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罪の名は、恋

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書籍紹介

誰にも君を渡さない

封建時代さながらの主従関係が残る島で、音羽は大企業の御曹司・雅臣と秘密の社内恋愛中。惹かれ合うけれど、掟で禁じられた恋。交われば災いが降りかかる。「好きだよ、俺が絶対に守るから」幼い頃からの恋心を一途に囁く彼に愛おしさが募る。身も心も強い絆で結ばれた矢先、関係が知られてしまい……。求め合う想いが運命を変える甘くて切ないドラマティックラブ!

登場人物紹介

水埜尾雅臣(みずのおまさおみ)

代々続く比湖島の領主・水埜尾家の跡取り。殿上人のような水際だった容姿。すべてにおいて並外れた高い能力を持つ。幼い頃から音羽を一途に想っており、やんちゃな一面も。

鎧塚音羽(よろいづかおとは)

比湖島を守る人柱四家のひとつである水埜尾家に仕える鎧塚の娘。鎧塚家は代々水埜尾家の護衛の役割を担っており、音羽も武術に秀でている。雅臣とは秘密の恋人同士。

立ち読み

 「怪物を見た?」
「しッ、声がでかい。最初にも言ったが防衛省の機密事項だ」
 尾根がそう叱咤すると、若い事務官はすぐに口を真一文字に引き結んだ。
 扉が閉まっているのを確認してから、尾根は再び口を開く。
「今から二十五年ほど前になる。俺が、西部方面隊のN駐屯地にいた頃の話だ。今でも非公開だが、N駐屯地には当時から極秘の訓練施設があった。お前も広報部なら聞いたことがあるだろう。通称七〇一部隊だ」
 七〇一──ユウレイ部隊。ふざけた語呂合わせだが、それは皮肉を込めて省内で呼ばれている通称だ。なにしろ一切が極秘扱いで、所属隊員の名前は防衛省の記録から一時的に抹消される。むろんその存在自体、未来永劫国民に知らされることはない。
 しかし、そういった隠蔽は、こと安全保障の分野では、ごく当たり前に行われているのだ。今ではすっかりお馴染みになった、対テロ部隊警視庁・警察庁特殊急襲部隊──通称SATの存在さえ、二十年近く隠されていたくらいなのだから。
「今でもよく覚えている。ひどい雨が降る夜だった。寝入りばなに緊急アラートが鳴って、部隊全員が軍用ヘリに詰め込まれた。防弾ベスト、散弾銃、放射能防護服──フル装備だ。そう、今だから言うが俺も部隊の一員だった。最悪なことに入隊はその前日だ」
 椅子に座る若い事務官は、表情を変えずに聞いている。
(防衛省広報部の者です。防衛省史作成のため、今、退役隊員の方から公式記録に残らない体験談をお聞きして回っているんですよ)
 何を暇なことをやっているんだと思ったが、糖尿病治療で入院してから早三ヵ月、暇なことにかけては今の尾根も負けてはいない。それに──ここまでのネタを持っている奴はさすがにいないだろう。
「ヘリの中で、ようやく任務の説明があった。行き先はとある島。詳しい場所は勘弁してくれ。戦時中に米軍が落とした不発弾が爆発し、大勢の死者が出ているとのことだった。我々の任務は〈爆発物〉の完全撤去。証拠となるものは、目撃者も含めて全て撤収するよう指示された」
「目撃者も、ですか?」
 そこで若い事務官が口を挟む。尾根は口元を微かに歪めた。
「七〇一が派遣された時点で察しはつくだろう? 不発弾というのが嘘か本当かは知らないが、爆発したのは絶対に公にしちゃいけないブツだってことだ」
「……核?」
「それか非人道的な化学兵器。もちろんそのどちらでもなかったから、今、こうして話してるわけだ。でもその時は、全員が暗黙の了解で、そのどちらかだと理解したんだよ」
 思わず煙草を探した手が、空のポケットを虚しく叩いた。苦笑いをして、尾根は続ける。
「現場と目される場所は驟雨と白煙に包まれていた。そこは旧軍需工場跡地で、近隣に民家と呼べるようなものはなく、一番近くにある工場の従業員はすでに全員避難している。ヘリから投下された俺たちは、視界の効かない夜道をずぶ濡れになって進んだよ。やがて煙が薄まり、瓦礫の山が見えてきた──」
