まれた。悪い話ではない。……とはいえ、悩まないはずがない。
 なんといっても琥珀は警察官だ。それも念願だった捜査第一課の刑事になったばかり。
 まさかこのタイミングで自分の出生の秘密を知ることになるなんて思わなかった。これならいっそ、知らないほうがよかったのではないだろうか。
 確かに、認知もされていないし事情を知る者はごく一部と考えれば問題はない。ただ隠し子だったとハッキリ知ってしまった今、心のなかにはちょっとした靄がかかっている気分なのだ。
「おい」
 ポコッと頭を叩かれ顔を上げる。丸めた資料を手に、瀬尾が眼鏡越しに呆れた視線を落としていた。
「なにボーっとしてるんだ。ちゃんと話は聞いていたか?」
「聞いていましたよ。失礼ですね。ちょっと考え事をしていただけです」
「事件のこと?」
「……そうですよ」
 ちょっと違うが、そういうことにしておく。
「刑事になって初めて経験する捜査本部ですから、いろいろ考えてしまうんですよ。がんばろーって」
 資料を手に立ち上がる。思いつきで出た言葉ではあるが、頑張ろうと思う気持ちは嘘ではない。
 警視庁所轄警察署の講堂に設置された捜査本部。出入り口には〈元ヤクザ覚せい剤殺人事件捜査本部〉と達筆な筆文字で書かれた看板が掲げられている。
 所轄の警察署のみならず警視庁からも刑事が多数投入され捜査本部が設置された。元ヤクザやら覚せい剤やら、一般市民の不安を煽る要素しかないこともあり、早期解決を目指している。
 被害者は橋本和彦、四十歳。小さな工務店の左官工だ。
 十年前にヤクザからは足を洗っている。真面目な働き者で、職場での人間関係も上手くいっていた。
 昨日未明、東京湾岸の古い倉庫の前で死んでいるのが発見された。銃で頭を撃ち抜かれていることから即死とみられる。
 ジャンパーのポケットから小袋に入った覚せい剤が出てきた。この場所で覚せい剤の受け渡しが行われているとのタレコミがあった直後の事件で、橋本は運び屋をしていてなんらかのトラブルから殺されたのではないかというのが所轄の見解だ。
 概要を聞いていてふと思ったのは、堅気になって十年真面目にやっていても、事件に関与すれば“元ヤクザ”と言われてしまうのだなということ。
 運び屋なんてものを引き受けていたのなら、真面目という言葉にはそぐわないのかもしれないが、少なくとも表向きの職場ではなんの問題もない男だったようだ。
 捜査会議が終わったばかりの講堂内は、それぞれの捜査に向かう刑事たちの熱気で騒がしい。それに負けぬよう琥珀はわずかに声を張る。
「殺された橋本さんは、本当に運び屋なんかやっていたんですか?」
「なぜ?」
「足を洗って十年、真面目にやってきたのに。運び屋なんて危ないこと……、元ヤクザなら、リスクはわかっていると思うんですが」
「そう思っているなら、ガイシャのアパートでも調べてくるといい。所轄の調べでは運び屋をやっていたような形跡は見つかっていないそうだが、他の人間が見て調べるのも大切だ」
「はい。……あっ、瀬尾さんも行くんですよね」
 なんとなく瀬尾の言い回しが気になって確認してみる。返事代わりに車のキーが差し出された。
「僕は所轄の四係の担当と一緒に、ガイシャが十年前に身を置いていた事務所へ行ってくる。代表者に話を聞く手はずになっているらしいから。長嶺さんはアパートを頼む」
「はい……、お気をつけて」
 鍵を受け取ると、瀬尾は軽く手を上げて講堂の出入り口で待つ所轄の刑事のところへ向かった。
 十年前に身を置いていた事務所の代表者。──橋本が所属していた組の組長に話を聞きに行くらしい。
 アパートを調べに行くより危険な仕事だ。代表者だって、まさかひとりで会うわけではないだろう。一筋縄ではいかない男たちのたまり場へ向かうのだから、いくら捜査のためとはいえ覚悟がいる。
(気を使われたのかな)
 女が行く場所じゃない、または、怖がるかもしれない、単に新人だからとか。そう考えて琥珀と別行動にしたのではないだろうか。
(結構優しい人だよね)
 マイペース主義のようで、相手のこともちゃんと見ている。
(志野さんも、そういうところが好きなのかな)
 ……とはいえ、相勤に対するさりげない優しさというものを、樹里の前では発揮しないでくれと願わずにはいられない。
 部署内で瀬尾とふたりで話していると、ときどき樹里の視線に気づくことがある。ちらちらとこちらを気にしている様子に気まずくなる。
 仕事なのだから瀬尾と話をしないわけにはいかないし、相勤として共に行動するのは避けられない。なので、せめて彼女の感情をざわめかせるようなことは避けてほしいのだ。
(女心……難しい)
 自分の性別はひとまず棚に上げる。溜め息代わりに軽く深呼吸をして、琥珀は捜査本部を出た。
 駐車場の角に停めてある捜査車両に乗りこむ。運転席でシートベルトを引くと助手席のドアが開き、瀬尾がなにか言いにきたのかとなんの疑いもなく顔を向けた。
「よっ、お嬢」
 顔の横で手を上げて、キリリッと微笑む美丈夫。──仁だ。
「げっ」
「『げっ』はないでしょう、お嬢」
「お、お嬢って呼ばないでっ」
「姐さん」
「却下っ」
「組長っ」
「もっと悪いっ、ドスを利かせるな」
 こちらへ向かって歩いてくる数人の男性が目に入る。捜査本部で見た顔だ。琥珀は急いでエンジンをかけ、キッと仁を睨みつけた。