 戦後間もなく閉鎖された造船工場だと聞いたが、瓦礫には不気味なものが数多く交ざっていた。木でできた祭壇らしきもの、人型の土器。それから、あちこちにへばりついている薄い紙。それらはみな得体の知れない赤い粘着様のものでベタベタに汚れ、崩れた外壁のあちこちにも赤色の筋ができている。
「お祭りの時にしめ縄に紙きれをつけて飾るだろう? それが赤黒く染まったものが、色んなところにへばりついたり挟まったりしているんだ。まともに残っているものをしげしげと見ると、まるで人型をかたどったように頭の部分が丸く切り取ってあって、手の部分も切り込んである。これは後で知ったことだが、形代っていうんだそうだ。呪いや厄災を人に代わって引き受けるもので、神道の祭事で使われるらしい」
 一気に語り、尾根は大きく息を吐いた。
「ぞっとしたよ。七〇一時代もその後も、凄惨な現場には多々足を踏み入れたが、あの夜の薄気味悪さは別格だ。しかし、それはまだ導入部にすぎなかった。その先で見たものに比べたら、形代だの土器だのは全く大したことじゃなかったんだ」
 無数の形代に覆われた瓦礫を進む内に、ようやく人体の一部らしきものが散見されるようになってきた。千切れた手足や飛び出した内臓。その損傷の激しさは、飛行機の墜落事故現場を連想させた。つまりこの近辺一帯に、建物含め人体がバラバラになるほどの、巨大な圧力か衝撃が加わったことになる。
「ほどなくして、ようやくまともなご遺体が現れた。白い着物に紺袴の老人で、手足があらぬ方向に曲がっていたが、なにより凄惨なのは死に顔だった。恐怖に目を見開き、口をぽっかりと開いたまま──まるで叫びながら、恐怖の頂点で息絶えた人のようだった」
 それから続々遭遇することになる遺体は、ほぼ全員が白い着物に朱や紺の袴姿だった。むろん、五体満足な者などいない。男女の数に差はないが、殆どが成人──しかもかなりの数の高齢者が交じっている。そして顔が確認できる者は、皆一様に恐怖に目を見開いて、口は陸にあがった魚のようにぱかっと開かれていた。
「その頃になると、隊員の誰もがこの状況に叫び出したいほどの恐怖を覚えるようになっていた。周辺の状況から、現場で何かが爆発したのは間違いないが、では、どうして死者の顔全てに、あたかも刻印のように恐怖の表情が貼りついているのか」
 言葉を切り、尾根はにやりと口元を歪めた。
「その理由が分かるか、若造」
「いえ……見当もつきません」
「つまり連中は、爆風で身体が引き千切られ、瓦礫に押し潰される前に死んでいたということだ。死の直前に何かを見て、恐怖で人としての全機能が停止したんだ。──じゃあ何を見たのか? 悪魔か? 幽霊か? 怪物か?」
 そこまで言って、尾根は呵々大笑した。
「もちろん真相は藪の中だ。結局のところ政府筋に顔の利く金持ちが、宗教儀式の最中に事故を起こしたというのが後日聞かされた説明だ。一体なんの儀式をやってたんだろうな? ひょっとしたらうっかり悪魔か怪物を召喚して、それを見た全員が恐怖でおっちんじまったのかもしれないが」
 くっくと笑いながら、薄目を開けて若い男の様子を窺う。
「悪かったなァ、真剣に聞いてくれたのがこんなオチで。ま、信じる信じないは自由だが、これはさすがに正史には載せられないだろ?」
 無言で尾根を見つめていた男が、ふと何かを思い出したように微笑した。
「そういえば今と似たような話を、北部方面隊の退役隊員から聞いたことがありますよ」
 いや、そんなはずはないと思いながら、尾根は顎をしゃくって続きを促す。
「島というのでその話を思い出しました。日本のとある島に、平安時代に大量虐殺を引き起こした異形の怪物が封印されているという話なんです」
「……え?」
「封印は、ある一族によって今の世まで維持されているそうで、陸上幕僚長の直轄部隊がその一族の動向を極秘裏に監視していて、いざ封印が破られそうになったら実力行使で阻止する──そんな奇妙な話なんですよ」
 苦笑した尾根が、ないないと片手を振ると、男は、微笑んだままで静かに続けた。