「シートベルト! 締めなさいっ」
「承知っ」
「いい声で張りきるなっ」
 仁がシートベルトを引いた気配とともに車を出す。明らかに警察関係者ではない風貌の男を助手席に乗せている姿を見られるのは、遠慮したい。かといって、下手に叩き出して仁の姿を見られるのもマズい。
 仙道組の若頭、それじゃなくても立っているだけで目立つ男だ。彼を知っている警察関係者がいてもおかしくはない。
 公道に出て車の流れにのる。信号待ちでホッとひと息ついた。
「……ったく、……どうしてこんなところにいるの……。よく平気で警察署の駐車場に入ってこられたよね」
「俺はいつでも、琥珀ちゃんのそばにいるから」
 不意打ちの名前呼び。飛び跳ねた心臓に引っ張られるように背筋が伸びる。
「琥珀ちゃんって」
「お嬢も姐さんも組長も駄目って言うから。『琥珀ちゃん』しかないじゃないですか。ああ、でも、なんかいい響きだ。琥珀ちゃん、琥珀ちゃん、琥珀ちゃん。……うん、こう、グッとクる」
「……お嬢でいい……」
 重厚感のある艶声に名前を呼ばれるという罪深さ。恥ずかしいというか照れくさいというか、なんだかイケナイことをしている気分になる。
 どうしてこんなところにとは言ったものの、仁の気配は今日も変わらず感じていた。
 今日だけではない。仁に再会し、琥珀の父親が本当に仙道組の組長だったと鞠子に聞かされてから一週間。彼は相変わらず琥珀のストーカーを続けている。
 さすがに警視庁内にいるときには感じないが、一歩外へ出れば待ってましたとばかりに熱い視線を投げてよこすのだ。
 仁に見られているのだと確信できなかったときには「視線を感じる」と言って瀬尾によけいな気遣いをさせてしまったものの、そうとわかってからは「またか」としか思わなくなった。
 車が走り出すと、仁が口を開いた。
「ところでお嬢、今日はメガネの奴とは別行動ですか?」
「向こうは向こうで別の聞きこみ。わたしは独自で現場検証」
「それはよかった。じゃあ、このあとはずっとお嬢と一緒にいられる」
「顎を撫でるなぁっ」
 固く長い指が顎の下をするすると撫でてくる。まるで猫扱いだ。照れくささで声を張ると、仁は軽くハハハと笑って手を離す。
「顎の下くらいで真っ赤になって。むちゃくちゃ滾りますね。かわいいですよ」
「いい声で『かわいい』とか言わないでっ。……恥ずかしいなぁ、もう……」
 駄目だ。もっと強くビシッと言わなくては。なのに、できない。
 かわいい、なんて言葉は、いやな言いかただが言われ慣れている。子どものころから母やお店の常連に毎日のように聞かされてきた。いまだに言われる。
 なのに、仁のひとことでこんなに照れてしまうのはどうしてなのだろう。
「毎日毎日、あのメガネがお嬢にくっついているから、シキテン切りながらイライラしてたんですよ。さっき見ていたらメガネは違う車に乗ったしお嬢はひとりで駐車場に出てくるし。これはチャンスだなと」
「なにがチャンスですか。ストーカーみたいにつきまとったって、組長にはなりませんよ。なれるわけがないでしょう」
 仁のセリフにわずかな引っかかりを覚えながら、軽く溜め息をつく。
「ストーカーとか、あんなもんと一緒にしないでください。俺のは純粋な見守り行為です。お嬢が城から出てこないときは、なにかあったんじゃないかと心配で心配で」
 城……。警視庁のことを言っているのだろうか。むしろ出てこないほうが安全のような気がする。
「それに、お嬢は立派な組長になれますよ。そんなに心配しなくても」
「そうじゃなくて」
 琥珀の立場を考えれば、ヤクザの組長だのなんだの無理に決まっている。選択肢にも入れられない。しかし仁は、自信がないから組長にはなれないと言っていると解釈したようだ。
「わたしは、普通に育ったんです。あなた方の言葉で言うなら、カタギの世界で生きてきたんです。おまけに警察官なんですよ。それなのに、いきなり遺言だからヤクザの組長になれとか言われて『はい、そうですね』なんて言えるわけがないでしょう。常識で考えてね、じょうしきでっ」
 常識、に力を込める。少し嫌味っぽかったかなと一瞬後悔しかかったが、仁がふっと笑ったのを感じてその思いは消し飛んだ。
「サツはやめればいいだけでは?」
「今すぐ車から蹴り落とすよ?」
「いいですね。その威勢のいいところ、大好物です。ですが、さすがに俺もお嬢対策は万全ですから簡単には蹴り落とされませんよ」
「対策?」
「初っ端からお嬢の制裁にやられたんで、受け身と逃げはバッチリです」
「なにそれ……」
 初めて仁が目の前に現れたとき、抱擁されたついでにお尻を撫でられて出足払いをかけた。あのときは上手く決まったが、二度目は防ぐ間もなく車の後部座席に押し倒されてしまったし、頭突きも蹴りもかわされて逃げられている。
 対策が万全というのは本当なのかもしれない。だとすれば、この先なにかあって仁を避けようとするとき、力業ではなかなかに難しいということか。
(いや、別に喧嘩しようっていうんじゃないし。相手の懐に入っちゃえばこっちのものだし)
 柔道の稽古のときには、自分より倍の体格がある男を投げ飛ばしていたのだ。仁も若頭というからには戦闘能力が高いのだろうが、大丈夫、なんとかなる。
「大丈夫ですよ」
 ふわっと頭に大きな手がのる。仁の声も頼もしく優しげで、つられて顔を向けてしまいそうになる……が、運転中だ。思いとどまって前だけを見つめた。
「お嬢はなにも心配しなくていい。俺がすべてサポートしますから。組長の遺言のとおり、俺にはお嬢を支えて共に生きていく使命がある」
「そんな責任背負わなくていいですよ。だいたいあなた、不動仁さん、次期組長の有力候補だったんでしょう? そのままあなたが組長になればいいじゃないですか。こんなド素人に声をかけなくても」
「お嬢が組長になってくれない限りは、共に生きるという遺言を守れない。ド素人とか心配も不要。組長補佐として、夫として、タマをかけてお嬢を守ります」
 刹那、思考が停止する。──信じがたい言葉を聞いた気がしたのだ。
(──夫っ? って、なに!?)
 急に復活する思考回路。前方の車が赤信号で停止しているのに気づき、必要以上に強くブレーキを踏んでしまった。
 キキッとタイヤを鳴らして車が停まる。ハンドルに両手をかけ、手の甲にひたいをつけた。
「なんて言ったの……?」
「お嬢?」
「組長補佐として……なんだって?」
「夫として」
「なんで!?」
 顔を上げて仁を見る。慌てる琥珀を歯牙にもかけず、彼は「やっぱりハリウッドでアクションスターを目指してください!」と言いたくなるような顔面偏差値が高すぎる微笑みを浮かべた。
「組長になるお嬢を支えて共に生きていく。夫婦になるってことですよ。俺はお嬢と会ったときから惚れてるんで、なんの問題もないです」
 頭がぐるぐるする。「共に生きていけ」とは、そういう意味だったのか。
 確かに、いくら自分の血を引いた子どもだとはいえ、極道の世界などなにも知らない娘に「組長になってほしい」なんて無茶は、たとえ死に際でも言わないだろう。
 間違いないサポート役が夫としてそばにいれば可能だと考えたからこそ、亡き仙道光之輔は「娘を支えて共に生きていけ」と仁に託したのだ。
(夫婦……って、結婚するってことだよね……)
 初めて会ったとき、仁が琥珀を見て喜んだわけがわかった。
 ────姐さんが、こんなに気風のいい美人に育っていて。むちゃくちゃ俺好みです。
(いや、好みって!!!!!)
 動揺する思考。構わず仁はにっこり微笑む。
「ほら、なんの問題もない」
「ありすぎる! この、バカタレ!」
「おおっ! 亡き組長と同じ口調!」
「母の口癖だってば!」
 信号が変わったことにワンテンポ遅れて気づき、琥珀は慌ててアクセルを踏みこんだ。


 衝撃的な話に激しく動揺したものの、それを引きずるわけにはいかない。まだ仕事中なのだ。
 目的地に到着すると仁を強制的に車から降ろし、「ついてこないでくださいねっ」と言い聞かせて捜査に向かう。
 広い敷地の中にぽつんと建った二階建て木造アパート。もともとは同じアパートが四棟あって、古くなった順に取り壊していったらしい。取り壊し中の建物が一棟あるが、中途半端に解体機械ごと放置されていた。
 二階に五つ並んだちょうど真ん中が橋本和彦の部屋だ。一階に住む大家の中年女性から鍵を借りて部屋に入った。
 シンッと静まり返った2Kの部屋はほどよく片づいている。そういうと聞こえはいいが、ようは殺風景なのだ。
 もちろん、先に捜査に入った所轄の人間が物を動かしたり持ち出したりしたせいもあるのかもしれないが、必要最低限のもののなかでシンプルに暮らしていた、そんな印象を受ける。
 派手な暮らしをしていた様子もない。運び屋なんて危険な仕事をしていたのなら、まとまった報酬を受け取るだろう。バレないように気をつけていたにしても生活の一部にさえその片鱗が見えないのは、かえっておかしくはないか。
 平日の夕方ではあるが、両隣の住民に話を聞くこともできた。右隣は若いフリーターの青年、左隣が三十路手前といった印象の女性。水商売らしい。
「物静かな人でした。このアパート壁が薄いんだけど、物音が気になったこともないし。かえってオレのほうがうるさかったんじゃないかなって」
 青年は申し訳なさそうに話してくれた。
「うん、いい人。よく部屋に出た黒いやつを退治してくれたんだよね。お礼に店の割引券とかあげたんだけどさ、受け取っても一回も来たことはなかったなぁ。アタシは背中のひとつも流してあげたかったけど」
 水商売というよりは風俗なのだろう。女性からも悪い話は聞かない。いくら客としてでも、ご近所さんと裸のつきあいはできないと思ったのか、それとも、もし刺青があるのなら見られるのを避けたかったのか。
 室内を捜索し、アパートやその周辺で聞き取りをしてから捜査車両に戻った琥珀は、瀬尾に連絡を入れた。
「瀬尾さん、生きてますか? 大丈夫でしたか?」
『報告の第一声がそれって、どうなんだ』
 ちょっと呆れた声を出されてしまった。運転席のシートをわずかに倒し、琥珀は楽な姿勢をとる。
「ヤクザの親分さんのところに行ったんですよね。心配になるじゃないですか」
『本当に心配なら、別行動になって十分前後には最初の安否確認があってもいいようなものだが』
「十分は信用しなさすぎでは? そのあたりは“心配だけど大丈夫でしょう”ってところだと思いますよ」
『で? 長嶺さんは今の今までその状態だった、と』