「どうして? 可能性はゼロじゃないですよ。先ほどの尾根さんの話に戻りますけど、島とはまさに尾根さんの行かれた場所で、亡くなられていた人たちは封印を解く儀式をしていたのかもしれないじゃないですか」
「おいおい、いくらなんでもSFじゃないんだぜ。百歩譲ってそんな不気味な言い伝えが残る島があったとしても、そこに防衛省が乗り出すなんてあり得ない。だいたい封印を守る一族って……漫画かアニメの見すぎだろ」
「そうかな。知らされていないだけで、案外そういった不可思議な話は世の中にいくらでも転がっているかもしれないですよ。──日本書紀を読まれたことは?」
「は? なんだそりゃ」
「聞いたことくらいはあるでしょう。奈良時代に作られた歴史書です。日本最古の正史で、天地開闢から神武天皇の時代までが書かれている。その第四段が国産みで、伊邪那岐命と伊邪那美命が、性交して次々と島を産み落とすという話なんですが、その中で、最初に生まれた子が葦舟で流されてしまうというくだりがあるんです」
「流す……?」
「水蛭子という名で、不完全だったためだと記されています。色んな解釈が可能ですよね。奇形だったのか、それともほかの人間と明らかに異なる力を持っていたのか」
「ちょ、ちょっと待てよ、神様だの国産みだの、さっきから何の話をしてるんだ? ただのおとぎ話なんだろ?」
「いやだな。現実に起きたからこそ正史なんです。いや、正確に言えば、現実に起きた出来事を神話に置き換えたものが日本書紀なんですよ。国産みも、日本国の成り立ちを出産にたとえた逸話だし、皇祖神である天照大神も実現した王の一人です。それを神に置き換えることで、古代の戦争や王座争いを、美しく伝え残しているんですよ」
 尾根はただ瞬きをする。目の前の男が何を喋っているのか分からない。
「僕が不思議に思ったのは、国産みの始めに、何故不完全なものを持ってこなければならなかったのかということなんです。王が最初に産んだ子は異形の者だったのかもしれない。あるいは日本の先住民に人とはかけ離れた者が紛れ込んでいたのかもしれない。しかも、彼らは殺されたのではなく流されたんです。どこに? ──その場所はどこにあるんでしょうか」
 返事に窮して首をかく尾根を、男は笑いを含んだ目で見つめた。
「安倍晴明が実在の人物だというのは、さすがにご存じですよね」
「え? いや、……昔映画か何かでやってたってくらいしか」
「晴明が所属していた陰陽寮は、明治まで実在した国家機関です。──ここで話を戻しますね。陸上幕僚長直轄部隊ができる前は大日本帝国陸軍が、その前は陰陽寮が所管していたらしいですよ。その一族の監視と抹殺を」
 思わず眉を上げた尾根から目を逸らし、男は窓の外の青空に視線を向けた。
「その一族がどこにいて、どうやって封印を守っているのかは誰も知らない。少なくとも国民には絶対知らされることはない。──尾根さんもよくご存じでしょう? この国では、何が隠されていても全く不思議じゃないんです」
 そこで立ち上がった男は、柔らかく微笑して、動けない尾根を見下ろした。
「今日はお会いできて本当によかった。でも、先ほどのお話には随分と嘘があるんじゃないですか」
「そりゃもちろん全部が嘘だ。病院暮らしがあまりに退屈で、つい、からかっちまったんだよ」
「本当は見たんでしょう? その怪物を」
「…………」
「爆発はあなた方が起こしたもので、現場に到着した時は、まだ生き残っていた者がいたはずだ。あなたの言うところの怪物もろとも、全員殺してしまったんでしょう?」
 尾根が思わず顔を上げた途端、首筋にちくりと鋭い痛みが走った。何を──と言いかけた口の中で舌が強張り、視野がみるみる狭くなる。
「さようなら、尾根さん。最初にこう言っておくべきでした。あなたは当時七〇一部隊だった者の、最後の生き残りなんですよ」
 尾根の視界いっぱいに映っているのは男の目だ。その左目の下に艶っぽい黒子が二つある。女にしたらさぞ美形だったろう。この顔を、俺はどこかで見たことがあったんじゃないか? どこかで……どこかで──