 エヘヘとごまかし笑いが入る。心配ではあったが瀬尾なら大丈夫な気がしていたのも本当だ。
『期待どおり、僕のほうは変わったこともない。組長もドンと構えた落ち着いた人で話しやすかった。ただ、橋本について詳しい話を知っているのは若頭のほうらしくて、今日は出ているとかで会えなかった』
「そうなんですか。それじゃ出直しですね」
『出直すことになるだろうな。数多くいる若衆のひとりだったからか、組長自身がガイシャのことをよく覚えていない。若衆のなかでも問題行動もなく物静かではあったようだ』
「それならこちらも同じですよ。びっくりするほど悪い話が出てきません。近隣住民にも物静かで礼儀正しい男性って認知されています」
 極道に身を置いていたときから悪い話がないなら、本当に運び屋だったのかという疑問は大きくなるばかりだ。
 ただ表の顔と裏の顔が違う人間だっているし、組にいたころの様子をよく知っているという若頭に話を聞かないことには断定はできない。
「瀬尾さんの話と似ていますが、大家さんの娘さんが橋本さんと親しかったらしくて、よく話をしていたからなにか知っているんじゃないかと思って」
『大家の娘? イイ関係だったとか?』
「違いますよ、すぐ男女の関係に繋げないでください。保育園に通っている息子さんがいて、その息子さんが橋本さんによく遊んでもらっていたそうなんです。今買い物に行っているそうで、戻ったらお話を聞くことになっています」
 電話の向こうで瀬尾が軽く笑っているのがわかる。男女の関係に繋げたことを少し怒った口調で咎めてしまったせいだろうか。
 捜査上で異性との関係性を疑うのは普通だ。怒るようなことでもない。
『長嶺さんは、人たらしのくせに“仲よくする”話が苦手なんだな』
「そうやってからかわれるほうが苦手です」
 実際、男女関係の話は苦手だ。恋愛経験がないせいもあるが、妙に照れくさくなってしまう。そして、照れているのを見て揶揄されるのはもっと苦手だ。
『そう怒るな。娘からの聞き取りが終わったら直帰していい』
「いいんですか?」
『シキカンが済んだらいい時間になるだろう。捜査本部にかかわるのは初めてで張りきっているだろうから、初日から飛ばさないように早めに帰してやれ、……って、五十里課長に言われた』
 予期せぬ名前が出てきてプッと噴き出してしまった。「いかりのおじちゃん」は結構過保護である。
 シキカンとは被害者の家族や知人への聞きこみのことだ。交友関係が広ければ広いだけ時間もかかるが、今回はそれほどでもないだろう。
 しかしここで重大なことに気づく。
「いいこと言ってもらいましたけど、わたし捜査車両任されてるじゃないですか。庁まで戻しに行かないと……」
『明日乗って戻ればいいって。五十里課長が言っていた。手続きはしといてくれるとさ』
「ありがとうございまーすっ」
 シートから身体を起こして一礼する。いかりのおじちゃんに感謝。嬉しそうに笑ってしまったのが聞こえたのだろう。瀬尾が喉で笑っている気配がした。
『よかったな。気をつけて帰れ』
「はいっ、お疲れ様です」
 元気に返事をして通話を終える。鼻歌が出そうになったとき、運転席の窓ガラスがコンコンと叩かれた。
 顔を向けると、身をかがめた仁が琥珀に小さく手を振っている。ヤクザがかわいい仕草をしているのに妙に似合っているのは、顔がいいからだろうか。
 助手席から乗ってこようとするわけでもなく、窓を開けろと強制的な態度でもない。それどころかちょっと落ちこんでいるようにも見える。
(車から追い出したからじゃないよね……)
 現場に到着してから、「ここで待っていてもいい?」とキメ顔で微笑む仁のイケメンオーラを叩き落とし、強引に車から降ろして「ついてこないでくださいねっ」と突き放した。
 まさかそれで沈んでいるのだろうか。女に冷たくあしらわれたくらいで、組の若頭を名乗るほどの男が落ちこむだろうか。
 窓越しに見つめてくる仁を、琥珀もじっと見つめる。落ちこむというより切なそうにも見えて、……なぜか胸の奥がきゅっと苦しくなった。
 仁が琥珀にぞんざいに扱われるというのは、女に冷たくあしらわれた、という意味で解決できるものではないのだ。
 光之輔の遺言もあって、仁は琥珀と夫婦になる心づもりができている。彼のなかでの琥珀は組長であり妻であり、共に生きていく相棒だ。
 琥珀のことを好みだと言って喜んでいた。そんな女に冷たくあしらわれたら……。
「どうしたんです? 帰ったのかと思ってましたけど……」
「誰と話していたんです? そんな顔して」
 窓を下げながら声をかける。と、仁もほぼ同時に言葉を出した。機嫌が悪そうだが、特に睨みを利かせているわけでもない。
「そんな、顔?」
 彼の言葉に反応してしまったことで、琥珀の質問は後回しになった。
「すごく嬉しそうな顔。楽しそうに話していたし、相手は誰です」
「仕事で組んでる先輩」
「あのメガネ? なんでそんな楽しそうな顔するんです。俺にはしてくれないのに」
「は?」
 思わず目を見開く。もしや彼は、冷たくあしらわれたことではなく琥珀が楽しそうに話をしているのを見て気持ちが揺さぶられているのだろうか。
(俺にはしてくれないって……、なに、その言い分……)
 まるで子どものやきもちではないか。
(この人が、そんなこと思う……?)