 

 

 

「え? また発注数の変更ですか? 困りますよ。急にそんなこと言われても」
『そこをなんとかお願いできませんか』
 受話器から聞こえる営業一課の係長の声が悲痛さを帯びている。ため息をついた鎧塚音羽は、受話器を肩で支えてから、デスクの隅に置いていたタブレットを取り上げた。
 連休が明けたばかりの五月中旬。クーラーが稼働していないオフィスは梅雨の蒸し暑さでむっとしている。
「申し訳ないですが今週は予定がいっぱいで、今の人員じゃ遣り繰りのしようがないですよ」
『分かってますが、そこをなんとか。主任だって知ってるでしょう。これも八烏案件なんです。実際問題、断りようがないんですよ』
 反論しようとした音羽は、こめかみに指を当ててその言葉をのみ込んだ。
 腹は立つが、確かに係長の言う通りだ。八烏案件こと、株式会社八烏重工絡みの仕事は断れない。同社は、中堅精密機械メーカー水埜尾製作所にとって、目下無視できない重要取引先なのである。
「……分かりました。じゃ、すぐに詳細なデータを私のアドレスに送ってもらえます?」
『申し訳ありません。そちらには、課長が後でお礼に伺うと言っていますから!』
 いえ結構です、と言う前に慌ただしく電話が切られる。これで今週も休みなしだなと、思いながら受話器を置いた音羽は、背後の課長席を振り返った。
「課長、今聞いた通り、BX805型センサーの増産です。今から工場の稼働ラインを組み直して、総務にアルバイトの増員を依頼しますので」
 アルバイトの増員は先月も行ったばかりである。気の弱い課長はすでに顔を強張らせていた。
「大丈夫ですかね、鎧塚主任。先月も急な増産で、総務にも工場長にも大分無理を言ったばかりですが……」
「人件費の増額は財務部が判断することで、工場長には私が説明します。最小限の負担で抑えられるよう、今から製造ラインを調整しますから」
 届いたメールを開いた音羽は、添付ファイルで増産の詳細を把握すると、ファイルを閉じて、シフト表のアプリケーションソフトを起動させた。
 工場で働く作業員はおよそ七百名。残された時間はあまりない。頭の中で工場ラインの稼働率を計算しながら、そのシフトの変更を猛スピードで入力していく。
「いつものことながら、すっげぇ速さだな」
「そりゃ、御三家だから当たり前だ。俺たちとは人間のできが違うんだよ」
 背後で、同僚たちがそんな会話を交わし合っている。集中しているから聞こえないとでも思われているのだろうが、しっかりと耳に入っている。
 自分たちとは違う──その言葉は、今から約九年前、音羽が水埜尾製作所に入社した時から言われ続けていることである。それにいちいち傷つくのは最初の一年でやめにした。そういった壁があることを覚悟した上で、音羽はこの会社で働くことを決めたのだ。
「鎧塚主任、よかったらコーヒーどうぞ」
 部下の女性が、プラスチックカップに入ったホットコーヒーを持ってきた。入力をしながら礼を言うと、女は、ぽっと頬を染めて後退する。
 異性には敬遠されがちな音羽だが、同性人気だけは、昔から絶大なものがある。百六十八センチのスレンダーな長身に加えて剣道五段に空手四段。顔立ちも少年のように凜々しくて、学生時代は疑似恋愛の対象によくされた。その上、家は〈御三家〉の一つである鎧塚家。この水埜尾製作所を擁するY県比湖島にとって、〈御三家〉とは住民カースト最上位であることを意味している。
 ただし音羽に関して言えば、鎧塚という名前は、幼少時から常に負のイメージとしてつきまとっていた。
「じゃ、物品調達課と打ち合わせをしてきます」
 シフト変更を済ませた音羽は、出力した資料を持って席を立った。物品調達課にも営業から連絡が入ったのか、すでに全員が各取引先への電話に追われている。広いワンフロアには、音羽のいる管理課を始め、総務部五つの課がひしめいているが、その全てが、増産発注を受けた関係で慌ただしく動き回っているようだった。
「てか八烏の奴ら、うちを使い勝手のいい下請けとでも思ってんじゃないか」
 その物品調達課で、電話を切った一人が、腹立たしげに吐き出した。
「実際思ってんだろう。なにしろ去年赤字に転落しかけた時に相当な資金援助をしてくれたからな。──うちがどうしたって断れないのを知って、無茶を押しつけてくるんだよ」
「そういや知ってるか。その八烏重工だが、今度うちに役員をねじ込んでくるらしい。うちの御三家の一党支配も、いよいよこれで終わるんじゃ……」
 そこで言葉をのみ込んだ男が蒼白になった。音羽がいることに気がついたのだ。
「よ、鎧塚主任、何かご用ですか!」