 女の動向ひとつに惑わされるタイプではないように感じるのに、なんという意外性。
(え……ちょっと、かわい……)
 流れるような自分の思考にハッとする。今なにを感じた。かわいいという感情が湧き上がってはいなかったか。
「ちっ、違うのっ。今日は直帰していいって言われて、このまま車で帰っていいってお許しが出たから、ラッキーとか思って、それで嬉しかっただけ。ベ、別に、瀬尾さんと話して嬉しかったわけじゃないし、……そんなこと気にされても困る」
 自分の感情に焦るあまり早口になる。ひととおり言ってから仁と目を合わせると、今度は彼のほうが目を見開いて琥珀を見ていた。
(なんかおかしいこと言った? それより、こんなキョトンとした顔もするんだ……。かわ……)
 またもや浮かんではいけない単語が上がってきそうになり、振り払おうと何度も頭を左右に振る。すると仁に頭の両側を押さえて止められた。
「お嬢、落ち着いてください。すみません、おかしなことを聞いて動揺させてしまって」
「あ、はい」
「車で帰れるから嬉しかっただけ。よーくわかりました。あのメガネ……瀬尾っていうんですね。あいつは関係ない、と。了解ですっ」
「……わかっていただけて、なにより」
 なんとなく立場が反対になってはいないか。気持ちが揺れていたのは仁だったと思うが、いつの間にか琥珀のほうがゆらゆらしている。
 仁の言動が意外すぎた。動揺してしまったのは仁のせいだ。心ひそかに罪をなすりつけ解決を図る。
 琥珀の頭から手を離すと、窓枠に片腕を引っかけ仁が顔を覗きこんできた。
「それじゃ、仕事は終わりですか?」
「まだ。もうひとり聞き取りがあるから」
「そうですか。……お嬢が追っているのって、湾岸倉庫でヤられたやつの事件ですか?」
「内緒」
 そんなこと言えるはずがない。聞いてみたものの仁もそれはわかっているのだろう。苦笑いをして窓枠から手を離し身体を伸ばした。
「そうですよね。わかりました。頑張ってください。じゃっ」
「えっ」
 思わず声が出る。喰いついてくるかとも思ったが、仁はあっさりと背を向けたのである。
 夕暮れのなかを振り向きもせず歩いていく。もしかして引き返してくるのではないかと後ろ姿を見つめていたが、その気配もなく彼の姿は見えなくなってしまった。
 顔をそらし窓を上げて、琥珀は両手で頬を押さえる。──なんとなく、つまらない。
(いや、これでいいんだ。まだ仕事が残ってるんだから)
 気持ちを切り替えて深呼吸。車のなかで大家の娘が帰ってくるのを待った。
 ──大家の娘が子どもと一緒に戻ってきたのは、十八時を過ぎたころだった。
 娘は夫と四歳になる息子の三人で、大家の隣の部屋に住んでいる。玄関先で十五分ほど話を聞くことができた。
「いい人でしたよ。いつもうちの子と遊んでくれて、買い物に行くときなんかも預かってくれたんです。お礼におかずをおすそ分けすると、大げさなくらい感謝してくれる人でした」
 やはり悪い話は聞かない。琥珀のなかで橋本の運び屋説がまた一歩遠のいた。
 立ち話をする玄関からは台所と居間が見える。これから夕食の支度をするのだろう。台所の調理台の上には、食材が入ったエコバッグが置かれていた。
 大家の娘がそわそわして見えるのは、警察に話を聞かれるという緊張感なのか、夫が帰る前に食事の支度をしてしまいたいと急いているからなのか。
 どちらにしろ主婦にとっては忙しい時間帯だろう。聞きたいことを聞いたら早々に引き上げるのが得策だ。
「ご協力ありがとうございました。それでは……」
 これで失礼します、と言いたいところなのだが……。琥珀はちらりと右下に視線を落とす。──小さな男の子がしっかりと琥珀の右手を握って熱い視線を送ってくる。
 橋本と仲がよかったという五歳の男の子だ。最初に橋本とどんなことをして遊んだのか聞いたのだが、それから琥珀にくっついて離れない。
 母親譲りの人たらしは老若男女問わず有効だ。最近はヤクザにまで懐かれている。交番勤務だったころも地域の小学生によく話しかけられた。この子もきっと、琥珀の近寄りやすい雰囲気を察しているのだろう。
(でも……)
 かすかな違和感のまま、琥珀はしゃがんで男の子と視線を合わせる。
「橋本のおじちゃんのお話、聞かせてくれてありがとう。またなにかあったら、お話聞かせてくださいね」
「おねえちゃん、これ」
 男の子は思いきったように片手を琥珀に差し出す。握った手を開くと乳白色の丸い固形物があった。見れば有名なゲームキャラクターの顔の形をしている。
「おじちゃんとたべたやつ。いっしょにたべよ」
「くれるの? 嬉しい、ありがとう」