 上席から、慌てた様子で担当主任が立ち上がる。音羽は黙礼してから口を開いた。
「シフトの変更表の一案をお持ちしました。あとそちらの進行をお聞きしたくて」
「承知しました。えー、今、在庫の確認を終えたところでして」
 四十八歳のベテラン主任が、二十七歳の主任にへどもどしながら説明する様を、課内の半分は当たり前というような目で、残りは無様なものでも見るような目で見守っている。
 ベテラン主任が音羽に卑屈な態度を取るのは、この比湖島にあって、御三家の一つである鎧塚家が極めて支配的な立ち位置にあるからだ。
 そのことを知っている島出身者から見ればこの光景は自然なものだが、島外から島に来た者にすれば悪習以外のなにものでもない。この会社には、島出身とそうでない者が五分の割合で在籍しており、両者の間には常に見えない壁が立ち塞がっているのだ。
「──あっ」
 その時、不意にカウンター近くに座る女子社員が甲高い声を上げた。
 眉を寄せた音羽がつられてその方に視線を向けた時、フロア全体の空気が、タイムセールでも始まったかのように沸き立った。
「雅臣様よ!」
「うそ、雅臣様がどうしてここに?」
 フロアのあちこちで上がる黄色い声と、椅子のキャスターが転がる音。女子社員たちの眼差しは、カウンター越しに立つスーツ姿の男性集団に向けられている。
「お疲れ様です! 営業部が、皆さんに差し入れをお持ちしました!」
 声を張り上げているのは、何度も表彰された営業部のエース社員だ。が、誰もエースのことなど見ていない。女たちの視線はただ一人、集団の左隅に立つ男に向けられている。
 遠目からでも、水際だった美男子ぶりは一目瞭然。物品調達課の年配女性が、「本当に同じ人間?」と夢でも見ているように呟いた。
 すらっとした長身に、貴公子然とした色白の瓜実顔。涼やかな切れ長の目に、形のいい鼻筋。天上人というのがもし地上に降臨したら、こんな光景だったのかもしれない。
 と、その天上人が視線を向けてくるのが分かったので、音羽は慌てて視線を逸らした。
「では水埜尾君、君から一言」
 エースが恭しく下がって主役の座を譲る。その言葉に謙遜するでもなく困惑するでもなく、天上人が微笑んで前に出た。
 水埜尾雅臣──社名と同じ名字が物語る通り、この製作所の創設一族の末裔にして現会長の一人息子。そして今春、営業一課に配属された新入社員でもある。
「営業部の水埜尾です」
 爽やかで歯切れのいい声がした。たったそれだけで、きゃーっと黄色い声が上がる。
「今回は、急な増産要請を受けていただいてありがとうございました。いつも無理を聞いていただいているお詫びにと、うちの課長からです」
 音羽は口を開けたまま固まった。お礼に伺うってこういうことか。調子がいい営業課長らしい発想だが、この馬鹿騒ぎが逆効果になる場合だって──
 その音羽の目の前で、主に女子社員が、わっとカウンターに突進した。
「わぁ、ラヴィアンのシュークリーム」「私これ、大好物なんです!」 
 喧噪の中、席に残ったのは、島外出身の男性社員と音羽くらいだ。
「男性の皆さんには、チキンフライも用意しています。もうすぐ昼休憩なので、ランチのお供にどうぞ」
 カウンターでは、営業部の女性社員が声を張り上げている。そちらにも少なくない人だかりができているのは、彼女──今年入社した森下里央が、この水埜尾製作所きっての美人だと評判になっているからだろう。
 その里央に雅臣が歩み寄り、親しげに声をかけている。なんの心構えもなしにその光景を見てしまった音羽は、思わず動揺して視線を下げた。いけない──と思って顔を上げた時、近くの男性社員が苦々しげなため息を漏らす。
「昔の領主様だかなんだか知らないが、ボンボンが偉そうに。ああいうノリによそ者はついてけないってのにな」
「鎧塚主任にしたってあれだろ? 御三家って持ち上げられてるけど、実は父親が誰だか分かんないって言うさ」
 そう言って笑いながら顔を上げた社員が、まだ音羽がいたことに気づき、さっと顔を強張らせた。
「仰る通りですが、鎧塚の血を引いているのは、父じゃなくて母の方なんです」
「……、あ、いや、……今のは」
 そこで昼休憩を告げるベルが鳴ったので、音羽は急いでオフィスを出た。
 聞き飽きた自分の噂より、ボンボン発言の方にむかついたが、結局のところ島外社員の中に会社への不満が蓄積しているから、こんな悪口も飛び出すのかもしれない。
 とにかく今の会社には難題が山積している。いってみれば創業以来初めての危機に立たされているといっても過言ではないのだ──

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