 子どもが好むキャラクターの形をしたラムネ菓子は、琥珀も食べたことがある。男の子にとっては橋本との思い出のお菓子なのだろう。
 ラムネを受け取ると、男の子はキャラクターが描かれたラムネケースをポケットから取り出し、ひとつ口に入れる。
「おねえちゃんもたべて」
 男の子は「いっしょにたべよ」と言っていたのだし、橋本の話を聞いてきた琥珀と思い出のラムネを食べたいのかもしれない。
「すみません、食べてあげてくれますか? この子、橋本さんがいなくなってから『一緒に食べるんだ』っていつもラムネを持ち歩いてるんです」
 母親も申し訳なさそうに口を出す。そんな話を聞いたら無下にはできない。するつもりもない。
「はい、ありがとう」
 子どもの想いをないがしろにはできない。琥珀はラムネを口に入れ、男の子に微笑みかけた。
「美味しいね」
「うんっ。おねえちゃんがたべてくれたから、おじちゃんがかえってきたらいっしょにたべるんだ!」
 男の子は橋本が死んでしまった事実を知らない。帰ってきて一緒にラムネを食べてくれると信じているのだ。
 そうだねと言ってあげたいが、帰れるはずがない人をさも帰ってくるかのような言いかたはできない。琥珀は立ち上がり「失礼します」と頭を下げた。
 アパートを出て車へ向かう。遊んでくれるおじちゃんを健気に待っている男の子のことを思うと、胸が詰まる。小さく息を吐いて何気なく空を見上げた。
 すっかり暗くなってしまっている。住宅やアパートは多いが、大きな建物もなく意外に夜空がよく見える。メインの通りから外れているせいか街灯が乏しい。人通りがなくてとても寂しげに感じる。
 真っ暗な空に、輝く星。
(星……?)
 しばらく眺めていて、ふと……なにかおかしいことに気づく。
 街灯がないから星がよく見えるのはわかる。しかし、“見えすぎ”だ。それも線香花火のようにちかちかと瞬いている。
 グラッと、大きく視界が回った。めまいだろうか、突然の体調不良に戸惑うものの、ここで倒れるわけにもいかない。車は目の前だ、中で少し休んで……。
 足を動かしているつもりではあるのに、身体が動いていない。それどころか視界に靄がかかってきて体温が上がってくる。
「……はっ……」
 息があがる。なんとか車にたどり着く努力をしていると、何者かに両腕をとられた。
「フラフラして~、おねーさん。転ぶよ~」
「はあ? 写真よりかわいいじゃん。マジ、ヤっちゃっていいの?」
「いいんだろ? そういう話だし」
「アニキに感謝~、ムチャクチャ役得~」
 軽薄な男の声が複数。力任せに引っ張られているのがわかる。顔が上がらない。力が入らない。いったいどうしたというのだろう。
 意識がもうろうとしかかるが、この状況はよろしくない。普通の状態なら立ち回れるのに、身体がおかしくてなにもできない。
(どうし……よう)
 なにか策はないかと考えたいのに頭が上手く回らない。男たちの笑い声が遠くなっていく。それどころか笑い声はやみ、両腕が放されてなにか違うものに拘束された。
「このチンピラどもが。誰に頼まれた。柴山の舎弟がらみか?」
 ドスの利いた声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。それに、拘束するこの感触も覚えがある。
「お嬢、すみません、少し我慢してください」
 その呼びかたでハッとする。刹那動いた思考が、仁の肩に担がれたことを認識した。
「テメエ! 女、よこせ!」
「ふざけんな!」
 怒声が聞こえてくる。琥珀を担いだまま仁が身動きするのを感じ、そのたびになにかを殴りつける音やら砂利がすれる音やら「ぐぇ」やら「ごぉっ」やら尋常ではない声が聞こえた。
 しかしそれもあっという間に終わる。
「担いじゃってすみません、お嬢。吐きそうですか?」
 肩から身体が滑る。そのまま仁に抱きかかえられた。
「ああ……だいぶ回ってますね。聞きこみに行った部屋で、なんか食いました? 声出ますか?」
 思考がぐるぐる回る。少し前のことを聞かれているだけだが、上手く思いだせない。
 答えを聞きたいのか仁が琥珀の顔をじっと見ている。なにか言わなくてはと思うのに、唇は半開きになったまま動かなかった。
 相変わらず体温が高くてぼんやりしている。口で呼吸をするとラムネの味がスッと鼻に抜けた。
「ラム……ネ……」
「なんです?」
「ラムネ、もらった……」
 口に入れたものといえば男の子にもらったラムネだけだ。しかし、そのせいで体調がおかしくなったとも考えにくい。
 仁がチッと舌打ちをする。琥珀から顔をそらし、声を張った。
「おい、こいつら吐かせろ。何番を使ったかでいい。あとはたたんでサツに渡しとけ。いいか『警視庁の長嶺刑事に頼まれた』って突き出せよ」
「わかりやした!」
 複数の威勢のいい声が聞こえ、仁がひとりではなかったことがわかる。スーツのポケットを探られ、車の鍵をとられた。
「なに……す……」
 声を出そうとすると、口の中に吐いた息が熱くこもる。車の鍵をとられたら帰れない。おまけにその鍵を誰かに渡している。
「大丈夫です。チンピラどもと一緒に桜田門に持っていかせますから。お嬢は治療が必要なんで」
 言いながら歩きだした仁は、自分が乗っていた車なのか、後部座席に琥珀を横たえ素早く運転席に乗りこんだ。 
「ひとまず、応急処置ができるところへ行きます。少しだけ我慢してください」
 軽い振動のあと車が走り出す。スピードが出ている気配がするが大丈夫だろうか。「法定速度!」と叫びたいところだが、口で呼吸をするのが精いっぱいで声が出てくれない。
(なんなの……。なにが起こってるの)
 自分の身体なのに、症状を理解できない。眠いような気もするが、動悸がして眠れる気もしない。
 ラムネ。男の子にラムネをもらった。あれが悪かったというのだろうか。けれど、あんな小さな子どもがおかしなものを持っているとも思えない。
 どれくらい車が走っていたのかもよくわからない。全身の熱と息苦しさを我慢していたら車が停まった。降りる直前、仁に電話がかかってきて「わかった」とホッとしている声が聞こえた。
 またもや抱きかかえられて車から降ろされる。なにかの建物に入ったようだった。
「待っていましたよ、不動さん。お部屋は用意してあります。中庭側の奥を使ってください」
 女性の声だ。とても優しげなトーンで聞いているとホッとする。
「ありがとうございます。四十柳さんは?」
「うちの人は若頭夫婦と一緒に出かけているの。うちの若頭にボディガードなんていらないって言っているのに、過保護な若頭補佐ですよ、ほんと。そろそろ戻ってくると思います」
「そうですか。留守中に無理を言ってしまって……」
「そんなことはありません。このお嬢さんですね。薬物にあたったなんてかわいそうに。早く部屋へ」
「ありがとうございます、姐さん」
「姐さんはやめてくださいって言ってありますよ。そんな立派な呼ばれかた、私には合いませんから」
「そんなことはないです。ありがとうございます、玲香さん」
 話しながら移動し、襖を開閉する音がしたのち寝具の上らしき場所であお向けに寝かされた。
「お嬢、口の中が熱いでしょう。今、水を」
 言われてみれば口腔内が熱くてひりついている。息苦しさで口呼吸ばかりしていたわりには口が乾くこともなく、かえって唾液の分泌が多い気がした。
「言っときますが、お嬢のためですから。いいですね」
 念を押し、仁は手に持ったグラスの液体をあおる。琥珀の横に身体を寄せ軽く上半身を重ねて、……唇を合わせた。
 正確には、半開きになった口の隙間から水を流しこんでいるのだ。それでもただダラダラと流すのではなく、様子をみながら少しずつ落ちてくる。
 彼の舌で唇を舐めて濡らされ、唇同士が密着して水分が流れこんでくる。琥珀が飲みこんでいるか確かめるよう、口腔内で彼の舌が動き下顎や歯茎をかする。
「ふ……ぅ、ン……」
 それがなぜか身震いするほど心地いい。冷たい水をもらっているからというより、仁の舌が動く気配になにかを感じた口腔内が、おかしな反応を起こしている。
 麻酔にでもかかっているかのよう。触れられる感触が妙に鋭くなっている。痛みとか不快とかではなく、もっと違うなにか。
 気がつけば水は流れてこなくなっている。それでも仁の舌は、頬の内側を、舌の根元を、探るように撫でていく。
「ん、ンッ……ぅ」
 もどかしげに鼻が鳴る。無気力に落ちていたまぶたをゆっくり上げると、力強く艶っぽい眼差しと視線が絡んだ。
(この人……やっぱり綺麗だ……)
 仁の瞳に引きこまれそうになる。こんなしっとりとした気持ちになってしまうのはなぜなんだろう。それより重なった唇の感触がなんともいえなくて、いつまでも触れていたい気持ちになる。
「そんなイイ顔されたら……堪らない……」
 仁の唇は頬やこめかみを滑り、喰いつくように耳を食む。そのまま耳介で舌を動かされ、耳の根元が痺れるような感覚に襲われた。
「あっ、ハァ、ぁ、ん」
 ビクビクッと身体が跳ねる。まるで陸に上がった魚のようだと自分で思うものの、止めようがないのだ。どうにもできない。
 もう片方の耳を指で挟んでこすられる。ただそれだけなのに背筋から足の先までもどかしい微電流が走って、全身が蛇のようにうねった。
「ぁぁ、あ、やっ……ぅん」
 なぜこんな反応をしてしまうのだろう。恥ずかしさを感じて震える手で仁のスーツを掴むと、耳をいじっていた手がブラウスのボタンを外しはじめた。
「大丈夫。俺に任せて。身体が気持ちイイと感じてると、吐き気とか眩暈とか具合の悪さを感じないでしょう」
 言われてみれば本当にそうだ。ここへ来るまであれほど体調がおかしかったのに、唇から仁に触れられているうちに具合の悪さよりも心地よさが勝ってきている。
 ブラウスの前が広げられ、ブラジャーの上から胸のふくらみを撫でられる。そろえた指先が胸の下を撫で、胸全体が熱くなってきた。
「や、ぁ、ダメ……むね……」
「どうして? 気持ちイイだろう? ほら、ここ、勃ってる」
「ンッ! ぅっ」
 ブラジャーごと胸のトップをつままれ、背が軽く反る。そのまま指を動かされ腰のあたりがビリビリ痺れた。
 彼の唇はまだ耳を嬲っているので、そこで声を出されると鼓膜の奥が刺激されて脳まで犯される。自然と大きく身悶えしてしまい、自分の身体なのにこんな反応をしてしまうのがわからない。
 両腿を擦り合わせ、腰が揺れて、体温の上昇さえも全身に心地いい。
「身体……おかしい。ハァ……あっ、どうしてぇ……ぅうん」
 絞り出された声は震えて、泣き声のよう。そのせいか仁が耳から顔を上げ琥珀を見つめた。
「男にさわられるのは、初めてか?」
 考える前にうなずいていた。異性と身体が接触することなんて、柔道の稽古か犯人確保のときくらいしかない。
「お嬢は今、薬の反応で身体の感覚が過敏になっている。副反応の不調を抑えるためには気持ちよくなってもらうしかないから、おとなしく感じていればいい」
 スーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイを引っ張ってゆるめる。いささか乱暴な仕草なのに、なぜか胸の奥がきゅんっと跳ねる。
 仁にこんな反応をしてしまうなんてとは思えど、今は自分の感覚がおかしいのだとわかっていれば不思議に思うこともない。
 この反応はすべて、薬のせいなのだ……。
「なんの薬かとか気になるでしょうから、楽になったら教えます。今は……さわってほしいでしょう?」
「はっ! ……あっ、あ」
 両手でボディラインを撫でられ肌が歓喜する。大きな手が肌を走る感触が、なんともいえない。
 さわってほしいのは間違いではない。薬のことも気になるし、なぜそんなものを飲まされてしまったのかも気になる。けれど今は、それらを知るよりもたださわってほしい。
 ほどほどに荒い息を吐きながら、仁の手の動きに身をゆだねる。背中に回ってくれば身をよじりうつぶせになって、まるでマッサージでもされているかのような心地よさに酩酊していく。
「きもち……いい……」
「豪いことになっていそうだから、脱がせますよ」
 もう一度ぐるりと身体が回ってあお向けになったとき、スーツのパンツとショーツを足から抜かれていた。あっと思ったときには女性にとってもっともプライベートな部分を探られていたのである。
「あっ……!」
「最初に脱がせばよかった。とろっとろだ」
 秘部で仁の手が動くたび水を掻くような音が聞こえる。ぐちゅぐちゅという湿った音は間違いなく琥珀の脚のあいだから奏でられていて、内腿やお尻にまで湿りけが広がっているのを感じる。
「やぁ……あっ、ヘンな、音す……ぁぁん」
「大丈夫。気持ちいいとこうなるんだから。ところでお嬢、俺、我慢するのに死に物狂いなんで、もう少しその煽った顔抑えてくれませんか」
「なに言ってるか、あぁぁん、わかんな……やぁぁンッ」
「そうでしょうね、俺もなにお願いなんかしてんのかわかんなくなってきましたよっ」
 自棄になったかのように、秘部を探る指の動きが巧みになる。引っ掻くように撫でるように、とんでもなく敏感な部分をもてあそばれて目の前に白い光が瞬きはじめた。
「やっ、やぁぁ……なんか、なんか、ダメぇぇ……!」
「薬のせいなのかもともとなのか、かなり感度がいい。もう俺、我慢やめていいですか」
 仁の声が少し殺気立っている気がした。そんなにつらそうにして、なにを我慢しているのだろう。かわいそうなので「やめちゃえば?」と言ってあげたいが、琥珀は自分のことで精いっぱいだ。
「あぁっ……! やっ、やぁぁ……落ち、るっ……あああ──!」
 白い光と一緒に、身体がぶわっと浮き上がった感覚に襲われる。下半身からなにかがせり上がってきて……。
 ──意識が、真っ白になった……。

 

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